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山に、風に、宇宙(そら)に捧げる鎮魂歌

年度末からずっと、仕事関係で疲弊していた。鈴木宏昌さんの記事を更新する気力もなく、草臥れ果てていた。
最近になって、ようやく今後の道筋が見え始めてきたところだった。
そんな折、僕にとって、大切な方々がこの世を旅立たれた。
横山菁児さん 7月8日永眠 享年82歳
平尾昌晃さん 7月21日永眠 享年79歳
そして、山川啓介さん 7月24日永眠 享年72歳

特に平尾さんと山川さんは、時を置かずして訃報に接したので、仕事に疲れて乾いていた僕の心にも、涙雨のような感情がさめざめと降り注いだ。
山川さんについては、過去に触れたことがあった。そして、その時の僕と同じように、山川さんの詞(ことば)に支えられ、励まされた人々の弔いと感謝の言葉が、ネットのコメント欄に溢れていた。
山川さんは故郷の長野県佐久市で亡くなられたのだそうだ。
長野の風が、山川さんの魂を満天の星々の彼方へと誘っていく幻想に駆られた。

平尾さんと横山さん、特に平尾さんは世間的には昭和歌謡界の重鎮として語られることだろうが、僕個人にとってのお二人は、「宇宙海賊キャプテン・ハーロック」で宇宙の大海原に、熱い魂の歌を鳴り響かせた方々だった。
「友よ 明日のない 星と知っても たった一人で 戦うのだ」
絶望的でありながら、それでもなお未来を見据え、「命を捨てて」生きる男の心情を熱く歌い上げた主題歌
人々が失った魂の美しさを慈しみながら、慟哭する「むかしむかし」
そして、信ずるものがあれば、絶望の中からでもはいあがり、力いっぱい生きて、満ち足りて死ねると指し示す「われらの旅立ち」
そのいずれにも、平尾さんは熱く、激しく、しかし優しい音楽を与えてくれた。

横山さんが奏でた交響組曲の序曲は、冒険とロマンという言葉がこれほど相応しい音楽は他にはありえないと思わせた。
音楽の力なら、ジョン・ウィリアムスの「スター・ウォーズ」にも匹敵する。
いや、上回るとさえ言いたい。
彼の音楽が響くとき、真空の宇宙に風が吹き、潮の香さえ溢れ出すのではないかと思わせてくれた。
ああ、彼らの詞(ことば)に、音楽に触れて育つことができたことは幸せであると思う。
僕もまた人生の選択に迫られる中、僕を律する規範とは、「続く世代に何が残せるか」である。
僕の中に残る「力いっぱい生きて、満ち足りて死のう」「俺もそうさ、負けやしないよ」という意地が、今を支えている。
その意地が今なおくすぶり続けていられるのも、彼らの詞(ことば)と音楽をずっと愛し続けて、今もなお励ましてもらえているからなのだと思う。

勇気を与えてくれた方々がこの世を去られても、僕はあえて嘆くことはしない。
素晴らしい人生を全うされた方々と思う。
ただ
ただただ、心からの感謝を伝えたい。
ありがとうございました。
本当に、ありがとうございました。
皆様の歌は、僕が死ぬ時まで、心の中に鳴り響いていることでしょう。
さようなら。



鈴木宏昌とその仲間たち② 石川晶とカウント・バッファローズ

Get Up!
(承前)
鈴木宏昌は昭和45年(1970年)、日野皓正クインテットを退団した。それから「海のトリトン」を作曲するまでの約2年の間も、鈴木は様々な活動を行っていた。
ずっと編曲に専念してきた彼が、人に薦められて作曲もするようになった。
裏方から、少しずつ表に出るようになっていった。
そしてこの時期、鈴木がよく行動をともにしたのが、石川晶だ。1970~80年代を代表するドラム奏者だ。
石川晶は昭和9年(1934年)生まれの昭和一桁世代だ。アフリカをこよなく愛し、アフリカに移住し、平成14年(2002年)にアフリカの土に還った。
石川はまた、アニメ音楽好きなら知っておくべき人でもある。なぜなら、彼は録音演奏家として多くのアニメや特撮音楽の録音に関わったからだ。
その中の一つが「海のトリトン」であって、僕がこの歌を取り上げた折に「かっこいいドラム」と評したのが、石川の演奏なのである。
アニメ、特撮にとどまらず、彼が率いた腕利き揃いの「石川晶とカウントバッファローズ」は、劇伴(サントラ)、CM、サウンドチェック等の企画アルバムなど、幅広く活動した。
レコードに名前の載らない伴奏も含めると、彼が参加したレコードは数限りない。
伴奏や企画物だけではない。自分たちの作品も多数、録音に残している。

石川のドラムは芯があるのに、軽やかだ。
その音は風に乗って、どこまでも飛んでいきそうで、聴いていると一緒に走り出したくなる。
「エルビス・プレスリー・ベスト・ヒット」という企画物のレコードがある。1950年代に一世を風靡したロックの創始者プレスリーの曲を、石川晶たちが演奏するという内容だ。
原曲が優れているということもあるだろうが、石川のドラムが素敵だ。
耳に心地よく、音に浸れる。
企画物でありながら、どこまでも石川晶の世界が広がっている。

彼が率いたカウントバッファローズは、団員が固定制ではなく、仕事に応じて集まったのだという。恐らく石川が代表として仕事を受け、その内容と各人の日程をにらみながら、石川が適切と考える演奏家にその都度、呼びかけたのだろう。
演奏家を派遣するための管理組合的な存在とも言えるだろう。
参加できるのは石川の目にかなう演奏家だけだったろうから、自ずと腕の立つ者が出入りすることになったと思われる。
その状況を称して「梁山泊」と呼び、石川を「裏番長」と巧みに表現する記事もある。
高崎勇輝 日本ロック名鑑;石川晶
不破了三 石川晶とカウント・バッファローズ  "GET UP!"


日野クインテットを退団した鈴木もまた、腕利きの演奏家として「石川晶とカウントバッファローズ」に参戦していた。
企画物から歌伴まで、色々なレコードの録音に明け暮れる一方、石川と鈴木はやがて、とてつもないレコードを残すことになる。
「ELECTRUM」と「Get Up!」の2作品がそうだが、特に「Get Up!」の凄さ素晴らしさは僕には言い表しがたい。
「和ジャズ」が残した神話的遺産である。

昭和45年(1970年)発表の「ELECTRUM」について触れておこう。「慶応三羽烏」こと、佐藤充彦と鈴木宏昌が作曲を担当した。
「前衛的な音楽を目指した」佐藤充彦による題名曲「ELECTRUM」は、混沌としているようでいながら、石川のドラムに導かれて地平線の彼方を目指して突っ走るような爽快感に満ちている。その先鋭化された音楽を評価する人は多い。
鈴木は「REVULSION 」「SPEAK UNDER MY BREATH」「THE EYEBROW」の3曲を担当している。ここでは鈴木も先鋭化した音楽を描いているのだが、佐藤の「ELECTRUM」ほどは弾けていない。だから、「佐藤に比べれば、鈴木の曲は従来の域を出ていなかった」とする評も聞こえてくる。
その通りだとも思う。だが、あるいは鈴木は表題曲となった傑作「ELECTRUM」をより際立たせるため、あるいは「ELECTRUM」の余韻を損なわないようにするため、「ELECTRUM」の香りを残しつつ、「従来に近い」曲作りをした可能性もあると思う。
「僕が勝手に想像する」鈴木宏昌という人は、飛び抜けた才能を持ちながら、控えめで、気配りができる、本来は物静かな人・・・なのだ。
「ELECTRUM」は現在もMP3音源でダウンロード可能だ。


そして、何と言ってもカッコイイのが昭和50年(1975年)発表の「Get Up!」だ。
「海のトリトン」より後の作品なのだが、こいつが凄い。
曲が始まるや、僕は一気に心を持って行かれた。
そのカッコよさをうまく言い表わせないのが、僕にはあまりにもどかしい。
豪快かつ爽快。
ドラムもギターもピアノもトランペットもサックスもパーカッションも、縦横無尽に活躍する、硬派なくせにサイコーにご機嫌でキレッキレの音楽が炸裂する。
しかもだ。
むちゃくちゃ早い演奏なのに、ぴったりと音があってる!!
だから音楽に勢いがあって、しかも美しい!!
なんだこの合奏力、世界最高峰じゃねーのか!!!!
ベルリン・フィルにだって負けてねーぞ。
ちなみに作・編曲はぼくらの鈴木宏昌だ。
こいつわ凄いぜ!!

・・・と、一度聴いただけで、すっかりおバカになりきれるくらい最高のレコードなのだ。
そして、石川晶の音楽を聴いていて、僕はとても大切なことに気がついた。
彼の音楽から得られる爽快感は、僕にとって、とてつもなく馴染みが深い。
石川にしても、鈴木にしても、彼らの音楽はすっと耳に馴染み、そして聴き飽きない。欧米のジャズには感じられない疾走感が心地よいのだ。
そうだ、これは「イデオンⅠ」の「デス・ファイト」だ。
あの自由闊達、凄腕の演奏家たちが繰り広げる音楽の垣根を超えた世界。
それに通ずる自由奔放な音の楽園を、僕はここにも見つけたのだ。
かつて、僕は「他にかけがえのない世界」と「デス・ファイト」を言い表した。
だが、その原点とも言える世界が、ここにある。
いや、ここだけではない。
「和ジャズ」と呼ばれるようになった昭和40~60年代に発表された、日本人ジャズ演奏家たちによる数々の作品からは、音楽の様式に縛られない自由さが感じられる。
欧米の音楽はもちろん素晴らしいのだが、「ジャズはジャズ」「ロックはロック」という枠なり垣根なりがしっかりと守られすぎていて、窮屈に思えることがある。
しかし、「和ジャズ」には、全てとは言わないが、ロックにもフュージョンにも、時にはクラシックにさえも迫っていこうとする、挑戦的な意欲に満ち溢れていた。
「イデオンⅠ」に参加した演奏家たちは、ちょうどその時代のど真ん中を突っ走ってきた人々だったのだ。
そうした「和ジャズ」の遺産の上に「デス・ファイト」が生まれたのだと、僕は石川と鈴木の「Get Up!」を聴いて、実感することができた。
「デス・ファイト」でうねるようなギターを轟かせた直居隆雄が、思い出を語っている。
ギタリスト直居隆雄のHPより「石川晶とカウント・バッファローズ」

ところが、あるまいことか、何ということか、実に嘆かわしいことに、腹立たしいことに、これほどの作品が、平成29年現在、廃盤なのだ。
残念ながら音楽界の「和ジャズ」そのものへの評価が低いようなのだ。
評価が低ければ取り上げられる機会も乏しく、必然的に世間の目にも届かない。だから、忘れ去られていくという悪循環に陥っている。
それにしても、ここでもか!
忘れられた傑作と呼ぶなら、これは第二の「イデオン」だよ!!
何やってんだ、日本の音楽産業界!
傑作名作をほったらかしにしているじゃないか!!
オンデマンドCDでいいから、復刻しよーよ。
もったいないよ。
ええい、YOU TUBEのリンクはっとくから聴いてくれ!!

と、頭に血が上りそうになるくらい、応援したくなる作品なのである。

鈴木と石川がどのような形で出会ったのかについては、情報がない。
石川晶のバンド活動の足跡自体が、あいまいで捉えがたいからだ。
というのも、「カウント・バッファローズ」に先立って、石川は「ゲンチャーズ」という団体も立ち上げているのだが、この団体もいつからいつまで活動したとかいう情報がない。
「カウント・バッファローズ」の活動期間もレコード目録から察するくらいしかできない。
それどころか、文章によっては「ゲンチャーズ=バッファローズ」なんてみなされ方もしていて、曖昧模糊としている。
なぜ曖昧に思われるのか。それは、彼ら録音演奏家たちが事務所やレコード会社と専属契約を交わさず、束縛の少ない自由な立場だったからなのだろうと、僕は想像する。
少し長文になるが、以下の文章を引用する。
「石川晶は(中略)1951年に横須賀のクラブで演奏を初め、1953年に宮間利之のニューハード(正式にこのバンド名を名乗ったのは1958年)に参加して、この名オーケストラの売りであったモダン・サウンドのリズムの要となった。
 ニューサウンドを退団したのは1971年というデータがあるが、その以前の1966年頃から石川晶は、既に単なるドラマーにとどまらず、独自のキャラクターで売れていた。1968年にピアノの佐藤允彦の帰国を機に、ギターの杉本喜代志、サックスの村岡健らとカウント・バッファローズを結成。それがその後の石川晶の活動の軸になった。
 (中略)とりわけ石川晶を有名にしたのは、毎週土曜日の午後に放送された「ビート・ポップス」というTV番組で、大橋巨泉、星加ルミ子司会のこのポップスのカウント・ダウン番組に石川晶はゲンチャーズという生バンドを率い出演。この番組で人気になったゴーゴー・ガールの小山ルミとともにポップス・ファンにもよく知られた存在になったのだ。
 当時のゲンチャーズとバッファローズの違いは何かというと、むろん、メンバーに違いがあるのは当然だが、しかし、そもそもこの当時のこうしたバンドは、今でいうスタジオ・ミュージシャン・バンドで、実質的にはメンバーはあまり意味がない。そのときどきでメンバーが変わり、逆に言うと石川晶は、そのときどきに様々なバンド名で演奏している。かなりフレキシブルというよりも、むしろバンド名などは適当に決めたというべきかもしれない。
 こうした状況は、石川晶を筆頭にいわゆるスタジオ・ミュージシャンが繁忙を極めたことを反映している。アレンジを素早く書き、それを初見で演奏できるミュージシャンが、その当時音楽の需要が急速に膨れ上がったにもかかわらず、それをこなすミュージシャンが現在ほどにいなかったということだ。ジャズばかりでなくロックやソウルの新しい音楽がどんどん広がっていった時代で、それらに興味を抱き、それをやりこなす技術を持ったミュージシャンは、やはり当時の第一線の有能なジャズ・ミュージシャンで、そしてドラムといえば、まさにこの石川晶の時代であったのだ。石川晶は、様々な企画アルバムの制作やコンサートに引っ張りだこで、こうした世界のまさにドンと言ってもよかった。
 (中略)石川晶は、その頃から「海のトリトン」、「科学忍者隊ガッチャマン」、「ゲッターロボ」、「キカイダー」等70年代のアニメのほとんどの音楽も担当していると言われるが、まさにそのビート・サウンドは、この時代の音となったのだ」

青木和冨 CD「エルビス・プレスリー・ベスト・ヒット」石川晶と彼のグループ 解説文より
レコード会社の、作曲家の、数々の要求に短時間で対応できる演奏能力を持った人々。会社も彼らを専属として独占するわけにはいかなかったのだろう。彼らは複数のレコード会社を股にかけて活躍した。
その演奏家たちの核(代表)になったのが石川晶であり、そこに鈴木宏昌が引き寄せられたのだと思う。
この二人の付き合いは、つかず離れず、という感じで長く続いたのだろうと、僕は勝手に受け止めている。
そして、彼らのことだから、いついつから一緒に活動を始めたなんていう記録なんて、残されていないのである。

さて。
「カウント・バッファローズ」での活動と併行して、伝説的な団体が流れ星のように現れて消えていった。
昭和45年(1970年)10月、5人のジャズ演奏家たちが団体を立ち上げた。彼らは「ザ・フリーダム・ユニティ」と名乗った。
団員は
村岡 建(テナー・サックス、ソプラノ・サックス)
鈴木 弘(トロンボーン)
鈴木 宏昌(ピアノ、エレクトリック・ピアノ)
稲葉 国光(ベース、エレクトリック・ベース)
石川 晶(ドラムス)
いずれもジャズメンとして最高峰の評価を受ける強者揃いであり、「全員が花形(オール・スター・プレイヤーズ)」だった。

ここで鈴木宏昌のLP「プリムローズ」によせた内田修の解説を引用しておこう。
70年7月、(中略)石川晶と共鳴した鈴木は、日野グループに在籍の傍ら、「エレクトリック・サウンド」の探求を目指して「カウント・バッファローズ」を結成した。村岡健の他、杉本喜代志(g)寺川正興(b)、それに佐藤充彦も今一人のピアニストとして加わっていた。
(中略)
「カウント・バッファローズ」が発展、変身したのが「ザ・フリーダム・ユニティ」でありメンバーは鈴木、村岡、石川、稲葉に、トロンボーンの鈴木弘が入ったクインテットであったが、特定のリーダーはなく、強いて言えばその殆どの作品を書いた鈴木宏昌が中心的存在であった。

この文章では、あたかも鈴木が中心となって「カウント・バッファローズ」や「ザ・フリーダム・ユニティ」が結成されたかに書かれている。
他方、スイングジャーナル誌初代編集長である岩波洋三は、「ザ・フリーダム・ユニティ」のアルバム「サムシング」に寄せた解説文で次のように表現している。
ザ・フリーダム・ユニティには特定のリーダーはいない。5人の合議制によるグループで、誰か一人の音楽に片寄らない厚味のある音楽をきかせてくれる。いずれもスターといえる人だが、あるときは自分を殺して全体に奉仕し、あるときは大いに自己主張するというグループである。みんながそれぞれ自由な立場に立って考え、演奏するといった立前からこのようなグループ名を考えた者であろう。
(中略)
このグループはまた1970年の10月に結成されたばかりであり、このレコードは結成されてすぐ録音したものである。
5人はいずれも有名なプレイヤーだが、村岡建は先ごろまで日野皓正クインテットで演奏していたサックス・プレイヤーで、その実力からいって早晩独立して自己のグループを作るだろうといわれていた男である。別にリーダーではないが、グループの中心的なメンバーになっている。

岩波洋三:「サムシング」解説文より

内田は鈴木が中心であったと記し、岩波は村岡がそうであったと語っている。
書く者によって誰が中心にいたか、意見が分かれている。
誰が正しいというより、その人の目にはそのように見えた、団員それぞれが突出した存在であった分、誰もがその時々で中心的な役割を果たした団体だったのだろう。
逆に言えば、それだけ個々人の音楽的主張が強かったということだろうか。
「ザ・フリーダム・ユニティ」の活動期間はわずか5か月とも7か月とも言われている。その間に「サムシング」と「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」「パワーロック・ウィズ・ドラムス キリマンジャロへの道」などのレコードを残している。
わずか半年未満の期間に何枚かのレコードを録音し、SAMMYなど歌手の伴奏録音もしている。
非常に濃密な時を過ごしていたことだろう。

「サムシング」には6曲、「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」には4曲が収められている。名演奏家が集ったこともあり、どの曲も各人の力量を「これでもか!」と堪能させてくれる曲作りになっている。
後年、全楽器が一丸となって駆け抜ける「ザ・プレイヤーズ」とは異なり、個々の演奏がくっきり浮かび上がりながらも、互いが緊密に関わり逢う音の世界が広がっている。
ちなみに鈴木の曲ではないが、「サムシング」6曲目の「ピースフル・プラネット」は、サックスとトロンボーンの合奏はあまりに美しく、耳に残る名曲である。
残念ながら、CD「サムシング」も廃盤である。
また、「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」では、題名となった1曲目が23分38秒のちょっとした組曲並の長丁場だ。ところどころ不協和音が炸裂するのだが、彼らの楽器から噴き出す音の魅力に囚われて、長いとも感じずに時間が過ぎていくのだ。
幸い「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」はダウンロード音源が入手可能である。

なお「パワーロック・ウィズ・ドラムス キリマンジャロへの道」は石川が主導した録音だが、作・編曲は鈴木が担当している。ジャケットがとてもカッコ美しくて、是非、聴きたいのだが、これがまた廃盤なのだ。CDすら出ていない。幻のレコード扱いのようで、中古市場ではなんと5~8万円の異常な高額で取引されており、さすがに手が出ない。

なぜ「ザ・フリーダム・ユニティ」が短命で終わったのか、資料を捜すことはできなかった。ただ、トロンボーンの鈴木弘は昭和46年(1971年)米国に移住している。そうした個人の目指す方向性を尊重した結果の解散だったのではないか。
それが証拠に、後年、昭和50年(1975年)に鈴木弘が帰国した折、元「ザ・フリーダム・ユニティ」の団員が再集結して、鈴木弘を中心に据えた「CAT」というレコードを録音しているのである。
その音楽は熱気あふれる「ザ・フリーダム・ユニティ」の時代とは異なり、より落ち着いたものであった。

さて、「ザ・フリーダム・ユニティ」が短期間で解散した後、鈴木宏昌はどこにいたか?
解散したのは昭和46年(1971年)の春頃と推測される。
この年、鈴木弘は米国に移住した。
石川晶は彼が愛してやまなかったアフリカに捧げるレコードを何枚も録音している。
村岡健も「ライド・アンド・タイ」を始め、複数の録音をしている。
皆、恐らくは東京を起点に活動していたことだろう。
ところが、鈴木宏昌はなぜか、大阪にいたのである。

この稿、続く。

鈴木宏昌とその仲間たち① 三羽烏と日野クインテット

それは、とても素敵な音楽を残したピアノ奏者の物語。
その指先からは煌めくばかりの音が飛び出し、聴く者の心を躍らせた。
たくさんの人と出会い、たくさんの人に愛され、その人生を全うするまで、たくさんの音楽を奏で続けた。
そして、「コルゲンさん」の愛称で呼ばれたその人は、「海のトリトン」というアニメに永遠の命を吹き込んだ。

その人が「海のトリトン」に託したのは
血沸き肉躍る冒険心を奮い立たせながら
それでいて
潮騒が耳に残るような
遠い昔に想いを馳せたくなるような
そんな素晴らしい音楽だった

その人の名は鈴木宏昌。
それではこれから「コルゲンさんとその仲間たち」のお話を始めよう。


鈴木宏昌(昭和15年~平成13年)(1940年~2001年)は作曲家であると同時に優秀な編曲者だった。
だが、それ以前に彼は何と言ってもジャズの「ピアノ奏者」だった。
仲間と一緒にピアノを弾くことが大好きな人―だった。
・・・のだと、僕は思う。
学生時代に始まった彼のジャズ人生を見つめれば、それは徹頭徹尾、演奏者としての人生だったように僕には思えてならない。
彼は生涯にわたって、数々の素晴らしい録音と曲を残している。でも、それは自分の名を売るためではなく、「演奏し続ける」ための手段だったようにすら感じられるのだ。
そして実際、彼は最後の最後まで、演奏することをあきらめなかった。

「海のトリトン」の作曲者のことを知りたいと、僕は彼の資料を捜してみた。
ところが驚いたことに
残念なことに
信じられないことに
彼の業績や人生を語ってくれる資料は驚くほど少ない。
断片的な情報しかないので、自分でまとめるしかなくなってしまった。
鈴木宏昌に関する鍵言葉と言えば、
 海のトリトン
 コルゲンさん
 ザ・プレイヤーズ
 タモリ
 「今夜は最高!」
が繰り返されるばかりだ。
もう少し詳しく探っていくと、
 石川晶
 日野皓正
の名前が出てくる。
とにかく、ウィキペディア、彼が残したLP、CDの解説書、彼を知る演奏家やジャズ愛好家、腹巻猫さんなどアニメ研究家の残した文章や記事などを参考にしながら、彼の経歴を追ってみることにした。
ウィキペディア:鈴木宏昌

鈴木は昭和20年(1945年)東京都の歯科医の息子として生まれた。団塊の世代よりも少し上の世代である。
少年時代の情報は全くつかめない。
歯科医の家庭であり、慶応大学に進学したというから、それなりに裕福な家庭環境だったと思う。
大学進学後、鈴木は軽音楽部にはいった。「ライト・ミュージアム・ソサイェティ」といい、現在も存続しているが、発足は昭和21年(1946年)というから、軽音楽部としては老舗中の老舗だ。
そこで鈴木は「ジャズ・ピアノに傾倒して、佐藤允彦、大野雄二とともに「慶應三羽烏」として名をはせる」ようになったという。
KeioLight Music Society Official Web Site


「慶應三羽烏」たちは、いずれもピアノ奏者だった。
大野雄二は小学校時代からピアノを習い、高校時代にジャズを独学し、「ライト・ミュージアム・ソサイェティ」を足掛かりにジャズ演奏の職に進んだ。
だが、彼は数年でジャズから「両足を抜いて」CMや映画音楽の世界に転身し、その結果、大成功を収めた。
説明するまでもなく、「ルパン3世」を初め、特に70~80年代のアニメや映画音楽で一世を風靡した。「ルパン3世」にいたっては、もはやジャズの定番曲である。


佐藤充彦は突出した才能の持ち主だった。
ジャズピアノ奏者、作曲者として、佐藤もまた一時代を築いており、制作したレコードの数も非常に多い。
他方、広く世間に開かれた音楽を生んだ大野とは逆に、佐藤は日本独自のジャズ音楽(和ジャズ)を先鋭・進化させていった。音楽に思想を反映させたりもした。
そして、70年代、彼が残した先駆的な曲の数々は、編曲も含めて、同時代を生きた演奏家たちから高い評価を得ていた。玄人筋から一目おかれていたようだ。
ピアノ奏者としての佐藤は「達人の中の達人」のごとき存在であった。
20代半ばで自分主導のピアノトリオを結成し、何枚も録音を残したかと思えば、米国のバークリー音楽院に突如、留学し、それも2年で「もう教えることがないから」と卒業を言い渡されて帰国している。
つまり、天才なのである。
アニメに関しては、「パンダコパンダ(昭和47年)(1972年)」「哀しみのべラドンナ(昭和48年)(1973年)」「ユニコ(昭和56年)(1981年)」「火垂るの墓(昭和62年)(1987年)」などの渋いところで作曲を担当している。
そして、鈴木宏昌とは生涯を通じて交流を深めた間柄でもあった。



大野は大衆的な不動の人気を獲得し、佐藤はジャズの世界でカリスマの立場を得た。
そんな二人に比べて、鈴木宏昌は何となく地味である。
だが、それは鈴木の才能が二人に及ばなかったというのでは、断じて、ない。

大野や佐藤がそうであったように、あるいは互いを意識したのだろうか、鈴木もまた学生時代にジャズを生業とする道を歩み始める。
22歳の時というから昭和42~43年頃だろうか、超一流の人気団体「ジョージ川口とビッグ・フォア・プラス・ワン」に加入し、演奏家として活動を開始している。
ジョージ川口(昭和2年~平成15年)(1927年~2003年)は華やかで力強い演奏で大人気を博したドラム奏者だ。太平洋戦争が終わるや、すぐに米軍クラブで演奏を開始しており、「ジャズドラムの神様」の敬称を冠せられた。
石原裕次郎主演の「嵐をよぶ男」の見せ場は、石原扮する主人公がドラムを演奏する場面である。昭和30年代、ドラムは派手な演奏で人気となり、ドラムの腕を競う「ドラム合戦」のような催事もあったほどだった。ジョージ川口は当時、日本で一、二位を争う花形だった。



ジョージ川口の団体に抜擢されたほどだから、鈴木の腕は相当に高かったことだろう。そして、羽振りのよかったジョージ川口の下で、鈴木は学生ながら荒稼ぎしたのだという。
ベーシストの納浩一が、ブログで次のような逸話を教えてくれている。
同じくピアニスト兼作・編曲家だった、今はなきコルゲンさんこと鈴木宏昌さんとお仕事をご一緒させて頂いたときに、コルゲンさんが話しててくれたのですが、彼が初めてジョージ川口とビッグフォーに参加したときは、まだ慶応の学生だったそうです。でももらうギャラが半端じゃない。ジョージさんが、お店からギャラとしてもらった百円札をテーブルの上に山のように積んで(その当時は、まじで百円札しかなかったそうです!)、数えもせずに適当に上から人数分で分けていったそうです。まるでトランプのカードを切るように。で、「はい、これお前の分な」って、背広の内ポケットに入りきらないくらいの百円札をもらったそうです。で、その後銀座に飲みにいって、コルゲンさんに曰く、「学生の俺がだよ、銀座でボトルキープだよ! なんていい時代だったんだろうね!」ですって

納浩一オフィシャルブログより引用

ジャズが輝いて、羽振りの良かった時代に鈴木は初舞台を踏み、着実に場数を踏んでいった。
これを皮切りに、鈴木は「小俣尚也とドライビングメン」、「小原重徳とブルー・コーツ」、「石川晶トリオ」などにも参加するようになった。
小俣尚也はトランペット奏者として活躍し、「宇宙戦艦ヤマト」の宮川泰とも交流があった人だ。
「小俣尚也とドライビングメン」は1960年代に活躍したビッグバンドであり、坂本九の舞台で歌伴奏を定期的に手掛けていた。
小原重徳は「1946年から現在に至るまで、最も長い歴史と伝統をもつ日本最古のビッグバンド」であるブルーコーツの結成者の一人である。
ブルーコーツは日本レコード大賞やNHK紅白歌合戦の演奏を受け持つなど、その実力を広く認められた日本を代表する楽団だった。
いずれも今に名を語り継がれ、録音も残されている団体である。
そうした団体を渡り歩けたということは、玄人筋の間でも鈴木のピアノの腕前は評価されたということなのだろう。

鈴木のピアノの技量について、内田修というは人が次のような逸話を書き残している。
「'73年渡米の折たまたま今は亡き、キャノンボールの出ていたクラブに出かけた鈴木は、同伴者の紹介でジャズ・ピアニストと分り、早速ステージに呼び上げられてしまった。最初は冷やかし半分で耳を傾けていたキャノンボールも何時の間にか真剣になり、遂には、レギュラーの白人ピアニストを降して、その夜鈴木を離さなかったという。やはり本物は本物を見ぬくと言うべきではなかろうか」

「(内田修が;筆者注)長年企画を担当しているコンサートに、渡辺貞夫を招いたが、そのバックをつとめるピアノに鈴木を推した所、彼はちゅうちょなく賛成してくれた。(中略)直前、鈴木は『僕はビ・バップを全然知らなくて申し訳ありません。今から覚えますから教えてください。』などと言っていたが、いざ本番となるや、あのむつかしいパーカーの原曲を次々に弾きこなし、貞夫の最高のアドリブを引き出す素地を立派に造り上げたのには実に感心させられた」

いずれもLP「ギャラクシー」に寄せた解説文より引用

キャノンボール
渡辺貞夫
チャーリー・パーカー

いずれもジャズ界の巨人である。その巨人の中にあって、鈴木は輝きを放てる実力を持っていたことになる。
実際、鈴木のピアノは最高なのである。
生き生きとして、音がキラキラしている。
囁いているかと思えば、風のように駆け抜けていき、時には雷のように轟くこともある。
そして、その根底には優しさが感じられる。
鈴木のピアノは、素敵な響きがする。

それにしても彼の超一流のピアノ奏者としての下地は、いつ作られたのだろうか?
例外もないことはないが、いきなり学生デビューで腕が上達するほど、ピアノとは甘い楽器ではない。
指の機械的な動きのみならず、手首、肘をどう使いこなすか。ペダリング(足でペダルを操作して、音色を操る技術)も含めれば、全身で楽器に立ち向かう技術体力が要求されるのだ。
基本的に子供の頃から習い続けていたとみるべきだろう。
歯科医だった彼の父親は、大学そっちのけで(としか思えんのじゃが)ジャズの道を歩んだ息子をどう思ったのか?
「ジャズ屋にするためにピアノを習わせたんじゃない!!」と怒ったかどうか。
当然、僕が知る由もない。
はたして、鈴木が大学をちゃんと卒業したかのかどうか、そこら辺もわからない。

さて。
こうして鈴木の音楽人生は、楽団の一員としてのピアノを弾くことで始まった。
言わば「修練の時代」を過ごしていたわけだ。
他の三羽烏たちは、下積み生活のあと、
大野は作曲の道に進み
佐藤は自分の団体を結成して、録音もする、作曲もする、自分の才能をいち早く開花させていた。
二人は「自分をいかに表現するか」に力点を置いていたとも言える。
それでは鈴木はというと、最初に彼が選らんだのは、言わば「裏方」だった。

日本を代表するトランペット奏者である日野皓正は、昭和17年(1942年)生まれ、鈴木より少し年上だ。
日野の才能と実力は、早くからジャズ界で認められていた。
まだ22歳か23歳の頃のことである。ジョージ川口と並び称されたドラムの神様、白木秀雄の団体に、日野はその腕を請われて加入することになった。
トランペット奏者が脱退した時、「もう日野君しかないのじゃないか」という最高の評価で後任に選ばれたという。
そこで彼は頭角を更に現し、ほどなくして独立して、自身の団体を結成するにいたっている。
国内のみならず、昭和39年、40年と連続してベルリン・ジャズ・フェスティバルに参加し、喝采を浴びている。
昭和39年は白木の団員として、昭和40年は自身で結成した団体での参加だった。
昭和42年には初の主役レコード「Alone Alone and Alone」を発表し、熱狂的な支持を得るのである。
テンションノート・ジャズブログ 『ベルリンジャズフェスティバルの日野皓正』/日野皓正



そして、鈴木宏昌は、昭和43年(1968年)、時代の寵児となった日野皓正クインテットに加入したのだった。
クインテットの初代ピアノ奏者は菊地雅章(まさぶみ)という人で、米国の音楽大学に留学するために、日野クインテットを脱退した。その後任者として、鈴木は抜擢された。
それから昭和45年に独立するまでの2年間、鈴木はクインテットとともに全国津々浦々を飛び回り、演奏に明け暮れることになる。
そして、歴史に残るレコードを日野とともに作成することになる。


昭和44年のことである。
日野の5番目のアルバム「ハイノロジー」は、発表されるや、ジャズとしては異例の大人気を博し、一気に日野の知名度を押し上げることになった。それだけとどまらず、「ヒノテル・ブーム」という言葉さえ登場したのだった。
日野の人気はこの時、ジャズの枠を超えた。昭和40年代前半、トランペット奏者日野皓正の名声はジャズ界にとどまらず、社会の花形として認められ、サントリーなどの企業のCMに起用されるほどだった。
日野は、日本人の手によるジャズが、大衆の人気を得られることを示したのだ。

「ハイノロジー」について触れておこう。
余談ながら、録音を担当したのは、今や伝説的人物である菅野沖彦である。
この作品で日野は、それまでの基本であった「アコースティック」ジャズから脱皮し、新たな潮流である「エレクトリック」ジャズを選択した。大胆に電子楽器を取り入れ、拍子(ビート)も、それまで主流だった4ビートを捨てて8ビートを採用した。
4ビート・8ビート・16ビートの違いを体感してみよう(ギター初心者講座)

その選択は、旧来のジャズの様式を好む者からは嫌われたようだ。
電子楽器(エレクトリック)は、邪道のように受け止められることもあった。
また、8ビートは本来、ロックの基本表紙であるため、ロック人気にあやかろうとしたのだという見方もあったようだ。
だが、多くの聴衆が、日野の試みを「新しい時代」のジャズとして受けとめたのだ。
ちょうど、高度成長の時代にはいって、社会も若者も元気だった。
まだ政治の季節が続いており、「古き因習を捨てて新時代を拓こう」という熱気があった。
「ハイノロジー」には、新しい音の響きの追求-楽しい、美しいだけでなく、不協和音も交えてでも、それまでに聞かれなかった音の響きを叩きだそうという意欲に満ち満ちていた。
だからこそ、日本のジャズ界に新境地を開いたとされている。
ジャズとしてはレコードの販売実績もよかったらしい。

さても、「いつになったら鈴木宏昌の話が出てくるねん、ちっとも出てこえへんやないか!」とお怒りの方もおられよう。そこが鈴木宏昌の鈴木宏昌たるゆえんでもあるのだが。

鈴木宏昌であるが、歴史的作品「ハイノロジー」で、電子ピアノを弾いている。
電子楽器を担当するということは、従来の生楽器演奏から脱皮しようとする「ハイノロジー」の革新性を託されていたとも解釈できる。華やかな日野の演奏を、裏で支える、地味だが重要な役どころだ。
それだけでなく、鈴木は編曲をも担当していた。
日野が目指す「新時代のジャズ」を鈴木もまた支持し、日野を補佐する、まさに「裏方」だった。
幸運にも「ジョージ川口とビック・フォー」という超一流バンドでデビューした彼は、またたく間に頭角を現わし、やがて、60年代後半日本のジャズ界の話題の中心ともなった「日野皓正グループ」に参加し、そのミュージカル・ディレクターとしての地位を確固としたのだった。やがて同じ仲間の佐藤充彦は前衛的な色彩の強い音楽に傾斜し、今一人の大野雄二も又、映画音楽に新生面を拓いていったのに対し、鈴木の心をとらえたのは当時「ジャズ・ロック」と呼ばれた「エレクトリック・サウンド」の世界だった。」

内田修 「ギャラクシー」解説文より

日野皓正クインテットの一員として、鈴木は新宿PIT INNの他、「ジャンク」などの檜舞台と言える各会場で演奏を重ねていく。
都心だけでなく、クインテットの活動は全国各地におよんだ。
まさに全国を舞台に鈴木は実績を重ねていった。


日野皓正、鈴木宏昌、「ハイノロジー」
この組み合わせをみた時、僕の頭には真っ先に「カインド・オブ・ブルー」が浮かんだ。
ジャズの歴史に君臨する帝王マイルス・デイビスと、吟遊詩人のごときピアノ奏者ビル・エバンス、更にジョン・コルトレーン、キャノン・ボール・アダレイまでが参戦した、究極まで研ぎ澄まされた音の世界が繰り広げられる作品である。
発表されたのは1959年(昭和34年)だが、永遠に色褪せない音楽である。
その音に耳を傾ければ、ジャズが好きかどうかに関係なく、最初の一音から吸い込まれていくことだろう。
静寂の中から浮かび上がってくる音。
派手さや賑やかさからは程遠い。
だが、地味では決してない。
強い求心力を持った音が、舞い踊っている。
暗闇の中で舞い踊る、刃の鋭い輝きのようだ。
そして、帝王マイルスの絶対的名盤として名高きこの作品は、ビル・エバンスによって支えられた部分が大きいことも語られている。
天才的トランペット奏者と才能豊かなピアノ奏者の出会いから生まれた歴史的傑作「カインド・オブ・ブルー」。
歴史的道標の地位を獲得した録音である。

なぞるように、というわけではないが、「ハイノロジー」には「カインド・オブ・ブルー」の影が見える。
日野皓正は昭和44年(1969年)渡米し。直接マイルスに接して、絶大な影響を受けたという。
まるでピカソのように、マイルスは音楽の様式を変えていった。当時のマイルスは電子楽器を導入し、エレクトリック・ジャズを模索していた。
マイルスに影響を受けた帰国後に生まれた「ハイノロジー」で、日野もまたエレクトリック・ジャズを選択したのだった。
電子音楽を導入し、8ビートを採用するエレクトリック・ジャズ。その系統は現在のフュージョンに連なっている。
「カインド・オブ・ブルー」の録音が1959年。
その10年後に「ハイノロジー」が生まれている。
その第一曲目を、日野はマイルスに捧げた。
その題名は「LIKE MILES」である。
挑みかかるような日野のトランペットが強い印象を与える。
美しさよりも
耳あたりの良さよりも
抑えようとしても溢れてくる熱気を塊にしたような音がほとばしる。
ただ美しい旋律に酔いしれる快感を捨てて、禁欲的に求道のごとく吹き続ける日野の音に凄味が加わる。
当時、ナイフのような痩身で、サングラスをかけて吹きまくる日野の出で立ちは、日本のジャズの新時代を予感させたことだろう。
鈴木の電子ピアノは、日野のトランペットに隠れるように、しかし通奏低音のように、陰日向にふと顔を出すのである。

「ハイノロジー」に始まり、日野皓正クインテット時代に鈴木が関わったレコードとして、東宝映画の劇判「白昼の襲撃」、これが最後となった「イントゥ・ザ・ヘブン」が残されている。
ただし、当然ながらいずれも主役は日野皓正である。内田が語るような「ミュージカル・ディレクター」として鈴木がどのように活動したのかを教えてくれる資料はみつけられなかった。
「証言で綴る日本のジャズ」という大部の談話集が発刊されている。
日本を代表するジャズ演奏家たちに過去を振り返ってもらっているのだが、ここですら鈴木宏昌に関する逸話は語られていない。
鈴木没後に作成された談話集なのでやむを得ないのかもしれないが。
だが、鈴木がいかに「名参謀」ぶりを発揮していたか、伝えてくれる情報がないのが至極残念である。
鈴木の事を知りたければ、彼の残した演奏を聴くしかないのかもしれない。
だが、そうした人としての佇まいがまた、鈴木らしいと言えば、らしいのである。

やがて昭和45年(1970年)、鈴木は日野クインテットを退団する。
ここから鈴木は「自分自身の道」を歩み始める・・・・と言いたいのだが、実はまだ、そうでもないように感じられる時代が続くのである。
ハイノロジーの時代 HI-NOLOGY 日野皓正クインテット 1968年~1970年をDIGする




カインド・オブ・ブルーとハイノロジー

注記
この「鈴木宏昌と仲間たち」は、文中にあるようにレコードの解説集やインターネットから得られる情報をもとに作成しました。直接、当事者の方からお話を伺ったものではありません。
ですから、ここで示されている鈴木宏昌という人物の捉え方は、私が上記の間接的な情報から感じたものであり、ご本人を直接、知る立場の方とは異なるかもしれません。
私がこの記事を書いた目的は、「鈴木宏昌という素敵な音楽家のことをわかりやすくまとめておきたい」というものであり、ご本人の名誉を貶めるようものとならないように留意してまいります。

寄り道 映画三題



今年、映画は豊作だった。

もともとは「シン・ゴジラ」を観たかったのだが、時間が合わず、仕方なしに「君の名は。」を観た。公開してまだ間もない時期だったので、客席も割合すいていた。
これが観て、いたく感動した。
新海誠監督ならではの美しい情景描写、画面設計に見惚れさせられながら、前半の微笑ましいやりとりとともに、観客は楽しい時を過ごす。そして、その楽しさが当たり前のように感じられる頃になって、心をえぐられそうな喪失感に主人公は襲われる。
そこからの物語は「失われたものを取り戻せるかどうか」、ひたすら主人公に試練を負わせる展開になる。
彼は幾度も痛切な喪失の思いに飲み込まれていく。
意図的に配置された「3.11」の残像が、観客の記憶をあの日へと誘う。
監督は、あの日あの時、日本人の心に刻まれてしまった様々な喪失感を、この映画で慰めたかったのだろうか。
それが計算からくるあざとさなのか、それとも監督自身が切実に慰められたかったのか。
僕は後者だと思う。
 (独白;でも、あの日に本当に被災した人々はどう感じたろうか
主人公が大切なものを取り戻せたかどうかは、最後のぎりぎりまで曖昧にされ、「1分たりとも飽きさせない」という監督の目論見は、少なくとも僕には成功した。
-あの頃に帰りたい。
そんな思いで身につまされた時期がある者なら、この映画を観て当時の切実な想いが甦るかもしれない。
だから、これは映画館で観るべき映画だと言える。
この切実さは、映画館の中で物語に没入して初めて得られるものだから。

「君の名は。」は、多くの日本人の心底に恐らく潜んでいる喪失感を埋めたのではないか。
たとえ絵空事であっても
たとえ綺麗ごとだとしても
たとえ偽善とそしられても

もちろん人の感受性は様々だ。
「何がよかったのかさっぱりわからない」という意見が出ても、それもまたその人にとっては真実だろう。
周囲の熱に浮かされたような賞賛ぶりに違和感を覚えて、批判する意見もあって当然だ。
でも、映画の真価は、結局、「いかに多くの観客をだませたか」だと思う。これだけたくさんの客をだませた(感激させた)映画には、やはりそれだけの価値がある。
脚本の弱点をあげつらっても、そんなことを気にしないで感激した人間が多ければ、映画の勝ちだ。
「タイタニック」の興行的勝利も、畢竟、「陳腐なラブロマンス」を堂々とやってのけた結果だという意見を富野由悠季が残している。
何とかして救いたい! 観る者のそんな素朴な気持ちを掬い上げたからこその成功だろう。

大勢の人が「だまされた」結果、興行収入は12月の時点で200億円を超えたそうだ。
僕はアニメ贔屓だから、この映画が社会現象になって、歴代興行収入の頂点に迫っていることが単純に嬉しかったりする。「千と千尋」まではいかなくとも、できれば「アナと雪の女王」は抜いて欲しい。

RADWIMPSの歌をビデオクリップのテンポで画面と連動させる演出も、僕は素直に受け入れた。


さて、数年前なら、まだ何度か映画館に通える余裕があったのだが、気が付けばそんな時間も乏しくなっていた。後日、「君の名は。」をもう一度、観たくなって映画館にいったが、これまた時間が合わない。そこで、すぐに観ることができる山田尚子監督作「聲の形」を観た。
これまた行き当たりばったりな出会いだったが、それがまた、いたく心が震えた。
「君の名は。」とは空気が違う。
もっと生々しい息遣いが聞こえてきそうな物語だった。
劇中、葛藤を繰り返す人々の様は、観ていて息詰まるものがあった。

どこぞの報道番組では「障害者と少年の心の交流の物語」であるかのように紹介文が示されていたが、違う。誰が観てもそんな結論にはならない。
これは、いじめという罪を背負った主人公の「贖罪」の物語だ。
人をいじめた罪と罰を、主人公もいじめられ、生き地獄を味わった末に「贖罪」する物語だ。その果てにこそ、苦しみを突き抜けた主人公の、透き通るような感情の解放がある。
物語は主人公の少年と、かつて彼がいじめた聴覚障害のある少女の二人を追い詰める展開が続く。そこに以前、主人公と一緒になって少女をいじめた者たちが関わってくる。彼らは途中からいじめの対象を主人公へ変更し、肉体的にも精神的にも彼を追い詰めた者たちでもある。
結局、かつて二人をいじめた人間関係が、また二人を追い詰めていく。

悲しむべきは、自分自身がいじめられなければ、いじめられる側のつらさを理解できない、実感できない人間の醜悪さかもしれない。
映画を観ていて、絶対に見過ごせない点があった。
主人公以外のいじめに加担した者たちの「贖罪」はどうなったのか?
果たして彼らは「いじめる側」の心性から「いじめをしない」「いじめを阻止する」心性に変わったのか?
自分の犯した罪を自覚し、暴力を自覚し、自分は変わらねばならないという認識を得たのだろうか?
主人公は「贖罪」を経て、変わることができた。
しかし、それ以外の加害者たちはどうか?
映画は、監督は、あえてそこには踏み込まなかった。原作はまだ読んでいない。

だが、加害者たちは本質的に変わっていないと僕は思っている。むしろ、彼らは「最後まで加害者」だったのではないのか?
加害者の一人は聴覚障害の少女を「受け入れる」立場を選んだ。
受け入れる?
まるで「お許し」を恵んでやるような態度ではないか。
共存できるようにはなったかもしれない。相手を自分と対等と認めたかもしれない。
でも、自分が相手を傷つけた事実は認めようとしない。
それが現実?
あえて加害者全員に「贖罪」の機会を与えなかったのは、踏み込みすぎれば、きれいごとになってしまうという監督の意図だろうか。
確かに、主人公の変貌さえ、現実には起こり得ないような奇跡なのかもしれない。
いじめる者は「いじめられる者にもいじめられる原因がある」と主張するが、単に「いじめたいという欲望を抑えられない」己の凶暴さが原因であることを認めようとしない。
非を他者に転嫁する。それがいじめる側の論理である。
だからこそ、「いじめられた経験を通じて、人として蘇生した」少年の物語は、清冽であった。

↓以下の意見は非常に明解かつ説得力のあるものだった。
「理由なんて特にない」いじめの体験談を描いた漫画に大人がすべきことを学ぶ
はるかぜちゃん on Twitter
「いじめられる側にも原因がある」に対するはるかぜちゃんの指摘が相変わらず鋭かった件

繰り返すが、この映画の根幹にあるのは「いじめ」という罪に、人がどう向き合うかだ。
果たして、この映画では加害者の全員が「贖罪」するわけではない。
それでも物語は収束していくのだが、そこに危険がある。猛毒がある。
なぜというと、加害者たちが「免罪」を得たかに錯覚されるからだ。
和解したから全てチャラ-主人公たちだけが本当に苦しんで、あとの者たちは罪を免れましたとさ・・・・と、取ることも可能なのだ。
映画を観て、「いじめをしても許される=免罪」と受け止めるのか、「いじめた者は罪と罰を受け止めきってこそ、許される=贖罪」と受け止めるのか。
観る者の受け止めようによって、この映画は「感動ポルノ」にも、「傑作」にも変わりうる二面性をも有している。
いじめに親和性の高い者が観た場合、「お、皆、仲良くなってよかったじゃん」で終わってしまいかねない危険すらも孕む映画であるのは確かだ。

聴覚障害の少女の造形が可愛らしすぎて、現実離れしている、ご都合主義という意見もある。
そうだとも思う。
だが、作家とは、監督とは、「どんな手段を使ってでも、自分が一番いいたいことを一人でも多くの客に伝えることに成功すればよいのだ」と僕は思う。
確かに「甘ったるいケーキのような」人物設定なのだろう。だが、甘ったるい中にジリジリと喉に突き刺さる棘があることに気付いた観客がほとんどだろう。
「いじめ」を題材にして、幅広い層に受け入れられ、映画の知名度にしては十分な興行成績を上げているのだ。これまた原作と監督の絶対的な勝利である。

この映画もまた音響が素晴らしい。花火の場面は映画館ならではの臨場感にあふれていた。
この場面が今も心に突き刺さっている。



「この世界の片隅に」が映画化されると知ったのはたぶん10月頃だったと思う。本屋で特集雑誌(ムック本)が積まれているのを見たからだ。
もうずいぶんと昔、10年はたつだろうか。偶然、「夕凪の街 桜の国」を書店で手にしてからこうの史代を愛読している。
こうのは、どこかしら飄々としながら、生きることの辛さ厳しさをほんのりと伝える作風である。
「この世界の片隅に」もずっと心に残る作品だった。
以前にTV劇が放送された時も観たが、あまり話題にならなかったように記憶している。



でも、今度は、アニメ映画になる。もうすぐ公開される。
こうのの作画そのものが(大)好きなので、TV劇よりも遥かに期待してしまった。
これは是非、観なければと思ったものだ。
ただ、その時はまさかここまで人気が高まるとは予想すらできなかった。
こうの史代は熱狂的な支持者を持つ一方、世間的な知名度は決して高くはなかったからだ。
ところが、映画が公開されるや、素晴らしいと評判が口コミで広がった。
TVではほとんど宣伝されていなかったが、ヤフーでも何度も記事が上位に取り上げられるようになった。
後押ししたのは、映画を観て感激した人々の声だった。
主演の能年玲奈(のん)の演技も絶賛された。
「あまちゃん」以後、何かと暗い話題が続いた女優だが、判官びいきがあったにしても、「素晴らしい演技」という声でいっぱいになった。
ふだんは朴訥であっても、いざとなれば溢れてくる、内に秘めた激しさの気性も見事に表現していた。
観る者を主人公にのめりこませた演技は一級品だった。

この映画は大資本は制作に参加しておらず、片渕須直監督が自主的に企画・立案し、一般に資金を募り、完成した映画とのことだ。
だから上映館も限られており、大阪ですら、当初は梅田で2か所あとは吹田と、そしてなぜだか茨城の4館のみであった。
11月も下旬になって、評判を聞きつけたTOHOシネマなんばが別館で上映を開始してくれたので、僕も家族と観に行ってきた。
本館とは異なり、別館はずいぶんと施設が老朽化していたが、それもご愛嬌。
きれいなだけが映画館ではない。
評判を聞きつけた観客で、場内は満席御礼だった。

いざ、映画が始まると、そこはまさしくこうの史代の世界だった。
牧歌的で、童話的で、温かい衣に包まれているのだが、しかし紛れもない現実が硬い岩盤のように中心にある物語世界。
幸せなことも楽しいことも
悲しいこともむごたらしいことも
淡々と過ぎ行く人生として語られていく。
-どんな悲しみも、消えることはなくても乗り越えていける。
そういう気持ちにさせられる映画だった。
アニメーションとしても素晴らしく、この映像が2億5千万円という破格の低予算で制作されたと聞けば、関係者の力量と努力に最大限の敬意を払わずにはいられない。
もうすぐ180館規模に上映館を拡大するそうだが、いっそ300館くらいにしてしまえば、興行収入100億越えも不可能ではないように思われる(12月10日の時点ではまだ5億円らしいが・・・)。

ところで。
この映画は戦前から戦後にいたる時代を、実に生き生きと再現することに成功している。
本来、実写で役者が演じた方が生々しいはずと思ってしまう。
だが、こうの史代の描線による人々が、至極、平穏に生活する様が実に生き生きとして、役者が演じるよりも「ああ、生活しているな、いいな」と感じられる。
銀幕からは、戦争が始まっても、まだ初期の銃後の生活はそれなりに穏やかで、まだそこにはいっぱいの幸せが微笑んでいたことがしみじみと感じられる。
だからこそ、この生活の愛おしさがあるからこそ、やはりこの平穏が失われた時、観客は激しく胸を突かれる。

数年前の大河ドラマ「八重の桜」を観ている時も感じたことだがある。「八重の桜」の制作陣は、会津戦争が始まるまでの会津の城下町をしごく穏やかに描いていた。そこに住む人々の生活は、幕末という激動期にあっても、平穏なものであったとして描いていた。
戦争が始まるまでの世とは、本当に穏やかで静かなのであろう。
どんなむごい事件が起こっていたとしても、戦争という惨劇が起こった後では、どんな時代であってもまだマシなのである。
しかし、会津戦争の始まりはいきなりの「本土決戦」となった。
会津城に籠城する者、城下に残る者。
後者の女子は、籠城して戦う者たちの負担にならないように自害して果てた。それは侵攻してきた官軍兵士すら戦慄する地獄絵図であったという。
籠城した者たちは、連日、アームストロング砲による「空襲」に見舞われ、消耗し、疲弊し、やがて降伏する。
後には「賊軍」の汚名と虐待の日々が続く。
あの穏やかだった時間は戻らない。
もし、藩の上層部が戦争を回避する選択をしていたら、この惨劇は回避されたのかもしれない。
当時、僕は会津戦争を巡る展開に、太平洋戦争の面影を投影していた。
この戦争が回避されていたら・・・
もっと早く敗戦を受け入れていたら・・・
と思わずにいられないからだ。


日中戦争が始まり、国内では2.26事件などの叛乱が起こったとしても、前線が国外にある間は、人々の生活はまだ穏やかだったものとして描かれることも多い(特高の思想弾圧や、東北地方の小作農の窮状は置くとして・・・)。
太平洋戦争開戦時はまだ物資は国内にそこそこあって、おいしいお菓子も手に入った。
戦争も後期になった頃、まだ豊かだった時代を知る小学校の高学年が、物心ついてから配給食しか知らない低学年児童に、お菓子の事を懐かしみながら説明するといったこともあったという。
そんな幸せは戦争が生活の際(きわ)に雪崩れこんでくるとともに噴き飛んでしまう。
ガラガラと崩れていく幸せ。
今、イラクやシリアの人々は10年、10数年前までそこにあった幸せをどう振り返るのか。
ソ連のアフガン侵攻までは、アフガニスタンはとても美しい国だったという。
それが今やどうか。
失ってからでは遅いのだ。


「この世界の片隅に」を観て、強く湧き上がる感情があった。
「本土が空襲された時点で、もう負けてるよな・・・」
昭和40年生まれの僕たちの世代は、子供時代によく空襲の惨劇について聞かされていた。なぜなら、当時、まだ僕の周囲には、戦争に直撃された世代が溢れていたからだ。
終戦は僕の生まれる「わずか」20年前。小学生の頃でも「わずか」30年前の出来事だ。
2016年の現在から1980年代を振り返るようなものだ。今の中高年がバブル期を懐かしむよりも遥かに生々しく、僕の周囲の大人たちは戦争のことを振り返ったことだろう。
戦争の終盤には、県庁所在地はおおかた空襲の的になっただろう。
街そのものに空襲の記憶がくすぶっていただろう。
大人たちに話を聞かされた僕らは、他人事であるにしても、「空襲があって大変だったんだねえ」と素直に思った。
空襲の話を繰り返し聴かされたので、ある意味、僕らにとって、「戦争=空襲」だった。


だが、僕は「この世界の片隅に」を観ていている時、初めて次のような実感を得たのだ。
本作は当時の生活を実体験しているかのように感じさせてくれると評価が高まっている。そうだと思う。
戦時下でもそれなりに平穏だった日常生活。観客として、僕もその時間を共有しているその時-。
米国の戦闘機が本土の防衛網を突破して、空襲を仕掛けてくる。
平穏な日常に敵機が直接襲いかかってきたのだ。
この瞬間、僕はふいに「あ、(戦争に)負けた」と「心底から」実感した。
敵がもうこんなところまできているのだから。
そして「負けた」と感じた後も、延々と空襲は物語の中で繰り返された。
実質、負けているのに戦いが続いているのだ。

この時まで、僕は「戦争=空襲」と感じていた。しかし、日本人が「戦争をしているつもりで」空襲に耐えていた期間とは、実を言えば「負けた戦争をいたずらに引き延ばし続けた」だけではなかったのか。
そう思われた。
どうして、日本は、日本人は空襲されているというのに、戦争を続けたのか。
国同士が隣り合う欧州の戦線とはわけが違う。
太平洋を遠く離れた米国が、中国や南洋の島々を拠点にして、そこから日本本土に直接、空襲を加えている状況を考えてみよ。
連日のように空襲があるということは、日本は本土においてすら、空も(制空権)海も(制海権)米国に奪われていたということだ。
日本本土は叩かれ、米国本土は無傷。そして、その頃には米国本土を攻撃する能力を日本は失っている。
本土の制空権も制海権も奪われた時点で、実質、負けている。それもボロ負けである。
逆転は不可能だろう。
そんな有様で戦争が続いた事実に、僕は空しさをグサッと感じてしまった。
米国の日本本土空襲が本格化したのは昭和19年6月。
沖縄線よりはるか前の時点で、敗戦は決定的だった。
つまり、当時の指導者たちは勝てない戦争を引きずり続け、沖縄を犠牲にし、ポツダム宣言を無視し、挙句の果てに原爆投下され、満州植民者を見捨て、北方領土を持ってかれたわけだ。



戦争なんてしてはいけない。
絶対にしてはいけない。
戦争は負けたら終わりだから。
そして、指導者というのは「負けたくない(責任を取りたくない)」から、僕ら一般人を生贄にしてどうしようもなくなるまで戦争を続けてしまうものなのだ。
当時の指導者たちが降伏を決定したのは、事態が本当にもう、ニッチもサッチも行かなくなってから、いよいよ国が滅びる半歩手前でだった。

結局、東京で行われている五輪会場の問題や豊洲問題にしても、指導者たちがそれぞれの利権を優先した結果だろう。しかも後戻りしようとすると「今さらそんなことができるか」と妨害する。
過ちすらも「既成事実化」して、修正不可能と主張する。
未だにこの国は、「過ちを速やかに訂正できない」のだ。
そんな国が、指導者が、僕たちを戦争に巻き込んでいったらどうなるか。
同じことの繰り返しだ。
8.15の後には東西冷戦と朝鮮戦争という、日本にとって都合のよい国際情勢があったから立ち直れた。
そんな都合のよい展開は二度とない。
つまり、負けたらおしまいなのである。
何度でも言う。戦争なんてしてはいけない。

さて。
この3作に共通点があるとするならば、「喪失感を回復する物語」ではないかと思われる。僕としてはいずれも甲乙つけがたい。あえてつけたいとも思わない。つける必要もない。
それぞれが傑作と言ってよい。
だから、全て肯定する。
贔屓の作品を讃えたい気持ちはわかるが、別の映画を貶めて、「この映画はもっと凄い」という論法はしたくない。
そんなことをしなくても、傑作は傑作ではないか。人気の奪い合いは不毛だと思う。
この3作と出会えただけでも、今年の収穫は大きかった。
できれば3作とも、もう1回くらいは劇場で観たいのだが・・・。
取りあえず劇判は3作品とも手元に置いている。



コトリンゴの音楽は室内楽のような小宇宙だった。
趣は異なるが、「風立ちぬ」のように、音楽だけで物語世界を作り上げていた。
その世界に心が溶けていきそうである。

しかしながら、最初に観たいと思った「シン・ゴジラ」はいまだに観ていない。




とりあえず案内冊子だけ買った。帯におどし文句が書いてあるので読むことすらできない。

悪か正義か、正義か悪か トリトンはどこへ行きついたのか?


さらばトリトン

「海のトリトン」は作家富野由悠季の原点だ。
善悪の主客をひっくり返した最終回は伝説となり、「ザンボット3」最終回、イデオン「発動篇」とともに僕のような人間の心の経典になった。
ただし富野自身の評価は、いつものごとく批判的だ。制作過程の全てに関われなかったことについて、「作品に精液をかけられなかった」と、偽悪的な彼らしく、生々しい本能を迸らせた表現で悔やんだ。
あこがれの手塚治虫の原作を戴き、それを素材に「真のメルヘンアクション」を目指した富野だったが、彼が思い描いた「水平線の向こうの物語」、誰もみたことがない、美しい海中を舞台に繰り広げられる、水棲人間たちの壮大な戦いの物語を、彼の望んだ姿で具現化することは叶わなかった
僕にとって初めての三十分物でありながら、教範のまったくないストーリー創りからの仕事にはいった。メイン・ライターには松岡清治さんとのちに「ザンボット3」や「ダイターン3」の文芸担当にもなってくれた鶴見和一君(学生だった)などが中心となって、トリトンとアトランチス大陸の因縁話の創作にとりかかった。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」266頁より

しかし、自分の思いや考えが脚本家や作画家たちにうまく伝わらないもどかしさを繰り返した末に、富野は最終回の脚本を自分で書いてしまう「暴挙」に出た(※1)。
己の思いを十分の一もシナリオ化してもらえず、己の思いの二十分の一もフィルム化できなかったという実感に僕は自分を嫌悪した。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」270頁より引用

あの落としどころだけは、1クール終わった時点ぐらいで思いついていたんですけど、誰にも言いませんでした。だから26話のシナリオは僕が書いているんです。書いているというのも実は嘘で、ぶっつけ本番でコンテで仕上げました。どうしてそういう風にしたかというと、TVマンガのシナリオライターがはっきり言ってとても嫌いだったからです。子供のものだからと、バカにしているんですよ。だからああいう設定を用意しても、彼らに却下されるだろうというのがはっきりわかっていました。それは説得出来るものではないと覚悟がありましたから、慇懃無礼で最終回はシナリオから僕がいただいたのです。これはもう職権乱用です。ですから「海のトリトン」で仕事をしたライターは、僕のことが大嫌いです。打ち上げも、制作部と演出の4,5人でどこかの旅館に行って何かやったという記憶しかありません。みんなで集まってどうこうってのはなかった。
キネマ旬報社刊「富野由悠季全仕事」1999年発行 64頁より引用


トリトンの脚本主筆である松岡清治は、歴史小説で名高い隆慶一郎に師事し、脚本家としての道を歩み始めた人だ。
彼の仕事の大半はTVアニメの脚本であり、特に旧東京ムービー(現トムズエンターテイメント)関連の仕事が目立つ(※2)。
後は数本だけだが、特撮作品「魔神ハンターミツルギ」や仮面ライダー作品、そして成人向け映画の脚本を数本執筆している。
してみれば、松岡の主戦場はアニメなのだ。その彼が、アニメを「子供のものだからと、バカにして」いただろうか。
富野の言動に対する、松岡の批判や反論の類は探すことはできなかった。
それでは松岡以外の執筆陣、辻真先、宮田雪、松元力、富田宏の面々はどうであったか。ちなみに、松本と富田の脚本家としての業績は、わずかしか残されていない。ネット上で検索できたのは、せいぜい数本くらいだった。
宮田はある程度の仕事を残しているが、彼もまた、その大半はアニメ作品である。
では、辻真先はどうか。彼はそれこそ、日本のTVアニメを黎明期から支えてきた功労者であり、むしろアニメ外の人間から、「あんたまだ、ドカーンとか、ボカーンとか、そんな本かいてんのかい?」と揶揄されて(※3)、腸の煮える怒りを日々、感じていた人であり、アニメの仕事に誰よりも誇りを感じいていたはずの人だ。

腰掛のように脚本を書いた3名はともかく、松岡と辻については「子供のものだからと、バカにして」いたとは到底、思えない(※4)。
そして、嫌われたはずの辻と富野は、後に対談もしているのである。
富野喜幸の世界
富野・辻対談
↓対談の採録あり
富野愛好病:演出家と脚本家の対決 〈富野由悠季・辻真先〉対談(前半)


だが、「子供のものだから」こその「規範」を求めた可能性はある。
「子供のためのTVアニメは、根底にある勧善懲悪を覆してはならない」
その一点で、脚本家たちと、それすらも覆そうとする富野との間に理解の溝ができたかもしれない。
「規範」があるが故に、富野が伝えたい意図が全く伝わらなくなってしまうこともあったのではないか。富野側から「規範」に抵触した発想が出てきたら、自動的に脚本家たちの意識から排除されてしまった可能性がある。そうした「規範」を順守しようという姿勢が、富野には「バカにして」いるように見えたのだろうか。
己の日常をみても、事情が少しでも入り組んでしまうと、説明してもこちらの意図が全く伝わらないことは珍しくない。こちらは淡々とただ事実を伝えているだけなのに、いつの間にか話がすり替わって「誰それの責任だ」ということになったりする。ちげーよ。

ましてや、富野の革新的な発想は、従来の常識の中で物語を熟成しようとしていた人々の理解の範疇を超えていたかもしれない。
たぶん、この監督と脚本家との意志疎通について富野に問いただせば、物語論に始まって、脚本とは何か、人との相互理解とは何か・・・・云々を熱く何時間も語ってくれるのではないだろうか。
人とは「日常的に誤解し合う」ものだ。
そんな人という厄介な存在を相手に、何をどのように語れば、自分の言いたいことが伝わるのか。
いや、どれだけ伝えられるものなのだろうか。
監督と脚本家の意志疎通という命題は、終局的には「人は理解しあえるのか」という命題に行き着くのかもしれない(※5)。

しかしながら、すったもんだはあったのだろうが、トリトン制作陣の作り上げた世界観は、今もって味わいがあり、個性が際立っており、印象に強く残るのである。
超エネルギーオリハルコンを開発し、高度な文明と豊かな生活を謳歌したトリトン族。
その影でオリハルコンの人柱にされて、歴史から抹消された人々がいた。
ところがトリトン族の意に反し、彼らは生き長らえた。ポセイドン族として復興し、己らを見捨てたトリトン族への復讐を開始した。
オリハルコンの力を逆利用してトリトン族の本拠地、アトランチス大陸を海底に沈めた。そこから世界各地に離散したトリトン族を一人一人、探し出しては抹殺した。
一人も生かしてはおかない、徹底した殲滅作戦を展開した。ナチスへの復讐を、戦後、どれだけの年月が過ぎても決してやめないユダヤ人のごとく。
世界の海に大幹部を配属し、戦闘指揮官の任を負わせた。配下には凶暴な巨大アンコウやギンザメを集めて軍団化した。
そして、世界中の海にクラゲたちの監視網を敷いた。トリトン族の情報がはいれば、彼らに「トリトン、みつけたあ~・・・」とモールス信号に似た手段で、次々と情報を伝えさせた。
更に、瞬間移動能力と強力な毒針攻撃の力を与えたタツノオトシゴたちを、直属の親衛隊にした。彼らはマーカス暗殺部隊と名乗り、ポセイドン族の代弁者となった。
マーカスたちは大幹部たちに命令できるだけでなく、命に背けば暗殺するだけの権限も与えられていた。一癖も二癖もある大幹部たちを恐怖で制御し、ポセイドンに従わせた。彼らはポセイドン族の「力による支配の象徴」だった。

先の証言によれば、この物語背景は富野一人ではなく、松岡らが創り上げたものだという。
子供の頃、僕はこのトリトンの世界観がかなり好きだった。というか、印象に残った。
わけても「トリトン、みつけた~・・」と、クラゲたちがささやきながら信号を送る場面が記憶に強く残った。
なぜそうだったのだろう? トリトンに逃げ場がないと感じて、それが知らず、恐怖として僕の心に残ったのだろうか。

ポセイドン族の大幹部たちも個性的だった(※6)。
前半で活躍したドリテアとポリペイモスの功名争いや反目は、なかなかに味わい深かった。ポリペイモスの造形の妙と、彼を演じた加藤精三の声質は、全く独特であるとともに強烈な印象を残した。
そして、ミノータス。北の海を支配し、前半、アザラシに守られたピピを監視する立場で登場した。柴田秀勝の渋い声が、圧倒的な存在感を醸し出していた。
彼は氷の息を吐き、大勢の敵を一気に氷漬けにして殺せる絶大な力がある。それだけの力がありながら、トリトンとピピが北の海から脱出し、「ここから潮が暖かくなる」場所まで逃げ切ると追ってこなくなる。
強大な力がありながら、ある意味、北の海という「土地に縛られた存在」であることが、極めて神話的に感じられた。
ミノータスは一度、物語の舞台から姿を消す。しかし、物語の終盤でトリトンたちがポセイドンの本拠地に迫ってくると、土地の結界を解かれて大西洋まで南下し、再登場する。ポセイドンの切り札のごとく、トリトン抹殺に動くが、成長したトリトンに返り討ちに会う。
一度、表舞台から去って、また復帰する敵役(かたきやく)。
シャア・アズナブル、ギジェ・ザラル、バーン・バニングス・・・彼らの原型とも言える。
また、トリトンが次々と敵を撃破して言っても、「それでも北の海にはミノータスが控えている」いう隠れた存在感を示し、物語に重層的な深みを与えていた。

実を言うとポセイドン族と言えば、巷ではヘプタボーダが有名だが、僕は本放送の時の彼女の逸話をみていないので、どこか思い入れが薄かったりする。
しかし羽根章悦(ゆきよし)の描く彼女は端整で美しかった。

とつらつら書いていると、彼らやトリトンを具現化した羽根の筆の凄さについて触れたくなる。
気品さと荒々しさがほどよく同居する羽根の描線は、今みても惚れ惚れする。
無論、全ての逸話がそうとは言えず、仕上がりのよくない回も当然ながら、存在する。羽根一人で全ての原画を描けないのだから仕方がない。
しかし、羽根が気合をいれて作画した逸話は、今みても実に描線と動きが美しいのだ。
少なくとも、5年後に制作された「ザンボット3」よりは遥かに端正で、美しい描線だ。
「ザンボット3」では安彦良和が人物造形のみの参加にとどまり、総作画監督をおけなかった。「ザンボット3」の作画は、改めて観ると一定の質は保っているのだが、今一つ「雑な」作画という印象が残っている。(金田伊功らの作画は置くとして)。
力量のある作画監督の存在がいかに大きいかを思い知らされる。
さて、昭和47年(1972年)当時と言えば、
丁度この頃、アニメの制作過程における革命的な出来事がありました。トレスマシンの登場です。トレーサーが動画の線を1枚1枚ペンでセルに写し描くハンドトレスから、動画とセルの間にカーボン紙を挟んでトレスマシンにかけ、動画の線を直接セルに転写するマシントレスへの移行は、アニメ制作の省力化を目指すものでしたが、同時にそれは原動画の線のニュアンスをそのままセルに乗せることで新しい表現の幅を広げることにもなりました。

⇒WEBアニメスタイル アニメーション思い出がたり 五味洋子 その15より引用
この時期のアニメは上に引用したように、作画家(原画)が描いた鉛筆線をそのまま動画に転写できる機械の登場により、初代「タイガーマスク」などの画風がアニメ界を風靡した。


羽根もまた、特にポセイドン側を描出する時、荒々しいタッチの鉛筆線を多用して、彼らの獰猛さ、力強さを表現した。
羽根の場合は書き込みを押さえた端整な線と、その逆の荒々しい線の書き込みを状況に応じて巧みに使い分けていたと思う。
「当時のTVアニメでよくもここまで描きこんだ!」と驚かざるをえないような作画もあり、今や必ずしも知名度が高いとは言えないが、羽根の実力の高さを思い知らされる。海上での波の描写など、今ではCGで処理される場面も、彼ならではの描線が活躍している。

そして、何といってもこの物語を忘れえぬものにしてくれたのが、鈴木宏昌の音楽だった。
詳しくは次の回に譲るが、彼の静と動を見事に描き分けた個性的な音楽は、いつまでも僕の心に残り、その音楽とともにこの「海の」物語もまた、いつまでも忘れられない存在となったのだった。


さて、ここからが本題だ。
「海のトリトン」を一言で語るとするならば、僕は「死の匂いに包まれた物語」と答える。
最初から最後まで、この物語はひたすら、「死」に満たされていた。
「死」は常にトリトンの傍らに寄り添い、登場人物のみならず、画面に登場しない存在すら、逃げようもなくその懐に飲み込まれていった。
そして、ここに描かれる死は、常に静謐であり、命は波のように風のようにいずこからともなく現れては消えていく。
そこには生々しい感情も執着もない。
怪獣サラマンドラは巨大な岩に押しつぶされて死ぬが、その死にざまは直接描かれず、吹き上がる波が朱く血で染まったことで示された。
怪獣デモラーもやはり氷山に押しつぶされるのだが、その死体は遠目でのぞくように描かれるので死の実感は乏しい。しかし、トリトンの足もとの氷の大地に真紅の帯が広がっていく描写によって、デモラーから大量の血が溢れだしている事実=死が観る者に伝えられる。
また、長老プロテウス率いるアザラシたちはミノータスに全滅させられるのだが、彼らが殺される直接の場面は描かれない。氷の中に封じ込められた彼らの姿が、一瞬、映し出されるにとどまる。その様はまだ生きているかのようだ。
大亀メドン、大幹部ドリテアはいずれも海底火山の噴火の中に消えていった。
イルカ島が爆発で崩壊する逸話では、大勢のイルカたちがポセイドンの強大な力に翻弄され、成す術もなく消えていった。
怪魚ラカンはオリハルコンの輝きの中、まさに光に溶け込むように実態を失うことによって、死を迎えた。
中でも印象深いのは、とある老人の描写だ。
とある島にトリトンが立ち寄った時、漂着したのか、一人の老人が彷徨っていた。トリトンが他のことに気をとられてから、その場に戻ると、もうその老人の姿はなくなっている。
「波にでもさらわれたのだろうか」
その一言で、老人の登場は終わる。
物語の筋とは一切、関係がない老人の幻のような死。死んだという事実さえあいまいにされた老人は、果たして本当に存在したのだろうかとすら思える。
唯一、生々しさが残されたのは、ポリペイモスの腹いせに殺された、孤独な恐竜の死の場面と、その直後に訪れるポリペイモス自身の死だった。しかし、それすらも静けさに満ちている。

そう、トリトンの周囲には、数えきれない死が溢れていた。
敵も、味方も、トリトンとピピが生き残るための糧となって、ことごとく死んでいった。
物語の終局では、敵ポセイドン族の全員がオリハルコンの贄となり、ことごとく水死した。
画面に登場した人数はわずかだが、その数は千か、万か?
物語の背景で語られるのみのトリトン族の死も含めれば、一体、どれだけの命が費やされた果てに、トリトンとピピが生き残ったというのか。
敵味方もろとも国滅び、生き残ったのは片方の国の王と王妃だけという有様といえる。
しかもその先、トリトン族に本当に未来が開けるというのか。
富野は語る。
あのトリトンが、いま、一体どのような空間で生きているのかは知りません。ピピとは一緒であっても、幸福かどうかは知りません。なぜならば、同族でたった二人だけの生き残りでは、子供を生み育てても二代か三代限りでしょう。トリトンがそんな簡単に種族の生き残りの方法を発見できたとは思えないのです。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」275頁より

そうなのだ。
数えきれない死を費やして得た、「トリトン族の存続」とは、かくも「か細い儚いもの」だったのだ。
それを思ってか、富野は物語の最後の場面にピピすらも登場させなかった。
今更ながらにこの場面をみて、僕は「滅び」という言葉を思わずにはいられない。

改めて問う。数限りない命が失われた末に、二人のトリトン族が生き残った。彼ら二人にそれだけの「価値」があったのだろうか? これだけの犠牲を払っておきながら、その結末はと言えば、「トリトン族の静かなる自滅」かもしれないというのに。
だから、命の価値を多数決で決めるなら、トリトンの存在自体が悪ではないのか。
たった一人のトリトンが、小国家とそれにまつろう複数の部族を滅ぼした。トリトンを支援する部族も、全てではないが巻き添えにした。
そのトリトンですら、部族復興を成しえぬまま、死を迎えることだろう。
どうみても、数の論理で言えば帳尻が合わない。
もしもトリトンが海に出なければ
もしもオリハルコンの剣を捨てていれば
もしも、事情を知ったトリトンが、行く末に待つ惨劇を見通す洞察力を持っていて、死ぬべきは自分自身であると、命を差し出していたら
トリトンの死によって、世界は「不幸」になっていただろうか?
ポセイドン族の支配は続くだろうが、海の秩序は保たれただろう。彼らの最大の目的はトリトン族の殲滅であり、彼らが敵視し、迫害するのはトリトン族とその支援者のみだ。
それ以外の部族がどのように生きようとも、彼らは関知しなかっただろう。つまり、彼らの支配下では、生死は自然の流れに任せられていたのではないのか?
オリハルコンの脅威さえなくなれば、彼らは安心して海底で静かに暮らし、海の住人たちに必要以上の介入は行わなかったかもしれないではないか。
他方、ピピは、プロテウスらアザラシ族の庇護の下、たった一人のトリトン族として年老い、死んでいったかもしれない。
だが、それが不幸か?
何もかも失った後、本当に愛し合えるかどうかわからないトリトンと「やむをえず」結婚して、わずかばかりのイルカ族に支えられて、近親相姦するしかない子供を産んで、それで幸せなのか?
トリトンと出会うことなく、好きなようにわがままを言って、アザラシたち崇められながら、女王として老いて死んだ方が、ピピには幸せだったという考えも成り立つのではないか。
ポセイドン族としても、オリハルコンを持たない女性のピピであれば、ミノータスの監視の下、軟禁状態において、死ぬのを待つだけの余裕はあっただろう。1万年も待ったのだ。あと数十年待つことなど、雑作もない。

だが、トリトンは海に出てしまった。
まだ少年で人として成熟していないトリトンを、ルカーが海へ連れ出してしまった。
愚かなルカー。
かつての支配者、トリトン族の命ずるままに、馬鹿の一つ覚えのように「トリトン族の再興」を目指すだけの存在。
行く手に待つ滅びを見通すだけの思慮もなく、気性の合わないピピにトリトンを無理矢理引き合わせ、二人の諍いにうろたえ、状況を受け入れられない二人には、ただ「仲良くしなさい」「おとなしくしていなさい」と一方的に諭すだけ。
もちろん二人を盲目的に「愛していた」。下僕として、教育係として、身を挺して二人を守ろうとした。
だが、彼女は自分の思いを一方的に伝えるだけだ。「本当にこの二人が幸せになるにはどうしたらいいか」という考えは、ルカーにはない。
どこまでも目的は「トリトン族再興」であり、トリトンとピピがこれを拒否することは絶対に認めないのだ。
トリトンを虐殺へと駆り立てた張本人とすら言える。
少年であるトリトンは、不平不満をいうことはできても、ルカーの考えを論破し、オリハルコンにまつらう悲劇を回避するだけの能力はなかった。
彼にあったのは、「わけもわからずポセイドン族に殺されてたまるか!」という、「純粋な防衛本能」だけなのだ。
ただ「死にたくない」「生き延びたい」という気持ちだけの少年に、ポセイドン族がオリハルコンの秘密という最重要機密を告白し、話し合いを持ちかけようはずもない。
彼らのトリトン族に対する恨み怒り憎しみは1万年も続いているのだ。
彼らは言うだろう。
恐ろしいトリトン族がオリハルコンの悪しき力をもって、母なるポセイドン族の都に襲い掛かってきたらどうする。滅びの道を歩むだけだ。
それだから、物語の構造上、トリトンは「虐殺の旅」に向かうしかない。

ならば問う。「虐殺者」トリトンは悪か?
多数決の思考に基づくならば、絶対的に悪だ。
繰り返すが、トリトン一人の死があれば、その何万倍、あるいは何十万倍もの命が恐らくは失われずに済んだことだろう。
大友克洋が監修した映画「メモリーズ」の中に「最臭兵器」という逸話がある。
ある手違いで、主人公は非常に危険な物質を全身から放出する体質になってしまった。しかし、本人は自分の体質変化に気づかず、上司から指示された通り、何かを会社まで運ぼうとする。
自衛隊も含め、主人公以外の人間は皆、主人公を殺害しようとする。主人公はそんなことも知らず、できるだけ早く会社につこうとする。機転をきかせ、自衛隊の包囲網を突破し、会社に向かう。最後には彼は自衛隊の裏をかいて、危険物質を放出しながら「無事に」会社に到着してしまうのだ。
僕はこの映画をみてイライラした。主人公の鈍感さと不要な機転、そして彼の「空気の読めなさ」にとでも言おうか。
自分が危険な存在になっていることがわからないのか、お前!!
僕は主人公ではなく、主人公を阻止する側に共感していたのだ。
お前一人のせいで、どれだけの人間が危険にさらされるかわからないのか!?
と、いう思いで観ていたのだろう。
今にして思えば、ずいぶんと身勝手な話だ。
主人公は素直に命じられたままに仕事をしただけだ。責められるべきは指示を誤った側だ。
それなのに、自分の身が危ういから、自分だけでなく、他にもたくさんの人の身が危うくなるから、そして、主人公一人が死ねば全て「丸く収まる」ことから、僕は主人公に怒りを感じていた。
全ての負債を一部の人間に押し付けて、身の安泰を守ろうとする。僕の本性が暴かれたようなものだ。
さあ、「お前一人が我慢すれば、他の皆が幸せになれる。お前は黙って我慢しろ」-すなわち、「皆のために死ね」と言われた時、あなたならどうするか。黙って、得心して、それを受け入れるのか?
「南西諸島人は文句を言わずに、米軍基地を黙って受け入れてればいいんだ。そうすれば日本は中国に対して優位を維持できるんだから」という都会人たちは、自分が「お国のために不利益を黙って受け入れろ」と言われた時、どんな決断をするのだろうか?

公の精神、という言葉がある。この10年、20年、囁かれることが増えてきた。
僕などは小林よしのりの著作で目にすることが多かった。
「公の精神」とは「社会の規則を守りましょう、皆で社会の秩序を守りましょう」とする公共心よりも更に強い、「公のために身を犠牲にしましょう」という考えと理解している。
太平洋戦争後、左翼思想の台頭により否定的に捕えられるようになったが、潜在的に日本人はこの考えが好きだ。
最近は見かけないが、特に昭和50年代くらいまでは、味方のために特攻するという逸話がアニメ、一般番組を問わず、多かったではないか。
巴武蔵はゲッターチームを守るために恐竜帝国に特攻して死んだ。
神宮寺力はライディーンを守るために大魔獣に特攻して死んだ。
富野ですら神ファミリーを守るために神源五郎に、ホワイトベースを守るためにリュウ・ホセイに特攻させて死なせているのだ。
「公の精神」まで持ち出されると益々、トリトンは悪玉ということになる。

公の精神は尊い。僕はそれを否定しない。
だが、現実には「公のために私を捨てよ」という圧力は、常に多数派から少数派へ、強者から弱者へと向かうものだ。
多数派とは数を嵩にかかり、一部の人間に過剰な負担を強いるものだ。
「俺はあたしは多数派」と認識した時、人は少数派に対してどこまでも傲慢になる。

一人の命と多数の命。少数派の命と多数派の命。
だが、「多数派のために死ね」と言われた側に立たされた時、あなたは心底から「死ぬことが正しい」と思えるか。
「死ね」と言う側に全面の信頼と、彼らの自分への強い愛情を感じられたら、死ねるのかもしれない。
だが、基本的に傲慢である多数派のために、形だけの感謝とやらのために、死ねるだろうか。死んだ者への弔いの気持ちは、近しい者を除けば、しょせんはその場限りで終わる。
死んだ者から遠くなればなるほど、感謝の気持ちどころか、無関心を超えて、「馬鹿じゃないの?」と揶揄する者もいるかもしれない。
あなたは多数派のために、死ねるか?
死ねようはずもない。ましてや敵であるポセイドン族のために、死ねるものかよ。
1対10でも、1対1万でも、1対100億でも、「俺は死にたくない」と思った時、1は100億とも戦うだろう。
その時、1であっても「身を守る正義」は成り立ちえる。
数にものを言わせる多数派は悪となる。

ならば問う。ポセイドン族はやはり悪か?
たった一人のトリトン族さえ見過ごさずに殲滅しようとする彼ら。
自らの生存のためには子供の命を奪うことさえためらわぬ彼ら。
物語内では「悪漢ポセイドン族」と語られている。
そして、世界中にポセイドン族を憎む、嫌う存在が少なくないことも語られている。
その一方で、トリトン族と比べて、ポセイドン族の統治がどの点で劣り、どのように「悪かった」のかについては具体的に示されることはなかった。
子供番組だから、という小賢しい意見はやめよう。
彼らがトリトン族全滅を目指して、作戦への協力を海に生きる全ての部族に強制したからか。
大幹部とその軍団が横暴だったからか。
逆に、その時代を懐かしむほどに、トリトン族の統治は素晴らしかったのか。
だが、トリトン族はあからさまな暴力は振るわなかったかもしれないが、さりげない虐殺を微笑みながらやってのける種族でもあった。
恐らくは賎民の地位にあったポセイドン族(海中で呼吸する能力を持たない無能な輩!)をオリハルコンの生贄に供して、それを悪とも思わず、その命を尊いと思う観念も持たず、それどころか復讐されるとすら思わずに平気だった。
もっと言えば、生贄にしたポセイドン族のことを、命を奪ったという感覚すらなく、古墳に埋められた埴輪くらいにしか感じなかったのではないか。
いじめを行う側は、いじめをいじめとも思わず、その暴行行為のことすら、忘れてしまうものだ。
そんなトリトン族の統治とは、自分たちに都合のよい存在には微笑みを与えるが、そうではない存在には微笑みとともに死を与えたのではないかと、僕は思う。
だから、海の住人が基本的にトリトン族を支持するのは、彼らから「利益を得た存在しか生き残れていなかった」からかもしれないのだ。
トリトン族は、自らに反抗的な部族を、すべからく殺戮していたかもしれないのだ。

トリトンの両親は、トリトン族を再建せよと息子に命じた。その結果、どんな事態が起こるかなど、まるで考えていなかったことだろう。
両親が考えていたのは、ただ「トリトン族の利益」だけだ。トリトンを守ろうとすれば、イルカ族もアザラシ族もポセイドン族に抹殺されるかもしれない-そんなことは考えてもみない人種だったかもしれない。
否、考えたかもしれないが、「トリトン族の僕(しもべ)がトリトン族のために死ぬのは当たり前」としか感じなかったかもしれない。
それどころか「僕(しもべ)の死」を死とも思わず、部品の消耗程度に考えてのかもしれないではないか。
確かにポセイドン族はわずかに生き残ったトリトン族を抹殺しようとした。
しかし、過去に強大な勢力を誇ったトリトン族は、賎民ポセイドン族に一方的で身勝手な死を与えようとした。
トリトンと同じく、ポセイドン族は「死にたくない!!」と抗した。「生き延びる」ためにトリトン族を殲滅する道を選んだ。トリトン族が何千万人だろうが、何億人であろうが、自らとその係累を守るために殺した。滅ぼした。
立場は少年トリトンと変わらない。

最終回、ポセイドン族の海底都市で、幼子をかばいながら溺死した若い母親の姿が映し出されていた。
哀れを誘う姿だ。
と同時に、ポセイドン族自体は普通の人間と変わらぬ穏やかな生活、我々と同じ人生、同じ恋愛や結婚、出産をする人々であることを端的に示した場面でもある。
だが、あの哀れな母親が、オリハルコンの剣を持ったトリトン族の生き残りが、この海底都市を目指して次々と防衛網を突破し、迫っていることを知ったら、どうしていただろうか。
ポセイドン族の長老に向かって、きっと母親はこう叫んだことだろう。
「長よ、トリトン族の悪魔がもうそこまできています。
悪魔の力、オリハルコンが輝けば、私もこの子も助からないでしょう。
まだ生まれたばかりの子供です。まだいくばくも生きていないのです。
長よ、この子を哀れと思うなら、トリトン族の悪魔を殺してください。
たった一人のトリトン族のために、どうして私たちが、この子が、この子はまだ赤ん坊だというのに、どうして、どうして死ななければならないのですか!?
長よ!!
トリトン族に死を!」


僕は「1対10でも、1対1万でも、1対100億でも、「俺は死にたくない」と思った時、1は100億」とも戦うと言った。
通常ならば、1は圧倒的な力で抹殺される。
普通なら少数派また、あっさりと殺される。
だが、トリトンには、ポセイドン族には、数の論理を覆す武装が与えられた。
オリハルコンだ。この武器を使いこなすことができたから、圧倒的な数の劣勢を覆すことができたのだ。
それ、すなわち、正義は理念でもない、数ですらない、圧倒的な武装があるかどうかに帰結することになる。

結局、富野が提示したのは単に「善悪の逆転」だけではない。むしろ、人の行いに善も悪もない、人は常に善であると同時に悪なのだ。時と場所、立場が変われば、人の在り方など簡単にひっくり返ってしまう。それは人の行いが常に二面性を持っているからなのだ。
それすなわち、正に人の対立の本質を語ったものであり、その観点からみれば、富野は「虐げるものと虐げられるものの逆転劇」を幾つも描いた手塚治虫の正当な後継者と言えるかもしれない。
すなわち、手塚の鬼子こそが、勘当したはずの子供こそが、実は真の跡取りだった、そうとも言える。




「わけもわからず殺されてたまるか」
その心は「純粋な防衛本能」と結びつく。
放浪するトリトンはソロシップであり、オリハルコンの剣はイデを想起させる。
ひたすらオリハルコンを恐れ、トリトンもろとも抹殺しようとしたポセイドン族の心性は、イデの力を持った異星人に怯えるバッフ・クランそのものなのだ。
そして強大な力が解放された結果、両者とも滅びていく。

北朝鮮は弾道核ミサイルを手中にし、ISは人間爆弾とテロリズムを世界にばらまく。
強い力を持った者こそが正義だ。
生き残った側が正義だ。
しかし、そう言いながら、強い力は敵もろとも自らも滅ぼすのだ。
それが人の世の理だとすれば、僕は何に希望を見出せばいいのだろうか。

「海のトリトン」ドラマ篇LPの末尾、ルカーはTVにはなかった詞を吐く。
「さあ、今こそユートピアを」
思えば、ルカーはこの詞を吐くためだけに生きてきたのだ。支配者トリトン族の命を忠実に守り続け、自らの命を差し出す覚悟で、この時が来るのをずっと待っていたのだ。
ついにその時がきたのだ。
もしもトリトンが「ようし、ピピと一緒に新しいトリトン族の国を作るんだ! 行こう、ルカー!!」と返していれば、ルカーはもう思い残すこともなかっただろう。
だが、トリトンはその申し出を断るのだ。トリトン族の再興は、また新たな悲劇を産み出すだろうからと。
TVではこの件はない。無言のまま、トリトンはルカーに乗って水平線へと一人、消えていくのだ。
だが、このLPの締めくくりは物語の本質を見事についている(※7)。
北川国彦扮する語り部は淡々と伝えるのみだが、しかし、想像してみるとよい。
「トリトン族の再興はしない」-トリトンの返事を聞いた時、ルカーは耳を疑い、半狂乱になったことだろう。彼女には「トリトン族の再興を拒否する」という発想は皆無のはずだ。
「どうしたのですか、何があったというのですか、トリトン!?
これまで何のために、あれだけの苦しい戦いをくぐり抜けてきたのです。全て、トリトン族再興のためではありませんか。
あなたは王になるのです。いえ、ならなければいけないのです。ピピを妃にして、新しい海の支配者として、正しい治世を広めるのです。
トリトン、私はこの日のために生きてきたのです。ずっとあなたを見守り、この日が来るのを毎日、夢見てきたのです。
ああ、トリトン、私を驚かせないで。あなたは戦いの疲れで気が動転しているだけなんですよ。少し休めば、だいじょうぶ。
だから、トリトン、お願いだから私の願いをかなえてください。
お願いよ、トリトン!!」
最後には呪詛の詞に変わったかもしれない。
僕には、トリトンが断ったからと言って、ルカーがあっさり引き下がるとは思えないのだ。
愛情は憎しみに変わったかもしれないとすら、思う。

こうして紐解くと、この物語は「イデオン」を上回る絶望感に満ちているように感じられる。まだ、「夢の中でならありえるかもしれない、人の気持ちの融和」を幕引きとした「イデオン」の方が、幻としても救いがある。
だが、ここには救いはない、と僕は感じている。
トリトンとポセイドン族が理解し合うことはなかった。
理解し合うことの絶望的なまでの難しさ。富野はそれをニュータイプという人の在り方で克服の道を示そうとしたものの、「いや、それは精神への強姦に過ぎない」と口走ってしまい、結局はホモ・サピエンスとバッフ・クランをイデの力で滅ぼしてしまう。
あまつさえ、「理解し合うための在り方」としてのニュータイプは、便利な戦闘兵器に堕していく。
愚かなり、人よ。
滅ぶべし。



僕は、この稿を夢想で締めくくろうかと思っていた。
トリトンとピピが、ルカーたちととも、世界の片隅でひっそりと暮らし、子をなし、その子たちにも新たな血を外部からひっそりと引き入れて過ごし、今では還暦を迎えようとしている-そんな姿を思い描いていた。
しかし、ここまで書いてきて、そんな夢想はちゃんちゃらおかしくも思える。
そんなきれいごとの物語じゃあないんだ。もう、最後は惨劇だったんだよ!
僕の気持ちがそう言わんとしている。
しかし、ここはあえて絶望を抑えよう。
富野自身は、世界を肯定しようとしている。
あまりな偏屈でありながら、彼に敬意を持たずにはいられないのは、「より善くあろう」と思い続ける背中が見えるからなのだろう。
世界は悲しみで溢れている。
君は、悲しみを笑顔に変えることができるか?


悲しい文章になってしまった。次回は鈴木の音楽で、少し魂を癒してみることにする。

※1)この点については、富野も押井守と変わらない。しまいには脚本家を「説得」する作業も無駄と感じて、自分で脚本を書くようになる。
アニメに限らず、脚本を自分で書かないと納得できない監督が日本には多いのではないか? 分業体制が確立し、各職務の独立性が強固に保たれているハリウッドではそうはいかない。
※2)富野は喧嘩別れしたと言ってるが、松岡とはその後も「侍ジャイアンツ」(東京ムービー制作)で(単発ではあるが)一緒に仕事をしなければならなかった。それが仕事というものでもあったりする。
※3)アニメックで「SFアニメとは何か?」昭和56年発行第20号の辻の寄稿文に、こうした旨の記述があったと記憶している。強く印象に残っている。少数派に対する多数派の蔑視は今の時代にいたるも腹立たしい。
※4)ただし、仮面ライダー作品に書いた松岡の脚本は、内容が行き当たりばったりすぎるとお笑いにされている。もっとも、彼が参加した頃の東映特撮は、ちょうど人気も予算も下降線を辿っていた頃だった。当時を知る愛好家たちの間ですら、「世界征服をたくらむはずの悪の組織がどーして幼稚園バスばかり狙うのか!?」と笑い話のネタになるような、業界自体がどこかやけくそでおかしくなっていた時代なので、彼個人の責任とは言い難かったりする。
※5)僕は、富野という語り部が「本当に自分の語りたいことを語れているのだろうか」と疑問に思うことがある。
彼は一気呵成に素晴らしい物語を聞かせてくれることもある。しかし、「ザブングル」以降は1年間(あるいは半年間)の放送期間、お話を維持することに引きずられて、本音を語るよりも先に、「物語の体裁を整えること」に翻弄されているように思えることがある。そして、気がつけば彼が目指したのとは別の方向に話に行き着いてしまったのではないかと感じることもあった。
魅力的な舞台、世界観を設定しておきながら、それらを語りつくすことなく、目先の戦いを大きく広げることばかりに囚われて、最終決戦とともにあれこれの「物語」もうやむやのうちにおしまいになってしまう。
「ザブングル」も「ダンバイン」もそうだったし、巷では評価の高い「キングゲイナー」もそうだ。
確かに魅力はあるのだ。だから、総論としては「よい作品だった」として語られる。
だが、もっともっと、うわあ、このお話すげえなあと思わせてくれる物語世界へ進む道もあったんじゃないの、という未練を僕に残すのだ。

富野の作劇法には一つの絶対的法則がある。物語の軸を「必ず」戦闘場面に置くのだ。実質24分程度の時間枠の作中で、人の動きも感情も、全て戦闘場面に集約するように配置されている。とにかく、戦闘場面をいれないと気が済まないというか、強迫観念に襲われているんじゃないかと思えるほどだ。
「もう昭和の時代じゃないんだから、無理して毎回、戦闘場面ださなくてもええやんか」と僕が感じても、物語では構わず「○○出ます!」「××行きます!」「□□発進するぞ!」と、ドンパチへと舞台が変わる。
敵味方の団体戦で盛り上げる、少年ジャンプ的な娯楽路線を目指すならいい。だが、彼が語りたいのは、もっと別の次元の世界だったはずだ。
この「戦闘を軸にする」という演出の在り方自体が、作劇でも演出でも足枷にならないはずがない。戦闘という状況を語らなければならないという条件そのものが、否が応にも筋書を画一化するのではないか?
しかもTVアニメともなれば時間の尺が厳密に決まっているから、戦闘を描こうとすればするほど、戦闘に直接、関わらないことを伝える余地が奪われていく。
富野ほどの演出家であれば、そんなことは自明のはずだ。
どうして、「レコンギスタ」の時代でさえ、すぐに戦闘場面にいっちゃうのか?

「資金を集めて、優秀な製作陣を揃えて、じっくりと映画を作るという立場にたてなかった悔しさ、ロボットアニメが主戦場であるがために人間を、物語を描くことに力点をおけなかった腹立たしさ、こ、この監督の哀しみを、誰がわかってくれるか! だから、わしのこの怒りの全てをロボット物にぶつけさせてもらう!!」

ということなのだろうか。依怙地になっているとも思えるし、「ここまできたのなら、このやり方で語りつくしてみたい」という意地とも思える。
※6)物語の終盤で大幹部たちの出自が明らかにされる逸話がある。実はこの場面、何度か繰り返して見直さないとかなり大事な情報が伝わらないのだ。その大事な場面を、富野はさらっと流してしまう。何がどうかというのは、実際に観てみられるとよい。ビデオで繰り返し見直すという環境がほぼ皆無の昭和47年に、そんな演出をしてしまう富野、恐るべし。
※7)このLPの脚本は脚本主筆の松岡が書いたとされる。この幕引きの台詞をみる限り、彼は富野の求めた本質を的確につかんでいたと思えるのだ。だから、「子供向け」という束縛を排除していいのだと決めた時、松岡は富野の善き理解者になれたのではないのか。


最後に、最近出た対談集で、押井守はニュータイプとは単なる物語の味付けでしかなく、大した意味はない旨の発言をしていた。
その通りでもあるが、その通りでもない。初代ガンダム放送時にはやたら大袈裟に語られていた面があり、「ニュータイプをわからなければガンダムはわからない」「宗教論」のような捉え方もされていた。
そういう見方をしても無意味であることは僕も賛成だ。
だが、「人はわかりあえるのか」という命題は、常に富野の中心にある。
わかりあえているようで、実は全然、違うことを考えている。
でも、わかりあえていないようでも、どこかつながることもできる。
それが人間なのだ。
その点を踏まえてみれば、「ニュータイプ」は単なるお話の落としどころではすまされない、「富野の見た夢」なのだ。
なんて悲しい切実な夢。
そこを無視して語れるのは、押井が「人とわかりあう」ことに意義を見出していないからだ。
「自分が生き続けられれば、それでいい」
だから、押井は自分に必要な理解しかいらないし、求めもしない。
そこまで思い込めれば、ある意味、楽な生き方だ。
僕にはできない。
したくても、できない。


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