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画面の向こう、風を感じ、空気を吸う 「Gのレコンギスタ」



件の映画を観てきた。監督から「オヤジ世代は観るな」と言われたが、そうもいかない。
今、僕の心は「悔いのないように富野作品を観る」気持ちで固まっている。

手短に行こう。
何かしらん、良かった。
それが、率直な感想。
まだ5部作の1作目ということもあるが、格別な盛り上がりが用意されているわけではなく、何となく観ているうちに、どんどん話が進んでいき、あっという間に終わっていた。
「う~ん、微妙な感想になるかも」と思っていたのだが、見終わった後になって、じわじわと「・・・いや、良かった、けっこう良かったよ!」という気持ちに変わっていた。
いきなり「すっげえ映画だ!!」という印象ではないのだが、静かに気持ちに染み込んでくる。
そして、また大画面で観たくなる。
そんな映画だった。

さあ、ここからは褒めまくるぞ。
上には「微妙」なんて書いたが、実は映画が始まり、主題歌の映像が流れ始めた途端、僕はぞくっとしてしまった。映画を観て、体が無意識に感激してぞくっとしたのは、もしかすると初めてかもしれない。
「ブレードランナー」でも「凄い!」とは感じたが、この生理的な感覚まではいかなかった。
TVで観た時も「素敵だなあ」と感じていたのだが、映画館の大画面で観る主題歌映像は、吸い込まれるように美しく、これだけでも観にきた甲斐があったと思った。
このぞくぞく感はその後も時々、僕を楽しませてくれた。そして
「あれ? 何か気持ちいい」
そんな気分になってきた。
画面構成が素晴らしくて、画面の大きさ以上に世界が広がって感じられるのだが、それだけではない。
率直な感覚として、テーマパークに迷い込んだような気分になるのだ。
テーマパークが醸し出す、「別世界の空気感」とでも言おうか、物語の中に立って、その世界の空気を吸っているような感覚なのだ。
そう、僕はキャピタル・テリトリーの夕暮れの風を感じ、その清涼な空気を吸っているように感じ「させられた」のだ。
この時点で、富野麾下の製作陣に、僕は完敗していた。
後で冊子を読んで、なるほどと思った。まさに富野監督の思うつぼだったのだ。
さりげない施しが、映像を息づかせ、臨場感を高めているのだ。
お世辞でも何でもなく、「臨場感の自然さ」に限れば、様々な工夫を凝らし、丁寧に映像を仕上げて別世界の宇宙を描き出した、「スター・ウォーズ」を上回っていたと思う。
もっと平たく言えば、旅行先でいつもと違う空気を吸った時に感じる、あの新鮮さを自然に感じることができる映画だということだ。
単にかっこいい画面を作るだけじゃダメなんだ、そんなの演出じゃないんだ、画面の中に「別世界」を作るくらいしてこその演出なんだ。
富野監督の示したかったことが、素直に感じられた。

次に、登場する人々が、どこか記憶に残るのだ。一人一人が記号化した造形ではなくて、きちんと描き分けられていて、そして、「ああ、この人はこういう人なんだ」と感じさせてくれる(それって、「F91」も同じだった)。
これはもちろん、監督の「演技指導」の賜物なのは当然だし、やはり役者さん(人物造形)がいいんだ。
彼らのさりげない仕種(宮崎駿のそれとはもちろん違うのだが)が、何となく気持ちに残ってくる。富野監督が称賛した小津安二郎監督みたいに、「派手じゃないんだけど、惹きつけらる」動きなんだ。
だから、後からじわじわくるんだ。

あと、メカの造形も好きなんだ。どこか、玩具っぽい、丸みのある線で構成されている。その柔らかさが好きだ。メガファウナの虹色の帆は、TV版の時から、素敵に感じていた。

物語はまだ始まったばかりだし、2月の第2部を楽しみにすると言っておこう。

この映画は、13.3インチどころか、40インチでも不十分で、やはり一度は大画面で観ておきたい。まだ観てない方は、ぜひどうぞ。

映画冊子は税込み2200円と高いが、中途半端な物語紹介はなく、映画を理解するために参考になる談話が多数収録されている上に、上質紙で原画が再現されていて、画集としてもよいできだった。買って良かったと思った。

さて、3回目の「富野由悠季の世界」詣でに行こうかな。

「富野由悠季の世界展」再び

名台詞の群れ

巡礼は続く。
4週間ぶりに「富野由悠季の世界展」を訪れてきた。
今回は開館時刻に併せての観覧とした。時間は2時間半と決めていた。

兵庫県立美術館に到着して、入館券を買って、「富野由悠季の世界」へ出発だ。
入り口の演出が素晴らしく、彼我の世界に誘われる心地にさせてくれる。
さあ、幸せな時間が始まる。

朝一番ということもあってか、人出はほどほどだった。でも、その分、前回よりもゆっくり鑑賞することができた。
それでも展示された企画書の量は膨大で、仕事を返上して日参しない限り、とてもすべて読みつくせるものではない。

企画書にも一部、目を通すことができたが、「ライディーン」くらいの頃から、監督の文章にはなかなかに独特の言い回しが既にみられ、読み通すのは骨だった。
企画書は図録にも収録されているが、老眼の目には拡大鏡がないと歯が立たない。
だから、めげずに少しでも現物に立ち向かっていく。すると、やはり新しい発見がある。
「ライディーン」の段階で、既に超エネルギーとロボットの融合、そして戦いが終われば、ライディーンはそのエネルギーとともに消滅し、ひびき洸もライディーンから解放されるだろうとの件をみて、「ありゃりゃ、イデオンの片鱗がこんなところに」と気づかされ、前回でたまたまイデオンとライディーンを関連付けてみたが、実際にイデオンはライディーンの発想を発展させたものなのかもしれないと思えたのだった。

しかし、改めて子供の頃の絵から、現在の絵コンテにいたるまでの流れをみていくと、「アニメの絵は描けないって自分で言ってるけど、この人は画の感覚が半端ない」と思い知らされる。
多数のイメージボード(原案図)が展示されているが、その発想力が凄い。
確かに万人受けする「画」にするには、より人好きのする画家、絵師に清書してもらった方がよいのだろうが、構成力が素晴らしい。ガンドロワの上でイデオンが咆哮する劇場版ポスターの画面構成も富野監督によるものだと、今更ながらに知ったが、発光するイデオンを中心に、襲い来る重機動メカの部隊、そして遠くに下部を失ったバイラル・ジンが望める。
そこから噴き出す「ワクワク感」は最高なのだ。
エルメスの三面図など、玄人はだし、である。子供の頃から、戦闘機や宇宙船を描きまくっていた人ならではだ。
40年も経っていうのもなんだが、ジオングの足を「飾り物じゃい、いらんわ!!」と無くしてしまう発想の凄さも、改めて恐れ入ってしまう。

初回よりも落ち着いて展示を見ていると、メカの造形案に書き込まれた富野監督の指摘が恐ろしい。「プラモデルにするにはこれでは不十分」といった修正はもとより、相当に手厳しい修正指示もあったりする。宇宙服についても、実際にはありえない意匠にするとしても、徹底的に考えた末の嘘をつけという趣意の指示を出している。
修正案には必ず、なぜダメなのかが明快に記載されている。
曲者揃いの業界で、決して担当者に丸投げにせず、自分の意見を受け入れさせていく知識と論理、そして強い意志がみなぎっている。

ただ、ちょっとおもしろいなと思ったのは、富野監督も造形担当者も、既にZガンダムの頃には「プラモデルを相当に意識して造形」を心がけているのだが、初代ガンダムの頃は全然違っていたらしい。
余談になるが、バンダイ関係者の松本悟はその著作で、「ヤマトの西崎氏と違い、初代ガンダムの製作者はプラモデル造りを全く意識しておらず、実にいい加減だった」という趣旨の、手厳しい意見を残しているのだ。
また、「ザブングル」から「エルガイム」のプラモデル化を松本が担当したとき、度々、意匠を巡って(商品化が可能かどうかの観点から)意見の対立が続いたという。
松本によれば、西崎氏は、悪名高かったが、やはり製品にたいする審議の目は厳しく、プラモデルについてもあれこれと指示を出して品質を高めるようにしていたらしい。
他方、初代ガンダムの頃は、監督をはじめ、サンライズの面々は立体化についてほとんど考えておられず、バンダイ側が質問してもいい加減な答えしか返ってこなかったと、松本は指摘している(常に立体化を前提に造形を行った大河原邦男は別だろう)。

この著書は2014年に上梓されている。僕の勝手な憶測だが、それ以前、富野監督が機会あるごとに「ロボット戦艦なんか出させやがって」と、Vガンダムの頃のバンダイとの確執を喧伝していたので、その趣意返しかいなと思えてくる。
「監督さん、あんた、えらいうちら(バンダイ)のこと、ごうつくばりだの居丈高やのとくさしはるけど、ガンプラがものになるように苦労したのはうちらでっせ!!」
という声が、読んでいて聞こえてくるようだった。
でも、天才と組織は、えてして対立せざるをえないのかもしれない。

永井豪とダイナミックプロ対東映動画
中村修二対日亜化学

それぞれ言い分はあるのだ。



話を戻そう。
時間はあっという間に過ぎていく。「ZZガンダム」のあたりまで来ると、一山超えた感があるのだが、実はまだまだ先が続いているのだ。2度目の観覧とはいえ、全く気が抜けない。
でも、だからこそ、ありがたやありがたやと、僕は更に「富野由悠季の世界」の奥へ奥へと進んでいくのだ。

資料の大海原を歩みながら、時々、ビデオも眺めてみる。ビデオの編集も工夫を凝らしているので飽きがこない。
ただ、「闇夜の時代劇」を、ちょうど子供くらいが見やすい配置で鑑賞できるようにしていたのだが・・・・それって、どうよ、とも思ったりしたりした。

もう少しじっくりコンテもみたいなあと思う一方、僕は「コンテが読めなくてごめんなさい」とすごすごするばかりである。まあ、素人が知ったかぶりするよりは許してもらえるだろう。
とはいえ、「逆襲のシャア」の原寸大のコンテが閲覧できるようになっていて、これが眺めているだけでも楽しく、これ、市販してくれないものだろうか。
絵コンテの市販化と言えば、宮崎駿や新海誠が著名だろうが、富野監督の絵コンテだって実に素晴らしいんだから。確かに初代ガンダム(TV)の頃のコンテは相当に線を省略していたが、「逆襲のシャア」のコンテの凄さは、芸術品と呼んでも過言ではないのである。

ところで、富野監督の人物画はいつもどこか悲しそうな眼をしている。
その眼に、僕はどこともなく、惹きつけられる。

いきなり話が変わるが、「ターンAガンダム」の「奇跡の6分間」を僕はまだ観ていないので、この区画は少し足早に通り過ぎることにしている。
初めて観るときの新鮮さが減るのが嫌だからだ。
基本的に僕は映画は予告編以外、前情報は仕入れない。
そんなわけで、次に詣でるまでに「ターンAガンダム」を全話みてしまいたいなと思い始めているのだが、なかなか時間がない。

「Gのレコンギスタ」のキャピタルタワーの設定画を見ていて、思わず「楽園の泉」のアーサー・C・クラークを連想した。このSF草創期の巨人も、60代の頃にこの作品で宇宙エレベーターを取り上げていたっけ。
監督は70歳を超えて、この題材にも取り組んでいて、すげえよなあ。



「富野由悠季の世界」展、できれば、せめてあと2回くらいは詣でたい。
上映会も催され、僕にとっては聖典のような映画をまた大画面でみることができた。
子供の頃から慣れ親しんできた、様々な映像や資料が、大切に扱われ、大勢の人に認知されていた。
少なくともこの展覧会にまつわる場所と時間にいる間、僕は浮世の憂さを少し忘れて、この世界に浸れることができた。
それは度が過ぎれば、内にこもりすぎることになり、監督の嫌う「病気」になってしまうのだが、ただ、今の僕はただひたすら、この世界に癒されたい。
この何年間かで大層、疲弊してしまったものだから。
「言われなくても生きてやる!!」と言い返せるだけの気力が、今は、ないから。

でも、「富野由悠季の世界」に詣でるとご利益がちゃんとあって、少し気持ちが穏やかになれる。
最近は神社仏閣を詣でても、まるで気分が晴れないのだが、ここにくると、少しく静かな心持になれる。
もう、こんな機会、こんな癒しの空間に包まれる時間は二度とないだろう。
でも、手の届く場所に、「富野由悠季の世界」が開かれている幸せは、あとわずか、ほんの1か月少ししかないのである。展覧会が終わった後は、まさに祭の後のような寂しさに襲われることだろう。
そこにあったはずの世界は、幻となって消えてしまい、もうどこを探しても見つからない。
・・・と、先を思うとまたぞろ気分が滅入りかけるのだが、恐ろしいことに監督はこんな檄を飛ばしてくる。

「どうせなら、6館全部、制覇しろ!!」

「僕自身も衝撃を受けました」─富野由悠季の世界

なんちゅー78歳やねん。

兵庫を含めて残り5か所の美術館の巡回が終わるまで、まだ1年近くはあるが、さて、他府県まで足を延ばせるものやら。
でも、上のHPの記事のように、この展覧会は場所を変えるごとに「進化する」可能性がある。既に兵庫と福岡では、展示の構成がある程度、変わったらしい。
次の会場は島根県益田市に居在する島根県立石見美術館なのだが、兵庫よりも更に進化しているかもしれない。

島根・・・いこうか? 
ところが電車なら、大阪からでも片道5-6時間かかる。時間的距離は東京よりも遠い。
会場近在の萩・石見空港は、あるまいことか羽田便だけしかない。羽田からなら90分でいける。
さりげなく、悔しい。

大阪から行くとなると、さすがに泊りがけに近くなる。昔のUWF信者たちよろしく、「密航」気分で弾丸日帰りという方法もあるが、これは50の坂を超えた体にはちと、こたえるだろう。

でも、益田市って、県庁所在地の松江市から140㎞も離れているんだよね。そして、その松江市と益田市の間に、「海のトリトン」主題歌を作詞した林春生さんの出身地の大田市五十猛(いさたけ)があるんだよね。世界遺産で有名な石見銀山も大田市だし(関係ないけど)

島根と「富野由悠季の世界」



因縁だなあ。
そして、ほとんど山口との県境の益田市にあるのが、グラントワって(トワサンガかよと突っ込みたくなるような)素敵な名前の芸術施設で、その中の一つが石見美術館って・・・・何、この「地方だけど文化は豊かだよ」オーラ⁉
展覧会とは関係なくても、行ってみたくなるよ。
でも、家族になんといえばよいやら・・・・。

6美術館の巡回が終わった後、「富野由悠季の世界」展が関東に凱旋するという予定は現状では皆無のようだ。なぜなら、地方の6美術館の学芸員の強い関係性の上に実現した企画だから、急に関東の美術館が手を挙げても、監督はウンと言わないだろうから。
でも、もしも「何としてでも観たい!」という関東の方がおられたら、理想的には2泊3日の泊りがけでいかれるとよい。無理がきく方なら、平日がよろしかろう。
(打ち上げは静岡県立美術館で2020年の11月8日だ。きっと、関東からの密航者で大変な混雑になるだろう)

そこまでするか⁉と言うかもしれない。
でも、そこまでしてみる価値が、少なくとも僕には、この空間にはあるんだよ。

ただ、ちょうどインフルエンザが流行りそうな時期で、島根も寒いと思う。期間中、監督も現地に行かれる機会が増えるので、関係者の方々にはくれぐれも監督の健康にご配慮いただきたい。2020年は島根、富山、青森、静岡と飛び回ることになるので、本当に体調を崩されないようにと、願うのである。


「関連商品も買わんとなあ」と、いわゆるお布施気分で売店をうろついた。
ダメな僕は、「カントク、笑って」団扇を買うことが今回もできなかった。
来年の夏に備えて、次こそは買おう。
とはいえ、元々、あまり小物を使わない人間なので、けっこう悩んでしまった。
復刻されたばかりのガンダムLPも並べられているじゃないか、いっそ大人買いするか、いやいや中古で持ってるしなあ。お菓子・・・お菓子いいかもしれない。食べた後は小物入れにできるし、とりあえず「甘口」の方を買っておこう。でも、辛口も捨てがたいな。それにしても兵庫限定の「ダンテ ドローメよ」Tシャツと言われても・・・どこで着ればいいのか途方に暮れてしまうではないか。もう本当に「富野由悠季の世界」!って小物はないのか?・・・ボールペンかな? でも、もう少しかっこよい似顔絵にできんかったんかい!・・・でも、これ買おう。そうだガンプラどうする、ガンプラ。F91の展覧会限定版。ガンプラなんて、高校生時代から30年以上作ってないぞ、俺、プラモ組み立てんのドヘタだし。でも、「富野由悠季の世界」展の標が入っていて、もう本当に「思い出になるよ!」と語り掛けてくるしなあ・・・でも、思い出って諸刃の刃だしなあ・・・・1個だけ、買おう。組み立てるかどうかわかんないけど、買おう。僕が死んだら、家族に勝手に処分してもらおう。葬式代の多少の足しにはなっているかもしれない。いや、そういうの監督いやがるかな。やっぱ、死ぬまでに組み立てたろか。

あっという間の2時間半だった。午後は予定があったので、ダイターンに見送られて、帰路についた。

ああ、次はいつ、詣でようか。この幸せが味わえる時が、僕には至極、貴重なのだ。

2019年11月1日 109シネマズHAT神戸 イデオン上映会 富野監督舞台挨拶

2019年11月1日 109シネマズHAT神戸 イデオン上映会 富野監督舞台挨拶

富野由悠季という人と、同時代に生きることができた僕は幸いである
それだけ心豊かになれたから

2019年11月1日。年休を取ってでも仕事を切り上げて、109シネマズHAT神戸に向かった。
この日は劇場版イデオン「接触篇」「発動篇」の上映があり、18時から富野監督が舞台挨拶をすることになっている。
僕は一度も、生で富野監督の話を聴いたことがない。たぶん、間違いなくこれが最初で最後の機会だ。舞台挨拶の予定を知って、是が非でも観に行こうと思った。

ところが、うかとして、気がついたらもうオンライン販売が始まっていて、よい席は軒並み売り切れになっていた。危うく取り逃すところだったが、何とか後方の席を抑えることができた。
できれば、前の席でよく表情を拝みたかった。
己の浅はかさに、しばらく怒気が収まらなかった。
50を過ぎた男のすることではないとわかっていても、悔しかった。

何とか気を取り直して、当日を迎えた。
会場は満席で、皆、会場入り口のポスターや、富野監督のために用意された椅子をカメラに収めたりしていた。
いよいよ舞台挨拶の時間になり、監督は兵庫県立美術館の学芸員の方と一緒に会場に現れた。
展覧会で販売された「カントク、笑って」団扇が多数、会場内に翻っているのが見えた。

富野監督応援うちわ

「富野由悠季の世界展」の紹介冊子によると、この展覧会は福岡市美術館、兵庫県立美術館、島根県立岩見美術館、青森県立美術館、富山県美術館、静岡県立美術館の(学芸員の方々の)強い結びつきによって企画され、実現したものだという。
つまり、中央(関東)から外れた地方都市の人々が、力を結集して開催した企画なのである。
言い換えれば、中央に対する地方の意地と挑戦の成果でもあるのだ。
地球連邦に挑む、コロニー国家のようではないか。

時々、「なんで東京でやらないんだ」という嘆きの書き込みを目にすることがある。
なるほど、富野支持者であれば、そうであろう。日本最大の人口密集地、関東でやればもっと儲かるはずなのに。観客も多いだろうに。
でも、「なんでうちの近くでやらないんだ!」という悔しさは、「ヤマト」以来40年以上、地方の人間が臍を噛みながら感じてきたことである。
嘆くならば、最も恵まれた立地にありながら、これまでこうした企画を実現させなかった、中央の美術館の無理解をこそ、嘆くべきであろう。
もちろん、同種の企画を思い夢見た学芸員も関東にもおられたことであろうが、組織としてそれを認めなかったということだ。何しろ、関東だから、「他にいくらでも題材はあるんだ」「ガンダムの監督⁉ それよりも宮崎駿か、印象派の展覧会でもした方が儲かるわ!!」という意識だったのではないか。
ああ、何ともったいないことをなすったものだ、関東人(かんとうびと)よ。
今回の地方都市の6美術館の結束は、見事、関東に一矢報いたと言えるだろう。

兵庫県立美術館で、この展覧会の中心的役割を果たした方は小林公さんとおっしゃられ、この展覧会中にシネマズHAT神戸では「ダイターン3」などのセレクト上映会も行われたが、その際には会場舞台で作品解説もされたようだ(僕はさすがに観に行っていないのだが)。
小林さんは、あの「超・大河原邦男展」を企画した「前科」までお持ちである。
ただし、11月1日は小林氏に代わって、「イデオンの直撃世代だった」上司にあたる岡本弘毅さんが、司会進行をなされていた。

学芸員の方々と富野監督の集合写真

「富野由悠季の世界」展 学芸員インタビュー1=ガンダム愛 巨匠動かす 綿密な自筆メモ「必見」 福岡市美術館の学芸係長・山口洋三さん

「富野由悠季の世界」展 学芸員インタビュー2=兵庫県立美術館・小林公さん、富山県水墨美術館・若松基さん

「富野由悠季の世界」展 学芸員インタビュー3=島根県立石見美術館・川西由里さん、静岡県立美術館・村上敬さん

「富野由悠季の世界」展 学芸員インタビュー最終回=青森県立美術館・工藤健志さん、兵庫県立美術館・岡本弘毅さん

100年後も語られる重要なデザイン、担当学芸員が語る「超・大河原邦男展」のここが凄い

後方の座席だったし、元々視力もよくないので、監督の表情はほとんどわからない。でも、監督は以前から僕が聴きなれた声で挨拶され、司会者の質問に明確に答えていかれた。
僕は、この人の声が好きだ。明瞭で濁りがなく、聞き取りやすい。時々、言葉に詰まるところもあられ、健康を心配してしまうのだが、考えてみればもうすぐ78歳(1941年11月5日生)である。周囲の78歳に比べれば、驚異的な声の若さだと思う。

さて、肝心の「挨拶」だが、実際にお話を聞けて、個人的にはとても参考になったし、嬉しかった。
「まず、観客の年齢層をみています」と語って、会場を沸かせてから、挨拶は始まった。
「富野由悠季の世界展」は、老若男女問わず盛況だったが、さすがにこの上映会は若くても30代、ほとんどが40から60代だったろうと思う。
監督は、「自分を応援してきてくれてありがとう」という気持ちもあったろうが、挨拶の最後の内容につながっていくことなのだが、「次の世代につなぎたい」という気持ちがとても強かったことだろう。

今更ながらだが、「イデオン」がなぜ生まれ得たかについて、挨拶を聞いてようやく監督の言いたいことを理解できたように思う。
「ガンダム」の製作が終わった後、監督に「イデオン」の企画が持ち込まれたのだが、諸事情あったようで、それまでに二人ほどから監督(当時なら演出と呼ばれただろうが)就任を断られていたのだそうだ。
お鉢が回ってきてみれば、イデオンとソロシップの造形が既に決定していて、「これを使ってよろしく頼む」という体であったという。
もともと「異民族の争いをどのように描こうか」という構想があったわけではなく、「このロボットと宇宙船を使って話を創ってもらおうか、玩具が売れるように、な」ということだったのだ。
曲がりなりにも「ガンダム」で何某かの物語論を示しえたと思えた時期に、「こんな真っ赤っかなロボット」でどんな話を創れというのか。
それは、まるで自分の過去の業績が無視されたように思われたのかもしれない。
富野監督は根に持つし、執念深い性格なのだ。目にものみせんと思われたようだ。

そもそも、監督は恐らく直線よりも曲線の方が好きなのだ。
ガンダムは主役だから、大河原案でよかったが、準主役と言っていいザクは曲線が目立つ外形だ。
宮武一貴に依頼したダンバインも見事な曲線で描かれたし、(どこまで監督の意向が反映されたかは知らないが)シド・ミードのターンAも曲線が目に付く。キングゲイナーなど、これほど斬新な造形もないし、ジーセルフの丸いドングリ眼が僕は大好きである。
ところが、イデオンときたら、冷静に考えれば、まるで1960年代のロボットかよ、と言いたくなるような直線だらけで、頭部のアンテナも作画次第ではダサさの骨頂になりやしないかという代物だった(でも、スタジオ・ビーボォーの画力のお陰で、僕は今もかっこいいと思っている)。
この造形を見せられた時、「切れまして」(富野由悠季)「これを使って、らしい話にするならこのような物語にするしかないだろ」ということだったらしい。













よくよく振り返れば、この「こんなロボットで何をやれってんだ、というのが始まりですよ」という監督の談話は、あちこちで目にしていたのだが、僕はあんまり重視していなかった。
よくある監督の韜晦だろうと思っていた。
でも、最初から「こういう話にしてやろう」と構想があったのではなく、「何じゃこりゃ⁉」という造形が先ずありきで、それを使いながら、どうやって誇りを持てる仕事に仕上げるかを考えた末に、「結果的に『皆殺しの富野』という汚名を切るようなことになったわけ」なのだった。

でも、「スポンサーの存在という制約の中で、あれこれ考えたから、逆にイデオンができたんです」という言葉は、「制約(逆境)をいかに克服しようとするかによって、人は何かを生み出せる」という箴言に置き換えて理解することもできるのだ。

恐るべきは、様々な制約を前にして、監督は過去と現在を見事に呑み込んだことだった。
過去とは、スーパーロボットの遺伝子であり、現在とは、リアリティ(現実性)の重視である。
先ず、監督はイデオンとソロシップを捕まえて、「これは第六文明人の遺跡です!」という発想の飛躍をしてみせた。まるで朝日新聞に滅殺されたライディーンのオカルト要素を蘇らせたかのように、だ。
だが、ライディーンではオカルト(神秘性)重視だったが、イデオンでは「遺跡」として「考古学的に解析する」という印象を観る者に与えるようにしていた。
更には、「バッフ族におけるイデ伝説」という民俗学的な関係性を取り込んでいる。
ライディーンのムー大陸伝説が、日本人の日常とはかけ離れていたのとは異なり、バッフ族の「イデ伝説」は彼らの心性、彼らの日常性につながっている。「イデの遺跡」の発掘は、彼らにとっては決してオカルトの類ではないという雰囲気を作り出していた。
こうした仕掛けが、現代的なのである。
そうした上で、更にイデオンという「ロボット」をどう扱って見せたかというと、続いて監督は「これは戦艦なのだ」と宣言し、必殺技らしきものは封印して、ミサイルとグレンキャノンを各砲座が打ちまくるという絵面を示したのだ。そして、プラモデルを担当したアオシマにも、戦艦らしい細部を再現できないかと無理を言って見せたらしい(ホビー・ジャパンのアオシマ特集号)。



見事である。
100mを超す巨大ロボットが、ゴッドアローもゴッドボイスもムーンアタックもサンアタックも使わず、ひたすら現実路線の艦砲射撃で戦うのである。
広告主としては、「最初から『イデオンアロー!!』『イデオンギャラクティカクラッシュ!!』みたいな必殺技で、悪のバッフ帝国を打ち砕く話にしてくれりゃいいのにさ!」と言いたいところだろうが、だったら富野監督に任せんなよな、と僕などは思ってしまう。
とにかく、普通なら怪獣ロボットと戦っているはずのイデオンは、こうして現実性を与えられていったのだ。

ところがだ。
最初はあたかも現実路線を歩いているように見せておきながら、「やっぱ、この遺跡、解析できません」「いやいや、人の意識の集合体だわ!」「ええ、俺たちイデに取り込まれて、もう逃げ場がねえっての⁉」という脱科学の世界に突入し、しまいにはイデオンソードだの、イデオンガンだの2大スーパー兵器が登場し始めて、「これって超弩級のスーパーロボットじゃねえの⁉」「え・・・・惑星ぶった切っちまったよ!!」と、観るものを呆気に取らせるのである。
「真っ赤っかな巨大ロボットを相手にするための」苦肉の策の末、と言われても、僕としては「監督、凄すぎ。恐れ入りました」と思う他ないではないか。
「作家性があったからイデオンができたのではなく、(当時の何とか形にしなくちゃという)気分でできた」と言われても、「いや、ロボットのデザインが気に入らんからって、ここまで壮大なお話に仕上げてしまった、それこそが作家性ですわ」と僭越ながら、申し上げずにはいられない。

もう一つ、「なるほど!」と響いた言葉は、それだけスポンサーに配慮しながら苦心して物語を作って、しまいには打ち切りになった時、「ガンダムの打ち切りとは違う形での打ち切り感があったおかげで、(映画を)作る機会ができた、『スポンサー抜け』をするところで作れたので、映画版として発動篇を紹介できるようになった」という件である。
この「スポンサー抜け」という言葉に、僕の目から鱗がドゥバババババッと噴き出した。
本人としては広告主に配慮しながらも、「でも、俺に話を持ってきたからには、俺の自我も満たさせてもらうぜ」と物語を構築し、打ち切りになってしまった時点で、「なら、もう広告主に配慮しなくてもいいよね(スポンサー抜け)、皆殺しで行くぜ」と持って行ったのである。
打ち切りの代わりに自由を得たという発想の転換。
驚くべき策士、戦略家ぶりである。
こうなると、己の自我と、広告主との取引との鬩ぎあいである。
もう、「Zガンダム」の勢力争い並みに、関係者の思惑が混沌と絡み合い、変化し、巨大な流れへと向かっていく様が想起されるのだ。

嬉しかったのは、イデオンの音楽について、「ゲーム音楽以上にすぎやま節が響いている」と語られたことである。すぎやまこういちの音楽が、イデオンの世界、特に発動篇にどれだけの深みを与えたか、観客の前で監督は改めて評価してくれたのである。
これはイデオンとともにすぎやまこういちの音楽を愛している、会場に集った人々の想いを承認する行為だったのだと思う。
世間的にみれば、すぎやまこういちは「ドラゴンクエスト」の作曲家として認知されており、これは彼の社会的地位の向上と確立には欠かせないことは当然のことだ。だが、「発動篇」で展開された、映像とともに「イデオンの物語世界そのものを規定し、確立する」だけの存在感と、聴く者を魅了してやまない音楽の素晴らしさが語られない現実を、我々は忸怩たる思いで見つめてきた。
無論、監督自身が作曲家と打ち合わせを繰り返し、自分の映画のための音楽を要請したのだから、承認して当たり前と言えばそうなのだが、それでも、改めて監督の言葉で直接、その音楽の大切さを伝えてもらえると、僕としては大変に救われる想いなのである。

「根に持つ人だな~」と、やはりというか、改めて思ったのは、イデオン放映当時の「ファン、と言っておきますが」という人間たちによるイデオンに対する「批判」について、怒りを口にされたことだった。
「本格的なスペースオペラが始まるかと思ったら、何だよ、これ」というようなことを当時、さんざん言っていた人間が、後には逆にほめそやすようになり、はたまた「(批判を)言ったことも忘れてんじゃねえか」というふるまいに、未だ許せんよという気持ちがあふれる様は、なかなかに正直で共感した。
そういえば、今では「人気作」扱いの「Zガンダム」だが、放映当時は相当に文句を言われた。やれわかりにくい、シャアは何わけのわからん台詞を言ってんだ、そもそも楽しくねえんだよ、何だよ、修正って、学生運動かよ・・・・という意見がやたらと多かった。
だから、月刊OUTなどは「Zガンダム」終了後、「後番組はこんな内容だったらいいな♬」と半分しゃれだが、「機動戦士Oガンダム」というパロディ特集を組んだ。そこにはシャアやセイラの再登場や、ニュータイプが活躍するような内容になっていたと思う。それは初代ガンダムの続編に対して、観客が求めていた「理想的な」続編内容だったのだろう。
しかし、だ。本当にその通りにしていたら、たぶん、凡百な作品に堕しただろうが。

まさかのウィキペディア:機動戦士Oガンダム

だから、Zガンダムへの酷評とデオンの不人気を見せられた僕は、傲慢ながらも「アニメ好きといっても、富野由悠季という作家の伝えたいことよりも、普通のアニメが観たいだけなんだ」と思うようになった。
「客に観たいものを見せる」というのは、ある意味、当然のことだ。
でも、1980年代当時、アニメ制作者の「作家性」が重視されるようになっていた。あくまで黒子だった演出家や脚本家たちが脚光を浴びるようになり、彼らの個性や主義主張に注目が集まるようになっていた。
だから、富野由悠季についても、せめてアニメの世界では、彼の作家性というものを尊重し、その躍進の支援をしていくべき、という流れになったんだと、僕は勝手に思っていた。
だから、僕は「ガンダムの富野」ではなく、「富野のガンダム」なのだと言いたかったし、「富野のイデオン」「富野のZガンダム」なのだから、覚悟して付き合えよ、とも思っていた。
でも、世間はおろか、アニメ業界やアニメ愛好家ですら、「ガンダムの富野」というレッテルで監督を評価し、「ガンダムの富野だからガンダム作れ」と強制し、それでも気に入らないから、自前で「ガンダム」を作り始めて、今日に至るわけである。

単に「面白いものを見せてね」という一般的な視聴者の立場から、支援者・支持者の立場に一歩踏み込んだところに、アニメ愛好家はいるのだと思っていた。
でも、そんな奇特な意識の人は、極わずかだったということだ。

愚痴になった。でも、もう40年近く、ずっと、同じ想いを抱いている。

「面白い」作品を作るだけでは人気の寿命が短い。一歩先をいくと、富野監督のように評価が凄く遅れてしまう(いや、二三歩先を行ってしまっていたから、世界展の開催も20年くらい遅れたのだろう)。半歩先くらいが画期的ということなのだろう。

最後に、現在の世界を見渡して、社会の中枢にいる者たちへの失望と怒りを監督は語っていた。
「台風が何度もきて、大きな被害がでるくらい温暖化も進んでいる。でも、大人たちは目先の利益のことしか考えていない。国連でのグレタ・トゥーンベリの怒りの演説にもまともに向き合わない」

「Gのレコンギスタ」について、監督は以前から、「子供向けです」「大人はみなくていいです」と繰り返し、語っていた。それを聞いて、富野支持者でも「でも、子供が観るにはやっぱり難解ですよね、いつもの富野節だよね」という受け止め方だったと思うし、僕もそう思った。
口が悪いものは「もう年だから、自分が何言ってんのかわかんなくなってんじゃないか」とも言っただろう。
でも、「子供にみてほしい」というのは、監督の大人への底のない失望絶望からくるのだと思うようになった。
随筆「ターンAの癒し」でも、そここで監督は2000年前後の時代だったが、政治家への失望を記していた。「こんな政治家が、国を世間を動かしているのか」。
それから20年たっても状況は変わらない。教養も品格もない、公共の場で「言葉を選ぶ」という認識さえない、押しの強ささえあればいい、利害と権益が最優先・・・・そんな政治を受け入れてよしとする社会。
否、政権批判を「お上にたてつくアホ左翼」という狭い視野と言葉で攻撃する社会。
先のグレタ・トゥーンベリの演説についても、先ず大人たちが反省すべきところなのに、己のことは省みず、「怪しげな勢力に利用されている」という異常者扱いをする意見も堂々と公表されたりするのだ。
自分の過失を認めず、意見があわない存在を異常として排除しようとする者が、優位に立っている社会。
「状況はガンダムやイデオンを作っていた40年前よりも悪くなっているかもしれません」とも監督は語った。僕も、そう思う。
もう、今の世代には期待できない。だから、子供たちに託すしかない。
老境を迎えて思うことは、そういうことなのかもしれない。
 -よき力でイデは発動する
監督自身に、「イデ」が乗り移ったのかもしれない。

それでも、さすがに5歳6歳にわかるかっつうたら、僕でも無理だと思うんですが、監督。
でも―
いや、もしかしたら、7歳8歳くらいだったらわかるかもしれない。
それくらいの頃の僕が「トリトン」を観て、心揺さぶられたように。

挨拶を終えると監督は、ずっと被っていた帽子をとって、ぺこりと頭を下げて、お馴染みのつるつる頭を僕たちに見せてくれた。さすがは監督、憎い演出だ。

「観るな」と言われても、「Gのレコンギスタ」観にいきますんで、監督。
長生きしてくださいよ、お願いしますよ。
監督はあと10年は戦えますよ。
やけくそついでで「F91」の続編、やってくださいよ。

監督、お話が生で聴けて、とても嬉しかったです。ありがとうございました。


「F91」に惚れ直す


「逆襲のシャア」に引き続き、「機動戦士ガンダムF91」を観てきた。
気分はもう巡礼、である。
しかしながら、封切り当時は映画館に足を運ぶ時間がつくれず、何年もたってからようやくビデオで観劇したものだった。
僕のような愛好家が多かったせいだかどうか、あるいは「詰め込みすぎでわかり辛い」という評判もあってか、映画としての興行成績は惨憺たるものだったようだ。そのため、本来ならTVシリーズに引き継ぐという事業展開は中止となっている。
「F91」の続編が実現されないだけでなく、「Vガンダム」が制作され、その過程で富野はバンダイから派遣された面々と衝突し、やがて長い心の袋小路に迷い込んだということも、「あなた」ならよく知っておられよう。

僕個人の感想だが、改めて映画館でこの映画を観て、「つくづく口惜しい」と、思った。
そう僕に悔いさせるほど、映画館で観た「F91」は良い映画だった。
それが贔屓目というなら、「良い映画になれる可能性でいっぱい」だった。
僕はこの「映画」を惚れ直した。
僕にとって、「F91」は名画となった。

「富野由悠季、安彦良和、大河原邦男が再集結して、再びガンダムに挑む!」とかいう煽り文句が、封切り当時よく用いられていたと思う。そして、その才能の終結は、伊達ではなかった。
物語、演出、人とモビルスーツの造形、諸々がじんわりと素晴らしい。
各人の円熟の技が冴えている。
その僕の感想に他人が「ええ・・・?」と言おうが、お構いなしだ。
僕は心底、そう思ったのだから。

よく指摘されているのは、「本来TVシリーズとして展開すべき物語を、無理やり2時間程度の尺に詰め込んでしまったので、説明不足が過ぎてわかりづらい」というものだ。
でも、劇場版だからこその映像の完成度の高さ(今の版がかなり手直しされているのは知っているが)、つめこみすぎが故に逆に一切の無駄がない展開などを見ていると、下手にTVシリーズにして質のムラができるよりは、これでよかったかもしれない。いやいや、せめて劇場3部作にしてくれていたら、もう完ぺきだったのになあと夢想してしまうのだ。
シーブックとセシリーの親子の物語を軸に、たくさんの登場人物のそれぞれの物語を展開させつつ、シーブックの成長、出自に翻弄されるセシリーの苦悩と葛藤を描き、ひいては小型モビルスーツ登場の衝撃、F91の性能の秘密、更にロナ家の唱えるコスモ貴族主義が歴史にどのような役割を果たしたかなど、大局も含めて語っていけば、相当に「いける」作品になっただろう。
それでも、まだ「これはまだ始まりに過ぎない」のだが・・・。

もはやTVシリーズが幻となった今、本作は物語の全容を伝えるための必要最小限の要素を無駄なく「詰め込んでくれている」ので、逆にありがたいなどと、僕は思ってしまう。
「逆襲のシャア」のようなキレッキレの演出ではない。しかし次々と物語に現れる人々を、駆け足ではあっても勘所を抑え、一人一人に見せ場を作っていく監督の手腕は、評価されていないかもしれないが、僕的には素晴らしいのだ。
確かに一度、観たくらいでは頭がこんがらかりかねない。
それでも、根気よく観ていれば、画面に集うすべての人々から、彼らの気持ちの何某かが伝わってくる。そう、誰か一人、というわけではない。TVシリーズ1作分の人々が登場し、それぞれの想いを示していく。友人、民間人=難民、敵、味方の軍人・・・・。
確かに一人一人の事情を掘り下げる時間がない。でもその代わり、1場面、1仕種、1台詞に、富野監督はその人の人生を凝縮させている。
たった一言が、それに関わる人の人生、生き方を直観させてくれる。
例えば、仲間に「お前は生き急いでいるように見えるんだよ!」というシーブックの台詞。
劇中ではその台詞をわかりやすく説明してくれる場面はない。でも、きっとその人は、戦争が始まってから、そういう生き方をしているんだろうなと推測できるのだ。
―わかり辛いのは承知のこと、あとは自分の想像と経験で補ってみせてくれ
彼らを描く富野の視線は、実に温かい。

主人公にまつわる人々は、初代ガンダムとイデオンが融合したような構成だ。
戦火に巻き込まれた子供たちが、なし崩しに軍に利用される羽目になり、その中には幼い子供や赤ん坊までいる。本筋に関係がなくても、繰り返し、子供たちの姿が映し出される。
ここに彼らが登場するのって、意味があるの? この場面に赤ん坊が出てくる必然性はあるの?
そう思われるかもしれない。だが、戦争とは、そうした子供や赤ん坊の生活、生死まで巻き込む行為なのだ。
戦争はえてして英雄譚として描かれるが、同じ戦場には無力で、ただ武力に蹂躙されるだけの命が無数に横たわるものだ。
「赤ん坊をわざわざ、それも無理やりのように登場させる」ことの必然性を問うというのならば、「子供や赤ん坊を巻き込んで殺しあうような所業を、なぜ人間はやめないんだ」というところまで行きつく。
「何でわざわざ赤ん坊が出てきて、本筋に関わらないやり取りで時間を潰すんだ」と感じるなら、逆に子供たちは「僕たちだって、好きでここにいるんじゃない!」と反論するだろう。
子供たちは戦場にいたいからいるんじゃない、無理やり「いさせられて」いるんだ。

そういう在り方だったのではないかと、僕は解釈している。

戦争が「英雄譚」になることを嫌ったのだろうか、この映画では、大局から顧みられることのない「戦死」がいくつも描かれる。
モビルスーツの薬莢に追突されて即死する母親、目を見開いたまま絶命する友人、自宅でバグに殺戮される親子。
戦争が始まれば、我々は傍観者ではなくなる、知らぬ間に戦場の中にいるのだと、富野は語りかける。誰もアムロにも、シャアにもなれない。名もなく死にゆく者が、ほとんどなのだ。
このように感じられるかどうかで、人は見極められる。
―数千人死のうが、それで戦争が終われば安いものだ!
そう思う人間がいれば、「ならばお前の一族郎党、友人、そしてお前自身の命を差し出せ。それができれば、頷いてやる」と、言い返してやる。
そして、したり顔でそのような言葉を吐く奴は、絶対に自分を危険にはさらさないものだ。


親子、というお互いどうにもならない、因果に絡まれた人間関係がある。
家族とは、幸福と不幸が同居する、矛盾した存在でもある。
それをじんわりと感じさせてくれる映画でもあった。
「ダイターン3」から「Zガンダム」まで連連と、富野は親子関係を憎しみと相互不理解の対立の構図で描いてきた。
そのためか、主人公たちは大人に対して過剰なまでに反抗的にふるまうことが多かった。破嵐万丈は反抗的ではないが、年齢以上に対等に大人たちと渡り合ったし、冷徹な態度を崩さなかった。「ZZ」のジュドーの場合は、親の影すら描かれていない。
親の側の理屈にしても、「仕事の方が子育てや家庭よりも楽しい」とか、「夫婦仲がすっかり駄目で愛人作ったからそっち行きます」とかだし、破嵐創造となると妻子を無理やりメガボーグにしてしまうような自己中のマッドサイエンティストで、子供たちからしたら「自分勝手すぎてたまんねえよな」というものだった。

「F91」でもセシリーもシーブックも、何某か、親と対立する人生を歩まされた。
ただし、それでもシーブックは何とか親の立場に理解を示そうと努力し、戦いの中で和解へと導かれていった。
以前の作品ならば、子供たちは親との和解を拒み続けていたのだが、大きな方向転換である。
何といっても大きく異なるのは、鬼門であった父親との関係である。
父親レズリー・アノーは、強面だが情に厚く、冷静に子供たちを導く成熟した大人であり、「ザンボット3」の神源五郎の姿に重なっていく。
子供たちを「ちゃんと育てた」という自負とともに絶命する姿は、やはり行く末を子供たちに託してガイゾックの守護騎士と刺し違えた源五郎を思わずにはいられない。
他方、母親モニカ・アノーはバイオ・コンピューターの研究がしたくて、幼い子供を夫に託して一人、家を出て、仕事一筋の生活を送っており、シーブックからすれば「子供捨てて、仕事を選んだ」人、母親という立場を放棄した存在だった。
このモニカの中には、過去の主人公たちが対立した親の要素が詰まっている。
―子供たちと離れて暮らす
―子供よりも仕事を優先する
この要素は何らかの形で、過去の否定されてきた親が持っていたものである。
ただ、モニカは一つ、大切な要素を手放さなかった。
それは夫婦間の信頼であり、絆である。モニカとレズリーは、離れていても信頼関係でつながっていたのだろう。
妻が育ち盛りの子供を置いて、研究生活に没頭することを、レズリーは不貞腐れることなく認めた。それができたレズリーは、人としてとてつもなく大きい。
ほとんどの男の常識からみれば、「何で男が損な役割をしなきゃならんの」というだろう立場を受け入れたのは、他でもなくレズリーが妻であるモニカを深く愛し、信頼していたからだろう。
 -意地悪な物言いをすれば、レズリーが実はお人よしすぎるのかもしれないが・・・・。
父親との絆、そして父と母の夫婦の絆が維持されていたから、シーブックと妹は母親との絆を受け入れたのだろう。

地球と宇宙で離れてくらしていても、ミライとブライトの間には信頼の絆があった。だから、ハサウェイは普段、会うことはなくても、すぐにブライトを父と認識できる。
他方、「一緒に地球で暮らしていた」のに、クェスは父を父として認めることができず、父殺しをしてしまうのである。

また、モニカ自身も仕事の中で、自分の子供ならわかる符号を残していた。
それは、仕事一筋に見えても、子供のことを思い続けているという意思の表示である。
旦那について行けないからと息子と別れたまま、一人暮らしの寂しさを愛人との関係で紛らわせたカマリア・レイのような母親像とは異なっているのである。

最終場面、母親モニカの助言を得ながら、シーブックが大切な人セシリーを、果てのない宇宙空間の中から探し当てる展開は、優しく温かく、心癒されるものだった。
これは初代ガンダムの最終場面に通ずる、救いに満ちた展開だった。
セシリーを探してシーブックが思いをこらしている間、宇宙は静まり返り、海鳴りのような響きが僕を満たす。その静けさがやがてセシリーの居場所を教えてくれる。そして、抱き合う二人の場面で終幕となる。
僕はこの場面が、とても大好きになった。映画館でこの場面を観ることができて、本当に良かった。

一方、セシリー側の親子関係は複雑で、悪い親子関係の見本市状態だった。僕は観ていてセシリーが気の毒だったし、「よくこの子、ぐれなかったな」と思ったほどだ。あんなひどい人間関係の中で、あんなに聡明で優しさもある娘に育ってくれて、カロッゾ(父親)もナディア(母親)も、セシリーに土下座しろと言いたい。
こちらは親子関係も夫婦関係も、二重の意味で破綻していた。セシリーはあるまいことか、産みの親にも、育ての親にも信頼が持てず、それどころか軽蔑の念をいかに抑えるかに腐心しなければ、気持ちが保てない状態だった。
しかも自分の生き方を、他人が抗えないほどの強い力で「このようにしろ」と強制してくる。
他人と言っても一人ではない。実の両親、育ての父親、優しいとはいえ祖父、そしてクロスボーン・バンガードという国家そのものが、彼女に一方的に生き方を強制してくるのである。
これは辛い。相当に辛い。
だから
 -私、こうなってしまって・・・
 -私、どうしたらいい・・・?
という、セシリーの詞と気持ちは切実なのである。もうシーブックしか寄る術がないという心情は、健気を通り越して、限界の縁に立っていただろう。

実母のナディアは、一見、娘を政治の世界に染まらせたくないという、「親心」の持ち主だが、結局、自分の主義を娘に押し付けているだけである。娘セシリーがどんな思いで判断で、クロスボーン・バンガードにとどまっているのか聞いてやることすら頭に浮かばない。
どんなに居心地が悪くても、周囲の状況のやばさがわかっているから、安易に「じゃあ、ママと帰る」なんて言えない、娘の賢さもわかってやれよと言いたくなる。
ましてや実の父親ときたら、鉄仮面かぶって、しまいにゃ「フハハハハ、怖かろう!」って殺しにくるし、そりゃ怖いわ。

でも、富野としては「鉄仮面の設定で成功したと勘違いしたのが失敗だった」と言っているのだが、僕はそんな鉄仮面に実は同情的である。
好きな女に裏切られることほど、男をのたうち回らせることはないのである。
単なる政略結婚した女に逃げられて自尊心を傷つけられたというのなら、鉄仮面は被らなかったのではないか。ならば、他に女性を求めていただろう。
たぶん、カロッゾはナディアのことを心底好きだった。
可愛い息子と娘に恵まれて、ロナ家の継承者となり、自分こそがスペースノイドの世界に新たな秩序を築くのだ―そんな幸福と自信に満ち溢れていたいはずなのに、間男に寝取られ、目にいれても痛くないくらい可愛い娘も連れ去られたら・・・・自尊心も傷つけられ、激しい喪失感も加わって、カロッゾは憎しみと怒りで歪む己が素顔をさらけ出せなくなったのだと思う。
このような人間は、人を憎むようになる。
そして、カロッゾは権力者だったからこそ、バグで地球と月を「掃除する」という怨念を実現させる力を持っていた。
この怨念の塊となったカロッゾを、僕は阿呆、極悪、人でなし、とはよう言えないのである。
否、それどころか、人とはどんな躓きから狂気に駆られるか知れたものではなく、あなただってカロッゾになるかもしれないんだとさえ、言いたい。
世間一般から見れば、カロッゾは当然、極悪人である。歴史的にも、世界的にも迷惑な存在である。
それでも、僕は彼に憐みを感じる。
彼のどうにもできない怨念が、娘ではなく、シーブックによって葬り去られたところに、僕は富野による「カロッゾの魂の救済」の構図を見るのである。


これは最初にビデオで観た時から思っていたことだが、興味深かったことの一つに、この映画に「高貴な存在による独裁体制でしか人の世はまとめられないのではないか」という富野の思いが垣間見えることだった。
「コスモ貴族主義」を語るロナ家の頭首マイッツナーは、登場した演説の場面でも実に堂々と描かれており、その後の言動も振る舞いも、セシリーに接する態度も、「理想的な王」の如く描かれている。
絵師による演技も素晴らしく、マイッツナーの演説はギレン・ザビよりもシャア・アズナブルよりもドレイク・ルフトよりも魅力的な表情なのである。
彼こそは「絶対に間違わない独裁政治」の具現者であるのかもしれない。
もっとも、マイッツナーほどの人物でも、カロッゾを制御できておらず、結局、人は怨念、嫉妬、欲望で動かされるものだから、王一人が理想的であっても、それだけでは体制や理念の継承は安定できないから、いずれ崩壊するという理も示されており、彼の唱える「コスモ貴族主義」は机上の空論のように僕には思われるのだ。

観れば観るほど味わい深くなる映画だと、僕は思う。
「その後のクロスボーン・バンガード」がどうなったのかは知らないが、歴史の影に埋もれていったようなので、局地の騒乱として終わってしまったのだろう。
1990年代にもしも制作されていたら、終幕は「皆殺し」の流れになってしまったかもしれないが、今ならどうだろうか。クロスボーン・バンガードは崩壊するとしても、シーブックとセシリーが未来をつなぐという展開で幕を引けるかもしれない。
劇場版でなら、「F91」の続編も見てみたいように思う。
でも、このまま未完でもよいようにも、思う。

雑感。
セシリーの兄貴のドレルなんかは、「追い詰めた兵士は何をするかわからん」って、古参兵のような台詞を吐いている。その若さで、どこでどんな経験をして、そんな台詞がはけるようになったのか、大変に気にかかる。
また、親父の命令に逆らおうとしたりして、「御曹司、命令違反です!」とたしなめられている場面などは、「戦国武将か、己は」と突っ込みたくなるような茶目っ気もあり、やはりこの映画は「詰め込みすぎだけど、どの場面やどの台詞も、想像力を巡らせると相当に楽しい」のである。

アンナマリーも「あっという間に死んじまって訳わからん」と言われているようだが、僕としてはセシリーに嫉妬しているなと感じられたから、裏切る→最後に好きだったザビーネに殺されるという展開には戸惑わなかった。
嫉妬からみの展開は、TVシリーズでやるとだらけやすいので、(ここまで切り詰めると流石にアンナマリーの印象があと一歩になってしまうようだが)やはり劇場版3部作くらいでやれていたらな、と繰り返し思うのだ。

この映画、作画が実によい。
安彦良和の描線が、きれいに再現されている。
演技にしても、安彦本人が描けば、もっと大きな芝居になるところだが、富野らしい控えめな演技に徹している。
やはりセシリーの立ち居振る舞い、マイッツナーの堂々ぶり、そしてカロッゾの怨念ではち切れそうな様子など、ロナ家の面々の演技が見応えがあった。
何といっても、物語の冒頭、セシリーの体型が美しすぎて、頭がくらくらした。


本作で一番、惜しかったのは、モビルスーツの活躍についてだろう。
もちろん、作画は素晴らしく、手描きのメカニック作画の質が頂点に達した90年代ならではのものだった。
大河原の造形も見事で、それまでのモノアイから複眼式に変わったクロスボーン・バンガードのデナン・ゾンなどは特に惚れ直した。
だが、これこそ尺がなくて、F91の性能を十全に伝えることがほとんどできなかったのが、最も惜しまれる点だろう。
ヴェスパーを含む武装、サイコフレーム、バイオ・コンピューターなどを解説している余裕があれば、特に最終決戦での盛り上がりは、もっと興奮させられるものになっていただろう。
特にとどめを刺したフェイス・オープン攻撃も、ガイキングばりに派手に見栄を切らせてほしかったなあと思う次第だ。
この点に関しては返す返すも残念だ。

最後に、門倉聡の音楽は。音の粒立ちがよく、見通しも気持ちいいものだった。
ただし「もっと独創性があったら・・・」と、CDの解説文で富野にちくりと言われているが、マーラーやジョン・ウィリアムズ、ストラヴィンスキーなどからの引用が少し目立っていた。しかし、安彦の流麗な人物造形を見事に活かした作画に見事にはまっており、聴いていて気持ちがすっきりする。

そして、やはりテーマ曲「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜」は神曲である。
作詞:西脇唯、作曲:西脇唯、緒里原洋子、編曲:門倉聡、歌唱:森口博子の布陣だが、これは一度聴いただけで忘れられなくなる歌だった。
これほど清々しく「祈り」を歌い上げた例はないのではないか。
最初にビデオをこの映画を観た時から、この歌は僕の心をとらえた。富野がキングレコードとスター・チャイルドの方針を覆して、この映画を主題歌に選んだ気持ちがよくわかる。

静謐な面持ちで始まる導入、切々と語りかける前半は、仄かな明かりの中、ただ自分一人に巫女が語り掛けているような錯覚に捕らわれる。
しかし、後半、「光る風の中」と歌いだされるや、急に視界が開けて、広大な光に満ちた世界に誘われ、温かい陽射しの中、心が包まれていく。
物語も観客も浄化する力を持っている歌なのだ。

というわけで、僕が心底「F91」に惚れ直したというお話。


愛しさがとまらない・・・「逆襲のシャア」 

「逆襲のシャア」ポスター

神戸の映画館で「逆襲のシャア」を観てきた。映画館での鑑賞は封切り以来だから、30年ぶりになる。そして、映画館でこの映画を観るのも、これが最後になるのだろう。

三枝成彰の作曲による、コントラバスの重低音で物語は幕を開ける。
もう何度も観た場面だ。このブログを覗くような方々なら、恐らくよくご存じだろう。
それから2時間弱。仕事帰りで後半は少し疲れも感じたが、一気呵成に映画を見終えた。
やはり映画は映画館で観るべきものだ。同じ画でも、銀幕に大きく映じられると、空気感が全く違う。集中してみるから、没入感も違うし、記憶への染み込みも強くなる。
アニメ関係者からも、若い世代の愛好家からも、「作画のレベルが低い」と言われる本作だが、どうしてそんなに悪いとは感じない。
映画館で観たら、懐かしくなって泣くかな、と思ったが、観ている間はそんなことはなかった。
ただ、物語の終末、アクシズの落下をアムロが命をはって、食い止めようとする場面を観ていると、どこか今までは感じなかったざわついた感覚にとらわれた。
そして夜、様々な想いが後から後からこみあげてきて、僕は一人、涙ぐんでしまった。

今回の観劇で、僕はこれまでになく、シャアを、アムロを、愛しく思った。
昨日までは、彼らを「英雄」「歴史的人物」と感じていたのだが、今では僕の中でそうした虚飾は剥げて落ちてしまった。
「シャア、お前って、ホントに馬鹿だよな・・・」
僕は、かつて感じなかったほどの強い共感を抱きながら、そう思った。

初代ガンダムでは、シャアはまさしく颯爽としていた。ずば抜けた能力を持ち、輝かしい戦績を有し、怨念と野望を内に秘め、アムロと戦いを重ねる様は超然としており、未だにかっこいい。
Zガンダムになると、ザビ家への復讐という個人的怨讐を乗り越えて、地球とコロニー国家のより理想的な体制を構築せんものと、より全世界的な考えのもとにエゥーゴの士官として活躍し、連邦政府、ティターンズ、シロッコ、ハマーンと渡り合って見せた。
そして、今回の戦(いくさ)である。

-これはシャアの人生の総決算である。
ネオ・ジオンを率いて連邦政府にゲリラ戦を仕掛ける戦いは、「地球中心の独裁を終わらせ、真のスペースノイドによる自治権を手に入れる」という歴史的命題を達成するためのものである。
同時に、あらゆる意味で(戦士として、人として、男として)行く手に立ちはだかる天敵、アムロとの雌雄を決するものでもある。
それは選民による改革か、大衆による変革か、それを問う戦いでもある。
・・・という構図で、僕は今までこの映画を観てきた。

だが、そんな壮大な構図は、今回、映画を見続けるうちに僕の中から消えていった。
この戦いは歴史のためでも人類のためでもない。
一人の男の恨みつらみ憤りが、吐き出されたものだ。
その想いがどんどんと強くなった。

劇中、シャアとアムロは出会うたびに、思想的な、歴史的な単語をいくつも交わし合う。まさに人類の行く末をどちらがより強く、より賢明に洞察しているか、それを争っているようにも見える。
しかし、それはまやかしだ。
なぜなら、しょせん、これは「痴話喧嘩」でしかないからだ。
好いた女を奪い合い、二人ともモノにできず、それどころか死なせてしまった・・・。
そんな後悔に取りつかれた男たちが、とことん戦い尽くす物語だからだ。

いたずらに戦いの構図を矮小化して嘲笑おうというのではない。
むしろ、人間とはそういうものなのだ、どんなにニュータイプとあがめられても、オールドタイプはオールドタイプなのだ、だから神のように生きることも考えることもできず、喜怒哀楽と愛憎で戦ってしまうのだ。
そして、そんな彼らを、特にシャアを、僕は強く強く、愛しく思う。

地球にしがみつき、重力に魂をとらわれた、地球連邦政府の要人たち。
彼らは末端の人々の生活を知ることもなく、机上の論理と一部の人間の利益を考えた政治をし、それ故にスペースノイドは常に不利な、理不尽な立場に立たされる。
地球連邦が世界を支配する限り、この図式は覆らない。
だから、彼らを粛正するのだという彼の考えは、多くの同調者たちを生み出した。
-シャアについていけば、自分たち中心の政治ができる。
-理不尽な扱いを受けることもなくなる。
-富の分配も正される。
人々を扇動し、協力者を増やし、シャアはネオ・ジオンの勢力を拡大したのだろう。
でも、彼がやりたかったのは、ただひたすら、「連邦の輩どもをぶっ殺す!」ということだったのだと、僕は思う。個人的な怒りを連邦という巨大な存在にぶつけて砕きたかったのだ。
着飾った言葉は、己の怨念を晴らすための便利な道具に過ぎない。
もう、シャアにとってスペースノイドもコロニーも、どうでもよかったのではないだろうか。

「颯爽」と見えるシャアの人生は、実際は挫折の連続だ。
父は暗殺、母は幽閉されて看取ってやることもできぬまま死を知らされ、妹とも生き別れ、再会すれば敵味方。
しかも亡母の代理を求めた女は、後からやってきた間男に魂を奪われ、殺され、その間男にすら、もはや戦士としても勝てなくなってしまった。
ガルマ一人謀殺したところで、ザビ家との力関係は圧倒的な差があり、むしろその庇護の下にはいらねば生きてはいけず、後に戦争のどさくさでザビ家の主だった者が死んだとしても、まだその血脈が残っており、血脈を巡ってハマーンとも争わねばならない。
エゥーゴに身をおけばおくほど、連邦政府は未来永劫強圧的と幻滅せざるをえず、かといって完成した連邦の権力と武力は間近にみるほどあまりに大きく、これを覆すことは限りなく不可能に近い。
ハマーンとシロッコの追撃を、しのいでしのいで、しのぎきってどうにかかわした末に、彼に残ったものは何なのだろう。
結局、「ジオン・ズム・ダイクンの息子」という血脈だけではないか。
-生まれてきて、幸せだったか?
そう問われたら、シャアは何と答えるだろう。

何で俺は生きているんだ。
何で俺は一人ぼっちなんだ。
何で親父がジオンの創始者なんだ(そうでなければ、もっとまともな人生だった)。
何で親父みたいな男がのさばることになったんだ。
何で連邦は親父が必要とされるような社会を野放しにするんだ。
何で連邦はそんなに手前勝手で、傲慢で、理不尽なんだ。
何で人間はいつまでたっても、連邦がのさばるこんな社会を変えられないんだ。
何で人間は1000年たっても、2000年たっても、殺し合い、憎しみあい、奪い合うことしかできないんだ。

自分一人では結局、何も変えられない。何もできない。
たぶん、このままだと死ぬまで同じことの繰り返しだろう。
たぶん、人間もずっとこのままだ。ニュータイプになんてなれやしない。
ニュータイプなんて、ただの高性能パイロットでしかない。
これで世直しなんて、できるものかよ。

もう誰もあてにはできない。期待もしない。俺の手でわかりやすく決着をつけてやる。
隕石落としで地球を、連邦をぶっ潰す。
これなら、俺でもなんとかやれるだろう。

「逆襲のシャア」では、シャアはとことん、姑息だった。
人を欺き続けた。
恐らくは大勢の同調者をそそのかして、莫大な財力を提供させた。
うわべの理想を掲げて、何億の民衆をだました。
白々しい演技で連邦の高官たちをだました。
そして、自分に好意を持つものや、部下すらも、欺き続けた。

終盤、シャアがクェス、ギュネイ、ナナイにそれぞれ耳打ちし、懐柔する様は観ていて痛々しかった。
その場が取り繕われればいいんだ。
もう、とにかくアクシズを地球にぶつけることさえできれば、後は知ったことか!
冷静なようでいて、やっていることはやけくそである。

アムロへの挑発も繰り返した。
五分五分で勝たないと自尊心が許さず、ファンネルを封印したり、サイコフレーム技術をばらしたり、「俺はアムロより強いんだ!」という気持ちが常に前のめりだった。
クェス強奪はララアを奪われた当てつけだ。その挙句が、部下をなだめてすかし回る体たらくだ。

今わの際に、アムロに問い詰められたシャアは本音をぶちまけていく。
「私は世直しなどに興味はない!」
世直しを掲げて武力と財力を得た男が、言ってよい台詞ではない。
しょせん、シャアにとって、「世直し」という言葉は方便でしかなかったことがあからさまではないか。
いや、世直しなんて、とても無理だと痛感してしまったのかもしれない。連邦はあまりに巨大なのだ。
それは絶望だったのではないか。
だったら、世直しができるかどうかなど、もうどうでもいい。
とにかく、地球でふんぞり返っている輩どもに地獄を見せてやる!!
それがシャアの本音だったと思う。
「愚民に任せていても、世直しなんてこない。連邦はずっと、未来永劫、腐った連邦のままに違いない。俺を孤独にさせて、気づきもせず、平気な面してのほほんとしているクソどもを、アクシズ叩き込んで、ぶっ殺す!」

たぶん、アクシズを落とした後のことを、シャアは考えていなかったのではなかろうか。
その後の政治的構想は、取り巻きの政治屋どもに投げていたのではないか。
シャアは連邦崩壊後については、具体的にも概念的にすらも、何も語っていない。
ただ、「連邦を潰す」としか言っていない。

劇中のシャアを観ていれば、正に「道化」の役回りだった。
人を利用する彼自身が、利用される立場だった。
彼の周囲を取り巻くネオ・ジオンの要人たち。しかし、こすからそうな容貌の政治屋しかいない。まるで詐欺師集団のようではないか。
映画の尺があるとはいえ、政務と軍務のそれぞれで、シャアの腹心足り得そうな人物は描写されていない。それは暗に、ネオ・ジオンが急ごしらえで、実際はロクな人材がいない、連邦崩壊後の新たな社会建設をともに構築していけるような優れた人材がいない、ということを暗示しているのではあるまいか。
実は、シャアのネオ・ジオンは、ザビ家のジオンよりも、ティターンズよりも、ハマーンのネオ・ジオンよりも、さらに脆弱な組織なのではないか。
せいぜい、シロッコのドゴス・ギアよりはマシな程度の戦力だったのではないか。
軍にしてもレズンのごときやくざ兵士に頼らざるを得ず、ニュータイプ部隊といっても、恐らくはギュネイただ一人。
組織の質の高さ、という視点で比べれば、たぶんランバ・ラルの部隊にすら劣るだろう。
果たして連邦壊滅後、宇宙に残存する連邦軍と互角に戦えたのだろうか。連邦壊滅という戦利品でスペースノイドを凋落し、内乱が起こすか否かのカードをたてて、連邦の残存勢力と交渉するよりなかったのではないか。

そう、シャアのネオ・ジオンは張子の虎だったのだ。
戦い方も全面戦争などというものではなく、騙し討ちのゲリラ戦法だった。
敵の虚をつき、少ない戦力で最大の戦果をあげる。
人のやりようは変わらないものである。

自分の怨念に誘われるままに、自分らしく戦い、自分らしく姑息に生きたシャア。
その気になれば、世直しなど諦めて、選民の一人として連邦の周辺に潜り込み、優雅に暮らすこともできたはずだ。
でも、「馬鹿だから」それができない。
クソどもと同じ生き方は絶対にしたくない。利権を貪る下衆に堕するくらいなら、この身もろとも吹き飛ばしてやる。
だから、シャアは純粋なのだ。

彼の最後の精神的拠り所がアムロだった。
謀略に身を寄せるほど、自分が汚れていくのが惨めだったことだろう。
「アムロ、あこぎなことをする私を感じてみろ」と祈っている。
無意識のうちに、アムロに懺悔している。
遥か彼方に見下ろしていたはずの「連邦のパイロット」は、あたかも父親のようにシャアを叱り続ける存在となっている。

なぜ、アムロはシャアを追い続けたのだろう。
猟犬のようにコロニーを隈なく調査し、「なんでシャアを止められなかったんだ!」と悔しがる。
「Zガンダム」で再登場した時のあの無気力さはどこへ行ったのか(無気力どころか、安彦の設定画では露骨な悪人面になっていた)。
それほど、アムロは人類を信じていたのか。
また、ナナイからは「優しさをニュータイプの力と勘違いした男」と罵倒されたが、そんなに優しい人間だったか? ララアはアムロのどこが「優しい」と魅かれたというのか?

アムロは優しくなんかない。チェーンだって「いつもは優しいのに、時々怖いですよね」とこぼしている。仕事を始めると、ガキの頃と一緒でつっけんどんになる男だ。
ララアが魅かれたのは、アムロの中の孤独だ。自分と同じ孤独を抱えていて、自分の孤独も受け入れて、しかも蕩け合うような魂の融合があったから、もう一人の自分だったから、魅かれたのだ。
そして、アムロがシャアを追うのは、アムロにとってももう一人の自分だった、ララアを失ったからだ。
結局、人は終生、引きずってしまうのだ。表面はうまく取り繕っても、変えられない感情と意思がある。
アムロにとって、シャアはララアを奪った男なのだ。逆もまた真である。
僕にはアムロがそんなに人類愛を持っていたとは思えない。もしもそうだったら、兵士ではなく政治家か活動家を目指しただろう。1年戦争の英雄なら、それで成功する確率は低くない。どんなに優秀でも、1兵士にできることなど、局地戦に勝利する程度のことだ。
でも、しょせんアムロに世に打って出るような、そんな社交性の高い役回りは演じられない。
しかし、かつてのようにお気楽な連邦に寄生する生活にも戻りたくない。
その点ではアムロもシャアも同類なのだ。
自分の正義を蹴ってまで、権力にこびて生きていくのを許せないのだ。
だから、近親憎悪でシャアを追い続ける時こそ、最もアムロの生が充足するのだと思う。
これもまた、愛憎である。

二人の戦いの勝者はどちらか。
本当のところ、僕はシャアだったと思う。割れたアクシズの後部が地球に落ちると分かった時点で、シャアの勝ちだ。この後、核の冬がきて無数の人間が死に、地球の連邦政府は瓦解して、コロニー社会の動乱の時代が始まるはずだった。
だが、「物語だから」最後に奇跡が起こって、アムロの勝ちのように見せたに過ぎない。本来、「現実」では奇跡は起こらない。だから、流れとしては、シャアは勝っていたはずなのだ。
そう、富野はシャアを勝たせていたのだ。
アムロは「νガンダムは、伊達じゃない!!」と叫んでアクシズを止めようとするが、言葉のかっこよさとは裏腹に、していることはもはややけくそだ。
改めて映画館の大画面で、燃えるアクシズを押し戻そうとするνガンダムの姿を見ると、それは雄々しいというよりも、まさに蟷螂の斧、という方が相応しい。
シャアを前にして、負けを認めたくないという意地だけで、アムロは動いていたと思う。
とにかく、シャアにだけは負けたくない。
理屈では、「νガンダムのパワーごとき」でアクシズの落下を食い止めることは不可能とわかっていたはずだ。それくらいの物理的計算はすぐにできるはずの男だ。
自分のやっていることが無茶苦茶と自覚しているから、応援のモビルスーツ群には「馬鹿なことはやめろ、無茶だ!」と、自分の振る舞いを棚にあげて叫んでいる。
直前のシャアとの直接対決では、あれこれと小難しい言葉を並べてシャアを非難して(正しいことを語っているのだが)、あたかも冷静なように見せている。
でも本当に冷静なら、アクシズが落ちるとわかった時点で負けは負けと認めて引き際を理解し、次の手をどう打つかを考えるはずだ。
でも、アムロの頭の中にも、連邦が壊滅した後、いかにネオ・ジオニズムの拡散を防いで、人類の分裂を阻止するかという構想は一切、なかった。後先を考えていない点ではシャアと同じなのだ。アムロも頭に血が上った男でしかなかったのだ。

だから、僕は、アムロも馬鹿だ、と思った。

馬鹿同士、維持を張り合い続けた結末が、燃える隕石の炎の中で、二人きりの時間を過ごすことだった。
「私は世直しなんてどうでもいいんだ」
「ララアは私の母になってくれる人だった」
「人間は愚かだ。それがなぜ、わからん、アムロ!」
・・・俺にはもう、何もない。
誰も信用していないし、愛する人もいない。大切な人もいない。
お前だって同じだろう、わかってくれよ、アムロ!
二人きりの空間で、切々と語られるシャアの剥き出しの言葉が痛々しい。
そして、初めてシャアが「人前」で涙を流した。相手がアムロだからこそ流した涙だ。
これは、人生に負けた男の涙だ。
負けたというのが不遜なら、人生から何も得られなかった男、と言おう。
巨大な敵、連邦への怒りの矛先を探し続けた男、シャア。
心の涙が止まらない。

もはや誰も介入できないシャアとアムロの孤独の共振を、その時、僕は感じていたのだろう。それが胸をざわつかせたのだ。
だから、後になって胸をえぐられる悲しさに襲われたのだ。

最後に奇跡が起こって、アクシズの軌道が変わる。
奇跡に頼った幕引きは、富野がシャアに「勝たせる」ための方便だったのだと思う。
「自分を押しつぶそうとする根源である、連邦を、ただ叩き潰したい」
シャアのその想いをかなえさせたかったのだ。
でも、シャアの勝ちでは幕が引けない。だから、奇跡を起こして、シャアの勝利を、その命もろとも消し去った。
それだけだ。
それは、「憎しみの果てには滅びしかない。でも、滅びたままでは幕引きとしてあまりに悲しいから、転生の場面を描いた」発動編と同根なのである。


女たちについても触れておこう。チェーンとナナイは二人とも、男に身を寄せることを幸せと感じる人だった。もはやそうした描き方は、非難の対象となる時代かもしれないし、僕も観ていてアムロを見つめるチェーンのきらきらした眼(まなこ)が少なからず、こそばゆかった。
それでも、二人は「私を好いてください。私の愛を受け止めてください」と願う女性だった。
シャアとアムロの壮大な痴話喧嘩は、彼女たちの献身に支えられることによって成り立っていた。
なっさけねえ・・・・
しかし、その情けなさが、僕は男勝手と言われても、愛しい。
愛情に包まれているのに、それに甘えながらも拒み続ける二人が、情けなさ過ぎて、愛おしい。

アムロを思って、思って、最後はわけもわからず散って、なおもサイコフレームとなってアムロを支えたチェーン。
シャアの命が消えていくとき、「行かないであなた・・・」というような表情で泣き崩れるナナイ。
この二人の愛情を、わかっていながら、幸せにできない男たちの愚かさ、切なさ。


クェスとは何だったのだろう。父親コンプレックスの塊で、人との距離感を学ぶ機会もなく、一方的に自我をひけらかし、次々と会う者と敵対していく。
お前のような生き方では、永遠に独りぼっちだという声が聞こえてくる。
哀れなクェスは、アムロとシャアの対立を際立たせるためだけの存在だった。もともと収まるべき場所がないところへ連れてこられたから、居場所もない。居場所を作る術も知らず、感性もない。
それでは、そのまま、死ぬしかないではないか。
いや、居場所になってくれそうなハサウェイがいたが、彼を受け入れることができたのは、死の直前だった。
その時になって初めて、「自分のためではなく、他人(ハサウェイ)のために」行動できた。
僕は彼女との距離が取れないが故に、愛しさを感じられない。でも、哀れだと、思う。

黙々と戦うブライト。
「シャアとはお母さんも戦ったことがあるけど」と、見た目普通の主婦なのに、さりげなくもとんでもない告白を娘にするミライ。
そして、ミライに未練たらたらで「そこまで言ったらアホすぎる」くらい、ミライのことを気にかけるカムラン。受け流すブライト。

この映画には、愚かしく切なく、しかし愛おしい人の業が詰まっている。
観て、よかった・・・・。

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