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青木望讃歌 少年は焼け跡から立ち上がった



青木望は昭和6年生まれ。いわゆる「昭和一桁世代」だ。終戦時は14歳頃。多感な時期であり、バリバリの「焼け跡世代」だろう。
ウィキペディアによれば、子供の頃からヴァイオリンに親しんだという。昭和初期の世相を考えれば、平均以上の経済力がある上に、クラシック音楽がよほど好きな家庭に育ったと推測できる。
旧制中学は東京府立第六中学校に進学したという。いわゆる東京の「ナンバースクール」であり、当時の進学校だっただろう。(※1)
ところが、青木はなんとまだ15歳という子供の時に、旧制中学を中退して、音楽活動に専念してしまうのである。
ウィキペディア:青木望
青木望が語る おっちゃんとのエピソード(※2)

青木が15歳の頃というから、昭和22年頃だろうか。まだ戦禍の傷も癒えぬ時代である。
僕が生まれたのは昭和40年だが、その20年足らず前だ。
昭和20年。僕にとって、遠いようで近い時代だ。
日本は戦争に負けて、米軍に占領されて、独立を失った。
昭和1桁生まれはちょうど物心もついて、これから思春期を迎えようという多感な時期に敗戦を迎えた。それにもまして、自我の基盤となる教育の理念が、敗戦を境に凄まじく変わってしまった。それはまさしく、天動説が地動説に変わったくらいの激しいコペルニクス的転回だったのだ。
それまで、大人たちは「忠臣愛国」を謳い、子供たちに「長生きできるなと思うな、お前たちは特攻して敵を倒すんだ、命を国に捧げるんだ」と教えた。敵を「鬼畜米英」と呼び、憎むことを教えてきた。
それが、どうだ。
負けたら「民主主義万歳」「日本のしてきたことは全て過ちです」「米国は豊かで素晴らしい」となってしまった。
子供にとって、この変化は痛烈だ。
例えば、母親が口を極めて罵っていた男に、ある日を境に甘えてしなだれかかるようになったら、子供はなんと思うだろうか。
母さんのあの憎しみは何だったのか。
あんなに罵っていた男を、今度は「父ちゃんと呼べ」というのか。
あえて下卑た例えを出したが、これに近いくらい、生々しい心の傷や痛みを、昭和1桁の子供たちは感じたのではないか。
だって、「戦争で国のために(大人のために)死ね」と言われ続けてきたのだよ。
あるいは、徹底した抑圧からの解放感だったろうか。
だからか。
昭和一桁の焼け跡世代は、米軍にぼろ負けした明治・大正世代の大人どもに見切りをつけて、独自の生き方を模索したという。
青木望もまた、15歳というまだ年端のいかない時期に、学歴を土台にする人生を捨てたのだった。
よくも家族が許したものだと思う。青木家は戦前でも子供にヴァイオリンを学ばせ、敗戦直後の時期でも旧制中学に通わせるくらい、生活のゆとりがあったのだ。たぶん、青木家の価値観は、学歴や教養を重視していたことだろう。当然、青木にも学歴をつけてほしかったはずだ。青木望が更に旧制高等学校、大学と進学して、背広組の人生を歩むものと、家族は期待していたはずだと思う。
それが、いきなり中学の時点で学歴社会に背中を向けて、音楽で食っていくと言い出したのだ。しかもクラシック音楽とは全く無縁の、バンド音楽なのだ。青木家の「常識」がひっくり返るような人生の選択なのだ。
相当、しっちゃかめっちゃかな展開があったのではなかろうか。通常は猛反対のはずだ。親が生きていれば泣いたと思う(※3)。
しかし、結局、青木望は己の意志を通したのだろう。
やはり敗戦というトラウマが家族の心にもあって、最後には「したいようにするがよい」という気持ちに傾いたのだろうか。
あるいは先行きの見えない当時のことだ(※4)。大学を出ても就職の見込みがあるかすら、家族にも見通せなくなっていたのかもしれない。敗戦による自信喪失も加わり、家族も最後まで「学歴がないとダメだ」と言い切る自信を失っていたのかもしれない。
逆に言えば、音楽にかける青木の決意が相当、強かったとも考えられる。今の柔和な表情からは想像できないような、固い意志だったのだろうか。
それだけではない。やはり、最後は青木望の才能を、家族も信じたのではないか。
いくら決意が強くても、音痴の子が「歌手で食っていく」と言い出したら、親はふんづかまえてでも無理矢理やめさせるだろう。食い詰めるのがあきらかだからだ。
学歴に背を向けても
会社員にならなくても
自分の力で生きていけるのなら、許してやろう。
「この子だったら、音楽で食べていけるかもしれない」
そう思えたからこそ、家族は青木望の選択を許したのだと思う。
前述の「おっちゃんとのエピソード」の記事をみても、単にヴァイオリンだけでなく、15歳の頃には複数の楽器を弾きこなせたそうだから、親から見ても青木は十分に楽才があったのだろう。

わずか15歳。青木望は身一つで音楽を生業にする道を歩み始めた。
さて、次に彼の人生に待っていたのは-

と、語りだしたいのだが、青木のその後の活動については、まともな情報がほとんどない。
思い切って全文を引用してしまうが、ウィキペディアの記事はたったこれだけである。

「1931年3月2日、東京府出身。少年時代から音楽に親しみ、ヴァイオリンなどを得意としていた。旧制東京府立第六中学校(現在の東京都立新宿高等学校)時代に知人に誘われてバンド活動を始めた為に旧制中学校を退学し、プロのミュージシャンになったという。プロのミュージシャンになって以後はアレンジャーとしての活動が知られ、特にフォークソング系の作品を多く手掛け、アニメーションや特撮ドラマの主題歌などの編曲作品も多い。また声楽家・鮫島有美子の企画アルバム『ともしび~鮫島有美子 ロシア民謡をうたう』では演奏指揮も行うなど、幅広い音楽活動を行っている。」

なんだ、この大雑把さは(※5)。
少ない、あまりに少なすぎる。
あえて自分を喧伝したくないという青木自身の意思が介在しているのか?
それともやはり、単に世間が無関心だけなのか?
僕には知る由もない。
アニメ音楽の宿命なのか。あれほどの素晴らしい音楽を作ったというのに、青木の業績について語る人は少なく、語られる言葉も少ない。このままでは本人の言葉も残されることもなく、このまま記憶は風化し、拡散していくのだろう。
そんなアニメ界など、僕は認めない。
この文章はせめてもの抵抗である。

旧制中学中退後、たぶん、演奏家としてあちこちで活動したのだろう。
そして、やがて編曲者として仕事をするようになったようだが、そこら辺の経緯はさっぱりわからない。
誰に編曲を学んだのか(独学?)
いつ頃から編曲を開始したのか(バンド演奏のために編曲しているうちになし崩し?)
レコード会社から仕事がくるようになったのはいつ頃? 誰の推薦?
・・・わからんことだらけである。ご本人に伺えば済むことだが、青木望の談話記事を検索してもみつからない。国立図書館にでも行って、当時のアニメ雑誌を片っ端からひっくり返せばあるかもしらんが。

とっかかりとしては、やはり「その人がした仕事をみよ」ということだ。
ウィキペディアにも手掛けた作品の目録があるが、他にもこんな目録をみつけた。
「歌詞タイム:編曲者 青木望」
ここに並ぶ曲やウィキペディアの目録をみていくと、青木色がそこはかとなく聴こえてくるかもしれない。

大塚たかしの「自由に生きてほしい(昭和47年)」は作詞:阿久悠、作曲:井上忠夫と、当時の花形を揃えた布陣になっており、そんな曲に青木は編曲者として迎えられている。青木の編曲は、いかにも当時らしい、どこか哀調を含んだ時代がかった導入で始まる。ドラムの合図で、一斉に流れ出すヴァイオリン、ブラスの旋律を背景にした大塚の歌に、オーボエが泣きの合いの手をいれていくのだ。

チェリッシュの「古いお寺にただひとり(昭和47年)」は演歌調で始まる。最初の管楽器は何だろうか? 少し独特だ。個性は抑え気味に感じられ、非常に堅実な仕上がりにしていると思う。

チューリップの「あの、ゆるやかな日々(昭和49年)」は、軽快な電子鍵盤の導入で始まり、明るい曲調だ。でも、歌の背景にはかすかにオルガンの響きを織り交ぜ、過ぎ去った時への特別な思慕と憧憬を強調している。やがてチェロやトランペットが加わるのだが、その音色の温かさもまた青木の色だろう。

松山千春の「大空と大地の中で(昭和52年)」はピアノとホルンの合奏で始まるが、松山の美声を支える堅実できれいな編曲だ。

アリスの「緑をかすめて(昭和54年)」はフルートの導入とギターの伴奏が美しい。小編成で始まりながら、次第に楽器の編成が大きくなって、音とともに世界観も広がっていく。青木の好む方法なのだろうか。


中島みゆきの「歌姫(昭和57年)」などは、青木の静かで夜空にしみとおるような編曲が、原曲の魅力を数倍にも押し上げている。

大雑把に眺めてきたが、編曲者としての青木の活動は、だいたい昭和40年代半ばくらいからのようだ。ウィキペディアの記載の通り、フォークソング系の仕事が多い。
チェリッシュ、チューリップ、松山千春、アリス、中島みゆき・・・。以外と松山千春や中島みゆきの作品の関わりが多い。
歌謡曲となると、あまり仕事量は目立たない。小野寺昭、柏原芳恵、沢田研二などの歌に少し関わった程度のようだ。
他の仕事となると、やはり特撮やアニメ関連になってくる。その活動開始時期も、やはり昭和40年代になる。
一番古い時期は、どうも「魔神ハンター・ミツルギ」という特撮番組だ。知る人ぞ知る、というか、本当に知名度の低い作品だ(※6)。
「母をたずねて三千里」の挿入歌の編曲をしたりしながら、実績を積んでいる。

「かあさんの子守歌」作詞深沢一夫、作曲:坂田晃一、編曲:青木望、歌唱:大杉久美子の布陣

こうしてみていくと、本当に地道に実績を重ねて、青木がようやく辿り着いた作品こそ、「銀河鉄道999」だったのである。
昭和20~40年代初頭までの青木は、地道にバンド演奏なり、小さな編曲の仕事をしながら、人脈を築き、信頼を勝ち得ていったのだと思う。
想像するに、昭和30年代に歌謡曲がいよいよ盛んになってきた頃に、30代を迎えていた彼は、録音演奏にまつわる仕事を精力的にこなしていたのだと思う。「笛のおっちゃん」こと旭孝や、大勢の録音演奏家と知己を得て、まずは昭和30年代の大御所作曲家や編曲者たちの仕事に触れながら、小さな仕事で編曲の腕を磨いたのではないだろうか。
それが花開いたのが、昭和40年代ということなのだろう。
(この項、続く)

※1)ウィキペディアより
旧制中学
東京都立新宿高等学校(旧東京府立第六中学校)
ナンバースクール

※2)「スタジオミュージシャンでフルーティストの旭 孝さん(このHP内では"笛のおっちゃん"とか"おっちゃん"と呼んでいます)のお仕事をご紹介しています」とのこと。
※3)ただし、戦後、親御様が健在だったのかどうか、明らかにしてくれる資料がない。
※4)敗戦後の日本が経済的に立ち直り、「先行きを見通す」精神的余裕が出てきたのは、朝鮮戦争特需(昭和25年)以降のことである。
※5)念のため、ウィキペディアの執筆者を責めてるのではない。入手できる資料が乏しいなど、某かの事情があるだろうと理解している。
※6)時は江戸時代、サソリ魔人率いる宇宙忍者サソリ軍団と、日本の平和を守る使命を帯びたミツルギ一族の3兄弟(男2人に女1人)との戦いを描いた特撮番組。当然ながら怪獣が登場し、当然ながらミツルギ3兄弟は魔神ハンターミツルギに変身して怪獣と戦う。で、当時としては斬新だったのが、戦闘場面が人形アニメ(コマ撮り;ストップモーションアニメ)で表現された演出だ。この演出が、後の「プロレスの星・アステカイザー」のアニメによる戦闘描写に影響を与えた・・・かどうかは知らない。
実のところは革新性を目指したというより、特撮って意外とお金がかかるので、アニメの方が安上がりだったからだそうな。
さて、幸運にも(?)子供の時分、僕はなぜかこの番組を見続けることができた。しかし、あまりに人気がなかったようで、たった12話で打ち切られ、その後は幻の作品となった。20年ほどしてからCS放送で流れていたが、妻が「地味やね・・・」とつぶやいたほど、俳優さんが地味だった。だから人気が出なかったのであろう。でも、子供の僕は楽しみにしていたのに・・・・。
そういえば、なぜかずっと見ることができていた「白獅子仮面」も、あっという間に打ち切りになったな。「カッチンカチャリコ ズンパラリン」という独特の擬音で始まる歌詞は、なぜか心に残って離れない。「光が消えたら 真っ暗闇だ~」という歌詞に、「OUT」は「当たり前だ!」と無慈悲な突っ込みをいれていたなあ。
その後、「僕が楽しみにしている番組は次々と打ち切られる」という、ろくでもないTV体験が続くことになる。



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