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[C42]

こんなに面白いアニメ談話が埋もれていたとは

[C45] 管理人です

過分なお言葉、ありがとうございます。月一更新が今は精一杯です。あと2回、プロレス篇をしたらアニメに戻ります。
  • 2016-04-08 00:43
  • 管理人
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[C85]

高橋留美子のいう「人間性の違い」の意味を知りたくてこの論考にたどり着きました。
望んでいた説明を得られて満足しています。

客観性を担保しながら論じる文章はネット上では希少だと感じます。
このような有益な文章が今後ともネット上に増えることを祈るばかりです。

[C86] 管理人です

コメントをいただき、ありがとうございました。過分な評価をいただき、恐縮いたします。
ただし、僕の分析には当事者の直接の意見(取材)がなく、僕個人の推測に過ぎないという限界があることを自覚しております。
そう思いながら、今後もささやかながら、続けてまいります。
ありがとうございました。

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押井守 VS 高橋留美子

パンフレット表紙
(承前)
高橋留美子が「ビューティフル・ドリーマー」を嫌っているという逸話は有名だ。
しかしその理由となると、自分の趣味にこの映画が合わないから嫌いというような単純な次元の問題ではないようだ。もっと根源的な、高橋留美子という人間の主義主張と相いれないものがこの映画に盛り込まれているかららしい。
そもそもTV版の製作が始まってからこの映画が完成にいたるまでに、高橋と押井守との間では物語の捉え方、描き方の隔たりがありすぎて確執が積み重なっていたという。その挙句に仕上がった映画が押井の感性と主張に塗り固められていては、高橋にとっては耐えがたいものだったのかもしれない。

事の顛末については、ウィキペディアに要領よくまとめられているし、その記事にリンクされている押井の対談に目を通せば、ある程度のいきさつは想像できる。
ウィキペディア:ビューティフル・ドリーマー
野良犬の塒(ねぐら)

「野良犬の塒」の記事を読むと、そもそも押井は「オンリー・ユー」の監督をすること自体に不満があった。
押井が監督を受諾「させられた」時点では映画の製作作業がほとんど進んでいなかった上に、昭和の時代にしてもあんまりな短期間で完成させろという無茶な要求がつきつけられたという。
要するに「無茶な仕事を丸投げされた」状況だったのだ。
そんな具合であるから押井にとっての映画「オンリーユー」とは「やっつけ」仕事以外の何物でもなかったことになる。
しかも人の意見に振り回されて、自分のしたいことが何もできなかった思いが強いものだから、なおさら屈辱の記憶しかない。
伊丹十三がどうこう言う以前に押井自身がこの映画を「映画」として認めたくなかったのだ。自分が気に入らなくて腐っているところに「こんな映画あかんで」とくさされれば尚更に腹が立つ。怒りの炎に油が注がれ、「そんなこと言われんでもわかっとるわ!!」と頭に血がのぼる。
「オンリーユー」を一番、認めたくなかったのは、押井自身だったのだ。(※1)
押井守スペシャルインタビュー


この映画の後、「映画は監督の我を通さなければ、何の価値もない」と決意した押井は暴走を開始した。開き直った押井は、他人の批判など物ともせず、我が道を突っ走り始めたのだ。
しかし、そんな押井の我が道を行く有り様は、原作者とその周囲の人々にとっては、「押井によるうる星やつらの破壊活動」にしか見えなかったことだろう。
そもそも前回でも述べたように放送開始からずっと、押井は男性の原理(理屈っぽさ)と感性(下品さ)で「うる星やつら」を描いてきた。そこへもって暴走(やりたい放題)」の始まりである。
「これはもう、私の作品ではない」と、当然のごとく、高橋たちは押井のやり方を批判しただろう。(※2)
一方で高橋から届く数多の批判は押井の反発心を刺激し、闘争心を燃え上がらせ、余計に彼の原動力になったことだろう。
まさしく火花が散るような(あるいはドロドロして感情的な)対立もあったのだろうと、僕は勝手に推測する。
その火花が爆発となって燃え上がった末に生まれたのが「ビューティフルドリーマー」なのである。

高橋と押井の確執を整理すると、以下の通りになるのではないか。
① そもそも「うる星やつら」という物語の捉え方、解釈が全く相いれなかった。
② しかも押井は歩み寄りなど考えず、高橋側の意見を完全に無視した。あまつさえ、己の意見を通すために策を弄して、高橋側の意見を封じ込めた。
③ その上、高橋に対する批判を「ビューティフルドリーマー」に忍び込ませた。

先ず、①について。
高橋にとって、自分が作り上げた物語世界「ルーミック・ワールド」は、架空の世界であっても、現実社会と同じくらいの重みがあるのだろうと思う。
「うる星やつら」を見ても、日本の民話神話に登場する八百万(やおおろづ)の神々もかくや、人にあらざるものが人の世と敷居もなく行き来し、平和に和やかに朗らかに過ごせる世界を高橋は創世したかったのだと、僕は思っている。(※3)
もう30年ほども前に友人がうる星やつらの登場人物が総出で祭の縁日で遊ぶ図柄のポスターを指さして、「これこそ“うる星やつら”の世界だよ!」と熱く語っていたのを思い出す。
昔の日本の絵巻のように、初期の手塚治虫の群集場面のように、遠近法を排して祭全体を遠くから俯瞰する視点で描かれていた。そこには自分の想像した世界を愛おしむ高橋の眼差しが感じられた。
友人の一言は、まさしく高橋留美子の創作世界を言い表していたと思う。

とても楽しそうで、幸せそうでしょ?
あなたも行ってみたいでしょ?
そう、これが私の世界-
本当なら私とお友達たちだけの「秘密の世界」なのだけれど、皆にも教えてあげる-

高橋の呟きが聞こえてくるようだ。
空想の世界を愛する女子の感性である。


ところが、だ。
押井守にはそんな感性が理解できない。そんな腹の足しにもならないような空想(妄想)など、野良犬を自称し現実主義者である押井の男性原理に基づけば、「ただの絵空事だろうが!!」で終わりなのだ。

この世界そのものが作り物だ。まやかしだ。
東京そのものが廃墟みたいなものだ。
こんな甘ったるいもの(ルーミック・ワールド)を俺に押し付け(演出させ)やがって。
東京を世界を廃墟にする前に、「うる星やつら」をぶっ壊して俺色に染めてやる。

そう叫びながら、押井は高橋の築き上げた物語世界を蹂躙し、その中心で愛ならぬアジテーションを叫び続けたのだ。
作り物は作り物。
「うる星やつら」も作り物でしかない。それをお前ら(視聴者、観客)に教えてやる。
そうした主義で作られたのが「ビューティフル・ドリーマー」だったとも言える。
毎日が楽しいというラム。でも、その毎日というのが「同じ学園祭前日」を繰り返しているだけ。そこには葛藤もなく成長もない。
あるいは自分に都合よく作られた廃墟の街で、毎日が夏休みの日々を友達と楽しく過ごすことに一片の疑問すら抱かないラムの脳天気さ。過剰なまでの無邪気さ。
それは阿呆と紙一重かもしれない。
物語(ルーミックワールド)が女子の閉じられた夢想であると暴いたこの映画には、確かに高橋留美子に向けられた猛毒が仕込まれている。

「ビューティフル・ドリーマー」に魅せられた観客たちは何に魅せられたのか?
物語世界が虚構であること、しょせん儚い存在でしかないことを彼らは強く自覚していて、そんな夢の世界からいつ目覚めてしまうかと内心で怯えていながら、それでも麻薬に溺れるように物語世界に遊ぼうとする、自己破壊的な陶酔感に囚われていたように思う。
一歩、足を外せば奈落に落ちる舞台の上で踊り狂うようなものか。
劇画「新暗行御史」に一見、普通の生活を送っているように見える街の住民が、実は全て死人であったという逸話があった。
一見、穏やかな日々が続くように思われるのに、誰かが「お前らは本当は死人なのだ。死人はあの世に戻れ」と暴いた途端、平和な生活は消えて地獄絵図が広がる。
虚実が一気にひっくり返る。
そんなせめぎ合いに漂う緊張感を味わうと、素朴に物語世界を楽しむ高橋の世界に飽き足りなくなるのも確かだ。


「ビューティフル・ドリーマー」は幸せなルーミック・ワールドから大勢の観客を地獄へ引きずりこんだ。何と言っても、それが高橋には許せなかったのかもしれない。
ポンコツ映画愛護協会

「ビューティフル・ドリーマー」の試写をみて高橋が言い放ったとされる、「感性の違いですね」という台詞は才女にふさわしい鋭い一言である。
恨みつらみを押し隠した大人の言動であると同時に、二人の相違を端的に見事に言い表している。
本質的にこの映画は「男の視点」で描かれている。


布川郁司によれば映画の試写をみて「後半になるとラムが活躍しない」と怒った関係者がいたそうだ。僕は高橋ではないかと推測している。というのも後述するが、彼女にとってラムが活躍しない「うる星やつら」はまがい物でしかないのだ。
映画に魅せられた僕にしてみれば、ラムが不在になるからこそ、逆説的にラムの存在感が高まったと感じられたものだが、なぜ「関係者」には不快だったのか。
それは高められたのは「男にとっての偶像としてのラム」でしかないからだ。そこにラムの意志はなく、あくまで一方的な男の気持ちの押し付けでしかないからだ。
この映画のラムの役割は夢邪気が作る夢想世界誕生の発端であり、造物主の立場にあるとも言える。
そこではラムはある種の神として崇め奉られるが、「人間としての」主体性が失われている。
造物主なのだから、悩みも苦しみもない。ただ、そこにある世界を楽しむだけである。
そもそも冒頭の導入部は別として、この映画でラムが初めて登場する場面は、空中に張り出した戦車の砲身の上に髪をなびかせてふわりと降り立つというものだった。
夜空を背景にしたその描写はあたかも天女の降臨のようであり、生々しい人の激情はない。
つまりこの映画の中のラムは「神棚に祭り上げられた」存在だと言える。
ラムの登場場面
(図)ラムの登場場面
それは男の一方的な欲望願望の産物だ。女性を偶像化し、崇拝する意識だ。
でも、それは好きな女の子を一方的に理想化してそうあるべきと型を押し付ける男の身勝手さの裏返しでもある。
そんな男の感性を高橋が受け入れない。
なぜなら高橋の分身である少女たちは、皆、強い主体性を持っている。
-私の生き方は私が決める。
どんなに柔和に見えても、高橋が描く少女たちは、生きるための主体性を手放すことはない。
音無響子は遥か年上の男と学生の時点で結婚することを決意し、親の反対も押し切って、恐らくは優柔不断な相手の尻を叩いて添い遂げる。
夫が早逝してからも実家に戻らず、自分で職を探して自立する。
言いよる男たちについても、誠実ではあるがしっかり打算を胸にして値踏みする。
決して、誰かに促されたり、やむを得ず妥協したりすることなく、自分の意志で五代裕作を次の伴侶に選択した。

「炎トリッパー」では主人公の涼子は戦国時代で生きることを選択する。涼子が育った20世紀の東京に比べればどう考えても衣食住に安全性、娯楽も含めて環境が圧倒的に劣ることを理解しながらだ。
それは涼子のある強い意志の結果だと思う。
それは涼子の「宿丸を守りたい」という気持ちだと思う。
宿丸が好きなのは当然としても、「私が宿丸を守るのだ」という、より主体性の強い思いが先だったのではないか。
無鉄砲で戦が大好きな宿丸が、1日でも長生きできるようにしてやりたい。それには自分が傍にいて夫婦になるのが一番だ。
宿丸が20世紀の時代に生きることはできない。だから自分が戦国時代に残る。
全て、涼子の意志である。


そして「オンリーユー」のラムは物語の最初から最後まで、とことん自分の主体性を貫き通し、あたるを奪回する。
押井がどんなに「あれば映画ではない」と否定しようとも、「あたるを取り戻す」というラムの行動原理が徹頭徹尾貫かれ、一編の物語を見事に完結させた点では映画である。
ラムが自分の気持ちを貫き通す姿が描かれているからこそ、高橋はこの「映画」を高く評価したのだと思う。自分の分身としてのラムが銀幕に再現されたと感じたことだろう。


だが、「ビューティフル・ドリーマー」のラムはほとんど陽炎のようであり、幻影であった。
妖精のように遠くから世界をみている傍観者だ。
そんなラムの在り方を高橋はきっと「気持ち悪い」と感じただろう。
男による一方的な女性の美化はストーカー(つきまとい犯罪)につながってしまう。
もしも高橋側の意志が反映されていれば、ラムが先頭にたって夢邪気と駆け引きをし、自分の手で突破口を開いて夢の世界から脱出する展開になっていたに違いない。

「ビューティフル・ドリーマー」の後、押井が降板してからも「うる星やつら」のTV版は続いた。それからのラムも男性の視線にさらされ続けた。
やまざきかずおや土器手司が描くラムは、今でいう「萌え」系のように目が大きく描かれ、更にその目の有り様も科(しな)をつくるような垂れ目になっていった。
垂れ目のラム
(図 垂れ目のラム)
ラム・ザ・フォーエバー
(図 ラム・ザ・フォーエバー)
高橋が好んだ吊り目の対極である。
また、体型も押井版にも増して肉感的になり、臀部や大腿部が強調されるという「男にとって望ましい」姿に変容していく。
続く映画版「リメンバー・マイラブ」「ラム・ザ・フォーエバー」も押井のばらまいた毒気に取りつかれた内容になった。
どちらの映画もラムが主体性を発揮できない筋書だった。
そう考えるならば、映画「完結編」の作成は、高橋が自分のラムを取り戻す作業でもあったことだろう。


こうしてみていくと、押井と高橋の価値観、感性は本当に対極にあると思われる。
しかしながら対立が生じても、押井は相手を説得するという行動は取らなかった。
この時、彼が自分の我を通すために何をしたか。
「策」を弄して高橋たちを欺き、自分の考えが通るしかない状況に追い込んだのだ。
「ビューティフル・ドリーマー」の脚本は何度も書き直しになり、担当する脚本家も二転三転し、ついには時間が間に合わなくなるからと押井が絵コンテと同時進行で脚本(物語作成)を担当することになったのだという。
その過程で次第に高橋たちは「この映画(脚本)はおかしい。押井の毒に満ちている」と気づいたようだが、時既に遅し、映画公開の期限が迫っていたために「うる星やつら」が押井の色合いに染められていくのを眺めるしかなかったのだそうだ。
それは全て押井の描いた筋書通りだったらしい。我を通すために、確信犯的に脚本がうまく進まないようにしたという。(※4)
-自分の意見を通すために人を説得する必要はない。
-自分の意見が通らざるをえない状況を作ればよい。
それが「ビューティフル・ドリーマー」作成時の押井の基本的な考え方である。
原作者と自分の考えは正反対である時、原作者という「権力者」から主導権を奪うにはどうしたらよいか。
説得する? 無駄だ。強権を発動されるだけだ。
他人の意見を聞いても俺の納得できる作品にはならない。
だいたいが自分以外の意見はゴミだ。
自分を受け入れない存在ならば、欺けばよい。ギリギリまで時間を引っ張れば映画の製作が公開に間に合わなくなる。
高橋留美子のような「几帳面で律儀な」性格の人間は、自分の我が通るかどうかよりも、関係者に気配りし、滞りなく映画が公開されることを優先させるだろう。
そこまで追い詰めれば俺(押井)のやり方をみているしかなくなるではないか。

高校生の時、学生運動に身を投じ、革命さえ夢見たという押井守は、「絶対的権力者に立ち向かうには策を弄して敵の目を欺き、作戦を成功させるべきだ」と考えたのだろう。
当時の学生たちは国家権力に立ち向かうために様々な戦略を練ったことだろう。その片鱗に触れた押井守のことだ。それを自分の人生に応用しないはずがない。
また、高校時代、父親という当時の彼にとって絶対権力者に強権を発動されて、学生運動から離脱させられたことも、彼の行動原理に大きく影響しているだろうと僕には思われる。
押井は自分の意見を通すことに徹底してこだわったのだ。(※5)

押井のいう「映画らしさ」とは、畢竟、監督(自分自身)の個性が出ているか否かなのだと思う。
「オンリーユー」では彼は監督としてよりも、各部署の調整役のような立場に立たされたようだ。それが相当に不満だったのだろう。
押井は、自我を抑圧されることがたまらなく苦痛に感じられる性格なのだろう。

-プロデューサーやスポンサーの言うことを全部聞いて、スタッフの忠告も全部聞いて、録音監督の忠告も全部聞いて、それでやって勝負になるのかと言ったら、そんなの勝てるはずがないじゃん。その結果できたのが「(うる星やつら)オンリー・ユー」だよ。
「クビにする人に、理由を説明する必要はない」より引用

自分の我を通せないものを、押井は認めない。無価値だとする。
他人がどう評価しようが、「俺がダメなものはダメなんだ」という考えである。
原作者と意見が対立している状況で自分の我を通すために必要な「戦略」を押井は考えたことだろう。

普通の人間は「先ず話し合ってみよう」と考える。
僕は健全な考え方だと思うが、押井の場合は真っ先に選択肢から外したと思う。
対立が話し合いで解決するという考えは幻想だと押井は考えていることだろう。
それは実際、残念ながらその通りだと僕も思う。
対立は某かの強制力が働いて、対立する2者のいずれかあるいは双方に無理矢理に納得させる以外、解消されることはない。
いや、解消さえされていない。「お前の意見をひっこめろ」という方法でしか解決しないものなのだ。
話し合いで解決するなら裁判はいらない。「和解の成立」とは「妥協の成立」という意味だ。
ネット上の意見対立には強制力が働かないから、しょせん多数決で勢いが勝るかどうかだけの話だ。
押井の場合、高校生時代に父親に延々と学生運動の意義について説明した経験があったのではないかと僕は妄想する。きっと何度も繰り返し、父親に熱く語ったのではないかと妄想する。
だが、それは何の意味もなかったし、成果ももたらさなかった。
父親は強制力を発動し、押井の気持ちを抑え込んだ。
その屈辱の経験が下地にあって、「オンリーユー」の「監督作業」が単なる調整役でしかなかったことが、彼にとっては2度目の敗北と感じられたのだろう。
そして「ビューティフル・ドリーマー」では「第2の父親」として原作者が前に立ちはだかった。
今度は負けない。負けたくない。
強権の発動を阻止するには、欺くしかない。それが脚本の完成を徹底して遅らせる作戦だったのだ。
だが、相手に気づかれぬように裏工作をして、ある日、相手が追い詰められたことに気付くというやり方を、職場で日常的に行っていると敵しか周りにいなくなる。
この方法を選び続ける限り、高田明美や金春智子といったお友達、朋友との関係を重視するであろう高橋留美子とそりが合うはずがない。

そこへもって、押井は「ビューティフル・ドリーマー」の中で少なくとも二つの原作者批判をいれたという。
夢邪気の世界を破壊するブタのお尻には©印が入っている。著作権を意味する印だが、これが著作権者=高橋留美子であり、高橋(ブタ)が世界を自由にする権限を持つ権力者であると揶揄っているというのだ。
また、最後の「死ぬまでやっとれ」の台詞は、押井が甘ったるく感じる原作世界を高橋が続けていくことを罵倒したものだという。
これでは高橋に怒るなという方が無理である。

「ビューティフル・ドリーマー」後の押井についてはまたの機会に触れることにするが、押井の言動を色々とみていくと、彼は本質的に自己中心的な人間なのだと思う。
父親に抑圧され、各部署の意見に抑圧され、そして原作者に抑圧されることにもはや我慢ならなくなって作ったのが「ビューティフル・ドリーマー」だ。
しかしそれがあまりにうまくいきすぎたために、この作品以降、しばらく自分の自己中心性を押し出し過ぎて周囲から信頼を失い、仕事ができなくなるという経験もした。だから、今でこそ「人の意見も聞いて調整することも覚えた」というが、本来の押井は成功のためには手段を選ぶべきではないと考えているだろうし、人の意見を聴くと言っても、結局は自分が必要とする意見だけを求めているのだろうと思う。
「日経ビジネス」で「勝つために見る映画」という彼の談話記事を読んでいくと、まるで経営者の如き意見が次々と飛び出してくる。
ここには「統率者は部下に全てを話す必要はない。結果がよければそれでいいのだ」「不要になった人間に、なぜお前は不要になったのか説明する必要はない」「失敗という言葉は決して使うな、失敗を認めるな」「成功とは次の仕事ができる立場に居続けることだ」・・・・世のカリスマ経営者が聞いたら「当たり前だろ」と言う発言ばかりだろう。スティーブ・ジョブスとはウマがあったかもしれないと妄想してしまう。
まあ、その通りではあるのだが、これらの言葉は全て経営する側、人を使う側へ向けた言葉である。
勝つために見る映画

押井はその後も「破壊活動」を続けていく。幻の「ルパン3世」や「サイボーグ009」の企画立案では、彼は物語の縮小再生産は無価値であるとして、原作を破壊することによって、何かを産み出そうとしたという。

怪盗でありながら盗むものを失くしたルパン。
犬になった001と初老の003だけが仲間となった009。

他の人間が作品の命をつなごう、あるいは蘇らせようとしているというのに、押井ときたら「もうこの物語は寿命が来ているんだ、もう終りにするべきなんだ」と主張するのだ。
それは押井の個人の解釈で「物語の生命」に終止符を打とうという行為に他ならない。そんな話を語られてもどこに魅力があるというのか?


「ビューティフル・ドリーマー」に話を戻せば、結局、高橋留美子の強固な世界観があったからこそ作り得た物語だったと僕は思う。
強大な権力があったからこそ、破壊するだけの意味があったのだ。
陳腐なものを破壊しても何の価値もない。
厳しい言い方だが、押井守自ら原作した「天使のたまご」で、少女が大切に抱えていたたまご(押井の学生運動に対する想いもその中に含まれていたかもしれない)を最後に破壊したところで、何の高揚感も生まれなかったことは伝えておこう。
更に残念なことだが、高橋留美子の原作を知らずして「ビューティフル・ドリーマー」を見ても、その魅力を十分に味わうことは恐らくできない。
というか、高橋が登場人物や世界観を全部、予め用意してくれていて、押井がそれに乗っかったのが「うる星やつら」である。ここでは映画における「どんな主人公が何をするのか」という肝心な点の大半を高橋の原作に頼っていたのだ。(※7)
この映画はあくまで高橋留美子の世界と併せて味わわねばならない運命にあるし、原作が忘れられれば、この映画も一緒に忘れ去られるかもしれないのだ。
つまり、最後にこの映画の命運(作品的価値)を握るのは、高橋留美子の手による原作なのである。
これは押井にとって残酷であるが、現実でもある。
押井にしてみれば高橋の世界は「甘ったるい女子の作り話」かもしれない。
だが、高橋からみれば押井の世界は「学生運動に挫折した愚痴をあたかも高尚な考えであるかのように語って見せるペテン師」と思われたかもしれない。

さて、ここまで記してきて次第に「ビューティフル・ドリーマー」を前回の記事で「才能の衝突の産物」と言い表したことが正しかったのか疑問に思えてきた。
何しろ押井は高橋と真正面からぶつかりあうことがなかったのだから。
これは押井が高橋に挑んだゲリラ戦であり、高橋留美子が巨大な存在であるからこそ評価された戦いでもあった。
しかし、僕がどんなに批判的に評したところで、押井守は自己中心的な考え方で強かに生き続け、今も連綿と映画を撮り続けている。
何と言っても僕自身が「押井の自我で固められた映画(ビューティフル・ドリーマー)」が大好きなのだ。それこそが押井にとって勝利以外の何物でもない。

さて、原作者から鬼子とされた「ビューティフル・ドリーマー」はDVDの発売も遅らされたという。また、BDは一度、平成21年に発売が予定されながら中止になったという経緯がある。
発売中止を告げるHP

BD発売が流れた理由については、やっぱり原作者が発売を嫌ったという話も聞けば、劇中に「ゴジラ」や東宝怪獣映画の登場人物やウルトラ怪獣が描かれているため、版権の問題が発生したからという話も聞いた。
いずれにしても、それは調整できない話ではない。調整できないというのは当事者の考えに過ぎない。じれったく思っていたが、ようやく平成27年1月に発売が決定したようだ。
かつて何があったにしても、そして押井の挑発的な言動がどんなに鼻につこうとも、この映画の魅力は他に変えるものがない。BD発売を素直に喜びたいと思う。


次回は少しだけ寄り道をして、次々回に本ブログの原点に返って、この映画の音楽について語りたい。

※1)と、いうことなのだろう。逆に伊丹にほめられていたらどうなっていただろう。
※2)こういう時、遠回しに批判が耳に届くようにすることが多いですね。誰か、他者から「○○さん、怒ってましたよ」「××さんが監督のやり方はおかしいって言いまわってますよ」とか。
→しかし、押井のような性格の人間には逆効果なのだが。
※3)そこに戦いの要素が加わってくると「犬夜叉」になるのであろう。
※4)この脚本を巡る経緯について、布川はあっさりとしか触れていない。触れずに笑い話にしてしまうところが布川の強み凄みかもしれない。上に立つものが部下の対立のいずれかに肩入れしたり、いつまでも気にしていてはいけないという見本といえようか。
※5)「攻殻機動隊」の成功でハリウッドから声がかかった時、その話に乗らなかったのは、ハリウッドで仕事をしようとしても組合がうるさく、きっと自分の意見は通らないと計算したからだと思う。
※6)「攻殻機動隊」の場合は、人と人の結びつきについて根源的に問おうという題材であったため、原作と融合できたように思える。
※7)「ルパン」や「009」では、その原作に頼りたくないからこそ、余計に破壊活動に出たのかもしれない。「パトレイバー」でそれをやると「契約違反」になるので思いとどまったのだろう。
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