Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://kosumosunikimito.blog9.fc2.com/tb.php/112-9e8928a4

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

さらば天龍、響けthunder storm!!(前篇)

暖かい正月を過ごした。明けましておめでとうございます。
今回はプロレスのお話です。ごめんなさいですが、僕にとっては避けて通れない人なのです。

平成27年、プロレスラー天龍源一郎が引退した。
天龍は僕にプロレスの凄さ、面白さを教えてくれた人だった。
一度、引退しておきながら、復帰するレスラーも少なくない。だが、天龍は体が動く間はひたすらリングに上がり続けた。そして遂に「もう限界だ、これ以上は戦えない」と告げてリングを去っていった。

天龍はリング上でだけ戦う人ではなかった。様々なことと戦わねばならなかった人だった。相撲部屋の内紛、全日本プロレス上層部との軋轢、雑誌編集者からの誹謗中傷、経営者としての奮闘、業界内での駆け引き、自分自身や家族のけがや病気・・・・人生を正に「戦い続けた」人だった。
僕は天龍源一郎という稀有の「闘う人」に、感謝と敬意の気持ちを伝えたい。
今回は高中正義の「thunder storm」のギターの旋律とともに、彼の足跡を振り返ろう。

昭和40年生まれの僕は、本来、昭和プロレス人気の只中にいた世代だ。
特に昭和50年代はアントニオ猪木の新日本プロレス人気が最盛期を迎えており、テレビ放送でも最も人気のある番組だった。
猪木とモハメド・アリの異種格闘技戦、初代タイガーマスクの活躍、藤波辰爾対長州力との抗争などは僕でも知っていた。
当時はあだち充の「タッチ」目当てに少年サンデーを読んでいたので、「プロレススーパースター列伝」(梶原一騎原作、原田久仁信作画)も知っていた。

TV放送もたまには目に入るから、世間でプロレスに人気があるということを認識はしていた。
でも、僕はプロレスになぞ、興味がなかった。「あれはただの舞台劇(ショー)だ」と感じていた。
新日本プロレスの放送なども、試合の最後で乱闘になってゴングが鳴らされ、うやむやのうちに試合も放送も終わるという印象だけが残った。
茶番だと思った。
僕はプロレスが嫌いだったし、馬鹿にしていた。
当時、アニメ愛好家や記者にはプロレス好きな人が多かった。彼らはアニメを語る時、プロレスを引き合いにすることが少なくなく、そうした文章を読んで辟易した記憶がたくさんあったものだ。
しかし、昭和60年代になるとプロレス人気も下火になってきた。
人気の立役者であったアントニオ猪木の老化が進み、試合の質が低下していった。更に彼の強引な事業展開が、新日本プロレスの経営の基盤を揺るがし、経理でも不明朗な金銭の流れが出てきたりして、それが内紛の素になった。
テレビ放送の視聴率も落ちてゆき、テレビ局の扱いも悪くなった。
平成の時代、関西地方では、新日本プロレスの放送は黄金帯を外され、土曜の夕方放送に格下げされていたが、それすら僕は知ることもなかった。
天龍源一郎の試合を「発見」するまでは。

それは平成2年(1990年)のことだったと思う。
日曜の深夜だったと思うが、読売テレビ(関東でいえば日本テレビ)をだらだらとみていると黛敏郎の「スポーツ行進曲」に乗ってプロレス放送が始まった。

プロレスは嫌いだったはずなのに、なぜ番組を変えなかったのだろう。
もう四半世紀も前のことなので覚えていない。
たぶん、「新春チャンピオンカーニバル」の幕の内興行の放送だったはずだ。
テレビを眺めていると、やがて無愛想な大男が不機嫌そうにリングにあがってきた。
彼は対戦相手に激しい水平チョップを食らわせ、乱暴にもシューズのつま先で額を蹴り上げた。リング外に追い出すと、今度は客席から取り上げたパイプ椅子で思い切り、相手の背中をぶん殴っていた。
それは見ているこちらがひやっとするような痛みと迫力に満ちていた。
対戦相手はボコボコにされながらも、それでも大男に立ち向かっていった。
彼らも決して小さくはない。
だが、その大男は鬼のごとく立ちはだかり、立ち向かってくる男たちを蹴散らしていく。
その大男が、天龍源一郎だった。

何とはなしに、テレビをみていたはずの僕は呆気にとられた。
「何じゃこりゃ。ムチャクチャ激しいやんけ!?」
僕は「これは本物だ!!」と即座に彼のプロレスを受け入れた。
あれほど、馬鹿にしていたプロレスを、「本物」と認めた。
痛みの伝わる、激しいプロレス。
天龍がぶちあげた理念は、初めて彼の試合を観た僕にも、はっきりと感じ取れた。
天龍の試合は集団戦(6人タッグ)になることが多かった。そこでは敵味方、入り乱れ、汗だくになった戦いが繰り広げられていた。
ちょうど高木功という大相撲出身のレスラーが天龍に「かわいがられていた」時期で、彼は天龍に徹底的に叩きのめされていた。情けも容赦もない潰されようだった。
いつの間にやら、僕はテレビの前で高木を応援していた。
その甲斐もなく、彼は天龍に潰されたまま全日本プロレスを退団することになってしまったのだが、僕はいつしか天龍源一郎の支持者になっていた。

天龍について語る前に、僕が彼を「発見」するまでのプロレスの歴史について軽くまとめておこう。彼ほどプロレスの歴史に縦糸、横糸に絡み取られた人も少ないだろうし。
昭和29年、力道山日本プロレスを設立した。米国からシャープ兄弟なるレスラーを招き、日米の代理戦争をリング上で演じた。彼らと力道山の試合のテレビ中継は大人気を博し、当時の風物詩となった。
プロレスは民族対立、国家間の対立を演劇化して、大衆の支持を得ていた。力道山も同様で、卑劣な米国人シャープ兄弟の反則攻撃に苦しみながら、最後は必殺技の空手チョップで彼らをなぎ倒すという物語を演じた。
それは米国に徹底的な敗北を喫した日本人の劣等感を癒し、慰めてくれた。
こうして「日本人代表のレスラーが、海外からやってくる刺客レスラーを迎え撃つ」というプロレスの古典的な図式が確立された。
だから、力道山と外国人選手との対決が話題の中心であり、「日本人」同士で代表の座を争って記録に大きく刻まれたのは、対木村政彦戦くらいだった。
力道山は朝鮮民族の出自であることを隠して、日本人として振る舞うという自己矛盾に苦しみながら、それでも日本全体から賞賛され、一世を風靡した。しかし、彼は10年の栄光の後、昭和39年に酒の席の喧嘩から怪我を負い、死んでしまった。




継いだのはジャイアント馬場こと馬場正平だった。巨人軍で投手として出世する道を怪我で断たれた彼は、日本プロレスに入団、渡米し、そこで超一流のレスラーに出世した。
力道山亡き後、彼は帰国して、日本プロレスの代表選手となった。
日本人レスラー王者である馬場が、海外の超一流レスラーたちと選手権試合を争うという図式が、力道山の死後も続いた。
後に新日本プロレスの盟主となるアントニオ猪木は、馬場と同時に初舞台を踏んだ。しかし、彼はあくまでも馬場の脇役だった。BI砲としてタッグを組んで試合をしても、主役は馬場だった。昭和40年代前半まで、馬場と猪木では、圧倒的に馬場が上位に立っていたのだ。
猪木は日本代表をかけて馬場と戦わせてほしいと訴えたが、日本代表の王座に座るのは馬場と定められていた。あくまで、馬場対外国代表選手の試合こそが日本プロレスの頂点であり、馬場がその地位を他の日本人と競う必要性はないとされた。



さて、プロレス団体とは繁栄を極めている時こそ危ないという。金の使い方や利益の配分でもめて内紛に進展するからだ。日本プロレスでも内紛が起きて、不満分子だった猪木は離脱した。
彼は一流外国人選手も招聘できず、テレビ局の支援もないままに昭和47年、新日本プロレスを旗揚げした。
同じ年、遅れて馬場も日本プロレスから離脱した。プロレスラーとして絶対の地位を確立していた馬場は、日本テレビの支援とともに、それまでに培った米国との強い人脈から大勢の一流選手を招いて、全日本プロレスを旗揚げすることができた。
船出当初は、人気も知名度も圧倒的に馬場が上回っていた。
にも関わらず、猪木は次々と話題になる試合と興行を企て、人気を高めていった。
その一つとして第三の団体である国際プロレスの代表選手であるストロング小林を引き抜き、団体の枠を超えたレスラー日本一の座を賭けた戦いの実現に成功した。
この試合は話題を呼んだ。猪木に「いつか同じ土俵に馬場を引きずり出してやる」という魂胆があったのはいうまでもない。
タイガー・ジェット・シンとの抗争や異種格闘技戦が話題を呼び、人気を博し、やがて馬場とは別の提携先(WWWF)から一流外国人選手を招聘できるようになり、新日本プロレスは一世を風靡するにいたった。
その絶頂期には「プロレスブームじゃない、新日本プロレスブームなんだ」と、馬場の全日本など眼中にないと言い放った。




そんな中、猪木と馬場はそれぞれ「後継者」を選んだ。
猪木は旗揚げ当時からついてきた藤波辰爾を、馬場は抜群の運動神経と体格に恵まれ、アマチュアレスリングのオリンピック代表にも選ばれたジャンボ鶴田を「第二の男」として後押しした。
ただし、新日本では藤波以外にも多数の若手が入門し、競い合っていた。その中から台頭したのが長州力である。
彼は決して幹部候補ではなかったようだが、野心が強く、のし上がるために藤波に抗争をしかけた。
これは会社が計画したものではなく、長州が勝手に企てたものだった。一種の造反であり、会社は潰そうと思えば潰せた。しかし、猪木は、新日本プロレスは、長州の造反を認めた。
何となれば、猪木自身が会社に逆らって、馬場に挑戦を訴え続けた人間だったからだ。
新日本は長州を潰すどころか、強かに立ち回り、藤波対長州の試合を最も人気があり、最も金を稼げる「商品」に仕上げていった。
他方、全日本ではそんな日本人同士の争いは、あくまで添え物だった。馬場と鶴田が、海外の最高選手と戦う試合が一番とされた。
そこに「第三の男」として、天龍が入団してきた。


天龍は13歳で相撲部屋に入門した。まだ子供の年頃だ。そこでは兄弟子からの「かわいがり」があったが、後の天龍は「そういうこともあった」とさらりと言ってのけている。
彼は相撲の世界で西前頭筆頭まで番付をあげたが、在籍する相撲部の跡目争いが原因で廃業することになった。自分の望まぬ選択を突き付けられ、それを拒絶した結果だという。納得のできない道は歩けないという彼の性格は、この時期から一貫している。
さて、彼は馬場の全日本プロレスに入団した。鶴田に遅れること4年、昭和51年(1976年)のことである。当初は渡米して、やはり新人だったスタン・ハンセンと同じ場所で修業していた。スタン・ハンセンと天龍は後々まで関わりを持つことになる。

昭和52年に日本で初舞台を踏むも、プロレスの戦い方に不慣れだった天龍は、客を魅了する試合ができず、爾来、10年近く、鳴かず飛ばずだった。
それでも時間をかけてプロレスに順応し、鶴田と「鶴龍コンビ」を組むなど、次第に脚光を浴びるようになっていった。
ただし、「BI砲」の主役が馬場であったように、「鶴龍コンビ」の主役はあくまでジャンボ鶴田だった。ピンフォールを取られて負け役になるのが天龍の立場だった。

さて、栄華を極めていたはずの新日本で内紛が起きた。
昭和58年が起点だった。鳴り物いりで開催したIWGPリーグ戦の最終戦で、不可解な試合展開で猪木がハルク・ホーガンに敗退し、非難の嵐が起こった。この試合の背景には、リング外の某かの金銭的争いに猪木が関わってしまった事情があるという。
また、2年前に初舞台を踏み、猪木をも凌駕する人気を博したタイガーマスクがこの年、新日本ともめて退職した。


更に猪木を含めた経営陣が造反にあい、一時的にしろ退任するなど、この年、新日本は混迷を極めた。
昭和59年、新日本でやりづらくなった猪木は第二新日本としてUWFを設立した。そこに前田日明ら何人かレスラーを送り込んで「後から俺も行くから」と言っておきながら、自分は移籍せずに放置した。
前田たちはこれを恨み、独自のプロレスをUWFで展開して猪木と新日本を見返そうとした。彼らの戦いは一部、熱狂的な支持者を獲得したものの、広い人気は得られず、経営に行き詰まり、わずか1年で新日本に頭を下げて出戻らねばならなかった。
これを契機に前田は猪木に対し、かつて猪木が馬場に対してそうしたように、激しい非難と直接対決を求めるようになった。
長州力もまた、猪木とそりが合わなくなり、UWF設立騒動の後、ほどなくして、新日本を離脱した。前田とは異なり、自分の派閥(ジャパン・プロレス)を率いての自発的な離脱だった。彼はかつての敵対者である全日本プロレスと提携し、新日本に牙を剥く形になった。

昭和59年、長州-ジャパン・プロレスが全日本のリングに上がったことは、天龍にとって強い刺激になった。会社の方針に縛られない長州の生き方や、新日本形式の戦い方など、直接、肌で知ることになった。話に聞くだけと、実際に当事者と直接会い、戦ってみるのとでは、影響力は全く違ってくる。
しかし、このジャパン・プロレスもまた内紛を起こした。内輪もめの末、昭和62年に長州は古巣の新日本プロレスに強引に戻ってしまった。全日本プロレスとの契約を破っての行為だったそうだ。

さて、天龍が本当の表舞台に立つのは、ようやくここからである。
長州一派が離脱した後の全日本プロレスをみて、彼は危機感を抱いた。
もちろん、長州がいなくなったことにより、全日本プロレスの商品としての価値が低下した。それは業績にもろに影響するはずだった。
それだけではない。良くも悪くもとんがっていた長州が抜けたことにより、試合から緊張感が消えた。
これをどう補うかに社運がかかっていたはずだった。
長州が来るまでの全日本プロレスの看板は、力道山時代からの伝統である「日本人対外国人」対決だった。
人は自分の成功体験に縛られるもので、馬場はプロ野球での挫折を、プロレスでの成功体験で補ってきた。だから、「日本人対外国人」の形式が最も人気があるというのが馬場の考え方であり、それを維持するために日本人側で序列を強固にして、絶対的な王者を押し立てるようにしていた。
その結果、全日本では馬場-鶴田-天龍-その他大勢の序列を馬場は固定した。自分が衰えてきたと判断したら、鶴田を絶対の王者にした。
ところが、新日本憎さに魔が差したのか、馬場は長州一派を受け入れ、日本人同士の抗争(全日本対ジャパンプロレス)を一番の売りにしてしまった。
それは、それまでの馬場の理念に反したはずだった。
あるいは、馬場にとって「外様」である長州とジャパンプロレスは、外国人選手と同列だったのかもしれない。
となると、それまでの馬場の経営方針であれば、再び豪華な外国人選手を招聘して、「日本人対外国人」の抗争への原点回帰を目指したかもしれない。
だが、日本人同士の「生々しい」感情の交錯する軍団抗争に興奮した後では、客の嗜好が変化していた。つまり、市場が全日本に求める商品はもはや「日本人同士の抗争」だったのである。
当時、49歳の馬場が、自力でそのように発想転換できたかどうか。
また、長州という「毒」が抜けた後、全日本に残った選手が、そのまま外国人選手と戦っても、客が求める緊張感は得られないかもしれなかった。

天龍は、「このままでは全日本が客や興行主から愛想をつかされてしまう」と考えた。
昔の全日本プロレスの風景(日本人対外国人)に戻したところで、別の世界を知ってしまった客の欲求はもう満たせないのだ。
長州が抜けても、長州がいた時以上に殺気の籠った日本人同士が激しい試合を繰り広げる。
それをこれからの全日本プロレスの魅力(主力商品)にすべきなのだ。
長州がいなくとも、客が「もう見飽きた」と思い込んでいる、全日本のレスラー同士の戦いでも、「凄い」と思わせる試合をすれば、客はついてくる。
意気投合した阿修羅原とともに「龍原砲」を結成した天龍は、ジャンボ鶴田を中心とする会社の主流派レスラーに対して軍団抗争を仕掛けていった。
「天龍革命」の始まりである。
それは会社=全日本=馬場に対する天龍の挑戦であり、提案だった。
天龍は全日本プロレス内で初めて、「下の立場から」馬場に事業改革を訴えたのである。

全日本プロレス内部の日本人同士の抗争を主力商品に押し上げる。
先にも述べたように、これは馬場にとってはコペルニクス的転回であり、馬場単独では恐らく生まれなかった発想だろう。
だから、天龍源一郎が自ら方針をたて、会社(馬場)に承諾を得ることとなった。
権力が分散している新日本と異なり、全日本プロレスでは全ての決定権を馬場が維持していた。ある意味、「馬場商店」だったのだ。そこでは馬場の経営方針に異義を挟む者はほとんどいなかったようだ。
少なくともレスラーの中では、不満はあっても面と向かって馬場に意見する者はいなかったのだろう。
その風土を天龍が変えたことになる。彼は自分の考えを馬場に伝え、馬場の承諾を得てから動き出したと思われる。
ここが新日本の長州とは性質が異なる。長州は造反とも言える承諾なしの行動だったが、天龍は社長の承認を得てから行動を開始した。
彼の事業改革の第一歩は、日本人選手たちを根本から、「戦う男達」に変えることだった。
標的の最大手は、馬場の後継者とされるジャンボ鶴田だった。
身長196㎝と馬場に継ぐ恵まれた体格、幼少時から自然と鍛えられた筋肉、ずば抜けた運動神経に恵まれ、本領を発揮すれば日本最強になっているはずと言われた男だった。
だが、本来、穏やかで常識人過ぎる鶴田には、人をリングに釘づけにする「何か」が足りなかった。
アントニオ猪木の狂気
ジャイアント馬場の絶対的な存在感
長州力の剥きだしの野心
佐山タイガーのごとく舞うような躍動感
何か、「常ならぬ」ものがなければ、客を魅了することはできない。故に、これほどまでに恵まれた資質を持ちながら、鶴田は「善戦マン」というありがたくない呼称までつけられた時代があった。
天龍は、鶴田の埋もれた「何か」を掘り出していった。
それは「本気になって怒った鶴田ほどおっかないレスラーはいない」というものだった。
鶴田を怒らせるほどのきつい攻撃をしかけていく。
鶴田が怒らなくても、それだけでも客は驚くだろう。
客が驚くような攻撃にも耐えられるのがレスラーであり、鶴田なのだ。
逆に本当に鶴田が怒ればえらいことになるが、それも覚悟の上だ。
そのためには、「真剣に対立」しないとダメだ。

プロレス興行は一種の旅役者一座のようなもので、バスに乗って全国津々浦々を移動する。
会社の方針に従っていれば、移動について苦労することはない。
だが、さっきまで同じバスに乗っていた相手と、喧嘩腰になって激しく戦うことができるだろうか?
「ふと体育館の廊下で目があってしまっただけで、その日はジャンボと激しくやり逢えなかった。戦う者は、リングで向かい合うまでは目を合わせてはいけないんだ」という旨の言葉を天龍は語ったことがあった。
天龍は阿修羅とともに、主流派とは別行動で、電車を乗り継いだりして、会場を移動したそうだ。電車の時刻表とにらめっこして、電車代の領収書もきちんと残して、後で決済することさえしたという。
「畜生、こんなめんどくさいことさせやがって」
愚痴とも自嘲とも、あるいは笑いも混じったかもしれない言葉をはきながら、天龍は阿修羅とともに会場を移動したのだという。
だが、二人が一たびリングにあがれば、息のあった攻撃を繰り出し、鶴田率いる正規軍をきりきり舞いさせたのだそうだ。
鶴田だけではない。外国人との試合でも、スタン・ハンセンをサンドイッチラリアット→延髄切りで失神させてしまうほどだった。
もっとも、その後に気を取り戻したスタン・ハンセンは「恥をかかされた」と怒り狂い、さしもの天龍もズタボロにされるくらい叩きのめされることになったのだが。
やがて天龍は、馬場を継いで絶対王者となったジャンボ鶴田と、1対1の直接対決を繰り返すようになった。そして、いつしか、この二人の一騎打ちこそが、全日本プロレスで最も魅力があり、最も格式のある戦いであると、観客と会社(馬場)に認めさせるにいたった。
二人の戦いは、激しい肉体的、心理的ぶつかりあいを見せ、「鶴竜対決」の言葉で広く語られる存在となった。
天龍の掲げた理念は次第に会社全体に熱気を生むようになり、人気の面で新日本の後塵を拝していた全日本の評価をあげ、観客動員を増やし、業績も上向かせ、まさしく「天龍革命」と呼ばしめる潮流となったのである。

ここで阿修羅原についても触れておこう。彼失くして「天龍革命」は成しえなかった。
プロレスの試合形式には、1対1のシングルマッチ、2対2のタッグマッチ、3対3の6人タッグマッチという形式があり、日々の興行はこれらの試合形式を適度に組み合わせて成り立っていた。
1対1のシングルマッチで最も格式が高いのがベルトのかかった選手権試合だが、こうした試合は大勢の客が期待できる大都市でしか組まれないのが普通だった。いわゆる小~中規模の都市で行われる「地方」興行では、しばしば最後(メイン)の試合がタッグマッチになった。
逆に言えば、タッグマッチで客の心をつかめないと、全日本のリングでは目立てないのであり、タッグマッチは日常的に自己主張する場として、とても重要だったのだ。
だから、全日本ではタッグマッチをともに戦う相棒は、とても重要な存在なのだ。
この点で全日本は、シングルマッチが重視された新日本と大きく性格が異なっていた。
だから、天龍にとって、阿修羅原の存在はとても大きかったのだ。
一緒に全日本のリングを変えよう、苦労も多いし、大変だけど、気持ちよく戦ってうまい酒を飲もう-。どんな仕事であれ、こう言い合える相棒がいるかいないかで、働く気力意欲はとてつもなく違うものだ。
-好きにしていいけど、その代わり移動は自分たちで電車でいけよ。
-控室だって、自分たちでどうにかしろよ。
-人気が出なければ、試合の順番だって前の方(格式が低い)だし、給料だってあがらないからな。
こうした厳しい環境をともに戦う相棒がいるかどうか。
天龍にとって、それが阿修羅原という人だった。
元ラグビー全日本代表選手であり、弱小団体だった国際プロレスを経て、全日本に合流した人である。馬場が直々に引き抜いとのことだが、全日本では外様であり、故に待遇は可もなく不可もなくといったところだったろう。
「どんな小さな会場でも、客が少ない日でも、目一杯の戦いをしよう」という天龍の提案は、他のレスラーにすれば迷惑だったと思われる。
「大都市の大きな興行ならともかく、小さな会場では小さいなりの試合で十分じゃないか。そんなしんどいことはしたくない」
そういう気持ちが出てもおかしくない。給料が同じなら、楽な方がいい。
それをあえてきつい方向へ行こうとするには、一人の力ではだめだ。
たった一人でいい。賛成して、一緒に戦ってくれる存在がいる。
阿修羅は天龍の意気に投合した。可もなく不可もない立場から、戦いの最前線に飛び込んだのだ。
天「龍」源一郎と阿修羅「原」のタッグは「龍原砲」と仇名され、観客の支持を集めるようになった。
やがて若手の川田利明とサムソン冬木も加わり、一味は「天龍同盟」と呼ばれるようになった。この人数なら6人タッグも巻き込めるし、若手のタッグマッチでも「天龍革命」の名の下に激しい戦いをしかけることができる。
賛同してくれる仲間がいて、やりたいことをガンガンやってみせて、会社の業績もあげて、客からの評価もあがっていく。
恐らく、天龍源一郎にとってはこの時期が一番「楽しい」時期だったことだろう。

だが、神様がいるとするならば、彼は相当に意地が悪い。そんな充実した日々を過ごしていた天龍達に、毒を忍ばせたのだから。
仕事もできて、人間性も問題ないというのが社会人の理想だ。だが、えてして人は、何か欠点を持っている。人柄はよいが仕事は雑だ、あるいは逆に技術は凄いが事務仕事が雑だ、仕事はきっちりするが人づきあいが苦手だ、行動力はあるが独善的だ・・・・まあ、そんなものだ。
阿修羅原には大きな欠点があったという。賭博癖とそれに伴う借金という悪癖。
小さな額ではなかったようだ。
天龍革命で沸き立つリングの背後で、阿修羅原の借金も会社に隠せないほどの大きな問題となったそうで、昭和63年、阿修羅原は全日本を解雇されてしまった。
この時、「報道」陣に意見を求められた時の天龍の発言は悲痛である。
「てめえの女房が浮気してるからって聞きに来るのか?」
阿修羅原の解雇と女房の浮気。
一見すると、全くつながりがないような例えだが、どうしようもない悲しみと孤独という共通点が伝わってくる。
とても大切なものを失った悲痛な叫び。
こんな言葉を咄嗟に口にできる人はそうそういない。

以後の天龍は若手でまだまだ拙かった川田とタッグを組んだりしながらどうにか日々を過ごし、やがて「不沈艦」スタン・ハンセンとタッグを組むことになった。
スタン・ハンセンもまた、昭和63年にブルーザ・ブロディという、気難しいがずば抜けた存在感があり、ハンセンと二人で並び立つだけでため息がでてしまうような相棒を、プエルトリコの「事故」で失っていた。
天龍とハンセンは「龍艦砲」などと仇名され、平成元年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝するなどの活躍を見せていた。



ブロディ

追記
本来なら輪島大士(ひろし)についても触れるべきところだ。同じ大相撲出身の輪島に対して、天龍は様々な気持ちを込めて戦いに挑んだ。
輪島がプロレス界に在籍したのはわずか2年。プロレスについて語ることを嫌った時期もあったと聞く。
しかし、ウィキペディアの輪島の項目を読了してから、20年以上の時を超えて実現した天龍と輪島の語らいを読んでほしい。そこから立ち上るのは、正に「恩讐を超えた」境地である。
ウィキペディア輪島大士
【音声文字起こし】Versus 天龍源一郎vs輪島大士対談その1
【音声文字起こし】Versus 天龍源一郎vs輪島大士対談その2
(なんとこの稿、続く)
スポンサーサイト
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://kosumosunikimito.blog9.fc2.com/tb.php/112-9e8928a4

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

コスモスに君と

Author:コスモスに君と
FC2ブログへようこそ!

カテゴリ

FC2カウンター

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。