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さらば天龍、響けthunder storm!!(中篇)


(承前)
「天龍革命」と同時期、日米のプロレス界では地殻変動が起こっていた。
国内に目を向ければ新日本プロレス内でアントニオ猪木(旧来の主流派)、前田日明(UWF)、長州力(ジャパンプロレス)の派閥が三つ巴の争いを繰り広げていた。
まるで三国志のようで面白そうだが、リングの内外で各派閥の主導権争いが生々しく繰り広げられ、それは必ずしも観客に「プロレスを観る喜び」を与えるものとはならなかった。
三派の中でも、UWF一派は憎まれた。彼らはプロレスの基本である「組み合うこと」「相手の技を受けること」を拒絶し、「蹴り(キック)」を積極的に取り入れた戦い方を一途に推し進めたからだった。
「蹴り(キック)」は相手との接触を拒絶することでもある。格闘技の真髄は、自分は全く傷つかずに一方的に攻撃して敵を倒すことである。
それは旧UWF時代、猪木に「見捨てられた」怨念から生まれた戦い方であり、これを捨てることはUWF一派にとって、自己否定になるのだった。
UWFは猪木の、新日本の鬼子であり、その遺伝子の元をたどれば、猪木に行き着く。猪木自身がプロレスを「キング・オブ・スポーツ」「最強の格闘技」と宣言し、プロレスの、引いては自分の地位を高めようとした。その背景には純粋にプロレスで対抗しても、ジャイアント馬場の存在を脅かすことができないと猪木が考えたからだという。
「最強の格闘技」を目指すと宣下した者が、より格闘技らしいUWFから逃げるな。
新日本に出戻った前田はそう迫った。
前回に触れた長州にしても、前田(UWF)しても、猪木は自分が蒔いた種から生えてくる、ささくれ立った槍に足を刺されることとなった。

各派閥が神経戦を繰り返しながら、次第にUWF=前田日明と他の二派の断絶と対立が深刻化していった。
その最たるものが「前田対アンドレ」の異様な試合であり、前田が新日本に三下り半を突き付けた「長州顔面襲撃事件」だった。
他派との確執に遂に愛想を尽かし、前田はUWF派閥を連れて再び新日本を離脱した。しかし、以前の離脱に比べると、前田の立場は大きく変わっていた。
旧UWF時代、前田の名前は一部のプロレス愛好家にしか知られていなかった。そもそも旧UWFへの移籍は猪木の命を受けたものだった。
だが、今回の離脱は「プロレスに新時代を開く」ための自発的な旅立ちであり、前田はプロレス界の新たな偶像として崇められる地位にまでのし上がっていた。
新日本は前田を潰そうと様々な画策行ったわけだが、それらをことごとく前田が跳ね返したため、逆に前田の価値を高める結果となった。

昭和63年、前田日明は新生UWFを旗揚げした。
彼らは次のような理念を掲げた。
① 従来の「相手の技を受ける」戦い方のプロレスを否定
② 「打・投・極」を追求した試合様式
③ 3カウント制ではなく、ノックダウン+ギブアップ制を採用
④ 試合数は多くても月に1回と制限
「我々の戦いは舞台劇(ショー)ではなく、純粋な『格闘技』である」と主張したのだ。
相手の技を「受ける」戦いを「格闘技」とみなせるはずがない。
打撃や投げ技(打・投)で相手の体制を崩し、最後に関節技(極)で決める。あるいはボクシングや空手のように、打撃だけで決着をつける(ノックダウン)。それこそが格闘技だ。
だからノックダウン+ギブアップ制を採用した。
自分たちが行うのは「真剣勝負」だから、通常のプロレスのような連戦は肉体的に不可能。体調を維持するには「月に1回」程度が限界。
以上を基本とした。
更に興行の在り方も根本的に変えてしまった。
それまでは一部の窓口でしか買えなかった入場券を、「チケットぴあ」を代表とする全国のプレイガイドで買えるようにした。
試合回数を減らす代わりに、大都市でのみ開催し、大型の会場に万単位の観客を一気に集めて、収益を確保するようにした。
テレビ放送は原則行わず、直接、観戦するか、でなければビデオを買って観戦することを客に求めた。
これが、客に受けた。
彼らの基本理念は、客の「ホンモノ」嗜好を刺激した。
入場券の販売においても、今でいう「プレミア(特別)感」の付加価値を与えた。
プロレス雑誌もこれを煽った。週刊プロレスはUWFの試合が開催されないような地方に住む愛好家に、「密航せよ」とそそのかした。「密航」とは当時の青春18切符のような安い通行券を使って大都市に赴いて、UWFを観戦することを示した。
「密航」という言葉の語感は、若者の冒険心と、「自分は特別な体験をするのだ」という選民意識を喚起した。
旗揚げこそ後楽園ホールと小規模の会場で行ったが、その日の入場券は発売開始後わずか15分で完売するという異様な人気を示した(※1)。
新生UWF誕生! チケットは15分で完売 [昭和63年]


以後、「UWF方式こそ本物の格闘技」という印象が世間にも広く浸透し、前田の一般社会への知名度は一気に上昇した。彼はUWFの盟主として「新格闘王」なる愛称も戴き、CM放送にも登場するなど、時代の寵児となった。
耳をカリフラワーにした格闘技の経験者たちの中に、プロレスはUWFしか観ないという人々がいると聞いて、長州力が衝撃を受けたという逸話も聞いたことがある。
興行も次々と成功し、平成元年には最も大きな会場である東京ドームでの開催を大成功裡に収めている。
その1年後、まさかの分裂、解散にいたるまでは、UWFは新日本を凌駕する勢いでわが世の春を謳歌していた。

他方、米国では日本とは真逆の方向に進んでいた。格闘技へと向かった日本とは反対に、米国ではWWFによる娯楽の舞台としてのプロレスの「深化」が進んでいた。
元々は米国のプロレス界は、各地域に根差した団体があって、その地域の王者が存在した。そうした地域の団体が寄り集まって、NWAという興行主の連帯組織を作り、NWA王者が「世界一」とされた。そして、NWA王者は各団体を巡回し、その団体の王者と選手権試合を戦った。
全米を代表するNWA王者と地元の王者が戦う。その時、地元の観客が応援するのは「おらが町」の王者だった。ここではNWA側が悪役(ヒール)であり、地元側が善玉(ベビーフェイス)であった。
各地域の王者と戦って、相手に恥をかかせず、観客も満足させ、しかも勝たなければならない。それがNWA王者に課せられた義務だった。王者は数多くの利害関係をまとめる存在でもあったから、実力はもちろんのこと、試合運びもうまく、相手を引き立たせる技術にも優れていなければならなかった。
地元王者が「あと一歩でNWA王者になれたのに」と観客に思わせられるように、時には地元王者が勝利できるように、NWA王座の移動にはいくつもの制限がつけられていた。例えば、NWA王者は反則負けしても、王座は移動しないといった具合に。

1950年代から1980年代前半にかけて、プロレスで世界王座と言えば、NWA王座のことだった。日本もNWAに加盟していた。ただし、日本プロレス崩壊後、日本でNWAに加盟を許された興行主はジャイアント馬場だけであった。
NWAは興行の調整役も担っていた。1地域に何人も興行主が存在して、潰し合いになってはいけないという名目で、NWAに加盟できる興行主は1地域に1名のみと限定していた。日本は国全体で1地域扱いされたので、馬場が加盟権を独占した。つまり、日本にNWA王者を招聘できる権利は馬場にしかなかった。
馬場は米国の興行主たちからも一目置かれるほどの信頼を得ており、その証として短期間だが彼自身がNWA王座を戴冠することを許されている。



このように馬場に独占されたがために、猪木はプロレスの「最高権威」であるNWAの力を利用できなかった。
馬場との直接対決も実現できない、NWAの威光も使えない・・・・
繰り返すが、ストロング小林を引き抜いたり、異種格闘技戦に手を染めたり、「プロレスは最強の格闘技」と主張したりしたのは、猪木が己が逆境を跳ね返すために編み出した策であったのだ(だから、逆境を逆手にとり、従来のプロレスを否定してのし上がったという点で、前田は猪木の正統の後継者であると言えよう)。

だが、時代の流れに抗しがたく、NWAは凋落を始めた。各地の興行主の寄合所帯であるNWAは、利害関係が複雑に錯綜するため、全体の運営方針に関する意志統一は容易ではなかったと予測される。
もし、経営能力に秀でた一人の興行主が、NWAの意向に構わず、卓抜した戦略で興行範囲を拡大し、個々の興行主を撃破していったらどうなるか。
それをやったのがWWFである。前身はWWWF、同じ略称の世界自然保護基金に裁判で負けてからはWWEと改称している。
当初はニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンを本拠地とする地域密着型の団体であり、NWAの最盛期にも巧みに、NWAとはつかず離れずの関係を保ちっていた。
非主流派同士のよしみで日本の異端児、新日本プロレスと提携したりもした。
歴史が変わったのは1984年だった。新たに最高責任者の座についたビンス・マクマホンJrは、他の興行主との不可侵条約を破棄した。自分の管轄外の地域で、次々とWWFの大会を開き、興行戦争を仕掛けていった。
ただし、昔ながらの興行戦争を仕掛けたのではなかった。彼が抜きんでていたのは、大きく様変わりし始めた米国のTV放送を、最大限に利用したことである。
日本では未だに定着していないが、1980年代から米国はケーブルTVによる多チャンネル化と有料放送の視聴が一般化していた。WWFはプロレスの観劇としての要素を拡大し、娯楽番組の様式を先鋭化させていった。それまでは単に試合を流していただけだったのが、連続物としてより華々しい筋書を作成し、レスラーに試合以外に物語も演じさせた。
物語は各レスラーに与えられた。試合だけでなく、マイクパフォーマンスという演技(話芸)が重視されるようになった。観客がWWFのTV放送を観たり、会場に「観劇」にいけば、複数の物語と、レスラーの話芸を同時に楽しめるようになった。言わばプロレス会場を遊園地(テーマパーク)化したのである。
マクマホンの監督・演出による舞台では、ハルク・ホーガンを筆頭に次々とスターが誕生した。

WWFは更に興行を拡大し、1985年(昭和60年)からは年に1回の特別な大会「レッスルマニア」を開催するようになった。この大会は有料番組として放送されたのだが、爆発的な人気を博し、それまでのプロレス界ではありえないような巨額の収入をWWFに、マクマホンにもたらしたのだった。何しろ、視聴者数が通常の大会の入場者数とは比較にならないくらい多いからだ。

WWFは各地で興行戦争を仕掛け、地域密着型の団体を次々と廃業に追いやった。それに対して興行主の連合であるNWAは成す術もなく、規模は縮小し、やがてTV王と呼ばれたテッド・ターナー個人の持ち物になってしまった。
WWFの勢力拡大とNWAの凋落は、ウォールマートのような巨大資本が地域の商圏を席巻・蹂躙して寡占化していく、正に米国流資本主義の典型であった。
「通常の放送で複数の物語を進行させますが、その結末を知りたければ、レッスルマニアなどの特別番組の有料放送をみてください」
この商法で、マクマホン一族は全米の大衆の目をWWFに向けさせることに成功した。
徹底した娯楽路線を敷き、「プロレスは鍛え抜いた運動選手が行う最高のショーだ」と開き直り、「プロレスにはちゃんと筋書がある」と株主に説明・公開して株式市場に上場するほどだった。
平成元年の時点でWWFには、まだNWAの末裔であるWCWという商売敵が生き残っていた。だが、WCWと興行戦争、TV戦争をする傍ら、日本進出の機を虎視眈々と伺っていたWWFは、平成2年東京ドームで興行を開催することを決定した。

さて、よくもまあプロレス愛好家なら誰でも知っていることを訳知り顔で記してきたものだが、こうした複雑に絡まりあったプロレスの歴史の糸が、天龍源一郎という男に次々と織り込まれていくのである。
彼は日米のプロレスの歴史の具現者であり、故に彼こそ「ミスター・プロレス」なのである。

平成元年11月29日、先にも述べたようにUWFが実質的に日本最大の会場である東京ドームで大会を開催した。東京ドーム一番乗りの座こそ新日本プロレスに譲ったものの(同じく平成元年4月24日)、旗揚げから2年もしないうちに東京ドーム大会を成功させたUWFは絶頂期だった。
その陰で天龍は東京を遠く離れた札幌で、タッグマッチながらもジャイアント馬場からピンフォール勝ちを奪ったのだった。
【復刻東スポ】日本人初の快挙!天龍 馬場をフォール

そんなことを言われても、「平成元年の時点で、馬場はとうの昔に最盛期を過ぎたレスラーだろう? 絶頂期の天龍に負けたからといって、何を驚くことがある??」と思う人がいてもおかしくない。
だが、若き日に鬼教師フレッド・アトキンスに徹底的にしごかれた馬場は、足腰の強い強靭な肉体を持っていた。全盛期には145㎏の体重がありながら、両足で高く飛び上がり、相手に蹴りを叩き込む通称「32文ロケットキック」を放つことができた。余程強い足腰がないとできないことである。
ジャイアント馬場 32文人間ロケット砲24連発!!

あのジャンボ鶴田でさえ、アントニオ猪木でさえ、馬場と並ぶと小さく見えた。
加えて、彼には日米のプロレス界の頂点を極め、世界に名立たるNWA王座も獲得したという誇りがあった。全盛期の彼は、同じ時代、日本国民の人気の頂点にいた王貞治や長嶋茂雄の年収を耳にして「何だ、それっぽっちか」と感想を洩らすほど、稼ぐことができた(だから、全日本プロレスを旗揚げしていなければ、さっさと引退してハワイで余生をのんびり過ごしたいと考えていた)。
日米のマット界に君臨した誇り、時代の頂点に上り詰めたという誇りは、老いたりといえど、自分自身に並の日本人レスラーに負けることを許さなかったことだろう。
馬場が本気になって抗えば、いかな天龍でもピンフォールは容易に奪えない(後年、UWFインターから移籍してきた選手が不満げに戦っているのを咎めた馬場は、試合中に一気にロープに追い込んでその動きを封じ込めることすらできた。当時、60歳前後だったと記憶している)。
また、タッグマッチだから、馬場が天龍を「認めなければ」、ピンフォール負けを何が何でも阻止することも可能であっただろう。
その馬場が、UWF東京ドームの「裏大会」で、天龍に負けた。
これは馬場の背負ってきた誇りの一部を天龍に譲る儀式であったのかもしれない。
「格闘技」を謳いあげたUWFに対抗して、泥臭く、昔ながらでありながら、体をはって「従来のプロレス」の魅力を新旧の観客に叩き込み、全日本の業績をあげ、「プロレス」の命脈を守った男への賛辞とも受け取れる。
みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」と、UWF全盛の時代、この言葉で全日本プロレスを馬場が宣伝することができたのも、天龍革命があったればこそだった。

まだ高田と結婚する前の向井亜紀が、全日本プロレスの特番に出演したことがあった。
鶴龍対決の場面が流された時、「私の友達もこれを見ていて、“俺もがんばらなくっちゃ!!”って腕立て伏せ始めるんですよ」と感想を述べていた。無論、その「友達」が高田伸彦であることは他の出演者も皆知っていて、苦笑しながら彼女の話を聞いていた。
プロレスを否定したはずのUWFの選手ですら、前田ですら、天龍の「プロレス」に畏怖の念を感じていたのである。
天龍はある意味、旧来のプロレスを突き詰めることによって、新生UWFを超えたのだった。

僕が天龍を「発見」した平成2年はプロレス界にとっても、天龍にとっても、彼を「応援したかった」僕の気持ちにとっても、激動の年となった。
この年、全日本と新日本の「ベルリンの壁」が崩れた。
平成元年に猪木が参議院議員に当選し、実質的に引退していた。猪木の後を継いで社長に就任した坂口征二は、馬場と話し合いができる関係だった。その甲斐あって、平成2年2月10日、新日本が開催した東京ドーム大会に、全日本の選手が参戦することとなった
前年、東西ドイツを分断したベルリンの壁が崩れた。これにならって、「マット界のベルリンの壁が崩れた」と評され、興奮と熱狂でもって歓迎された。
歴史的とも言える舞台に、天龍はタイガーマスク(2代目:三沢光晴)とともに参戦し、長州力、ジョージ高野組とタッグマッチを行った。
全日本を出ていった長州に共感していた天龍は、大舞台で長州とまた戦いまみえようという目標を持っていた。それが果たされたわけだ。
もっとも、二人にとってはまだ時期尚早だったようで、天龍も話を聞いて二つ返事で参戦を決めたようではないらしいし、この時の戦いもどこか煮え切らない内容になったそうだ。
また、残念ながら、全日本プロレスの選手は日本テレビとの契約があるため、彼らの試合がテレビ朝日で放送されることはなかった。正規のビデオで観ることができるようになったのは、最近のことだ。
1990年春の嵐! 馬場の智謀と2つの東京ドーム■小佐野景浩のプロレス歴史発見


この試合の後、天龍同盟が解散になった。
阿修羅原が抜けた後も、冬木、川田、小川ら若手と歩んできた天龍だが、次第に会社の(馬場の)反応が悪くなってきたようだ。
「このままでは若手の待遇もよくならない」
つまり、今のまま自分と一緒に行動していても、川田や冬木の待遇(選手権への挑戦や給料の増加)がよくなりそうにないと天龍は判断したそうだ。
結局、天龍革命を僕が同時体験できたのは、末期のほんの2か月間だけだった。
同盟解散の前には、天龍はあえて冬木との仲違いをリング上で演じてみせたりして、彼らが全日本の本隊(鶴田を筆頭とする主流派)に戻りやすい状況を作っていた。
速攻で色々と知識を蓄えた僕は状況を理解し、「天龍が選んだ道だから仕方がないよね」と感じたものだった。


そして、平成元年3月6日。運命の日だった。
この日、天龍はハンセンとともに武道館のメイン(最終)の試合に挑んだ。世界タッグ王者として、テリー・ゴディスティーブ・ウィリアムス組(※2)と対戦したのだ。
ウィリアムスはアマレス出身の図太い体格で、これまた大柄なゴディと並ぶと、分厚い筋肉でできた重戦車軍団のごとしだった。
ウィリアムスは元々、新日本プロレス所属だった。それが2月10日の雪解けの結果、全日本へ友好的な移籍を果たしたのだった。確か、新春ジャイアントシリーズの次のエキサイトシリーズくらいから、ゴディ&ウィリアムス組は活躍を始めていた。
しかし、新日本から移籍したばかりのウィリアムスを、馬場はTV解説でよく酷評していた。やれ動きが硬いだの、やれ下手だのと色々こき下ろしていた。
ところが「殺人魚雷コンビ」と仇名された二人の猛攻は圧倒的で、次々と全日本のタッグチームから勝利を奪っていった。鶴田・谷津組の五輪コンビ(二人とも元五輪アマレス代表選手)も確か負けたと思う。二人がかりで繰り出すオクラホマ・スタンピードは圧巻の破壊力だった。
馬場自身もこの数か月後、こき下ろしたウイリアムスにピンフォールされ、腰を痛めることになる。
「殺人魚雷コンビ」は、タッグ結成以来、無敗のまま、世界タッグ王座に挑戦することになった。
一方、この時、天龍は足首を痛めていて、前哨戦の鶴田・谷津の五輪コンビにも敗北していた。痛めた足に谷津が監獄固めを仕掛け、こらえかねて天龍はギブアップ負けを喫したのだ。
そしてこの日も、ウィリアムスに足首を痛めつけられ、天龍はまたもやギブアップ負けを喫してしまった。
どこまでが筋書があったのか、僕には知る由もない。だが、今でもそんなものがあろうがなかろうが、どうでもよいと思っている。
天龍組が敗北した。その時、スタン・ハンセンは怒り狂って相棒であるはずの天龍を攻撃したのだ。
新王者のゴディとウィリアムスをそっちのけにして、会場は騒然となった。
ジャンボ鶴田が飛び込んできた。彼は天龍のライバルである。
しかし、鶴田は力づくでハンセンに天龍への攻撃をやめさせようとした。常識人の鶴田らしい行動だった。
すると、今度は天龍がド外れた振る舞いをした。
助けに来てくれた鶴田をハンセンのブル・ロープでぶっ叩き、「ほっとけ!!」と言わんばかりに荒々しくリングを立ち去ったのだ。
「助けにきたのに、何で俺が殴られなきゃいけないんだ?」
呆気にとられた鶴田はそう発言したという。
ごもっとも。
だが、テレビの前で、僕は身震いするほど感激していた。
「これぞ天龍だ、天龍源一郎だ!!」
と。
天龍は全日本で一人ぼっちの道を選んだのだ。

平成2年4月13日。東京ドームで日米の団体が集まって、大型興行を行った。
日米レスリングサミット」と題され、WWF(現WWE)、全日本、新日本の3団体が参加した大会だった。
実質の主催者はWWFだった。マクマホンは米国のみならず、海外にも市場を拡大していて、日本にも拠点を築こうとしていた。
米国内とは違って、年に何度も日本で生興行を行うことは、さすがのWWFにも費用対効果が悪すぎる。太平洋を往復する時間と費用が問題だった。
しかし、WWFの稼ぎ場所はTVの有料放送だ。何かのきっかけでWWFを気に入った視聴者が、そのままTV放送を観るようになり、行く行くは有料放送を観るようになれば、思う壺だ。
当時、馬場も坂口もそれは理解していた。米国でのWWF戦略を二人が知らないはずがなかった。ある意味、最も強大な商売敵が地元に乗りこんできたと思ったことだろう。それでも、マクマホンがどのように工作したものかは知らないが、全日本と新日本もWWFのドーム大会に参戦することになった。新日本は内輪同士の試合を提供したが、全日本はWWFのレスラーと試合を行うことを選択した。


このドーム大会の前、馬場はしきりにTV解説の折に「全日本の選手とアメリカ(WWF)の選手を比べて欲しい」「全日本の選手の大きさを見て欲しい」とよく語っていた。
言葉の端々にWWFに対する反発心が滲み出ていたと思う。
日米レスリングサミットは、実質的に全日本とWWFの対抗戦だった。それは潰すか潰されるかといった類の争いではなかったが、互いの自尊心を賭けた戦いであったと思う。
馬場はWWFとの交渉の場で、著しく自尊心を刺激されたのだろう。
WWFの責任者は、経営、現場ともにビンス・マクマホンJrだった。彼は、馬場が付き合ってきた面々とは、全く異質の人間だったのだと思う。
馬場と交流があったのは、日米のプロレス同業者、銀行、テレビ局、「報道」関係者の面々だった。
それまでのプロレス団体の経営者はレスラー上がりが多かったから、米国のNWAであっても同業者組合のごとき雰囲気だっただろう。だから、馬場も腹を割った話し合いができただろうし、互いに敬意を交わすことができたことだろう。日本人ではあったが、馬場はレスラーとして米国でも頂点を極めていたから、大勢のレスラーから尊敬されていたのだ。
銀行やテレビ局は、あくまで業界外の取引先という感じだったのではないか。日本テレビとは主導権争いを演じたようだが、それはどこの団体でもよくある内輪もめのようなものだ。
しかし、ビンス・マクマホンJrは違った。彼はレスラーを使う側の人間であり、何と言ってもNWAを窮地に追いやった男だった。全米制覇に向けて野心満々のビンス・マクマホンは、ハルク・ホーガンやアンドレ・ザ・ジャイアントのような超大物ですら掌に乗せてしまい、並のレスラーなら顎で使い倒すような統率力を持った男だった。恐らく馬場を相手にしても臆することなく、自分の土俵で交渉したことだろう。
昔ながらの同業者組合で営まれてきた市場に、マクマホンは新しい商品(プロレスの演劇化)と新しい商法(ケーブルテレビの有料放送)を持って殴り込みをかけてきたのだ。零細企業の群れを巨大資本で飲み込んでいったのだ。
マクマホンは自身も190㎝を超える身長と、鍛錬した肉体を持ち、レスラーと並んでも引けを取らない体格だった。自信満々で野心に満ちたマクマホンとの話し合いは、きっと馬場を苛立たせたことだろう。
当時、マクマホンは年齢も40代半ば。自信満々だっただろう。ニューヨークを舞台とするマクマホンから見れば、馬場でさえも過去の老兵であり、米国の田舎興行主と変わらないと考えていたかもしれない。
マクマホンに対する怒りを巧みに言いかえたのが、先の「全日本の(日本人の)デカさをみてほしい」という台詞だったのかもしれない。

※1)しかし、この「15分で完売」というのは嘘だったらしい。山本隆司が今頃になって暴露している。ろくでもない。
THE BIG FIGHT
※2)二人とも、今は鬼籍に入っている。40代で世を旅立った。若くして落命した有名レスラーがいかに多いことか。
ゴディーは全盛期でも鎮痛剤などを乱用して意識不明になったことがあった。
ゴディが倒れた時の週刊プレスの表紙
↑格闘技・プロレス関連商品販売「闘道館」HPより
全盛期には危険すぎるバックドロップを繰り出したウィリアムスは2004年、K1に出場してアレクセイ・イグナショフと戦った。体の良いかませ犬として戦わされた。総合格闘技の戦い方も知らないまま、タックルもまともにできない体調で戦い、一方的な敗北を喫した。ウィリアムスのビデオをみて、鼻で笑ったイグナショフには今も腹立たしい感情しかない。
ウィリアムスもまた燃え尽きるように生きた。癌を発症して、若くして天に旅立った。
合掌。
[Я]今は亡きプロレスラー列伝#14:スティーブ・ウィリアムス
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