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二つの言の葉はゴダイゴの調べに乗って 「銀河鉄道999」 (改訂版)

以下の記事は平成25年7月21日付で公開したものです。今回、著作権法(DMCA法)違反の指摘を受け、平成28年8月3日に元の記事は凍結となりました。
歌詞の引用が抵触したものとみなして、この点を訂正して再登録しました。
むらかみさんから寄せていただいたコメントは本文扱いになってしまいますが、再録させていただいております。
今回の指摘を機に、歌詞の引用を含めて対応してまいります。




昭和54年、999号は銀河に旅立った。
ゴダイゴの軽やかな躍動感のある音楽の調べに乗って、山川啓介と奈良橋洋子の言葉が日本全国を駆け巡った。そこに込められた希望、勇気、愛の言葉は、今も僕の心を励ましてくれる。
それは、当時、この歌を何度も口ずさんだ人々全てに共通した思いかもしれない(※1)。
作詞:奈良橋洋子および山川啓介、作曲:タケカワユキヒデ、編曲:ミッキー吉野、歌唱:ゴダイゴの布陣。
「銀河鉄道999」!!!!

うたまっぷ.com 銀河鉄道999

ゴダイゴはミッキー吉野が中心となって、昭和51年(1976年)に結成された。所属事務所の経営者である奈良橋陽子が、彼らの歌詞を担当した。奈良橋は5歳から15歳頃までをカナダで過ごしており、英語は彼女の母国語(生活言語)に相当した。
他方、ゴダイゴの作曲と歌唱を担当したのがタケカワユキヒデである。彼の発声は英語的(に日本人には聞こえるの)であり、癖のない“バタ臭さ”が特徴的だった。親族にクラシック音楽に関わる者が多く、音楽家の家系であったが、留学経験はなかったようだ。
ウィキペディア:奈良橋陽子
ウィキペディア:タケカワユキヒデ

ゴダイゴの歌は先ず、奈良橋が英語で歌詞をつくり、これにタケカワが曲をつけたのだという。そして、当初は何と、昭和50年代でありながら、全詞英語の歌だけしか作らなかったという。
英語で歌うこと-
この一点にタケカワがこだわったのだという。

以下のHPにタケカワの談話が記されている。
DO楽~朝日新聞がビートルズ世代に贈る、こだわりエンターテインメントサイト~(※2)
ここにタケカワの素直な感想が綴られている。

-これこそまさにオタクの真骨頂です。小さい頃から欧米のポップスが大好きで、ビルボードのナンバーワンになる曲が作りたいと思っていました。小学生のときから、英語を生かすメロディーと、日本語を生かすメロディーは根本的に違うと気づいていたから、英語で曲を作らないとそれは実現できないと思っていました。

ビルボードとは1894年に娯楽情報誌として創刊された雑誌であり、1960年代になって音楽情報の提供を主流とするようになった。米国では音楽の人気番付の権威であり、今に到るも影響力が大きい。
どこまで本気だったのか。タケカワは、非英語圏(日本)を拠点にした音楽活動によって、英語圏(米国&ビルボード)に認められようという野望を抱いていたことになる。
いったい、どこまで本気だったのか。
英語圏で人気を博した歌が日本に流れ込むことは容易だった。日本は非英語圏だが、米国の属国に等しいからだ。
太平洋戦争後、日本社会は7年の長きにわたって米国に占領支配された。この間、米国と自分たちの生活水準の差を思い知らされ、「米国の生活が理想的」という意識を日本の庶民は植え付けられた。
特に1950年代(昭和25年~34年)は米国自身も幸福の絶頂期であり(※3)、黄金の50年代と呼称されるほどであったので、この時代を連想させるものは日本でも理想とされた(※4)。朝鮮戦争特需で経済が立ち直り始め、生活にようやくゆとりが出てきた頃に、「お手本」の米国は他に類のない繁栄を手中にしていたのだ。憧れずにはいられまい。
そんなわけで、米英国から日本へ人気曲が流入することは、雨が地に降り注ぐくらい、抵抗のない物事の流れであった。
しかし。
その逆となると、今度は地上から宇宙に向けてロケットを打ち上げるくらいの労力を要求される。
日本の歌を米英で流行らせる。至難も至難、そもそもよほどのもの好きでなければ、植民地同然の日本の歌を米国人が耳にすることさえなかっただろう。
昭和50年代、そんな時代背景の中でタケカワは米国の人気番付入りを目指そうとしたのだ。

過去に日本人歌手でビルボードに入選した事例については、次の記事で並べられている。
http://q.hatena.ne.jp/1093605614
坂本九の「上を向いて歩こう(米国題名スキヤキ)」が1位に入選したのは奇跡といってよい。この歌が米国で成功した原因は、「音楽情報を発信できる立場の」人材に会社が働きかけ、それが功を成したからだ。
『SUKIYAKI』秘話


通常の米国への進出法は松田聖子やピンクレディーのように、日本で相当に成功して、その財力を基盤にして「改めて」「ほとんどゼロから」米国で宣伝活動を開始していうものが先ず常道だっただろう。ピンクレディーのように日本全土を席巻したような存在でも、米国への進出は実に中途半端に、短期間で終わってしまった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Pink_Lady_and_Jeff
日本に起源がある歌手の中で、米国で最も成功した、安定した業績を上げたのは宇多田ヒカルなのだろうか。彼女の場合は育ちも米国であり、元々米国で初お目見えすることも決まっており、「米国市場のための」作品の製作を開始していた。宇多田が日本に先に登場したのはあくまで予定外だったという。
宇多田はどちらかというと、「日系米国人が米国で成功した」という図式が正しいように思う。
日本を拠点にして「俺は米国で成功したい」という野望を持って成功した存在としてラウドネスがいる。彼らは米国進出の戦略として、現地に有力な人脈を持つ人材を、レコードの製作責任者に据えるなどの対策をとっていた。
ウィキペディア:LOUDNESS


・・という具合に並べていくと、タケカワの掲げた「ビルボードを目指す」という目標に向けて、はたしてゴダイゴ陣営がどれだけの戦略を持っていたのかと考えてしまう。
彼らの音楽製作責任者は、所属事務所の経営者である奈良橋陽子とジョニー野村が担当した。米国に人脈のありそうな人材の登用がなかったか検索してみたが、見いだせなかった。
となると、音楽性以外で「海外進出のために」彼らが武器にしたのが、奈良橋の英語歌詞とタケカワの流暢と思われる英語発音だけということになりかねない。
これでは彼らの夢が成功するには、由紀さおりのごとく、たまたま奇跡的に「米国で音楽情報を発信できる立場の」人材の耳に彼らの歌がとまる以外ない。

昭和51年「僕のサラダガール」でゴダイゴの実績が始まった。澄んだ海を覗き込むような透明感の溢れる曲調の歌だ。
これはこれで素敵な歌だと思う。
だが、海外市場を目指していたにしては、感覚のずれを内に含んだ歌だった。
ウィキペディアに次のような逸話が紹介されている。
『「僕のサラダガール」はゴダイゴのデビュー曲でもあり、この曲のイメージを作詞者である奈良橋陽子に伝えたところ、外国生活の長かった彼女は当時の日本人が「サラダ」に連想した「清潔・新鮮・お洒落」のイメージを共有できず"頭がサラダになっている女の子”を想像し、大笑いしてしまったという逸話がのこっている。』
「イメージを共有できず」の部分の下線は僕が加えた。なぜなら、ゴダイゴは世界(ただし米英圏)を目指しているのに、より米英圏の感覚に近いはずの奈良橋の感性に合わない、「理解がずれた」歌を初っ端から作っていたのだ。
「英語で歌いたい」という気持ちだけが空回りしていたのかと想像してしまう。
シングル盤としては6作目になる「ミラージュのテーマ」までは、満足を得るような結果(営業成績)をゴダイゴはあげられなかったようだ。

日本人発の英語歌を流行らせてやろう
日本からビルボードを目指そう
ゴダイゴの時代(昭和50年代頃)はまだ、若者が野心を持つのが当然の時代だった。
当時はどことなく社会的規範や慣習の締りが緩くなっていたと思う。だから、歌の世界の常識をひっくり返そうという野心を持つものは大勢いただろう。
安保闘争は挫折しまくり、政治の世界ではな~んにもできなかったが、若者文化の狭い世界なら、オヤジ達の視界から外れた場所なら、限定的でも価値観のひっくり返しができんじゃねえか!?
-日本の古い歌にはもう飽いた
-これからは英語の歌だぜ
との意気込みだったのかどうか。
でも、だ。
いくら何でも、全て英語だけの歌詞というのは早すぎたのだろう。
確かに、洋楽という言葉も既に広まっていた時代だった。何といってもビートルズたらいう共通言語があったから、英語の歌に対する苦手意識も低下していたことだろう。
それでも、彼らの拠点が日本である以上、そして米国に人脈がないならば、先ず日本市場での成功がなければ、ビルボード入選は遥か彼方の空遠く、だ。
タケカワは「英語を生かすメロディーと、日本語を生かすメロディーは根本的に違うと気づいていた」。
慧眼である。全くその通り。
だが、それだけの凄い洞察力がありながら、タケカワは日本市場で「英語だけで勝負する」という戦略を選んだ。
言うまでもなく、歌は言葉の力、言霊によって人の感情に訴えかけるものだ。
言葉で感情を揺さぶりたいなら、基本的に相手の心に届く言葉を使わなければならない。
日本で活動を始めたのに、使う言語は英語。
それで、平均的な日本人たちの心を揺さぶれるか?
少なくとも、昭和の時代では絶対に無理だ。日本人が歌う英語の詞で心を動かされる聴衆なんて、当時の日本にどれだけいたことだろう。
心を揺さぶらない歌が流行るはずはなかろう。
ゴダイゴは追い詰められていた。

転機は昭和53年(1978年)だった。
この年、日曜の午後8時、当時は絶対的な存在だったNHKの大河ドラマの裏番組として、民放が特撮番組「西遊記」をぶつけてきた。主演は芸達者で有名な堺正章、そして夭逝したことが惜しまれる佳人、夏目雅子に加え、西田敏行に岸部シローという味わい深い配役であった。
特撮も円谷プロと東宝が担当し、僕も昔、チラリと目にした特撮画面はなかなか見ごたえがあったと記憶している。


残念ながら、僕は当時、人気を博したにも関わらず、特撮が凄そうだったにも関わらず、家庭の好み(大河ドラマ優先)で「西遊記」を観ることができなかった。
だが、それでもその主題歌は耳にしたものだった。
いや、耳にしたというものではない。
街中にタケカワユキヒデの声が溢れていたのだ。
ゴダイゴと奈良原が「西遊記」の主題歌として提供した「モンキー・マジック」、そして「ガンダーラ」。いずれもが大人気を博したのである(※5)。
前者は勇壮でありながら、ゴダイゴ特有の軽やかさを併せ持ち、後者は哀愁をこめながら、どこかにありそうでどこにもない、憧憬の理想郷を切々と語る、忘れえぬ名曲である。
「モンキー・マジック」はそれまでと同様に全歌詞が英語だった。しかし、「ガンダーラ」は日本語の歌詞も用意されていた。
『「ガンダーラ」はゴダイゴにとって初の日本語詞曲のシングルで、それまでは全詞英語が当たり前であった。またこのシングルが売れなかったら、ゴダイゴは解散しようという話にまで進んでいたという。』
ウィキペディア:ガンダーラ
日本語の言霊がゴダイゴの窮地を救った、と語ってもよいだろうか。「ガンダーラ」の歌詞は、日本語と英語が互いに補完し合って、聴く者の想像力をより刺激する結果となった。この歌から、「日本語と英語が共存する」日本独特の歌の様式が誕生したと言ってもよいように思う。
もしも、だ。従来通りの路線である、全て英語歌詞の「モンキーマジック」が単独で発表されていたら、どのような結果になっていただろう。もしかするとそれまでの歌と同様の運命をたどったかもしれない。通好みの「日本人が作ったカッコイイ英語歌」で終わっていたかもしれない。
その運命を「ガンダーラ」が変えた、と僕は思う(※6)。日本語の歌詞があったから、英語が物語る世界にまで想像を寄せることが可能となったのだと思う。英語による語りが、日本語によって生かされたのだ。
日本語から提示される世界観が、僕たちの日常の感覚と結びつく一方、英語の歌詞が日本語世界から少し乖離した別世界をだぶらせ、想像力を刺激したのだ。

うたまっぷ.com ガンダーラ

「誰もみな行きたがるが 遥かな世界」 - これを英語で語られても、恐らく僕たちの心にはさして響かなかっただろう。
だが、日本語で語られ、そこにゴダイゴの音と歌が加われば、そこにはまさしく「何処かにあるユートピア」が僕たちの目の前に浮かび上がるのだった。そして、そのユートピアへの「手の届かなさ」を、「Gandhara, gandhara」と、英語の詞が伝えるのだ。

この2曲でゴダイゴの人気に火が、炎が点いた。人気は爆発して広がり、彼らは一挙に人気の頂点に上り詰めた。
ウィキペディア:ゴダイゴ


他にも「ビューティフル・ネーム」や、昭和56年(1981年)に神戸市で開催された博覧会ポートピアの主題曲「ポートピア」など、彼らの音楽は明るく、輝かしく、同時に未来的であり、希望を感じさせてくれるものと受け止められ、当時の大衆から広く支持を得たのだった。
未来、希望、果てしのない夢の世界へ―ゴダイゴの歌から感じられる風は、まさしく銀河鉄道の車上に吹く風のように思われた。
東映動画はまさしく旬の歌い手だった彼らに、絶妙の時期に「銀河鉄道999」の主題歌を依頼したのだ。

作詞は奈良橋陽子と山川啓介二人が担当した。
日本語の歌詞を山川が、英語の歌詞を奈良橋が担当した。
誰の発案、提案だったのかは知らない。是非、調べたいと思うが僕にはできない。
だが、両者を同じ土俵に上げることに成功した発案者に絶賛の言葉を贈りたい。

最初に山川が歌い始める。
「新しい風に 心を洗おう」 - あの、まさしく山川啓介の世界を伝える歌詞だ。
同時に、この歌詞の中には映画「銀河鉄道999」が凝縮されている。
阿久悠の「あの鐘を鳴らすのはあなた」に通じる、人生の来し方行く末を見渡すような広い視点もこの言葉から感じる。
「あの人はもう 思い出だけど 君を遠くで 見つめてる」
少年の頃の僕は、この言葉を幾度、反芻しただろう。
そして、奈良原の短いながらも「旅」の本質をギュッと掴んだ言葉(A never ending journey)が続く。

ここには日本語と英語の奇跡的とも言える、物語世界を二つの言語で語りつくそうという強い意志の現れがある。
奈良原だけでも
山川だけでも
恐らくは達しえなかっただろう、奇跡的で幸福な言葉の出会いがある。
二つの世界の言の葉は手を取り合い、ゴダイゴ(タケカワユキヒデ)の幸せに満ちた調べにのって、銀河の彼方へと旅立っていく。
その飛翔感は発表より30年以上を経た今に到るも色褪せない。

なぜ山川が採用されたのだろうか。
ゴダイゴを手塩にかけて育てた奈良原も、よくも山川を受け入れたものだと思う。「ガンダーラ」を描けた奈良原だから、彼女単独でもそれなりに銀河鉄道の世界は示せたことだろうに。
だが、山川の参加は銀河に、真空の世界に風を吹かせた。爽やかな空気の存在を感じさせてくれた。旅立ちを迎えた少年の未来を目指すまなざしの光りさえも感じさせてくれた。この感覚こそ、山川の真骨頂だ。
そして、山川が少年に指し示した宇宙(そら)の輝きの中へ、身を投じた後、世界が変わったことを、奈良橋の英語の歌詞が実感させてくれる。
A never ending journey
今まで知らなかった、より広い世界へ。より遠い世界へ。
まだ誰も知らない世界へ!

山川は実は英語が苦手なのかもしれない。彼の英語まじりの歌詞というものを僕は知らない。中には彼が作詞をしたものを別の人間が英語歌詞に編詞した作品もあった。
Lullaby of the Milky Way(銀河の子守唄)

山川単独でも、あの、宇宙(そら)へ、宇宙へとかけあがっていこうとする英語歌詞の世界は生まれなかったことだろう。
ここには異なる言語の幸福な出会いがある。
どちらが主でも従でもない。
日本語と英語が共存、共同して、単独では再現できない新たな世界への憧憬を見事に描き出した傑作である(※7)。

二人の合作の成果は挿入歌である「テイキング・オフ!」でも見事に示されている。

うたまっぷ.com テイキング・オフ!

「汗ばむ夢の切符を握りしめ」た少年を見つめる山川のまなざし。
旅立ちの場面を描かせると、どうして山川はこんなにもすばらしいのだろう。
彼の言葉を受けて、奈良橋は「I'm taking off to the unknown」と返していく。
英語の歌詞が、999号の駆け上がる速度を加速させていく。
「若さが光を追い抜き 走り続ける」ほどに。

鉄郎の旅立ちの場面で挿入されたこの歌は、歌い終わった後も青木望のきらめくような編曲に旋律を引き継ぎながら、物語を牽引していくのだった。

「銀河鉄道999」に寄せたタケカワとミッキー吉野の音楽に触れて、この稿を終わろう。
メーテルを見送り、ただ一人駅に佇む鉄郎。
物語の終わりには寂しさが付き物だ。だが、夕陽が沈んで暗闇が訪れんとするその直前、明るく希望に満ちた音楽が始まる。
電子鍵盤と電子ギターの小気味好い、軽快な前奏が数秒続き、すぐに歌語りが始まる。
当初はゆったりとした静かな音楽にする予定だったが、編曲を担当したミッキー吉野が、軽快で元気な曲にしたのだという。
-さあ行くんだ その顔をあげて
君の人生は、これからなんだ。ここから始まるんだ。
走り出せ、前へ進もう。
そう呼びかけるような、夕陽のあとに広がる、きらめかんばかりの満天の星空のごとき音楽が、言葉とともに走り出す。
彼らの音楽作りは凝ったものではない。
鍵盤、ギター、ベース、ドラム。
米国の音楽家たちが行ったような多重録音、人工的な音作りはここにはみられない。
タケカワの澄んだ声をただ支える。タケカワの調べを自然のせせらぎのごとく再現する。
簡素だが、耳に優しく心地よく馴染む音が展開される。
歌が、調べが、すうっと乾いた僕たちの心を潤してくれる。
宮澤賢治が故郷の自然のささやきを聞きながら、書き残した詩の空気にも通ずる感覚かもしれないとすら思える。
音は高みへ高みへと目指し、いつしか僕たち自身が999号で星の中を旅しているようにすら感じられる。
歌を聴きながら、僕たちは今一度、物語を振り返る。
-あの人はもう 思い出だけど 君を遠くで 見つめてる
ここで曲はふと立ち止まり、懐かしい人に想いを寄せようとするが、「見つめてる」でまた歌は宇宙(そら)を目指して999号とともに旅立っていく。
-Will take you on a journey A never ending journey
いざ、宇宙(そら)の旅へ。
手を取り合って進まん。

「銀河鉄道999」は、僕の中ではゴダイゴの最高傑作であると同時に、最高のアニメ主題歌であり、更には最高の人生の応援歌なのだ。
この主題歌は、東映側の予測を超える広い世代に、映画「銀河鉄道999」を受け入れさせることに成功したのではないだろうか。
この主題歌は今も色褪せない。今も愛されている。
そして、自らとともに、映画本編にも永遠の命を吹き込んでいるようにも思える。
正に映画に施された最高の、アニメ映画史上最高の仕掛けであった(※8)。

次回は「交響詩 銀河鉄道999」。

※1)タケカワの旋律とこのミッキーの編曲は、時代を越えて人に活気を与えてくれるようだ。21世紀にはいってからもEXIELが再歌唱し、最近でもユニクロの企業宣伝に利用されている。
※2)引用しておいてなんだが、何だ、このお花畑な煽り文句は。
※3)「黄金の50年代」とよく呼ばれ、米国人の郷愁の対象でもあるようだ。耳学問でしかないけれど。欧州や中国は戦後の混乱期の只中であり、ソ連はスターリンの恐怖政治の時代。第三世界はまだまだ発展途上。経済、文化ともに絶好調で米国の独り勝ちの時代だった。とはいえ、朝鮮戦争は米国にとって「なかったことにしたい」くらいの存在であるようで、関連する著作も少なく、さりげなく日陰の扱いにされているし、マッカーシズムという思想弾圧も大気汚染のようにじんわりと社会に蔓延した時代でもあった。
アメリカの1950年代に関する記事をいくつか。
1950年代のアメリカ
アメリカ合衆国の経済史1945~1973年
ウィキペディア:マッカーシズム
※4)さりげないところでは、あだち充がTVを通してみた50年代を舞台にした米国の家庭劇にあこがれを感じたという。広い庭、芝生に水をまくさりげない日常、大きな冷蔵庫などの装置を、あだちも「みゆき」などの恋愛喜劇の中でちりばめながら描写していた。


※5)前にも触れたが、昭和54年の紅白でゴダイゴにこの歌を歌わせなかった関係者たちに呪いあれ、だ。
昭和54年の年間売上1位をゴダイゴは獲得した。しかし、当時は歌謡曲、ロック、フォークソングを含め、多士済々が揃っていた時代であったので、ゴダイゴですらシングル盤の売り上げ1位を得ることはできなかった。
ウィキペディア:1979年の音楽
※6)実際、先ず僕の記憶に残ったのも「ガンダーラ」が先だった。「モンキーマジック」については記したごとく、「何となくかっこいいいね」で終わっている。
※7)以後、日本語と英語が共存するアニメソングは多数生まれた。富野善幸も「哀・戦士」「めぐりあい」で両言語の共存する形で物語世界を描写した。彼の作詞に「銀河鉄道999」が影響しなかったはずはないと思える。この傾向はやがて先鋭化して、「銀河漂流バイファム」主題歌「HELLOW, VIFAM」の全英語歌詞のアニメソング誕生をもたらす。




※8)以後も東映は知名度の高い歌手に映画の主題歌を歌わせたが、この映画と主題歌以上に受け入れられたものはなかった。


216/6/25 むらかみさんからのコメント再録
「僕のサラダガール

サラダガールがとんでもないイメージをはらんでいるのは
その通りなのですが、あれはカネボウ化粧品が「僕のサラダガール」
というテーマでCMソングを公募していたために、そのフレーズを
使用しなければならなかったという話だったはずです。
実際、作詞は奈良橋陽子さんですから、変えられるのであれば
変えてたはずです。
きっと応募に勝ち残ってメジャーになるための苦渋の選択だったのでしょう。」
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