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悪か正義か、正義か悪か トリトンはどこへ行きついたのか?


さらばトリトン

「海のトリトン」は作家富野由悠季の原点だ。
善悪の主客をひっくり返した最終回は伝説となり、「ザンボット3」最終回、イデオン「発動篇」とともに僕のような人間の心の経典になった。
ただし富野自身の評価は、いつものごとく批判的だ。制作過程の全てに関われなかったことについて、「作品に精液をかけられなかった」と、偽悪的な彼らしく、生々しい本能を迸らせた表現で悔やんだ。
あこがれの手塚治虫の原作を戴き、それを素材に「真のメルヘンアクション」を目指した富野だったが、彼が思い描いた「水平線の向こうの物語」、誰もみたことがない、美しい海中を舞台に繰り広げられる、水棲人間たちの壮大な戦いの物語を、彼の望んだ姿で具現化することは叶わなかった
僕にとって初めての三十分物でありながら、教範のまったくないストーリー創りからの仕事にはいった。メイン・ライターには松岡清治さんとのちに「ザンボット3」や「ダイターン3」の文芸担当にもなってくれた鶴見和一君(学生だった)などが中心となって、トリトンとアトランチス大陸の因縁話の創作にとりかかった。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」266頁より

しかし、自分の思いや考えが脚本家や作画家たちにうまく伝わらないもどかしさを繰り返した末に、富野は最終回の脚本を自分で書いてしまう「暴挙」に出た(※1)。
己の思いを十分の一もシナリオ化してもらえず、己の思いの二十分の一もフィルム化できなかったという実感に僕は自分を嫌悪した。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」270頁より引用

あの落としどころだけは、1クール終わった時点ぐらいで思いついていたんですけど、誰にも言いませんでした。だから26話のシナリオは僕が書いているんです。書いているというのも実は嘘で、ぶっつけ本番でコンテで仕上げました。どうしてそういう風にしたかというと、TVマンガのシナリオライターがはっきり言ってとても嫌いだったからです。子供のものだからと、バカにしているんですよ。だからああいう設定を用意しても、彼らに却下されるだろうというのがはっきりわかっていました。それは説得出来るものではないと覚悟がありましたから、慇懃無礼で最終回はシナリオから僕がいただいたのです。これはもう職権乱用です。ですから「海のトリトン」で仕事をしたライターは、僕のことが大嫌いです。打ち上げも、制作部と演出の4,5人でどこかの旅館に行って何かやったという記憶しかありません。みんなで集まってどうこうってのはなかった。
キネマ旬報社刊「富野由悠季全仕事」1999年発行 64頁より引用


トリトンの脚本主筆である松岡清治は、歴史小説で名高い隆慶一郎に師事し、脚本家としての道を歩み始めた人だ。
彼の仕事の大半はTVアニメの脚本であり、特に旧東京ムービー(現トムズエンターテイメント)関連の仕事が目立つ(※2)。
後は数本だけだが、特撮作品「魔神ハンターミツルギ」や仮面ライダー作品、そして成人向け映画の脚本を数本執筆している。
してみれば、松岡の主戦場はアニメなのだ。その彼が、アニメを「子供のものだからと、バカにして」いただろうか。
富野の言動に対する、松岡の批判や反論の類は探すことはできなかった。
それでは松岡以外の執筆陣、辻真先、宮田雪、松元力、富田宏の面々はどうであったか。ちなみに、松本と富田の脚本家としての業績は、わずかしか残されていない。ネット上で検索できたのは、せいぜい数本くらいだった。
宮田はある程度の仕事を残しているが、彼もまた、その大半はアニメ作品である。
では、辻真先はどうか。彼はそれこそ、日本のTVアニメを黎明期から支えてきた功労者であり、むしろアニメ外の人間から、「あんたまだ、ドカーンとか、ボカーンとか、そんな本かいてんのかい?」と揶揄されて(※3)、腸の煮える怒りを日々、感じていた人であり、アニメの仕事に誰よりも誇りを感じいていたはずの人だ。

腰掛のように脚本を書いた3名はともかく、松岡と辻については「子供のものだからと、バカにして」いたとは到底、思えない(※4)。
そして、嫌われたはずの辻と富野は、後に対談もしているのである。
富野喜幸の世界
富野・辻対談
↓対談の採録あり
富野愛好病:演出家と脚本家の対決 〈富野由悠季・辻真先〉対談(前半)


だが、「子供のものだから」こその「規範」を求めた可能性はある。
「子供のためのTVアニメは、根底にある勧善懲悪を覆してはならない」
その一点で、脚本家たちと、それすらも覆そうとする富野との間に理解の溝ができたかもしれない。
「規範」があるが故に、富野が伝えたい意図が全く伝わらなくなってしまうこともあったのではないか。富野側から「規範」に抵触した発想が出てきたら、自動的に脚本家たちの意識から排除されてしまった可能性がある。そうした「規範」を順守しようという姿勢が、富野には「バカにして」いるように見えたのだろうか。
己の日常をみても、事情が少しでも入り組んでしまうと、説明してもこちらの意図が全く伝わらないことは珍しくない。こちらは淡々とただ事実を伝えているだけなのに、いつの間にか話がすり替わって「誰それの責任だ」ということになったりする。ちげーよ。

ましてや、富野の革新的な発想は、従来の常識の中で物語を熟成しようとしていた人々の理解の範疇を超えていたかもしれない。
たぶん、この監督と脚本家との意志疎通について富野に問いただせば、物語論に始まって、脚本とは何か、人との相互理解とは何か・・・・云々を熱く何時間も語ってくれるのではないだろうか。
人とは「日常的に誤解し合う」ものだ。
そんな人という厄介な存在を相手に、何をどのように語れば、自分の言いたいことが伝わるのか。
いや、どれだけ伝えられるものなのだろうか。
監督と脚本家の意志疎通という命題は、終局的には「人は理解しあえるのか」という命題に行き着くのかもしれない(※5)。

しかしながら、すったもんだはあったのだろうが、トリトン制作陣の作り上げた世界観は、今もって味わいがあり、個性が際立っており、印象に強く残るのである。
超エネルギーオリハルコンを開発し、高度な文明と豊かな生活を謳歌したトリトン族。
その影でオリハルコンの人柱にされて、歴史から抹消された人々がいた。
ところがトリトン族の意に反し、彼らは生き長らえた。ポセイドン族として復興し、己らを見捨てたトリトン族への復讐を開始した。
オリハルコンの力を逆利用してトリトン族の本拠地、アトランチス大陸を海底に沈めた。そこから世界各地に離散したトリトン族を一人一人、探し出しては抹殺した。
一人も生かしてはおかない、徹底した殲滅作戦を展開した。ナチスへの復讐を、戦後、どれだけの年月が過ぎても決してやめないユダヤ人のごとく。
世界の海に大幹部を配属し、戦闘指揮官の任を負わせた。配下には凶暴な巨大アンコウやギンザメを集めて軍団化した。
そして、世界中の海にクラゲたちの監視網を敷いた。トリトン族の情報がはいれば、彼らに「トリトン、みつけたあ~・・・」とモールス信号に似た手段で、次々と情報を伝えさせた。
更に、瞬間移動能力と強力な毒針攻撃の力を与えたタツノオトシゴたちを、直属の親衛隊にした。彼らはマーカス暗殺部隊と名乗り、ポセイドン族の代弁者となった。
マーカスたちは大幹部たちに命令できるだけでなく、命に背けば暗殺するだけの権限も与えられていた。一癖も二癖もある大幹部たちを恐怖で制御し、ポセイドンに従わせた。彼らはポセイドン族の「力による支配の象徴」だった。

先の証言によれば、この物語背景は富野一人ではなく、松岡らが創り上げたものだという。
子供の頃、僕はこのトリトンの世界観がかなり好きだった。というか、印象に残った。
わけても「トリトン、みつけた~・・」と、クラゲたちがささやきながら信号を送る場面が記憶に強く残った。
なぜそうだったのだろう? トリトンに逃げ場がないと感じて、それが知らず、恐怖として僕の心に残ったのだろうか。

ポセイドン族の大幹部たちも個性的だった(※6)。
前半で活躍したドリテアとポリペイモスの功名争いや反目は、なかなかに味わい深かった。ポリペイモスの造形の妙と、彼を演じた加藤精三の声質は、全く独特であるとともに強烈な印象を残した。
そして、ミノータス。北の海を支配し、前半、アザラシに守られたピピを監視する立場で登場した。柴田秀勝の渋い声が、圧倒的な存在感を醸し出していた。
彼は氷の息を吐き、大勢の敵を一気に氷漬けにして殺せる絶大な力がある。それだけの力がありながら、トリトンとピピが北の海から脱出し、「ここから潮が暖かくなる」場所まで逃げ切ると追ってこなくなる。
強大な力がありながら、ある意味、北の海という「土地に縛られた存在」であることが、極めて神話的に感じられた。
ミノータスは一度、物語の舞台から姿を消す。しかし、物語の終盤でトリトンたちがポセイドンの本拠地に迫ってくると、土地の結界を解かれて大西洋まで南下し、再登場する。ポセイドンの切り札のごとく、トリトン抹殺に動くが、成長したトリトンに返り討ちに会う。
一度、表舞台から去って、また復帰する敵役(かたきやく)。
シャア・アズナブル、ギジェ・ザラル、バーン・バニングス・・・彼らの原型とも言える。
また、トリトンが次々と敵を撃破して言っても、「それでも北の海にはミノータスが控えている」いう隠れた存在感を示し、物語に重層的な深みを与えていた。

実を言うとポセイドン族と言えば、巷ではヘプタボーダが有名だが、僕は本放送の時の彼女の逸話をみていないので、どこか思い入れが薄かったりする。
しかし羽根章悦(ゆきよし)の描く彼女は端整で美しかった。

とつらつら書いていると、彼らやトリトンを具現化した羽根の筆の凄さについて触れたくなる。
気品さと荒々しさがほどよく同居する羽根の描線は、今みても惚れ惚れする。
無論、全ての逸話がそうとは言えず、仕上がりのよくない回も当然ながら、存在する。羽根一人で全ての原画を描けないのだから仕方がない。
しかし、羽根が気合をいれて作画した逸話は、今みても実に描線と動きが美しいのだ。
少なくとも、5年後に制作された「ザンボット3」よりは遥かに端正で、美しい描線だ。
「ザンボット3」では安彦良和が人物造形のみの参加にとどまり、総作画監督をおけなかった。「ザンボット3」の作画は、改めて観ると一定の質は保っているのだが、今一つ「雑な」作画という印象が残っている。(金田伊功らの作画は置くとして)。
力量のある作画監督の存在がいかに大きいかを思い知らされる。
さて、昭和47年(1972年)当時と言えば、
丁度この頃、アニメの制作過程における革命的な出来事がありました。トレスマシンの登場です。トレーサーが動画の線を1枚1枚ペンでセルに写し描くハンドトレスから、動画とセルの間にカーボン紙を挟んでトレスマシンにかけ、動画の線を直接セルに転写するマシントレスへの移行は、アニメ制作の省力化を目指すものでしたが、同時にそれは原動画の線のニュアンスをそのままセルに乗せることで新しい表現の幅を広げることにもなりました。

⇒WEBアニメスタイル アニメーション思い出がたり 五味洋子 その15より引用
この時期のアニメは上に引用したように、作画家(原画)が描いた鉛筆線をそのまま動画に転写できる機械の登場により、初代「タイガーマスク」などの画風がアニメ界を風靡した。


羽根もまた、特にポセイドン側を描出する時、荒々しいタッチの鉛筆線を多用して、彼らの獰猛さ、力強さを表現した。
羽根の場合は書き込みを押さえた端整な線と、その逆の荒々しい線の書き込みを状況に応じて巧みに使い分けていたと思う。
「当時のTVアニメでよくもここまで描きこんだ!」と驚かざるをえないような作画もあり、今や必ずしも知名度が高いとは言えないが、羽根の実力の高さを思い知らされる。海上での波の描写など、今ではCGで処理される場面も、彼ならではの描線が活躍している。

そして、何といってもこの物語を忘れえぬものにしてくれたのが、鈴木宏昌の音楽だった。
詳しくは次の回に譲るが、彼の静と動を見事に描き分けた個性的な音楽は、いつまでも僕の心に残り、その音楽とともにこの「海の」物語もまた、いつまでも忘れられない存在となったのだった。


さて、ここからが本題だ。
「海のトリトン」を一言で語るとするならば、僕は「死の匂いに包まれた物語」と答える。
最初から最後まで、この物語はひたすら、「死」に満たされていた。
「死」は常にトリトンの傍らに寄り添い、登場人物のみならず、画面に登場しない存在すら、逃げようもなくその懐に飲み込まれていった。
そして、ここに描かれる死は、常に静謐であり、命は波のように風のようにいずこからともなく現れては消えていく。
そこには生々しい感情も執着もない。
怪獣サラマンドラは巨大な岩に押しつぶされて死ぬが、その死にざまは直接描かれず、吹き上がる波が朱く血で染まったことで示された。
怪獣デモラーもやはり氷山に押しつぶされるのだが、その死体は遠目でのぞくように描かれるので死の実感は乏しい。しかし、トリトンの足もとの氷の大地に真紅の帯が広がっていく描写によって、デモラーから大量の血が溢れだしている事実=死が観る者に伝えられる。
また、長老プロテウス率いるアザラシたちはミノータスに全滅させられるのだが、彼らが殺される直接の場面は描かれない。氷の中に封じ込められた彼らの姿が、一瞬、映し出されるにとどまる。その様はまだ生きているかのようだ。
大亀メドン、大幹部ドリテアはいずれも海底火山の噴火の中に消えていった。
イルカ島が爆発で崩壊する逸話では、大勢のイルカたちがポセイドンの強大な力に翻弄され、成す術もなく消えていった。
怪魚ラカンはオリハルコンの輝きの中、まさに光に溶け込むように実態を失うことによって、死を迎えた。
中でも印象深いのは、とある老人の描写だ。
とある島にトリトンが立ち寄った時、漂着したのか、一人の老人が彷徨っていた。トリトンが他のことに気をとられてから、その場に戻ると、もうその老人の姿はなくなっている。
「波にでもさらわれたのだろうか」
その一言で、老人の登場は終わる。
物語の筋とは一切、関係がない老人の幻のような死。死んだという事実さえあいまいにされた老人は、果たして本当に存在したのだろうかとすら思える。
唯一、生々しさが残されたのは、ポリペイモスの腹いせに殺された、孤独な恐竜の死の場面と、その直後に訪れるポリペイモス自身の死だった。しかし、それすらも静けさに満ちている。

そう、トリトンの周囲には、数えきれない死が溢れていた。
敵も、味方も、トリトンとピピが生き残るための糧となって、ことごとく死んでいった。
物語の終局では、敵ポセイドン族の全員がオリハルコンの贄となり、ことごとく水死した。
画面に登場した人数はわずかだが、その数は千か、万か?
物語の背景で語られるのみのトリトン族の死も含めれば、一体、どれだけの命が費やされた果てに、トリトンとピピが生き残ったというのか。
敵味方もろとも国滅び、生き残ったのは片方の国の王と王妃だけという有様といえる。
しかもその先、トリトン族に本当に未来が開けるというのか。
富野は語る。
あのトリトンが、いま、一体どのような空間で生きているのかは知りません。ピピとは一緒であっても、幸福かどうかは知りません。なぜならば、同族でたった二人だけの生き残りでは、子供を生み育てても二代か三代限りでしょう。トリトンがそんな簡単に種族の生き残りの方法を発見できたとは思えないのです。
角川スニーカー文庫版「だから僕は・・・」275頁より

そうなのだ。
数えきれない死を費やして得た、「トリトン族の存続」とは、かくも「か細い儚いもの」だったのだ。
それを思ってか、富野は物語の最後の場面にピピすらも登場させなかった。
今更ながらにこの場面をみて、僕は「滅び」という言葉を思わずにはいられない。

改めて問う。数限りない命が失われた末に、二人のトリトン族が生き残った。彼ら二人にそれだけの「価値」があったのだろうか? これだけの犠牲を払っておきながら、その結末はと言えば、「トリトン族の静かなる自滅」かもしれないというのに。
だから、命の価値を多数決で決めるなら、トリトンの存在自体が悪ではないのか。
たった一人のトリトンが、小国家とそれにまつろう複数の部族を滅ぼした。トリトンを支援する部族も、全てではないが巻き添えにした。
そのトリトンですら、部族復興を成しえぬまま、死を迎えることだろう。
どうみても、数の論理で言えば帳尻が合わない。
もしもトリトンが海に出なければ
もしもオリハルコンの剣を捨てていれば
もしも、事情を知ったトリトンが、行く末に待つ惨劇を見通す洞察力を持っていて、死ぬべきは自分自身であると、命を差し出していたら
トリトンの死によって、世界は「不幸」になっていただろうか?
ポセイドン族の支配は続くだろうが、海の秩序は保たれただろう。彼らの最大の目的はトリトン族の殲滅であり、彼らが敵視し、迫害するのはトリトン族とその支援者のみだ。
それ以外の部族がどのように生きようとも、彼らは関知しなかっただろう。つまり、彼らの支配下では、生死は自然の流れに任せられていたのではないのか?
オリハルコンの脅威さえなくなれば、彼らは安心して海底で静かに暮らし、海の住人たちに必要以上の介入は行わなかったかもしれないではないか。
他方、ピピは、プロテウスらアザラシ族の庇護の下、たった一人のトリトン族として年老い、死んでいったかもしれない。
だが、それが不幸か?
何もかも失った後、本当に愛し合えるかどうかわからないトリトンと「やむをえず」結婚して、わずかばかりのイルカ族に支えられて、近親相姦するしかない子供を産んで、それで幸せなのか?
トリトンと出会うことなく、好きなようにわがままを言って、アザラシたち崇められながら、女王として老いて死んだ方が、ピピには幸せだったという考えも成り立つのではないか。
ポセイドン族としても、オリハルコンを持たない女性のピピであれば、ミノータスの監視の下、軟禁状態において、死ぬのを待つだけの余裕はあっただろう。1万年も待ったのだ。あと数十年待つことなど、雑作もない。

だが、トリトンは海に出てしまった。
まだ少年で人として成熟していないトリトンを、ルカーが海へ連れ出してしまった。
愚かなルカー。
かつての支配者、トリトン族の命ずるままに、馬鹿の一つ覚えのように「トリトン族の再興」を目指すだけの存在。
行く手に待つ滅びを見通すだけの思慮もなく、気性の合わないピピにトリトンを無理矢理引き合わせ、二人の諍いにうろたえ、状況を受け入れられない二人には、ただ「仲良くしなさい」「おとなしくしていなさい」と一方的に諭すだけ。
もちろん二人を盲目的に「愛していた」。下僕として、教育係として、身を挺して二人を守ろうとした。
だが、彼女は自分の思いを一方的に伝えるだけだ。「本当にこの二人が幸せになるにはどうしたらいいか」という考えは、ルカーにはない。
どこまでも目的は「トリトン族再興」であり、トリトンとピピがこれを拒否することは絶対に認めないのだ。
トリトンを虐殺へと駆り立てた張本人とすら言える。
少年であるトリトンは、不平不満をいうことはできても、ルカーの考えを論破し、オリハルコンにまつらう悲劇を回避するだけの能力はなかった。
彼にあったのは、「わけもわからずポセイドン族に殺されてたまるか!」という、「純粋な防衛本能」だけなのだ。
ただ「死にたくない」「生き延びたい」という気持ちだけの少年に、ポセイドン族がオリハルコンの秘密という最重要機密を告白し、話し合いを持ちかけようはずもない。
彼らのトリトン族に対する恨み怒り憎しみは1万年も続いているのだ。
彼らは言うだろう。
恐ろしいトリトン族がオリハルコンの悪しき力をもって、母なるポセイドン族の都に襲い掛かってきたらどうする。滅びの道を歩むだけだ。
それだから、物語の構造上、トリトンは「虐殺の旅」に向かうしかない。

ならば問う。「虐殺者」トリトンは悪か?
多数決の思考に基づくならば、絶対的に悪だ。
繰り返すが、トリトン一人の死があれば、その何万倍、あるいは何十万倍もの命が恐らくは失われずに済んだことだろう。
大友克洋が監修した映画「メモリーズ」の中に「最臭兵器」という逸話がある。
ある手違いで、主人公は非常に危険な物質を全身から放出する体質になってしまった。しかし、本人は自分の体質変化に気づかず、上司から指示された通り、何かを会社まで運ぼうとする。
自衛隊も含め、主人公以外の人間は皆、主人公を殺害しようとする。主人公はそんなことも知らず、できるだけ早く会社につこうとする。機転をきかせ、自衛隊の包囲網を突破し、会社に向かう。最後には彼は自衛隊の裏をかいて、危険物質を放出しながら「無事に」会社に到着してしまうのだ。
僕はこの映画をみてイライラした。主人公の鈍感さと不要な機転、そして彼の「空気の読めなさ」にとでも言おうか。
自分が危険な存在になっていることがわからないのか、お前!!
僕は主人公ではなく、主人公を阻止する側に共感していたのだ。
お前一人のせいで、どれだけの人間が危険にさらされるかわからないのか!?
と、いう思いで観ていたのだろう。
今にして思えば、ずいぶんと身勝手な話だ。
主人公は素直に命じられたままに仕事をしただけだ。責められるべきは指示を誤った側だ。
それなのに、自分の身が危ういから、自分だけでなく、他にもたくさんの人の身が危うくなるから、そして、主人公一人が死ねば全て「丸く収まる」ことから、僕は主人公に怒りを感じていた。
全ての負債を一部の人間に押し付けて、身の安泰を守ろうとする。僕の本性が暴かれたようなものだ。
さあ、「お前一人が我慢すれば、他の皆が幸せになれる。お前は黙って我慢しろ」-すなわち、「皆のために死ね」と言われた時、あなたならどうするか。黙って、得心して、それを受け入れるのか?
「南西諸島人は文句を言わずに、米軍基地を黙って受け入れてればいいんだ。そうすれば日本は中国に対して優位を維持できるんだから」という都会人たちは、自分が「お国のために不利益を黙って受け入れろ」と言われた時、どんな決断をするのだろうか?

公の精神、という言葉がある。この10年、20年、囁かれることが増えてきた。
僕などは小林よしのりの著作で目にすることが多かった。
「公の精神」とは「社会の規則を守りましょう、皆で社会の秩序を守りましょう」とする公共心よりも更に強い、「公のために身を犠牲にしましょう」という考えと理解している。
太平洋戦争後、左翼思想の台頭により否定的に捕えられるようになったが、潜在的に日本人はこの考えが好きだ。
最近は見かけないが、特に昭和50年代くらいまでは、味方のために特攻するという逸話がアニメ、一般番組を問わず、多かったではないか。
巴武蔵はゲッターチームを守るために恐竜帝国に特攻して死んだ。
神宮寺力はライディーンを守るために大魔獣に特攻して死んだ。
富野ですら神ファミリーを守るために神源五郎に、ホワイトベースを守るためにリュウ・ホセイに特攻させて死なせているのだ。
「公の精神」まで持ち出されると益々、トリトンは悪玉ということになる。

公の精神は尊い。僕はそれを否定しない。
だが、現実には「公のために私を捨てよ」という圧力は、常に多数派から少数派へ、強者から弱者へと向かうものだ。
多数派とは数を嵩にかかり、一部の人間に過剰な負担を強いるものだ。
「俺はあたしは多数派」と認識した時、人は少数派に対してどこまでも傲慢になる。

一人の命と多数の命。少数派の命と多数派の命。
だが、「多数派のために死ね」と言われた側に立たされた時、あなたは心底から「死ぬことが正しい」と思えるか。
「死ね」と言う側に全面の信頼と、彼らの自分への強い愛情を感じられたら、死ねるのかもしれない。
だが、基本的に傲慢である多数派のために、形だけの感謝とやらのために、死ねるだろうか。死んだ者への弔いの気持ちは、近しい者を除けば、しょせんはその場限りで終わる。
死んだ者から遠くなればなるほど、感謝の気持ちどころか、無関心を超えて、「馬鹿じゃないの?」と揶揄する者もいるかもしれない。
あなたは多数派のために、死ねるか?
死ねようはずもない。ましてや敵であるポセイドン族のために、死ねるものかよ。
1対10でも、1対1万でも、1対100億でも、「俺は死にたくない」と思った時、1は100億とも戦うだろう。
その時、1であっても「身を守る正義」は成り立ちえる。
数にものを言わせる多数派は悪となる。

ならば問う。ポセイドン族はやはり悪か?
たった一人のトリトン族さえ見過ごさずに殲滅しようとする彼ら。
自らの生存のためには子供の命を奪うことさえためらわぬ彼ら。
物語内では「悪漢ポセイドン族」と語られている。
そして、世界中にポセイドン族を憎む、嫌う存在が少なくないことも語られている。
その一方で、トリトン族と比べて、ポセイドン族の統治がどの点で劣り、どのように「悪かった」のかについては具体的に示されることはなかった。
子供番組だから、という小賢しい意見はやめよう。
彼らがトリトン族全滅を目指して、作戦への協力を海に生きる全ての部族に強制したからか。
大幹部とその軍団が横暴だったからか。
逆に、その時代を懐かしむほどに、トリトン族の統治は素晴らしかったのか。
だが、トリトン族はあからさまな暴力は振るわなかったかもしれないが、さりげない虐殺を微笑みながらやってのける種族でもあった。
恐らくは賎民の地位にあったポセイドン族(海中で呼吸する能力を持たない無能な輩!)をオリハルコンの生贄に供して、それを悪とも思わず、その命を尊いと思う観念も持たず、それどころか復讐されるとすら思わずに平気だった。
もっと言えば、生贄にしたポセイドン族のことを、命を奪ったという感覚すらなく、古墳に埋められた埴輪くらいにしか感じなかったのではないか。
いじめを行う側は、いじめをいじめとも思わず、その暴行行為のことすら、忘れてしまうものだ。
そんなトリトン族の統治とは、自分たちに都合のよい存在には微笑みを与えるが、そうではない存在には微笑みとともに死を与えたのではないかと、僕は思う。
だから、海の住人が基本的にトリトン族を支持するのは、彼らから「利益を得た存在しか生き残れていなかった」からかもしれないのだ。
トリトン族は、自らに反抗的な部族を、すべからく殺戮していたかもしれないのだ。

トリトンの両親は、トリトン族を再建せよと息子に命じた。その結果、どんな事態が起こるかなど、まるで考えていなかったことだろう。
両親が考えていたのは、ただ「トリトン族の利益」だけだ。トリトンを守ろうとすれば、イルカ族もアザラシ族もポセイドン族に抹殺されるかもしれない-そんなことは考えてもみない人種だったかもしれない。
否、考えたかもしれないが、「トリトン族の僕(しもべ)がトリトン族のために死ぬのは当たり前」としか感じなかったかもしれない。
それどころか「僕(しもべ)の死」を死とも思わず、部品の消耗程度に考えてのかもしれないではないか。
確かにポセイドン族はわずかに生き残ったトリトン族を抹殺しようとした。
しかし、過去に強大な勢力を誇ったトリトン族は、賎民ポセイドン族に一方的で身勝手な死を与えようとした。
トリトンと同じく、ポセイドン族は「死にたくない!!」と抗した。「生き延びる」ためにトリトン族を殲滅する道を選んだ。トリトン族が何千万人だろうが、何億人であろうが、自らとその係累を守るために殺した。滅ぼした。
立場は少年トリトンと変わらない。

最終回、ポセイドン族の海底都市で、幼子をかばいながら溺死した若い母親の姿が映し出されていた。
哀れを誘う姿だ。
と同時に、ポセイドン族自体は普通の人間と変わらぬ穏やかな生活、我々と同じ人生、同じ恋愛や結婚、出産をする人々であることを端的に示した場面でもある。
だが、あの哀れな母親が、オリハルコンの剣を持ったトリトン族の生き残りが、この海底都市を目指して次々と防衛網を突破し、迫っていることを知ったら、どうしていただろうか。
ポセイドン族の長老に向かって、きっと母親はこう叫んだことだろう。
「長よ、トリトン族の悪魔がもうそこまできています。
悪魔の力、オリハルコンが輝けば、私もこの子も助からないでしょう。
まだ生まれたばかりの子供です。まだいくばくも生きていないのです。
長よ、この子を哀れと思うなら、トリトン族の悪魔を殺してください。
たった一人のトリトン族のために、どうして私たちが、この子が、この子はまだ赤ん坊だというのに、どうして、どうして死ななければならないのですか!?
長よ!!
トリトン族に死を!」


僕は「1対10でも、1対1万でも、1対100億でも、「俺は死にたくない」と思った時、1は100億」とも戦うと言った。
通常ならば、1は圧倒的な力で抹殺される。
普通なら少数派また、あっさりと殺される。
だが、トリトンには、ポセイドン族には、数の論理を覆す武装が与えられた。
オリハルコンだ。この武器を使いこなすことができたから、圧倒的な数の劣勢を覆すことができたのだ。
それ、すなわち、正義は理念でもない、数ですらない、圧倒的な武装があるかどうかに帰結することになる。

結局、富野が提示したのは単に「善悪の逆転」だけではない。むしろ、人の行いに善も悪もない、人は常に善であると同時に悪なのだ。時と場所、立場が変われば、人の在り方など簡単にひっくり返ってしまう。それは人の行いが常に二面性を持っているからなのだ。
それすなわち、正に人の対立の本質を語ったものであり、その観点からみれば、富野は「虐げるものと虐げられるものの逆転劇」を幾つも描いた手塚治虫の正当な後継者と言えるかもしれない。
すなわち、手塚の鬼子こそが、勘当したはずの子供こそが、実は真の跡取りだった、そうとも言える。




「わけもわからず殺されてたまるか」
その心は「純粋な防衛本能」と結びつく。
放浪するトリトンはソロシップであり、オリハルコンの剣はイデを想起させる。
ひたすらオリハルコンを恐れ、トリトンもろとも抹殺しようとしたポセイドン族の心性は、イデの力を持った異星人に怯えるバッフ・クランそのものなのだ。
そして強大な力が解放された結果、両者とも滅びていく。

北朝鮮は弾道核ミサイルを手中にし、ISは人間爆弾とテロリズムを世界にばらまく。
強い力を持った者こそが正義だ。
生き残った側が正義だ。
しかし、そう言いながら、強い力は敵もろとも自らも滅ぼすのだ。
それが人の世の理だとすれば、僕は何に希望を見出せばいいのだろうか。

「海のトリトン」ドラマ篇LPの末尾、ルカーはTVにはなかった詞を吐く。
「さあ、今こそユートピアを」
思えば、ルカーはこの詞を吐くためだけに生きてきたのだ。支配者トリトン族の命を忠実に守り続け、自らの命を差し出す覚悟で、この時が来るのをずっと待っていたのだ。
ついにその時がきたのだ。
もしもトリトンが「ようし、ピピと一緒に新しいトリトン族の国を作るんだ! 行こう、ルカー!!」と返していれば、ルカーはもう思い残すこともなかっただろう。
だが、トリトンはその申し出を断るのだ。トリトン族の再興は、また新たな悲劇を産み出すだろうからと。
TVではこの件はない。無言のまま、トリトンはルカーに乗って水平線へと一人、消えていくのだ。
だが、このLPの締めくくりは物語の本質を見事についている(※7)。
北川国彦扮する語り部は淡々と伝えるのみだが、しかし、想像してみるとよい。
「トリトン族の再興はしない」-トリトンの返事を聞いた時、ルカーは耳を疑い、半狂乱になったことだろう。彼女には「トリトン族の再興を拒否する」という発想は皆無のはずだ。
「どうしたのですか、何があったというのですか、トリトン!?
これまで何のために、あれだけの苦しい戦いをくぐり抜けてきたのです。全て、トリトン族再興のためではありませんか。
あなたは王になるのです。いえ、ならなければいけないのです。ピピを妃にして、新しい海の支配者として、正しい治世を広めるのです。
トリトン、私はこの日のために生きてきたのです。ずっとあなたを見守り、この日が来るのを毎日、夢見てきたのです。
ああ、トリトン、私を驚かせないで。あなたは戦いの疲れで気が動転しているだけなんですよ。少し休めば、だいじょうぶ。
だから、トリトン、お願いだから私の願いをかなえてください。
お願いよ、トリトン!!」
最後には呪詛の詞に変わったかもしれない。
僕には、トリトンが断ったからと言って、ルカーがあっさり引き下がるとは思えないのだ。
愛情は憎しみに変わったかもしれないとすら、思う。

こうして紐解くと、この物語は「イデオン」を上回る絶望感に満ちているように感じられる。まだ、「夢の中でならありえるかもしれない、人の気持ちの融和」を幕引きとした「イデオン」の方が、幻としても救いがある。
だが、ここには救いはない、と僕は感じている。
トリトンとポセイドン族が理解し合うことはなかった。
理解し合うことの絶望的なまでの難しさ。富野はそれをニュータイプという人の在り方で克服の道を示そうとしたものの、「いや、それは精神への強姦に過ぎない」と口走ってしまい、結局はホモ・サピエンスとバッフ・クランをイデの力で滅ぼしてしまう。
あまつさえ、「理解し合うための在り方」としてのニュータイプは、便利な戦闘兵器に堕していく。
愚かなり、人よ。
滅ぶべし。



僕は、この稿を夢想で締めくくろうかと思っていた。
トリトンとピピが、ルカーたちととも、世界の片隅でひっそりと暮らし、子をなし、その子たちにも新たな血を外部からひっそりと引き入れて過ごし、今では還暦を迎えようとしている-そんな姿を思い描いていた。
しかし、ここまで書いてきて、そんな夢想はちゃんちゃらおかしくも思える。
そんなきれいごとの物語じゃあないんだ。もう、最後は惨劇だったんだよ!
僕の気持ちがそう言わんとしている。
しかし、ここはあえて絶望を抑えよう。
富野自身は、世界を肯定しようとしている。
あまりな偏屈でありながら、彼に敬意を持たずにはいられないのは、「より善くあろう」と思い続ける背中が見えるからなのだろう。
世界は悲しみで溢れている。
君は、悲しみを笑顔に変えることができるか?


悲しい文章になってしまった。次回は鈴木の音楽で、少し魂を癒してみることにする。

※1)この点については、富野も押井守と変わらない。しまいには脚本家を「説得」する作業も無駄と感じて、自分で脚本を書くようになる。
アニメに限らず、脚本を自分で書かないと納得できない監督が日本には多いのではないか? 分業体制が確立し、各職務の独立性が強固に保たれているハリウッドではそうはいかない。
※2)富野は喧嘩別れしたと言ってるが、松岡とはその後も「侍ジャイアンツ」(東京ムービー制作)で(単発ではあるが)一緒に仕事をしなければならなかった。それが仕事というものでもあったりする。
※3)アニメックで「SFアニメとは何か?」昭和56年発行第20号の辻の寄稿文に、こうした旨の記述があったと記憶している。強く印象に残っている。少数派に対する多数派の蔑視は今の時代にいたるも腹立たしい。
※4)ただし、仮面ライダー作品に書いた松岡の脚本は、内容が行き当たりばったりすぎるとお笑いにされている。もっとも、彼が参加した頃の東映特撮は、ちょうど人気も予算も下降線を辿っていた頃だった。当時を知る愛好家たちの間ですら、「世界征服をたくらむはずの悪の組織がどーして幼稚園バスばかり狙うのか!?」と笑い話のネタになるような、業界自体がどこかやけくそでおかしくなっていた時代なので、彼個人の責任とは言い難かったりする。
※5)僕は、富野という語り部が「本当に自分の語りたいことを語れているのだろうか」と疑問に思うことがある。
彼は一気呵成に素晴らしい物語を聞かせてくれることもある。しかし、「ザブングル」以降は1年間(あるいは半年間)の放送期間、お話を維持することに引きずられて、本音を語るよりも先に、「物語の体裁を整えること」に翻弄されているように思えることがある。そして、気がつけば彼が目指したのとは別の方向に話に行き着いてしまったのではないかと感じることもあった。
魅力的な舞台、世界観を設定しておきながら、それらを語りつくすことなく、目先の戦いを大きく広げることばかりに囚われて、最終決戦とともにあれこれの「物語」もうやむやのうちにおしまいになってしまう。
「ザブングル」も「ダンバイン」もそうだったし、巷では評価の高い「キングゲイナー」もそうだ。
確かに魅力はあるのだ。だから、総論としては「よい作品だった」として語られる。
だが、もっともっと、うわあ、このお話すげえなあと思わせてくれる物語世界へ進む道もあったんじゃないの、という未練を僕に残すのだ。

富野の作劇法には一つの絶対的法則がある。物語の軸を「必ず」戦闘場面に置くのだ。実質24分程度の時間枠の作中で、人の動きも感情も、全て戦闘場面に集約するように配置されている。とにかく、戦闘場面をいれないと気が済まないというか、強迫観念に襲われているんじゃないかと思えるほどだ。
「もう昭和の時代じゃないんだから、無理して毎回、戦闘場面ださなくてもええやんか」と僕が感じても、物語では構わず「○○出ます!」「××行きます!」「□□発進するぞ!」と、ドンパチへと舞台が変わる。
敵味方の団体戦で盛り上げる、少年ジャンプ的な娯楽路線を目指すならいい。だが、彼が語りたいのは、もっと別の次元の世界だったはずだ。
この「戦闘を軸にする」という演出の在り方自体が、作劇でも演出でも足枷にならないはずがない。戦闘という状況を語らなければならないという条件そのものが、否が応にも筋書を画一化するのではないか?
しかもTVアニメともなれば時間の尺が厳密に決まっているから、戦闘を描こうとすればするほど、戦闘に直接、関わらないことを伝える余地が奪われていく。
富野ほどの演出家であれば、そんなことは自明のはずだ。
どうして、「レコンギスタ」の時代でさえ、すぐに戦闘場面にいっちゃうのか?

「資金を集めて、優秀な製作陣を揃えて、じっくりと映画を作るという立場にたてなかった悔しさ、ロボットアニメが主戦場であるがために人間を、物語を描くことに力点をおけなかった腹立たしさ、こ、この監督の哀しみを、誰がわかってくれるか! だから、わしのこの怒りの全てをロボット物にぶつけさせてもらう!!」

ということなのだろうか。依怙地になっているとも思えるし、「ここまできたのなら、このやり方で語りつくしてみたい」という意地とも思える。
※6)物語の終盤で大幹部たちの出自が明らかにされる逸話がある。実はこの場面、何度か繰り返して見直さないとかなり大事な情報が伝わらないのだ。その大事な場面を、富野はさらっと流してしまう。何がどうかというのは、実際に観てみられるとよい。ビデオで繰り返し見直すという環境がほぼ皆無の昭和47年に、そんな演出をしてしまう富野、恐るべし。
※7)このLPの脚本は脚本主筆の松岡が書いたとされる。この幕引きの台詞をみる限り、彼は富野の求めた本質を的確につかんでいたと思えるのだ。だから、「子供向け」という束縛を排除していいのだと決めた時、松岡は富野の善き理解者になれたのではないのか。


最後に、最近出た対談集で、押井守はニュータイプとは単なる物語の味付けでしかなく、大した意味はない旨の発言をしていた。
その通りでもあるが、その通りでもない。初代ガンダム放送時にはやたら大袈裟に語られていた面があり、「ニュータイプをわからなければガンダムはわからない」「宗教論」のような捉え方もされていた。
そういう見方をしても無意味であることは僕も賛成だ。
だが、「人はわかりあえるのか」という命題は、常に富野の中心にある。
わかりあえているようで、実は全然、違うことを考えている。
でも、わかりあえていないようでも、どこかつながることもできる。
それが人間なのだ。
その点を踏まえてみれば、「ニュータイプ」は単なるお話の落としどころではすまされない、「富野の見た夢」なのだ。
なんて悲しい切実な夢。
そこを無視して語れるのは、押井が「人とわかりあう」ことに意義を見出していないからだ。
「自分が生き続けられれば、それでいい」
だから、押井は自分に必要な理解しかいらないし、求めもしない。
そこまで思い込めれば、ある意味、楽な生き方だ。
僕にはできない。
したくても、できない。


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