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[C87] 更新、楽しく拝見しました

以前、「コスモスに君と」でコメントした者です。
僕は「聲の形」「この世界の片隅に」は残念ながら未見で、正直なところ感心が低かったのですが、レビューを読んで一度見てみようと思いました。(正直、障害者とか太平洋戦争というテーマは苦手かも)
「シン・ゴジラ」は楽しめました。「君の名は」は残念ながらうまくだまされることができませんでした。2作の感想はブログに書いたので、良かったら見てください。あ、ゴジラはネタバレなのでダメか。
次の更新を楽しみにしております。

[C88] 管理人です

8823さん、コメントありがとうございます。
僕は割と「映画にだまされ」ます。「だまされたい」と思って観ているからでしょうか。
「聲の形」は「障害者が苦難を乗り越える」映画ではないと思っています。あまり語るとネタバレになるのですが、観る価値はあると思います。なんといっても、音響そのものが物語世界を築いています。これを家で再生するのは難しいんじゃないかと思います。だから、是非とも映画館で観てほしいです。
また、「この世界の片隅に」は「戦争で苦労しました」という映画ではないです。これは音楽が素晴らしい。

映画は好みも当然ありますが、僕はどれも何度でも観たいですね。

鈴木宏昌さんの原稿もぼちぼち書き進めています。
どうもありがとうございました。

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寄り道 映画三題



今年、映画は豊作だった。

もともとは「シン・ゴジラ」を観たかったのだが、時間が合わず、仕方なしに「君の名は。」を観た。公開してまだ間もない時期だったので、客席も割合すいていた。
これが観て、いたく感動した。
新海誠監督ならではの美しい情景描写、画面設計に見惚れさせられながら、前半の微笑ましいやりとりとともに、観客は楽しい時を過ごす。そして、その楽しさが当たり前のように感じられる頃になって、心をえぐられそうな喪失感に主人公は襲われる。
そこからの物語は「失われたものを取り戻せるかどうか」、ひたすら主人公に試練を負わせる展開になる。
彼は幾度も痛切な喪失の思いに飲み込まれていく。
意図的に配置された「3.11」の残像が、観客の記憶をあの日へと誘う。
監督は、あの日あの時、日本人の心に刻まれてしまった様々な喪失感を、この映画で慰めたかったのだろうか。
それが計算からくるあざとさなのか、それとも監督自身が切実に慰められたかったのか。
僕は後者だと思う。
 (独白;でも、あの日に本当に被災した人々はどう感じたろうか
主人公が大切なものを取り戻せたかどうかは、最後のぎりぎりまで曖昧にされ、「1分たりとも飽きさせない」という監督の目論見は、少なくとも僕には成功した。
-あの頃に帰りたい。
そんな思いで身につまされた時期がある者なら、この映画を観て当時の切実な想いが甦るかもしれない。
だから、これは映画館で観るべき映画だと言える。
この切実さは、映画館の中で物語に没入して初めて得られるものだから。

「君の名は。」は、多くの日本人の心底に恐らく潜んでいる喪失感を埋めたのではないか。
たとえ絵空事であっても
たとえ綺麗ごとだとしても
たとえ偽善とそしられても

もちろん人の感受性は様々だ。
「何がよかったのかさっぱりわからない」という意見が出ても、それもまたその人にとっては真実だろう。
周囲の熱に浮かされたような賞賛ぶりに違和感を覚えて、批判する意見もあって当然だ。
でも、映画の真価は、結局、「いかに多くの観客をだませたか」だと思う。これだけたくさんの客をだませた(感激させた)映画には、やはりそれだけの価値がある。
脚本の弱点をあげつらっても、そんなことを気にしないで感激した人間が多ければ、映画の勝ちだ。
「タイタニック」の興行的勝利も、畢竟、「陳腐なラブロマンス」を堂々とやってのけた結果だという意見を富野由悠季が残している。
何とかして救いたい! 観る者のそんな素朴な気持ちを掬い上げたからこその成功だろう。

大勢の人が「だまされた」結果、興行収入は12月の時点で200億円を超えたそうだ。
僕はアニメ贔屓だから、この映画が社会現象になって、歴代興行収入の頂点に迫っていることが単純に嬉しかったりする。「千と千尋」まではいかなくとも、できれば「アナと雪の女王」は抜いて欲しい。

RADWIMPSの歌をビデオクリップのテンポで画面と連動させる演出も、僕は素直に受け入れた。


さて、数年前なら、まだ何度か映画館に通える余裕があったのだが、気が付けばそんな時間も乏しくなっていた。後日、「君の名は。」をもう一度、観たくなって映画館にいったが、これまた時間が合わない。そこで、すぐに観ることができる山田尚子監督作「聲の形」を観た。
これまた行き当たりばったりな出会いだったが、それがまた、いたく心が震えた。
「君の名は。」とは空気が違う。
もっと生々しい息遣いが聞こえてきそうな物語だった。
劇中、葛藤を繰り返す人々の様は、観ていて息詰まるものがあった。

どこぞの報道番組では「障害者と少年の心の交流の物語」であるかのように紹介文が示されていたが、違う。誰が観てもそんな結論にはならない。
これは、いじめという罪を背負った主人公の「贖罪」の物語だ。
人をいじめた罪と罰を、主人公もいじめられ、生き地獄を味わった末に「贖罪」する物語だ。その果てにこそ、苦しみを突き抜けた主人公の、透き通るような感情の解放がある。
物語は主人公の少年と、かつて彼がいじめた聴覚障害のある少女の二人を追い詰める展開が続く。そこに以前、主人公と一緒になって少女をいじめた者たちが関わってくる。彼らは途中からいじめの対象を主人公へ変更し、肉体的にも精神的にも彼を追い詰めた者たちでもある。
結局、かつて二人をいじめた人間関係が、また二人を追い詰めていく。

悲しむべきは、自分自身がいじめられなければ、いじめられる側のつらさを理解できない、実感できない人間の醜悪さかもしれない。
映画を観ていて、絶対に見過ごせない点があった。
主人公以外のいじめに加担した者たちの「贖罪」はどうなったのか?
果たして彼らは「いじめる側」の心性から「いじめをしない」「いじめを阻止する」心性に変わったのか?
自分の犯した罪を自覚し、暴力を自覚し、自分は変わらねばならないという認識を得たのだろうか?
主人公は「贖罪」を経て、変わることができた。
しかし、それ以外の加害者たちはどうか?
映画は、監督は、あえてそこには踏み込まなかった。原作はまだ読んでいない。

だが、加害者たちは本質的に変わっていないと僕は思っている。むしろ、彼らは「最後まで加害者」だったのではないのか?
加害者の一人は聴覚障害の少女を「受け入れる」立場を選んだ。
受け入れる?
まるで「お許し」を恵んでやるような態度ではないか。
共存できるようにはなったかもしれない。相手を自分と対等と認めたかもしれない。
でも、自分が相手を傷つけた事実は認めようとしない。
それが現実?
あえて加害者全員に「贖罪」の機会を与えなかったのは、踏み込みすぎれば、きれいごとになってしまうという監督の意図だろうか。
確かに、主人公の変貌さえ、現実には起こり得ないような奇跡なのかもしれない。
いじめる者は「いじめられる者にもいじめられる原因がある」と主張するが、単に「いじめたいという欲望を抑えられない」己の凶暴さが原因であることを認めようとしない。
非を他者に転嫁する。それがいじめる側の論理である。
だからこそ、「いじめられた経験を通じて、人として蘇生した」少年の物語は、清冽であった。

↓以下の意見は非常に明解かつ説得力のあるものだった。
「理由なんて特にない」いじめの体験談を描いた漫画に大人がすべきことを学ぶ
はるかぜちゃん on Twitter
「いじめられる側にも原因がある」に対するはるかぜちゃんの指摘が相変わらず鋭かった件

繰り返すが、この映画の根幹にあるのは「いじめ」という罪に、人がどう向き合うかだ。
果たして、この映画では加害者の全員が「贖罪」するわけではない。
それでも物語は収束していくのだが、そこに危険がある。猛毒がある。
なぜというと、加害者たちが「免罪」を得たかに錯覚されるからだ。
和解したから全てチャラ-主人公たちだけが本当に苦しんで、あとの者たちは罪を免れましたとさ・・・・と、取ることも可能なのだ。
映画を観て、「いじめをしても許される=免罪」と受け止めるのか、「いじめた者は罪と罰を受け止めきってこそ、許される=贖罪」と受け止めるのか。
観る者の受け止めようによって、この映画は「感動ポルノ」にも、「傑作」にも変わりうる二面性をも有している。
いじめに親和性の高い者が観た場合、「お、皆、仲良くなってよかったじゃん」で終わってしまいかねない危険すらも孕む映画であるのは確かだ。

聴覚障害の少女の造形が可愛らしすぎて、現実離れしている、ご都合主義という意見もある。
そうだとも思う。
だが、作家とは、監督とは、「どんな手段を使ってでも、自分が一番いいたいことを一人でも多くの客に伝えることに成功すればよいのだ」と僕は思う。
確かに「甘ったるいケーキのような」人物設定なのだろう。だが、甘ったるい中にジリジリと喉に突き刺さる棘があることに気付いた観客がほとんどだろう。
「いじめ」を題材にして、幅広い層に受け入れられ、映画の知名度にしては十分な興行成績を上げているのだ。これまた原作と監督の絶対的な勝利である。

この映画もまた音響が素晴らしい。花火の場面は映画館ならではの臨場感にあふれていた。
この場面が今も心に突き刺さっている。



「この世界の片隅に」が映画化されると知ったのはたぶん10月頃だったと思う。本屋で特集雑誌(ムック本)が積まれているのを見たからだ。
もうずいぶんと昔、10年はたつだろうか。偶然、「夕凪の街 桜の国」を書店で手にしてからこうの史代を愛読している。
こうのは、どこかしら飄々としながら、生きることの辛さ厳しさをほんのりと伝える作風である。
「この世界の片隅に」もずっと心に残る作品だった。
以前にTV劇が放送された時も観たが、あまり話題にならなかったように記憶している。



でも、今度は、アニメ映画になる。もうすぐ公開される。
こうのの作画そのものが(大)好きなので、TV劇よりも遥かに期待してしまった。
これは是非、観なければと思ったものだ。
ただ、その時はまさかここまで人気が高まるとは予想すらできなかった。
こうの史代は熱狂的な支持者を持つ一方、世間的な知名度は決して高くはなかったからだ。
ところが、映画が公開されるや、素晴らしいと評判が口コミで広がった。
TVではほとんど宣伝されていなかったが、ヤフーでも何度も記事が上位に取り上げられるようになった。
後押ししたのは、映画を観て感激した人々の声だった。
主演の能年玲奈(のん)の演技も絶賛された。
「あまちゃん」以後、何かと暗い話題が続いた女優だが、判官びいきがあったにしても、「素晴らしい演技」という声でいっぱいになった。
ふだんは朴訥であっても、いざとなれば溢れてくる、内に秘めた激しさの気性も見事に表現していた。
観る者を主人公にのめりこませた演技は一級品だった。

この映画は大資本は制作に参加しておらず、片渕須直監督が自主的に企画・立案し、一般に資金を募り、完成した映画とのことだ。
だから上映館も限られており、大阪ですら、当初は梅田で2か所あとは吹田と、そしてなぜだか茨城の4館のみであった。
11月も下旬になって、評判を聞きつけたTOHOシネマなんばが別館で上映を開始してくれたので、僕も家族と観に行ってきた。
本館とは異なり、別館はずいぶんと施設が老朽化していたが、それもご愛嬌。
きれいなだけが映画館ではない。
評判を聞きつけた観客で、場内は満席御礼だった。

いざ、映画が始まると、そこはまさしくこうの史代の世界だった。
牧歌的で、童話的で、温かい衣に包まれているのだが、しかし紛れもない現実が硬い岩盤のように中心にある物語世界。
幸せなことも楽しいことも
悲しいこともむごたらしいことも
淡々と過ぎ行く人生として語られていく。
-どんな悲しみも、消えることはなくても乗り越えていける。
そういう気持ちにさせられる映画だった。
アニメーションとしても素晴らしく、この映像が2億5千万円という破格の低予算で制作されたと聞けば、関係者の力量と努力に最大限の敬意を払わずにはいられない。
もうすぐ180館規模に上映館を拡大するそうだが、いっそ300館くらいにしてしまえば、興行収入100億越えも不可能ではないように思われる(12月10日の時点ではまだ5億円らしいが・・・)。

ところで。
この映画は戦前から戦後にいたる時代を、実に生き生きと再現することに成功している。
本来、実写で役者が演じた方が生々しいはずと思ってしまう。
だが、こうの史代の描線による人々が、至極、平穏に生活する様が実に生き生きとして、役者が演じるよりも「ああ、生活しているな、いいな」と感じられる。
銀幕からは、戦争が始まっても、まだ初期の銃後の生活はそれなりに穏やかで、まだそこにはいっぱいの幸せが微笑んでいたことがしみじみと感じられる。
だからこそ、この生活の愛おしさがあるからこそ、やはりこの平穏が失われた時、観客は激しく胸を突かれる。

数年前の大河ドラマ「八重の桜」を観ている時も感じたことだがある。「八重の桜」の制作陣は、会津戦争が始まるまでの会津の城下町をしごく穏やかに描いていた。そこに住む人々の生活は、幕末という激動期にあっても、平穏なものであったとして描いていた。
戦争が始まるまでの世とは、本当に穏やかで静かなのであろう。
どんなむごい事件が起こっていたとしても、戦争という惨劇が起こった後では、どんな時代であってもまだマシなのである。
しかし、会津戦争の始まりはいきなりの「本土決戦」となった。
会津城に籠城する者、城下に残る者。
後者の女子は、籠城して戦う者たちの負担にならないように自害して果てた。それは侵攻してきた官軍兵士すら戦慄する地獄絵図であったという。
籠城した者たちは、連日、アームストロング砲による「空襲」に見舞われ、消耗し、疲弊し、やがて降伏する。
後には「賊軍」の汚名と虐待の日々が続く。
あの穏やかだった時間は戻らない。
もし、藩の上層部が戦争を回避する選択をしていたら、この惨劇は回避されたのかもしれない。
当時、僕は会津戦争を巡る展開に、太平洋戦争の面影を投影していた。
この戦争が回避されていたら・・・
もっと早く敗戦を受け入れていたら・・・
と思わずにいられないからだ。


日中戦争が始まり、国内では2.26事件などの叛乱が起こったとしても、前線が国外にある間は、人々の生活はまだ穏やかだったものとして描かれることも多い(特高の思想弾圧や、東北地方の小作農の窮状は置くとして・・・)。
太平洋戦争開戦時はまだ物資は国内にそこそこあって、おいしいお菓子も手に入った。
戦争も後期になった頃、まだ豊かだった時代を知る小学校の高学年が、物心ついてから配給食しか知らない低学年児童に、お菓子の事を懐かしみながら説明するといったこともあったという。
そんな幸せは戦争が生活の際(きわ)に雪崩れこんでくるとともに噴き飛んでしまう。
ガラガラと崩れていく幸せ。
今、イラクやシリアの人々は10年、10数年前までそこにあった幸せをどう振り返るのか。
ソ連のアフガン侵攻までは、アフガニスタンはとても美しい国だったという。
それが今やどうか。
失ってからでは遅いのだ。


「この世界の片隅に」を観て、強く湧き上がる感情があった。
「本土が空襲された時点で、もう負けてるよな・・・」
昭和40年生まれの僕たちの世代は、子供時代によく空襲の惨劇について聞かされていた。なぜなら、当時、まだ僕の周囲には、戦争に直撃された世代が溢れていたからだ。
終戦は僕の生まれる「わずか」20年前。小学生の頃でも「わずか」30年前の出来事だ。
2016年の現在から1980年代を振り返るようなものだ。今の中高年がバブル期を懐かしむよりも遥かに生々しく、僕の周囲の大人たちは戦争のことを振り返ったことだろう。
戦争の終盤には、県庁所在地はおおかた空襲の的になっただろう。
街そのものに空襲の記憶がくすぶっていただろう。
大人たちに話を聞かされた僕らは、他人事であるにしても、「空襲があって大変だったんだねえ」と素直に思った。
空襲の話を繰り返し聴かされたので、ある意味、僕らにとって、「戦争=空襲」だった。


だが、僕は「この世界の片隅に」を観ていている時、初めて次のような実感を得たのだ。
本作は当時の生活を実体験しているかのように感じさせてくれると評価が高まっている。そうだと思う。
戦時下でもそれなりに平穏だった日常生活。観客として、僕もその時間を共有しているその時-。
米国の戦闘機が本土の防衛網を突破して、空襲を仕掛けてくる。
平穏な日常に敵機が直接襲いかかってきたのだ。
この瞬間、僕はふいに「あ、(戦争に)負けた」と「心底から」実感した。
敵がもうこんなところまできているのだから。
そして「負けた」と感じた後も、延々と空襲は物語の中で繰り返された。
実質、負けているのに戦いが続いているのだ。

この時まで、僕は「戦争=空襲」と感じていた。しかし、日本人が「戦争をしているつもりで」空襲に耐えていた期間とは、実を言えば「負けた戦争をいたずらに引き延ばし続けた」だけではなかったのか。
そう思われた。
どうして、日本は、日本人は空襲されているというのに、戦争を続けたのか。
国同士が隣り合う欧州の戦線とはわけが違う。
太平洋を遠く離れた米国が、中国や南洋の島々を拠点にして、そこから日本本土に直接、空襲を加えている状況を考えてみよ。
連日のように空襲があるということは、日本は本土においてすら、空も(制空権)海も(制海権)米国に奪われていたということだ。
日本本土は叩かれ、米国本土は無傷。そして、その頃には米国本土を攻撃する能力を日本は失っている。
本土の制空権も制海権も奪われた時点で、実質、負けている。それもボロ負けである。
逆転は不可能だろう。
そんな有様で戦争が続いた事実に、僕は空しさをグサッと感じてしまった。
米国の日本本土空襲が本格化したのは昭和19年6月。
沖縄線よりはるか前の時点で、敗戦は決定的だった。
つまり、当時の指導者たちは勝てない戦争を引きずり続け、沖縄を犠牲にし、ポツダム宣言を無視し、挙句の果てに原爆投下され、満州植民者を見捨て、北方領土を持ってかれたわけだ。



戦争なんてしてはいけない。
絶対にしてはいけない。
戦争は負けたら終わりだから。
そして、指導者というのは「負けたくない(責任を取りたくない)」から、僕ら一般人を生贄にしてどうしようもなくなるまで戦争を続けてしまうものなのだ。
当時の指導者たちが降伏を決定したのは、事態が本当にもう、ニッチもサッチも行かなくなってから、いよいよ国が滅びる半歩手前でだった。

結局、東京で行われている五輪会場の問題や豊洲問題にしても、指導者たちがそれぞれの利権を優先した結果だろう。しかも後戻りしようとすると「今さらそんなことができるか」と妨害する。
過ちすらも「既成事実化」して、修正不可能と主張する。
未だにこの国は、「過ちを速やかに訂正できない」のだ。
そんな国が、指導者が、僕たちを戦争に巻き込んでいったらどうなるか。
同じことの繰り返しだ。
8.15の後には東西冷戦と朝鮮戦争という、日本にとって都合のよい国際情勢があったから立ち直れた。
そんな都合のよい展開は二度とない。
つまり、負けたらおしまいなのである。
何度でも言う。戦争なんてしてはいけない。

さて。
この3作に共通点があるとするならば、「喪失感を回復する物語」ではないかと思われる。僕としてはいずれも甲乙つけがたい。あえてつけたいとも思わない。つける必要もない。
それぞれが傑作と言ってよい。
だから、全て肯定する。
贔屓の作品を讃えたい気持ちはわかるが、別の映画を貶めて、「この映画はもっと凄い」という論法はしたくない。
そんなことをしなくても、傑作は傑作ではないか。人気の奪い合いは不毛だと思う。
この3作と出会えただけでも、今年の収穫は大きかった。
できれば3作とも、もう1回くらいは劇場で観たいのだが・・・。
取りあえず劇判は3作品とも手元に置いている。



コトリンゴの音楽は室内楽のような小宇宙だった。
趣は異なるが、「風立ちぬ」のように、音楽だけで物語世界を作り上げていた。
その世界に心が溶けていきそうである。

しかしながら、最初に観たいと思った「シン・ゴジラ」はいまだに観ていない。




とりあえず案内冊子だけ買った。帯におどし文句が書いてあるので読むことすらできない。
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以前、「コスモスに君と」でコメントした者です。
僕は「聲の形」「この世界の片隅に」は残念ながら未見で、正直なところ感心が低かったのですが、レビューを読んで一度見てみようと思いました。(正直、障害者とか太平洋戦争というテーマは苦手かも)
「シン・ゴジラ」は楽しめました。「君の名は」は残念ながらうまくだまされることができませんでした。2作の感想はブログに書いたので、良かったら見てください。あ、ゴジラはネタバレなのでダメか。
次の更新を楽しみにしております。

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8823さん、コメントありがとうございます。
僕は割と「映画にだまされ」ます。「だまされたい」と思って観ているからでしょうか。
「聲の形」は「障害者が苦難を乗り越える」映画ではないと思っています。あまり語るとネタバレになるのですが、観る価値はあると思います。なんといっても、音響そのものが物語世界を築いています。これを家で再生するのは難しいんじゃないかと思います。だから、是非とも映画館で観てほしいです。
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どうもありがとうございました。

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