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鈴木宏昌とその仲間たち① 三羽烏と日野クインテット

それは、とても素敵な音楽を残したピアノ奏者の物語。
その指先からは煌めくばかりの音が飛び出し、聴く者の心を躍らせた。
たくさんの人と出会い、たくさんの人に愛され、その人生を全うするまで、たくさんの音楽を奏で続けた。
そして、「コルゲンさん」の愛称で呼ばれたその人は、「海のトリトン」というアニメに永遠の命を吹き込んだ。

その人が「海のトリトン」に託したのは
血沸き肉躍る冒険心を奮い立たせながら
それでいて
潮騒が耳に残るような
遠い昔に想いを馳せたくなるような
そんな素晴らしい音楽だった

その人の名は鈴木宏昌。
それではこれから「コルゲンさんとその仲間たち」のお話を始めよう。


鈴木宏昌(昭和15年~平成13年)(1940年~2001年)は作曲家であると同時に優秀な編曲者だった。
だが、それ以前に彼は何と言ってもジャズの「ピアノ奏者」だった。
仲間と一緒にピアノを弾くことが大好きな人―だった。
・・・のだと、僕は思う。
学生時代に始まった彼のジャズ人生を見つめれば、それは徹頭徹尾、演奏者としての人生だったように僕には思えてならない。
彼は生涯にわたって、数々の素晴らしい録音と曲を残している。でも、それは自分の名を売るためではなく、「演奏し続ける」ための手段だったようにすら感じられるのだ。
そして実際、彼は最後の最後まで、演奏することをあきらめなかった。

「海のトリトン」の作曲者のことを知りたいと、僕は彼の資料を捜してみた。
ところが驚いたことに
残念なことに
信じられないことに
彼の業績や人生を語ってくれる資料は驚くほど少ない。
断片的な情報しかないので、自分でまとめるしかなくなってしまった。
鈴木宏昌に関する鍵言葉と言えば、
 海のトリトン
 コルゲンさん
 ザ・プレイヤーズ
 タモリ
 「今夜は最高!」
が繰り返されるばかりだ。
もう少し詳しく探っていくと、
 石川晶
 日野皓正
の名前が出てくる。
とにかく、ウィキペディア、彼が残したLP、CDの解説書、彼を知る演奏家やジャズ愛好家、腹巻猫さんなどアニメ研究家の残した文章や記事などを参考にしながら、彼の経歴を追ってみることにした。
ウィキペディア:鈴木宏昌

鈴木は昭和20年(1945年)東京都の歯科医の息子として生まれた。団塊の世代よりも少し上の世代である。
少年時代の情報は全くつかめない。
歯科医の家庭であり、慶応大学に進学したというから、それなりに裕福な家庭環境だったと思う。
大学進学後、鈴木は軽音楽部にはいった。「ライト・ミュージアム・ソサイェティ」といい、現在も存続しているが、発足は昭和21年(1946年)というから、軽音楽部としては老舗中の老舗だ。
そこで鈴木は「ジャズ・ピアノに傾倒して、佐藤允彦、大野雄二とともに「慶應三羽烏」として名をはせる」ようになったという。
KeioLight Music Society Official Web Site


「慶應三羽烏」たちは、いずれもピアノ奏者だった。
大野雄二は小学校時代からピアノを習い、高校時代にジャズを独学し、「ライト・ミュージアム・ソサイェティ」を足掛かりにジャズ演奏の職に進んだ。
だが、彼は数年でジャズから「両足を抜いて」CMや映画音楽の世界に転身し、その結果、大成功を収めた。
説明するまでもなく、「ルパン3世」を初め、特に70~80年代のアニメや映画音楽で一世を風靡した。「ルパン3世」にいたっては、もはやジャズの定番曲である。


佐藤充彦は突出した才能の持ち主だった。
ジャズピアノ奏者、作曲者として、佐藤もまた一時代を築いており、制作したレコードの数も非常に多い。
他方、広く世間に開かれた音楽を生んだ大野とは逆に、佐藤は日本独自のジャズ音楽(和ジャズ)を先鋭・進化させていった。音楽に思想を反映させたりもした。
そして、70年代、彼が残した先駆的な曲の数々は、編曲も含めて、同時代を生きた演奏家たちから高い評価を得ていた。玄人筋から一目おかれていたようだ。
ピアノ奏者としての佐藤は「達人の中の達人」のごとき存在であった。
20代半ばで自分主導のピアノトリオを結成し、何枚も録音を残したかと思えば、米国のバークリー音楽院に突如、留学し、それも2年で「もう教えることがないから」と卒業を言い渡されて帰国している。
つまり、天才なのである。
アニメに関しては、「パンダコパンダ(昭和47年)(1972年)」「哀しみのべラドンナ(昭和48年)(1973年)」「ユニコ(昭和56年)(1981年)」「火垂るの墓(昭和62年)(1987年)」などの渋いところで作曲を担当している。
そして、鈴木宏昌とは生涯を通じて交流を深めた間柄でもあった。



大野は大衆的な不動の人気を獲得し、佐藤はジャズの世界でカリスマの立場を得た。
そんな二人に比べて、鈴木宏昌は何となく地味である。
だが、それは鈴木の才能が二人に及ばなかったというのでは、断じて、ない。

大野や佐藤がそうであったように、あるいは互いを意識したのだろうか、鈴木もまた学生時代にジャズを生業とする道を歩み始める。
22歳の時というから昭和42~43年頃だろうか、超一流の人気団体「ジョージ川口とビッグ・フォア・プラス・ワン」に加入し、演奏家として活動を開始している。
ジョージ川口(昭和2年~平成15年)(1927年~2003年)は華やかで力強い演奏で大人気を博したドラム奏者だ。太平洋戦争が終わるや、すぐに米軍クラブで演奏を開始しており、「ジャズドラムの神様」の敬称を冠せられた。
石原裕次郎主演の「嵐をよぶ男」の見せ場は、石原扮する主人公がドラムを演奏する場面である。昭和30年代、ドラムは派手な演奏で人気となり、ドラムの腕を競う「ドラム合戦」のような催事もあったほどだった。ジョージ川口は当時、日本で一、二位を争う花形だった。



ジョージ川口の団体に抜擢されたほどだから、鈴木の腕は相当に高かったことだろう。そして、羽振りのよかったジョージ川口の下で、鈴木は学生ながら荒稼ぎしたのだという。
ベーシストの納浩一が、ブログで次のような逸話を教えてくれている。
同じくピアニスト兼作・編曲家だった、今はなきコルゲンさんこと鈴木宏昌さんとお仕事をご一緒させて頂いたときに、コルゲンさんが話しててくれたのですが、彼が初めてジョージ川口とビッグフォーに参加したときは、まだ慶応の学生だったそうです。でももらうギャラが半端じゃない。ジョージさんが、お店からギャラとしてもらった百円札をテーブルの上に山のように積んで(その当時は、まじで百円札しかなかったそうです!)、数えもせずに適当に上から人数分で分けていったそうです。まるでトランプのカードを切るように。で、「はい、これお前の分な」って、背広の内ポケットに入りきらないくらいの百円札をもらったそうです。で、その後銀座に飲みにいって、コルゲンさんに曰く、「学生の俺がだよ、銀座でボトルキープだよ! なんていい時代だったんだろうね!」ですって

納浩一オフィシャルブログより引用

ジャズが輝いて、羽振りの良かった時代に鈴木は初舞台を踏み、着実に場数を踏んでいった。
これを皮切りに、鈴木は「小俣尚也とドライビングメン」、「小原重徳とブルー・コーツ」、「石川晶トリオ」などにも参加するようになった。
小俣尚也はトランペット奏者として活躍し、「宇宙戦艦ヤマト」の宮川泰とも交流があった人だ。
「小俣尚也とドライビングメン」は1960年代に活躍したビッグバンドであり、坂本九の舞台で歌伴奏を定期的に手掛けていた。
小原重徳は「1946年から現在に至るまで、最も長い歴史と伝統をもつ日本最古のビッグバンド」であるブルーコーツの結成者の一人である。
ブルーコーツは日本レコード大賞やNHK紅白歌合戦の演奏を受け持つなど、その実力を広く認められた日本を代表する楽団だった。
いずれも今に名を語り継がれ、録音も残されている団体である。
そうした団体を渡り歩けたということは、玄人筋の間でも鈴木のピアノの腕前は評価されたということなのだろう。

鈴木のピアノの技量について、内田修というは人が次のような逸話を書き残している。
「'73年渡米の折たまたま今は亡き、キャノンボールの出ていたクラブに出かけた鈴木は、同伴者の紹介でジャズ・ピアニストと分り、早速ステージに呼び上げられてしまった。最初は冷やかし半分で耳を傾けていたキャノンボールも何時の間にか真剣になり、遂には、レギュラーの白人ピアニストを降して、その夜鈴木を離さなかったという。やはり本物は本物を見ぬくと言うべきではなかろうか」

「(内田修が;筆者注)長年企画を担当しているコンサートに、渡辺貞夫を招いたが、そのバックをつとめるピアノに鈴木を推した所、彼はちゅうちょなく賛成してくれた。(中略)直前、鈴木は『僕はビ・バップを全然知らなくて申し訳ありません。今から覚えますから教えてください。』などと言っていたが、いざ本番となるや、あのむつかしいパーカーの原曲を次々に弾きこなし、貞夫の最高のアドリブを引き出す素地を立派に造り上げたのには実に感心させられた」

いずれもLP「ギャラクシー」に寄せた解説文より引用

キャノンボール
渡辺貞夫
チャーリー・パーカー

いずれもジャズ界の巨人である。その巨人の中にあって、鈴木は輝きを放てる実力を持っていたことになる。
実際、鈴木のピアノは最高なのである。
生き生きとして、音がキラキラしている。
囁いているかと思えば、風のように駆け抜けていき、時には雷のように轟くこともある。
そして、その根底には優しさが感じられる。
鈴木のピアノは、素敵な響きがする。

それにしても彼の超一流のピアノ奏者としての下地は、いつ作られたのだろうか?
例外もないことはないが、いきなり学生デビューで腕が上達するほど、ピアノとは甘い楽器ではない。
指の機械的な動きのみならず、手首、肘をどう使いこなすか。ペダリング(足でペダルを操作して、音色を操る技術)も含めれば、全身で楽器に立ち向かう技術体力が要求されるのだ。
基本的に子供の頃から習い続けていたとみるべきだろう。
歯科医だった彼の父親は、大学そっちのけで(としか思えんのじゃが)ジャズの道を歩んだ息子をどう思ったのか?
「ジャズ屋にするためにピアノを習わせたんじゃない!!」と怒ったかどうか。
当然、僕が知る由もない。
はたして、鈴木が大学をちゃんと卒業したかのかどうか、そこら辺もわからない。

さて。
こうして鈴木の音楽人生は、楽団の一員としてのピアノを弾くことで始まった。
言わば「修練の時代」を過ごしていたわけだ。
他の三羽烏たちは、下積み生活のあと、
大野は作曲の道に進み
佐藤は自分の団体を結成して、録音もする、作曲もする、自分の才能をいち早く開花させていた。
二人は「自分をいかに表現するか」に力点を置いていたとも言える。
それでは鈴木はというと、最初に彼が選らんだのは、言わば「裏方」だった。

日本を代表するトランペット奏者である日野皓正は、昭和17年(1942年)生まれ、鈴木より少し年上だ。
日野の才能と実力は、早くからジャズ界で認められていた。
まだ22歳か23歳の頃のことである。ジョージ川口と並び称されたドラムの神様、白木秀雄の団体に、日野はその腕を請われて加入することになった。
トランペット奏者が脱退した時、「もう日野君しかないのじゃないか」という最高の評価で後任に選ばれたという。
そこで彼は頭角を更に現し、ほどなくして独立して、自身の団体を結成するにいたっている。
国内のみならず、昭和39年、40年と連続してベルリン・ジャズ・フェスティバルに参加し、喝采を浴びている。
昭和39年は白木の団員として、昭和40年は自身で結成した団体での参加だった。
昭和42年には初の主役レコード「Alone Alone and Alone」を発表し、熱狂的な支持を得るのである。
テンションノート・ジャズブログ 『ベルリンジャズフェスティバルの日野皓正』/日野皓正



そして、鈴木宏昌は、昭和43年(1968年)、時代の寵児となった日野皓正クインテットに加入したのだった。
クインテットの初代ピアノ奏者は菊地雅章(まさぶみ)という人で、米国の音楽大学に留学するために、日野クインテットを脱退した。その後任者として、鈴木は抜擢された。
それから昭和45年に独立するまでの2年間、鈴木はクインテットとともに全国津々浦々を飛び回り、演奏に明け暮れることになる。
そして、歴史に残るレコードを日野とともに作成することになる。


昭和44年のことである。
日野の5番目のアルバム「ハイノロジー」は、発表されるや、ジャズとしては異例の大人気を博し、一気に日野の知名度を押し上げることになった。それだけとどまらず、「ヒノテル・ブーム」という言葉さえ登場したのだった。
日野の人気はこの時、ジャズの枠を超えた。昭和40年代前半、トランペット奏者日野皓正の名声はジャズ界にとどまらず、社会の花形として認められ、サントリーなどの企業のCMに起用されるほどだった。
日野は、日本人の手によるジャズが、大衆の人気を得られることを示したのだ。

「ハイノロジー」について触れておこう。
余談ながら、録音を担当したのは、今や伝説的人物である菅野沖彦である。
この作品で日野は、それまでの基本であった「アコースティック」ジャズから脱皮し、新たな潮流である「エレクトリック」ジャズを選択した。大胆に電子楽器を取り入れ、拍子(ビート)も、それまで主流だった4ビートを捨てて8ビートを採用した。
4ビート・8ビート・16ビートの違いを体感してみよう(ギター初心者講座)

その選択は、旧来のジャズの様式を好む者からは嫌われたようだ。
電子楽器(エレクトリック)は、邪道のように受け止められることもあった。
また、8ビートは本来、ロックの基本表紙であるため、ロック人気にあやかろうとしたのだという見方もあったようだ。
だが、多くの聴衆が、日野の試みを「新しい時代」のジャズとして受けとめたのだ。
ちょうど、高度成長の時代にはいって、社会も若者も元気だった。
まだ政治の季節が続いており、「古き因習を捨てて新時代を拓こう」という熱気があった。
「ハイノロジー」には、新しい音の響きの追求-楽しい、美しいだけでなく、不協和音も交えてでも、それまでに聞かれなかった音の響きを叩きだそうという意欲に満ち満ちていた。
だからこそ、日本のジャズ界に新境地を開いたとされている。
ジャズとしてはレコードの販売実績もよかったらしい。

さても、「いつになったら鈴木宏昌の話が出てくるねん、ちっとも出てこえへんやないか!」とお怒りの方もおられよう。そこが鈴木宏昌の鈴木宏昌たるゆえんでもあるのだが。

鈴木宏昌であるが、歴史的作品「ハイノロジー」で、電子ピアノを弾いている。
電子楽器を担当するということは、従来の生楽器演奏から脱皮しようとする「ハイノロジー」の革新性を託されていたとも解釈できる。華やかな日野の演奏を、裏で支える、地味だが重要な役どころだ。
それだけでなく、鈴木は編曲をも担当していた。
日野が目指す「新時代のジャズ」を鈴木もまた支持し、日野を補佐する、まさに「裏方」だった。
幸運にも「ジョージ川口とビック・フォー」という超一流バンドでデビューした彼は、またたく間に頭角を現わし、やがて、60年代後半日本のジャズ界の話題の中心ともなった「日野皓正グループ」に参加し、そのミュージカル・ディレクターとしての地位を確固としたのだった。やがて同じ仲間の佐藤充彦は前衛的な色彩の強い音楽に傾斜し、今一人の大野雄二も又、映画音楽に新生面を拓いていったのに対し、鈴木の心をとらえたのは当時「ジャズ・ロック」と呼ばれた「エレクトリック・サウンド」の世界だった。」

内田修 「ギャラクシー」解説文より

日野皓正クインテットの一員として、鈴木は新宿PIT INNの他、「ジャンク」などの檜舞台と言える各会場で演奏を重ねていく。
都心だけでなく、クインテットの活動は全国各地におよんだ。
まさに全国を舞台に鈴木は実績を重ねていった。


日野皓正、鈴木宏昌、「ハイノロジー」
この組み合わせをみた時、僕の頭には真っ先に「カインド・オブ・ブルー」が浮かんだ。
ジャズの歴史に君臨する帝王マイルス・デイビスと、吟遊詩人のごときピアノ奏者ビル・エバンス、更にジョン・コルトレーン、キャノン・ボール・アダレイまでが参戦した、究極まで研ぎ澄まされた音の世界が繰り広げられる作品である。
発表されたのは1959年(昭和34年)だが、永遠に色褪せない音楽である。
その音に耳を傾ければ、ジャズが好きかどうかに関係なく、最初の一音から吸い込まれていくことだろう。
静寂の中から浮かび上がってくる音。
派手さや賑やかさからは程遠い。
だが、地味では決してない。
強い求心力を持った音が、舞い踊っている。
暗闇の中で舞い踊る、刃の鋭い輝きのようだ。
そして、帝王マイルスの絶対的名盤として名高きこの作品は、ビル・エバンスによって支えられた部分が大きいことも語られている。
天才的トランペット奏者と才能豊かなピアノ奏者の出会いから生まれた歴史的傑作「カインド・オブ・ブルー」。
歴史的道標の地位を獲得した録音である。

なぞるように、というわけではないが、「ハイノロジー」には「カインド・オブ・ブルー」の影が見える。
日野皓正は昭和44年(1969年)渡米し。直接マイルスに接して、絶大な影響を受けたという。
まるでピカソのように、マイルスは音楽の様式を変えていった。当時のマイルスは電子楽器を導入し、エレクトリック・ジャズを模索していた。
マイルスに影響を受けた帰国後に生まれた「ハイノロジー」で、日野もまたエレクトリック・ジャズを選択したのだった。
電子音楽を導入し、8ビートを採用するエレクトリック・ジャズ。その系統は現在のフュージョンに連なっている。
「カインド・オブ・ブルー」の録音が1959年。
その10年後に「ハイノロジー」が生まれている。
その第一曲目を、日野はマイルスに捧げた。
その題名は「LIKE MILES」である。
挑みかかるような日野のトランペットが強い印象を与える。
美しさよりも
耳あたりの良さよりも
抑えようとしても溢れてくる熱気を塊にしたような音がほとばしる。
ただ美しい旋律に酔いしれる快感を捨てて、禁欲的に求道のごとく吹き続ける日野の音に凄味が加わる。
当時、ナイフのような痩身で、サングラスをかけて吹きまくる日野の出で立ちは、日本のジャズの新時代を予感させたことだろう。
鈴木の電子ピアノは、日野のトランペットに隠れるように、しかし通奏低音のように、陰日向にふと顔を出すのである。

「ハイノロジー」に始まり、日野皓正クインテット時代に鈴木が関わったレコードとして、東宝映画の劇判「白昼の襲撃」、これが最後となった「イントゥ・ザ・ヘブン」が残されている。
ただし、当然ながらいずれも主役は日野皓正である。内田が語るような「ミュージカル・ディレクター」として鈴木がどのように活動したのかを教えてくれる資料はみつけられなかった。
「証言で綴る日本のジャズ」という大部の談話集が発刊されている。
日本を代表するジャズ演奏家たちに過去を振り返ってもらっているのだが、ここですら鈴木宏昌に関する逸話は語られていない。
鈴木没後に作成された談話集なのでやむを得ないのかもしれないが。
だが、鈴木がいかに「名参謀」ぶりを発揮していたか、伝えてくれる情報がないのが至極残念である。
鈴木の事を知りたければ、彼の残した演奏を聴くしかないのかもしれない。
だが、そうした人としての佇まいがまた、鈴木らしいと言えば、らしいのである。

やがて昭和45年(1970年)、鈴木は日野クインテットを退団する。
ここから鈴木は「自分自身の道」を歩み始める・・・・と言いたいのだが、実はまだ、そうでもないように感じられる時代が続くのである。
ハイノロジーの時代 HI-NOLOGY 日野皓正クインテット 1968年~1970年をDIGする




カインド・オブ・ブルーとハイノロジー

注記
この「鈴木宏昌と仲間たち」は、文中にあるようにレコードの解説集やインターネットから得られる情報をもとに作成しました。直接、当事者の方からお話を伺ったものではありません。
ですから、ここで示されている鈴木宏昌という人物の捉え方は、私が上記の間接的な情報から感じたものであり、ご本人を直接、知る立場の方とは異なるかもしれません。
私がこの記事を書いた目的は、「鈴木宏昌という素敵な音楽家のことをわかりやすくまとめておきたい」というものであり、ご本人の名誉を貶めるようものとならないように留意してまいります。
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