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鈴木宏昌とその仲間たち② 石川晶とカウント・バッファローズ

Get Up!
(承前)
鈴木宏昌は昭和45年(1970年)、日野皓正クインテットを退団した。それから「海のトリトン」を作曲するまでの約2年の間も、鈴木は様々な活動を行っていた。
ずっと編曲に専念してきた彼が、人に薦められて作曲もするようになった。
裏方から、少しずつ表に出るようになっていった。
そしてこの時期、鈴木がよく行動をともにしたのが、石川晶だ。1970~80年代を代表するドラム奏者だ。
石川晶は昭和9年(1934年)生まれの昭和一桁世代だ。アフリカをこよなく愛し、アフリカに移住し、平成14年(2002年)にアフリカの土に還った。
石川はまた、アニメ音楽好きなら知っておくべき人でもある。なぜなら、彼は録音演奏家として多くのアニメや特撮音楽の録音に関わったからだ。
その中の一つが「海のトリトン」であって、僕がこの歌を取り上げた折に「かっこいいドラム」と評したのが、石川の演奏なのである。
アニメ、特撮にとどまらず、彼が率いた腕利き揃いの「石川晶とカウントバッファローズ」は、劇伴(サントラ)、CM、サウンドチェック等の企画アルバムなど、幅広く活動した。
レコードに名前の載らない伴奏も含めると、彼が参加したレコードは数限りない。
伴奏や企画物だけではない。自分たちの作品も多数、録音に残している。

石川のドラムは芯があるのに、軽やかだ。
その音は風に乗って、どこまでも飛んでいきそうで、聴いていると一緒に走り出したくなる。
「エルビス・プレスリー・ベスト・ヒット」という企画物のレコードがある。1950年代に一世を風靡したロックの創始者プレスリーの曲を、石川晶たちが演奏するという内容だ。
原曲が優れているということもあるだろうが、石川のドラムが素敵だ。
耳に心地よく、音に浸れる。
企画物でありながら、どこまでも石川晶の世界が広がっている。

彼が率いたカウントバッファローズは、団員が固定制ではなく、仕事に応じて集まったのだという。恐らく石川が代表として仕事を受け、その内容と各人の日程をにらみながら、石川が適切と考える演奏家にその都度、呼びかけたのだろう。
演奏家を派遣するための管理組合的な存在とも言えるだろう。
参加できるのは石川の目にかなう演奏家だけだったろうから、自ずと腕の立つ者が出入りすることになったと思われる。
その状況を称して「梁山泊」と呼び、石川を「裏番長」と巧みに表現する記事もある。
高崎勇輝 日本ロック名鑑;石川晶
不破了三 石川晶とカウント・バッファローズ  "GET UP!"


日野クインテットを退団した鈴木もまた、腕利きの演奏家として「石川晶とカウントバッファローズ」に参戦していた。
企画物から歌伴まで、色々なレコードの録音に明け暮れる一方、石川と鈴木はやがて、とてつもないレコードを残すことになる。
「ELECTRUM」と「Get Up!」の2作品がそうだが、特に「Get Up!」の凄さ素晴らしさは僕には言い表しがたい。
「和ジャズ」が残した神話的遺産である。

昭和45年(1970年)発表の「ELECTRUM」について触れておこう。「慶応三羽烏」こと、佐藤充彦と鈴木宏昌が作曲を担当した。
「前衛的な音楽を目指した」佐藤充彦による題名曲「ELECTRUM」は、混沌としているようでいながら、石川のドラムに導かれて地平線の彼方を目指して突っ走るような爽快感に満ちている。その先鋭化された音楽を評価する人は多い。
鈴木は「REVULSION 」「SPEAK UNDER MY BREATH」「THE EYEBROW」の3曲を担当している。ここでは鈴木も先鋭化した音楽を描いているのだが、佐藤の「ELECTRUM」ほどは弾けていない。だから、「佐藤に比べれば、鈴木の曲は従来の域を出ていなかった」とする評も聞こえてくる。
その通りだとも思う。だが、あるいは鈴木は表題曲となった傑作「ELECTRUM」をより際立たせるため、あるいは「ELECTRUM」の余韻を損なわないようにするため、「ELECTRUM」の香りを残しつつ、「従来に近い」曲作りをした可能性もあると思う。
「僕が勝手に想像する」鈴木宏昌という人は、飛び抜けた才能を持ちながら、控えめで、気配りができる、本来は物静かな人・・・なのだ。
「ELECTRUM」は現在もMP3音源でダウンロード可能だ。


そして、何と言ってもカッコイイのが昭和50年(1975年)発表の「Get Up!」だ。
「海のトリトン」より後の作品なのだが、こいつが凄い。
曲が始まるや、僕は一気に心を持って行かれた。
そのカッコよさをうまく言い表わせないのが、僕にはあまりにもどかしい。
豪快かつ爽快。
ドラムもギターもピアノもトランペットもサックスもパーカッションも、縦横無尽に活躍する、硬派なくせにサイコーにご機嫌でキレッキレの音楽が炸裂する。
しかもだ。
むちゃくちゃ早い演奏なのに、ぴったりと音があってる!!
だから音楽に勢いがあって、しかも美しい!!
なんだこの合奏力、世界最高峰じゃねーのか!!!!
ベルリン・フィルにだって負けてねーぞ。
ちなみに作・編曲はぼくらの鈴木宏昌だ。
こいつわ凄いぜ!!

・・・と、一度聴いただけで、すっかりおバカになりきれるくらい最高のレコードなのだ。
そして、石川晶の音楽を聴いていて、僕はとても大切なことに気がついた。
彼の音楽から得られる爽快感は、僕にとって、とてつもなく馴染みが深い。
石川にしても、鈴木にしても、彼らの音楽はすっと耳に馴染み、そして聴き飽きない。欧米のジャズには感じられない疾走感が心地よいのだ。
そうだ、これは「イデオンⅠ」の「デス・ファイト」だ。
あの自由闊達、凄腕の演奏家たちが繰り広げる音楽の垣根を超えた世界。
それに通ずる自由奔放な音の楽園を、僕はここにも見つけたのだ。
かつて、僕は「他にかけがえのない世界」と「デス・ファイト」を言い表した。
だが、その原点とも言える世界が、ここにある。
いや、ここだけではない。
「和ジャズ」と呼ばれるようになった昭和40~60年代に発表された、日本人ジャズ演奏家たちによる数々の作品からは、音楽の様式に縛られない自由さが感じられる。
欧米の音楽はもちろん素晴らしいのだが、「ジャズはジャズ」「ロックはロック」という枠なり垣根なりがしっかりと守られすぎていて、窮屈に思えることがある。
しかし、「和ジャズ」には、全てとは言わないが、ロックにもフュージョンにも、時にはクラシックにさえも迫っていこうとする、挑戦的な意欲に満ち溢れていた。
「イデオンⅠ」に参加した演奏家たちは、ちょうどその時代のど真ん中を突っ走ってきた人々だったのだ。
そうした「和ジャズ」の遺産の上に「デス・ファイト」が生まれたのだと、僕は石川と鈴木の「Get Up!」を聴いて、実感することができた。
「デス・ファイト」でうねるようなギターを轟かせた直居隆雄が、思い出を語っている。
ギタリスト直居隆雄のHPより「石川晶とカウント・バッファローズ」

ところが、あるまいことか、何ということか、実に嘆かわしいことに、腹立たしいことに、これほどの作品が、平成29年現在、廃盤なのだ。
残念ながら音楽界の「和ジャズ」そのものへの評価が低いようなのだ。
評価が低ければ取り上げられる機会も乏しく、必然的に世間の目にも届かない。だから、忘れ去られていくという悪循環に陥っている。
それにしても、ここでもか!
忘れられた傑作と呼ぶなら、これは第二の「イデオン」だよ!!
何やってんだ、日本の音楽産業界!
傑作名作をほったらかしにしているじゃないか!!
オンデマンドCDでいいから、復刻しよーよ。
もったいないよ。
ええい、YOU TUBEのリンクはっとくから聴いてくれ!!

と、頭に血が上りそうになるくらい、応援したくなる作品なのである。

鈴木と石川がどのような形で出会ったのかについては、情報がない。
石川晶のバンド活動の足跡自体が、あいまいで捉えがたいからだ。
というのも、「カウント・バッファローズ」に先立って、石川は「ゲンチャーズ」という団体も立ち上げているのだが、この団体もいつからいつまで活動したとかいう情報がない。
「カウント・バッファローズ」の活動期間もレコード目録から察するくらいしかできない。
それどころか、文章によっては「ゲンチャーズ=バッファローズ」なんてみなされ方もしていて、曖昧模糊としている。
なぜ曖昧に思われるのか。それは、彼ら録音演奏家たちが事務所やレコード会社と専属契約を交わさず、束縛の少ない自由な立場だったからなのだろうと、僕は想像する。
少し長文になるが、以下の文章を引用する。
「石川晶は(中略)1951年に横須賀のクラブで演奏を初め、1953年に宮間利之のニューハード(正式にこのバンド名を名乗ったのは1958年)に参加して、この名オーケストラの売りであったモダン・サウンドのリズムの要となった。
 ニューサウンドを退団したのは1971年というデータがあるが、その以前の1966年頃から石川晶は、既に単なるドラマーにとどまらず、独自のキャラクターで売れていた。1968年にピアノの佐藤允彦の帰国を機に、ギターの杉本喜代志、サックスの村岡健らとカウント・バッファローズを結成。それがその後の石川晶の活動の軸になった。
 (中略)とりわけ石川晶を有名にしたのは、毎週土曜日の午後に放送された「ビート・ポップス」というTV番組で、大橋巨泉、星加ルミ子司会のこのポップスのカウント・ダウン番組に石川晶はゲンチャーズという生バンドを率い出演。この番組で人気になったゴーゴー・ガールの小山ルミとともにポップス・ファンにもよく知られた存在になったのだ。
 当時のゲンチャーズとバッファローズの違いは何かというと、むろん、メンバーに違いがあるのは当然だが、しかし、そもそもこの当時のこうしたバンドは、今でいうスタジオ・ミュージシャン・バンドで、実質的にはメンバーはあまり意味がない。そのときどきでメンバーが変わり、逆に言うと石川晶は、そのときどきに様々なバンド名で演奏している。かなりフレキシブルというよりも、むしろバンド名などは適当に決めたというべきかもしれない。
 こうした状況は、石川晶を筆頭にいわゆるスタジオ・ミュージシャンが繁忙を極めたことを反映している。アレンジを素早く書き、それを初見で演奏できるミュージシャンが、その当時音楽の需要が急速に膨れ上がったにもかかわらず、それをこなすミュージシャンが現在ほどにいなかったということだ。ジャズばかりでなくロックやソウルの新しい音楽がどんどん広がっていった時代で、それらに興味を抱き、それをやりこなす技術を持ったミュージシャンは、やはり当時の第一線の有能なジャズ・ミュージシャンで、そしてドラムといえば、まさにこの石川晶の時代であったのだ。石川晶は、様々な企画アルバムの制作やコンサートに引っ張りだこで、こうした世界のまさにドンと言ってもよかった。
 (中略)石川晶は、その頃から「海のトリトン」、「科学忍者隊ガッチャマン」、「ゲッターロボ」、「キカイダー」等70年代のアニメのほとんどの音楽も担当していると言われるが、まさにそのビート・サウンドは、この時代の音となったのだ」

青木和冨 CD「エルビス・プレスリー・ベスト・ヒット」石川晶と彼のグループ 解説文より
レコード会社の、作曲家の、数々の要求に短時間で対応できる演奏能力を持った人々。会社も彼らを専属として独占するわけにはいかなかったのだろう。彼らは複数のレコード会社を股にかけて活躍した。
その演奏家たちの核(代表)になったのが石川晶であり、そこに鈴木宏昌が引き寄せられたのだと思う。
この二人の付き合いは、つかず離れず、という感じで長く続いたのだろうと、僕は勝手に受け止めている。
そして、彼らのことだから、いついつから一緒に活動を始めたなんていう記録なんて、残されていないのである。

さて。
「カウント・バッファローズ」での活動と併行して、伝説的な団体が流れ星のように現れて消えていった。
昭和45年(1970年)10月、5人のジャズ演奏家たちが団体を立ち上げた。彼らは「ザ・フリーダム・ユニティ」と名乗った。
団員は
村岡 建(テナー・サックス、ソプラノ・サックス)
鈴木 弘(トロンボーン)
鈴木 宏昌(ピアノ、エレクトリック・ピアノ)
稲葉 国光(ベース、エレクトリック・ベース)
石川 晶(ドラムス)
いずれもジャズメンとして最高峰の評価を受ける強者揃いであり、「全員が花形(オール・スター・プレイヤーズ)」だった。

ここで鈴木宏昌のLP「プリムローズ」によせた内田修の解説を引用しておこう。
70年7月、(中略)石川晶と共鳴した鈴木は、日野グループに在籍の傍ら、「エレクトリック・サウンド」の探求を目指して「カウント・バッファローズ」を結成した。村岡健の他、杉本喜代志(g)寺川正興(b)、それに佐藤充彦も今一人のピアニストとして加わっていた。
(中略)
「カウント・バッファローズ」が発展、変身したのが「ザ・フリーダム・ユニティ」でありメンバーは鈴木、村岡、石川、稲葉に、トロンボーンの鈴木弘が入ったクインテットであったが、特定のリーダーはなく、強いて言えばその殆どの作品を書いた鈴木宏昌が中心的存在であった。

この文章では、あたかも鈴木が中心となって「カウント・バッファローズ」や「ザ・フリーダム・ユニティ」が結成されたかに書かれている。
他方、スイングジャーナル誌初代編集長である岩波洋三は、「ザ・フリーダム・ユニティ」のアルバム「サムシング」に寄せた解説文で次のように表現している。
ザ・フリーダム・ユニティには特定のリーダーはいない。5人の合議制によるグループで、誰か一人の音楽に片寄らない厚味のある音楽をきかせてくれる。いずれもスターといえる人だが、あるときは自分を殺して全体に奉仕し、あるときは大いに自己主張するというグループである。みんながそれぞれ自由な立場に立って考え、演奏するといった立前からこのようなグループ名を考えた者であろう。
(中略)
このグループはまた1970年の10月に結成されたばかりであり、このレコードは結成されてすぐ録音したものである。
5人はいずれも有名なプレイヤーだが、村岡建は先ごろまで日野皓正クインテットで演奏していたサックス・プレイヤーで、その実力からいって早晩独立して自己のグループを作るだろうといわれていた男である。別にリーダーではないが、グループの中心的なメンバーになっている。

岩波洋三:「サムシング」解説文より

内田は鈴木が中心であったと記し、岩波は村岡がそうであったと語っている。
書く者によって誰が中心にいたか、意見が分かれている。
誰が正しいというより、その人の目にはそのように見えた、団員それぞれが突出した存在であった分、誰もがその時々で中心的な役割を果たした団体だったのだろう。
逆に言えば、それだけ個々人の音楽的主張が強かったということだろうか。
「ザ・フリーダム・ユニティ」の活動期間はわずか5か月とも7か月とも言われている。その間に「サムシング」と「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」「パワーロック・ウィズ・ドラムス キリマンジャロへの道」などのレコードを残している。
わずか半年未満の期間に何枚かのレコードを録音し、SAMMYなど歌手の伴奏録音もしている。
非常に濃密な時を過ごしていたことだろう。

「サムシング」には6曲、「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」には4曲が収められている。名演奏家が集ったこともあり、どの曲も各人の力量を「これでもか!」と堪能させてくれる曲作りになっている。
後年、全楽器が一丸となって駆け抜ける「ザ・プレイヤーズ」とは異なり、個々の演奏がくっきり浮かび上がりながらも、互いが緊密に関わり逢う音の世界が広がっている。
ちなみに鈴木の曲ではないが、「サムシング」6曲目の「ピースフル・プラネット」は、サックスとトロンボーンの合奏はあまりに美しく、耳に残る名曲である。
残念ながら、CD「サムシング」も廃盤である。
また、「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」では、題名となった1曲目が23分38秒のちょっとした組曲並の長丁場だ。ところどころ不協和音が炸裂するのだが、彼らの楽器から噴き出す音の魅力に囚われて、長いとも感じずに時間が過ぎていくのだ。
幸い「ダウン・バイ・ザ・ネイキッド・シティ」はダウンロード音源が入手可能である。

なお「パワーロック・ウィズ・ドラムス キリマンジャロへの道」は石川が主導した録音だが、作・編曲は鈴木が担当している。ジャケットがとてもカッコ美しくて、是非、聴きたいのだが、これがまた廃盤なのだ。CDすら出ていない。幻のレコード扱いのようで、中古市場ではなんと5~8万円の異常な高額で取引されており、さすがに手が出ない。

なぜ「ザ・フリーダム・ユニティ」が短命で終わったのか、資料を捜すことはできなかった。ただ、トロンボーンの鈴木弘は昭和46年(1971年)米国に移住している。そうした個人の目指す方向性を尊重した結果の解散だったのではないか。
それが証拠に、後年、昭和50年(1975年)に鈴木弘が帰国した折、元「ザ・フリーダム・ユニティ」の団員が再集結して、鈴木弘を中心に据えた「CAT」というレコードを録音しているのである。
その音楽は熱気あふれる「ザ・フリーダム・ユニティ」の時代とは異なり、より落ち着いたものであった。

さて、「ザ・フリーダム・ユニティ」が短期間で解散した後、鈴木宏昌はどこにいたか?
解散したのは昭和46年(1971年)の春頃と推測される。
この年、鈴木弘は米国に移住した。
石川晶は彼が愛してやまなかったアフリカに捧げるレコードを何枚も録音している。
村岡健も「ライド・アンド・タイ」を始め、複数の録音をしている。
皆、恐らくは東京を起点に活動していたことだろう。
ところが、鈴木宏昌はなぜか、大阪にいたのである。

この稿、続く。
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