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33年目のザンボット3

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「無敵超人ザンボット3」は1977年に名古屋テレビという地方局が製作した巨大ロボットアニメだ。日本サンライズ(現サンライズ)が初めて自社製作として作製したTVシリーズであるとともに、富野監督が実質的に監督として独り立ちした作品でもある。
作画には夭逝した金田伊功も参加し、独特の熱気を含んだ画面が展開された空前絶後のドラマである。
富野監督を愛する者は、この「ザンボット3」をかけがえのない傑作と思うことだろう。
「ザンボット3」はある点でガンダムを超える衝撃があった。この作品があったからこそのガンダムであるというのは、恐らく1970年代当時に実体験した視聴者の共有する感想ではないだろうか。

ここで富野監督はそれまでの巨大ロボットアニメでは禁忌とされた物語展開を強行している。
先ず、戦闘に継続性を持たせた。それまでの巨大ロボット物では戦闘による都市の破壊行為を翌週に引きずることはなかった。つまり、戦闘によって破壊された都市が次の物語では忘れ去られ、前回の戦闘がなかったかのごとく、都市が復興しているという約束事を、富野は破った。
一つの物語が終了しても、当然のごとく街は破壊されたまま残される。その次の必然として、富野は難民を描いた。
難民という戦争につきまとう現実を見据えたことも、「ザンボット3」を画期的にした要素だった。戦いがあれば、普通の感性があれば人々はそこから逃れようとする。それが難民である。
「巨大ロボット同士が戦うような戦闘地域から、難民が生まれないはずがないだろう!?」
当然の発想を富野は視聴者にぶつけた。
それは、まだ小学校6年生に過ぎなかった僕の心にも届いた。
「ザンボット3はえぐいぜ!!」
というのが、僕の感想だった。
だが、それだけで終わらなかった。悲しいことに、「ザンボット3」はあまりに予言的であり、あまりに現実を先取りしてしまった。
人間爆弾。
敵が無差別テロを行うために、捕虜にした難民の体内に爆弾を埋め込み、記憶を消して元の難民キャンプに返す。そして、気まぐれにこれを爆破し、犠牲を拡大するという作戦である。
アニメ史上、最も現実を先取りし、最も悲劇的であり、最も邪悪な作戦-人間爆弾。
僕は富野監督に問いただしたい。なぜにあなたはこんな展開を「読んで」しまったのですか。これはまるで自爆テロの予言ですよ、人のすることではないことを人がしている時代が、なぜにあなたには見えてしまったのですか、と。

ザンボット3の物語の概略はこうだ。
かつて、恐らく遠い昔、何者かが人工頭脳に知的生命体を抹殺する命令を登録し、巨大ロボットであるメカブースト軍団とともに宇宙に解き放った。軍団はガイゾックと称し、宇宙の各地で知的生命体を滅ぼすにいたった。その内の一つであるビアル星から脱出した人々が地球にたどりつき、神一族として生き残った。その地球にガイゾックが来襲した時、神一族は先祖が残した巨大ロボット兵器ザンボット3と戦闘要塞キングビアルとともにガイゾックとの生存をかけた戦いを開始した。
しかし、戦闘によって日本が荒廃するにつれ、日本人は「ガイゾックが日本に攻めてくるのは神一族とザンボット3がいるからだ」と責任転嫁を行い、自らの戦いを放棄する行為に出る。
たまらないのは主人公である神勝平たちだ。彼らは憎まれることによって精神的に友を失い、人間爆弾と敵の攻撃によって肉体的にも次々と友を失っていく。最後に残るのは家族の絆だけだが、ガイゾックとの最終決戦で、その家族も戦火に次々と散っていくのだ。

最終回「燃える宇宙」を観た時の衝撃は今も思い出せる。そこには「海のトリトン」に始まった、主人公の存在意義を問いかける姿勢と、「皆殺しの富野」の異名を取るまでになった、最後の1人になるまで戦い続けなければならない戦争を描く姿勢が濃縮されていた。
最終局面で、主人公である神勝平は敵の中枢であるガイゾック・コンピューターと対峙する。ガイゾックは勝平に問う。「誰も感謝してくれないのがわかっていながら、なぜ戦うのか」と。
ガイゾックを破壊し、崩壊する敵基地から勝平を脱出させるために、わずかに生き残った神一族の男性たちは命を犠牲にする。一族ただ一人の男となった勝平は生まれ故郷の海岸に打ち上げられ、意識を失っている。
だが、彼は一人ではなかった。一連の戦闘の中でも勝平を支えた幼馴染と、一度は勝平を憎みながらもこれを改め、彼を支えるようになった友がいた。そして、彼らのもとに次々と、一度は離れた人々が戻ってきて、彼の生還を歓声で迎えるのだった。
この最終回は33年たった現在も色あせていない。恐らく、ダイターン3の最終回とともに、富野監督屈指の作品だろう。

確かガンダムやイデオンが放送された頃、「SFアニメはSFといえるのかどうか!?」という、いかにも80年代らしい論争が「アニメック」などの雑誌で展開されたことがある。SF側は「アニメなんかとSFを一緒にするな」と言い、アニメ側は「アニメだって十分にSFだ」と言う論旨だった。今となってはどうでもいいような話であるが、こうした論争を経ることによって関係者の作劇や設定に関する判断が向上し、アニメの内容も習熟していったことは事実だと思う。
その論争の中でSF作家である高千穂遥は「ザンボット3は幼稚な善悪問答を持ち込むことによってSFに成り損ねた」と評したことがある。アニメックだったか、SFマガジンのアニメ「ガンダム」を紹介した記事だったか、もう記憶があいまいだが、論旨はこの通りだったと思う。
僕は、今更、ザンボット3がSFであるかどうかなんて、実にどうでもいいことだと思う。SFとは所詮、分類でしかない。ただ、改めてあの状況の中でガイゾックが、本当に多くの存在を失った勝平に「なぜ戦う?」と問いかけた意味を、高千穂遥がSFであるかどうか(つまりSFでは価値の逆転という発想があって、邪悪と思っていたガイゾックが実は宇宙の平和をたもつために危険な知的生命体を抹殺している価値の逆転を持ち込むための問答だと言いたかったのだが)、善悪の逆転であるかどうかという点でしか、「SFをみる目でしか」評せなかったことは指摘しておく。
SFであるかどうかなどよりも、ここで富野監督が問いかけられているのは、お前は精神的かつ肉体的に絶対の孤独の中ででも戦えるのか(生きていけるのか)どうかということではないだろか。
SFかどうかなんてことよりも、お前はどのように生きる覚悟があるのかという、もっと現実的な、生々しい問いかけだったのだと、45歳になった僕は思う。
それは、TV画面の中の凄惨な人々の死を、勝平がどのように感じていたのかを想像することができて、初めて思い至れるのではないだろうか。

「20年目のザンボット3」は1997年に太田出版から発売された。大半が物語紹介と設定、原画を収録した内容。残念ながら現在は絶版であるが、ネットで出品されていることもあるようだ。
この中でザンボット当時の富野監督へのインタビュー記事があり、「ザンボット3の物語は2~3か月程度の間の出来事と考えている」というくだりがある。2~3か月という時間設定が、どこか生々しく感じられた。


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