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湖川友謙VS安彦良和 完結篇

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今回でこの項を終わりにするため、くどく、長い文章になってしまった。ご容赦を。

(承前)
約5年間継続した富野と湖川との共同作業は以下の通り。

TVシリーズ「伝説巨神イデオン」
劇場版「THE IDEON」
TVシリーズ「戦闘メカ・ザブングル」
TVシリーズ「聖戦士ダンバイン」
TVシリーズ「重戦機エルガイム」

以上の5作品。
ただし、ザブングルでは個性的な人物造形を示したものの、この作品の前半の製作期間は劇場用イデオンの製作期間に重なっており、当然ながら湖川はイデオンに集中しており、彼が作画監督として参加したのも全50話中の第1、27、33話に留まっている。内容的にもザブングルへの湖川の関わりは中途半端に終わったと言えるだろう。
湖川は「ザブングルではギャグの動きをしたかった」「骨のない動きを試してみたかった(トム&ジェリー的動きだろうか? 筆者)」そうだ。しかし、それも果たせなかったとみてよいだろう。
また、エルガイムでは作画の統括者的立場に「後退」しており、作画監督として名前を連ねていない。エルガイムにおける湖川については、後述するように、言わば左遷されたようなものだった。
こうしてみると、やはり湖川の作品と言えるのは、イデオンとダンバインに尽きるということになるだろう。特にダンバインでは、イデオンで成熟度を増した己の画力と、彼が鍛え上げたスタジオ・ビーボォーの威力がいかんなく発揮され、少なくとも彼らが参加した回では当時のTVアニメとしては究極の映像が展開された。全49話中、第1、2、10、15、18、19、23、25、28、29、33、34、37、40、42、45、47話と1/3以上の作画を務めるという快挙を成し遂げている(※1)。

しかし、湖川と富野は、杉野昭夫と出崎統のような数十年にも及ぶ関係を築けなかった。
なぜだろうか?
以下は前述の「富野由悠季全仕事」181頁からの一部引用だ。
「そして『エルガイム』の時に、キャラクター・デザイナーとして永野君を使ったのは、僕が強制的にやらせてしまったことであって、湖川さんには申し訳ないと思いますが、今でも(1999年:筆者注)間違いではないと思っています。湖川キャラクターの問題というのもあるんです
「だから永野君の、まだ画は下手かもしれないけど、このユニークなところは絶対に拾って、ビジネスをやるということはこういうことなんだから、我慢しろと僕は言いました。『エルガイム』の時は申し訳ないけど、「あなたは一度引っこんでくれ」と言わざるを得なかった」「『エルガイム』で湖川さんをああいう立場にしたのは僕です。それは本当に申し訳ないことだったと思うけれど、湖川さんそのものの画やキャラクターを評価しているからこそ、あれだけ使いもしたし、評価しているからこそ、逆に毒の部分もわかっています。それから、それ以後使えなくなったことに関しては僕の問題ではなくて、湖川さん個人の問題ですから、僕は関与出来ませんし、評論する気もありません」(以上、傍線は筆者)。(※2)
・・・ここには深く読めば、また湖川の富野に対する気配りのこもった発言を読めば、いかに「重い」やりとりが当時、二人の間で成されたか、推測することができる。
更に付け加えよう。
―― 富野さんと仕事をする機会はないんですか。
湖川 難しいでしょうね。『エルガイム』の後で「1年待って」と言われて、20年経ってますから。
(WEBアニメスタイルanimator interview  湖川友謙(6)画の技術と画の魅力より http://www.style.fm/as/01_talk/kogawa06.shtml

突き詰めれば、富野が「湖川の絵では新しいファンはついてこない」と判断したのだ(※3)。イデオンに始まり、ダンバインまで共同作業を続けた結果、湖川が潜在的に求めている画風は、大衆に受け入れられるには(まことに残念だが)あまりに先鋭すぎていると、彼は評価したのだろう。まだ「深夜アニメ」という「閉ざされた」視聴者を対象にした事業計画をたてるような時代ではなく、「開かれた」視聴者を前提としてアニメが製作されていた時代だった。いや、深夜アニメでもアニメファンという閉ざされた視聴者に充分に配慮しているが、湖川の画風はそのアニメファンからも十全に受け入れられていなかった。
TVアニメの範疇の中で、ある意味、究極の映像となった「ハイパー・ジェリル」で、富野も行くところまで行ったと考え、これ以上、湖川の感性で仕事を続けても客は来ないと考えたのではないか。
その結果、より商売に成りえる才能を求めて彼は永野を重用した。そして、ある種の閑職へ湖川を追いやった。それだけではない。湖川との共同作業をやんわりと、まるで、嫌らしい言い方を承知で言えば、女と別れる時のお手本のような上手な終わらせ方をした。

「ビジネスをやるということはこういうことなんだから、我慢しろ」
湖川ほどの気難しい職人肌の男に、上のごとき理(ことわり)を説いて、納得させた上、「また一緒に仕事をしようね」と期待を持たせるようにして終わる。相手は、それが口先だけと知りながらも、受け入れている。
僕はこのインタビューから富野の人間的な凄味を感じて、ぞくっとしたものだ。
悔しければ彼に倣って職場の人間を諭してみよ、納得させてみよ。容易ならざることはすぐにわかる。

ただし、だ。
「この画風では受けんわ」と見切りながら、その一方で自身、絵心がある富野は、湖川の画風を愛してしまったようだ。だからこそ、本来、商売には向かない、大衆受けしない画風と思いながら、富野は巧みに湖川の魅力を引き出すように尽力した。その珠玉の成果が「発動篇」であり、ダンバインであったのだと思う。
富野と言う監督は、本質的に特定の人物と長く組んで仕事をしたいとは考えない男ではないか。つまり、その作品に最も相応しい、その作品のためだけの制作関係者を適宜、集めて、映像を作りたいと考える人間なのだと思う。米国の映画製作者のような発想が非常に強い人間なのだ。だから、要である作画監督や人物造形の担当者が、ほぼ作品毎に変ってくる。
逆に言えば、そんな男がよくも5年間も湖川と組んだな、と思う。それは湖川の画風への愛情の裏返しでもある。売れない画風だが、自分の感性はこれが好きだと言っているのだ。
ある意味、ダンバインなどは湖川と心中覚悟の作品だったかもしれない。それまでは多少、控え目にしていた富野自身の独特の台詞回しを全開にして、それこそ商売にならないような、人気が出なくてもおかしくないような、富野自身の灰汁(あく)を煮しめて人前にさらした作品がダンバインだった。すなわち、商売を度外視してとことん湖川の画風の灰汁に付き合ってしまった作品なのではないか(だからクローバーが潰れた???)。

“こんな絵じゃ売れないよ”とわかっていた。
“でも、俺、この絵、好きなんだよね・・・”と呟き、しばし苦楽をともにしてから、“皆を食わせるためにはお前の絵じゃ無理だから、ここは身を引いてくれ”と湖川に言った。
富野という男、恐るべし。

さて。
湖川も、自分の大衆性に関する限界を踏まえた上で、受け入れてくれた、付き合ってしまってくれた富野に感謝しているのではないかと僕は想像している。
自分の方向性は間違っているとは考えていない。でも、人気は出ない。それを嘆くつもりもさらさらないが、そんな自分の意欲を買って、売り出せるように手配してくれた人に感謝せずにどうしていられよう。
湖川の富野への気持ちを集約すると、こうなるのかもしれない。知らぬ輩が勝手を言うな-と叱られそうだが。
しかし、イデオンが、ダンバインがなかったら、今の湖川はありえなかった。実力のある作画者だから、重宝はされたかもしれないが、脚光を浴びることはなかったのではないか? 彼が評価する須田正己のように、実力に凄まじく反比例して過小評価されたのではないか(※4)。湖川は今も富野への敬意を失っていない。

上記の「「1年待って」と言われて、20年経ってますから。」という寂しげな一言のあとであっても、富野との微笑ましい再会の逸話を彼は語ってくれている。私としては、次に記す彼の妻にまつわる逸話も含めて、是非とも実際のインタビュー記事に目を通してほしいと思う。

WEBアニメスタジオのインタビューを読んでいて微笑ましいが、切なくなるのが彼の妻の言葉だ。
「女房は、僕の画をいいとか上手いとか言った事なかったんですよ。」
「例えば、他の人の原画と僕の原画がありますよね。比べる事があると「私、こっち(他の人の原画)がいい」って言うんですよ。多分ね、冷たかったんだと思うんですよ、僕の画が。」
上記の他にも、妻の面影が自分の手掛ける人物の造形に反映されていることが多いと湖川は語っている。

微笑ましいとしたのは、言葉の端々に感じられる湖川の妻に対する強い慈しみ。
切ないとしたのは、妻が指摘した、湖川の限界―すなわち大衆性の欠如のこと。
妻の言葉は、実は湖川の弱点を最も的確に突いている。
湖川の画は理詰めで描かれ、そこに籠められた情報と洞察力は、わかる者にはわかる。
だが、人とは必ずしも理論だけで動くもの、生きるものではない。
理論もない、でたらめなような感性だけで描かれたものであっても、その感性が大衆の機微に触れれば人気を博する。例えば若い人はご存じないが、下手くそどころではなかった小林よしのりの「東大一直線」の初期の絵だ。こんな絵で商売になるのか、というマンガが人気を博してしまった。
妻の言葉は、そうした人の本質を突いたものなのだ。
あなたは凄い。でも、その凄さをわかってもらえるとは限らない。ただ、かわいいだけのものがあなたの絵よりも受けることがある。
湖川は、妻の言葉を通して自分の限界を認識したかもしれない。

例えばかわいらしさ。それは湖川になくて、安彦にあったものだ。
湖川の目からみれば、安彦すらも技術的に問題のある絵を描いていた。パースがわかっていなかったと。だが、大衆は技術的に申し分ない湖川の絵よりも、ある種の色気を伴う柔らかさを持つ安彦の絵を支持した。
ゆうきまさみがアマチュア時代に月刊OUTに掲載したマンガの中で「イデオンはキャラが暗いから嫌いだ」と言ったいがぐり頭のファンを1コマだけ描いて「こういった奴がいたんだ」と記したことがある(※5)。
因みにやはりゆうきはOUTの掲載マンガで、湖川に「オリジナルを描きなさいよ」とたしなめられる場面を描いている。安彦には「人のキャラで商売するな」と抗議された逸話がさりげなくさしこまれている。

そうなのだ。とどのつまりは、湖川の絵が一般受けしなかったのは、暗いとみなされたからだ。僕の周りにもいた。「イデオンのキャラ、暗いから嫌い」と堂々と(当たり前か)語った女子が。
この「かわいくない」という要素は、湖川が何万言費やしても乗り越えられない限界だった。それを彼も、奥様の言を通して自覚していたのだと思う。
なぜ、彼の画はかわいくなかったのか。
たぶん、彼が日本人顔が好きだったからだろうと、僕は思う。
富野の小説「リーンの翼」に湖川が寄せた画は、日本人男性の特徴を強調したものだった。基本的には一重瞼で、やや垂れ目の面持ち。それが日本人男性の典型的な特徴だ。
何故(なにゆえ)か、戦後教育、米国の文化侵襲のためか、否、遡れば明治維新の西洋化を志した頃からか、我々日本人は己の民族的特徴を嫌悪し、欧米人、特にアングロサクソン系人種の相貌を美しく感じるようになっている。CMを観ていても、本国では無名だろうに、白人系俳優がやたら跋扈している。
しかし、湖川の画、特に男性の相貌は典型的な日本人顔なのだ。そして、彼もそうした日本人顔が好きなのだ。
たぶん、湖川の画が暗い、と謗られるのは、日本人が己の人種の顔を暗いと感じているからに他ならないと、僕は思っている。それは、残念なことだ。だが、日本人の多くはそのように感じるように「調教」されている。

最新の湖川の画は「宇宙戦艦ヤマト復活篇」で観ることができる・・・はずなのだが、僕はまだ観ていない。単に暇がなかっただけだが。予告編でみる限り、彼の作風はますます今の流行から離れて、親父臭くなっている。地味な作風になっていると思う。
それをつまらないと言われても、僕は苦笑するしかない。

湖川はマンガについて、でたらめな技術で描いても許される世界と、批判的な言動を残している。しかし、僕にはこの言葉は、マンガで成功できなかった悔しさと感じられる。マンガでも成功した安彦に対する悔しさ(あえて劣等感とは言わない)の裏返しではないかと感じられる。
確かに、湖川のマンガはつまらなかった。メロドラマのできそこないのような内容だった。
それに、例えば服飾に関する感性も、決してよいとは言えない。イデオンでも武士の正装に着想を得たバッフ・クランの服飾はまだしも、人類側の軍の制服は、まるで1960年代の共産圏の何かのようなダサい仕上がりになっていた。
そうした一般受けのための微妙な感性が、湖川を安彦と区別したと言ってよいだろう。
だが、そう言いつつも、メカニックの描写なら湖川も安彦に負けず劣らず卓越していた。本来。相当におもちゃおもちゃしていて、洗練されているように見えないあのイデオンが格好良く見えたのは、湖川の画力の成せる技だ。発動篇はもとより、接触篇における月面基地突入場面で、ソロシップ艦上でミサイルを撃ちまくるイデオンの存在感は、個人的に一際印象に残っている。
発動篇終局でのイデオン崩壊の場面の作画は、湖川が修正したらしい。これは確かに迫力のある映像となった。彼が「みせしめ」として修正しなかったソロシップ崩壊の映像は、実際、紙細工がひしゃげるような中途半端な映像だった(でも、修正してほしかった)。

僕は湖川友謙を写真でしか見たことがない。だが、彼の人となりは1枚の顔写真からでも十分に想像することができる。
八の字眉毛でありながら、気弱さを微塵も感じさせない一重瞼の眼光鋭い容貌―。そこから受ける印象は、妥協を許さない技術者というものだ。生半可な知識で議をふっかけようものなら、理詰めでこてんぱんに叩きのめされそうな、芯の通った表情をしている。それはイデオンを担当した若き日の時代から、白髪が交じるようになった現在も変わらない。

この項の最後に、言い残したいことがある。
僕が墓場に持っていく映像は何かと言われれば、ためらいもなく「発動篇」の名を挙げる。アニメでは他に「カムイの剣」だろうか。ガンダムも大好きだが、それでも「発動篇」の前では霞んでしまう
ガンダムにとどまらない。黒澤明の名品、傑作。スター・ウォーズ。ブレード・ランナー。これら凄作を押しのけて、それでも僕は墓場に「発動篇」を持っていく。
なぜ?
1980年代のことだ。「巡り合い宇宙」やイデオン、ダンバインのハイパー化や、意味不明の台詞が頻発した「Zガンダム」を持って、富野は神がかった(考え方がおかしくなった)という意見が出るようになった。これはイデオンの頃のことだが、かのスタジオぬえの宮武一貴なぞ、アニメック誌上で「イデオンを理解するためには宗教を理解できないとダメ」と、冗談かもしれないが口走ったこともある。
俺は言いたい。なぜ、そうなるかな。大の大人がよってたかって。
ニュータイプだの、イデだの、そんなものはしょせん富野にとっては狂言回しでしかない。物語を進める、まとめるのに便利な道具としての概念でしかない。
彼が直截に伝えたかった、映像で示したかったのは、人間なる存在の愚かしさ、哀れさ、悲しさ・・・これしかないのだ。
人はどうしてわかりえないのか。どうして争うのか。人の世をよくする、人同士がいたわり合い、社会をより良い方向へ進ませることはどうしたらできるのか・・・・。
以前にも書いたが、ニュー・タイプになれば、分かり合えるかもしれないよね、というのがガンダム。ところが、富野は「でも、ニュー・タイプっつってもしょせん絵空事だよね」と己の発想を呪うかのごとく、人類の革新どころか、ニュー・タイプを戦争の道具-強化人間にまで貶めた!! 貶めたのだ、自ら!!
ここをわかって欲しい。富野が本当に宗教がかって、「俺の言うことが正しいのよ」としたのなら、こんな自らぶちあげた理想を自分で破壊するようなことをすると思うか。どこが神がかっている!? 彼にあるのは絶望的なまでの現状認識だけだ。
だから、イデオンでは「一度、火の点いた憎しみの炎は消せはしない。ガンド・ロ・ワに焼きつくされ、浄化され、彼岸の世界にでもいかない限り」という物語のまとめ方をしたのだ。
イデオンとは人の業、消せない憎しみ、悲しみ、愛憎の迸る物語なのだ。そして、「発動篇」とは、そんな人の悲しみを描きつくした物語なのだ。

高校生の僕は、「発動篇」を観て言葉を失った。圧倒された。何に?
カララの温もりすら感じられるような柔らかな表情。ベスへの愛情のまなざし。
そのカララを失い、成すすべもなく、精根尽きて、阿呆のように泣くことしかできないベス。
そのカララを殺し、それでいてカララへの嫉妬を抑制できず、父親たるドバに癒してほしいのにそれもかなわず、死者のダラムに助けを請うて涙するハルル。
目にいれても痛くないほどに愛おしんだはずのカララを理解不能の民族の男に奪われ、妊娠までさせられた。そのカララを殺したという、男勝りのハルルに眼前で泣かれ、娘二人をどうしようもしてやれない、武士社会の頂点に立つ最高権力者であるはずの己のくそ愚かしさに、身を引きちぎられんばかりの涙を流すドバ。
「なぜ、私たちは生きてきたの!?」と血を吐くような言葉を吐いたカーシャ。
-そして、カーシャの死を看取ることもできず、ただひたすらに戦うことしかできない、操縦席を離れて泣きわめくことすらできなかった、コスモの、あの、涙。
僕は、あのコスモの涙以上に心を動かされた映像を知らない。
あえて言う。あのコスモの涙を描いたことで、湖川友謙は僕にとって、どんな芸術家よりもかけがえのない画家になった。
いったい、僕が観てきた映画、絵画の中で、あのコスモの涙以上に真に迫った映像はなかった。なぜなら、あの涙には本当のコスモの悲しさがあふれていたからだ。
涙とは一体、何だ? 悲しみの涙であるならば、それは生きている者が、失った者へ贈る精一杯の愛情なのだ。涙は愛の顕れだ。
コスモがカーシャを思って流した涙の描線には、コスモの体温すら感じさせる、コスモのカーシャに伝えようとする思いが溢れんばかりになっている。
大量生産可能な芸術の中で、という縛りはあるにしても(※6)、古今東西の画の中で、今もすぐに脳裏に蘇らせることができるのが、コスモの涙なんだ。
湖川の画、塩谷翼の声、すぎやまこういちの音楽・・・・全てが完璧に調和し、痺れるようなコスモの痛みを、僕は感じた。
暗かろうが、地味だろうが、これほどの映像を、アニメファンが評価しないでどうする。
僕にとっては、湖川友謙は歴代最高のアニメーターだ。だから、次の感謝の言葉でこの項を終わりたい。
湖川先生、あなたは最高です。「発動篇」を僕に届けれくれて、ありがとうございます。

ああ、やっとこの項が終わった。ようやく「イデオンⅠ」に取り組むことができる。

※1:しかしながら、イデオン、ザブングル、ダンバインとTVシリーズ最終回の作画監督はなぜか坂本三郎が担当していた。決して悪いアニメーターではないのだが、目の表情などに野暮ったさが残ってしまう画風だった。なぜ、サンライズは、富野は最終回という重要な回を湖川に委ねなかったのか。特にダンバインについては今もって、憤懣やるかたない気持ちだ。
※2:ネット上では湖川の個人的な問題について、まことしやかにささやかれているが、僕としてはこれ以上、触れるつもりはない。
※3:しかし、だ。そういう富野自身、彼の作風は湖川と同様、大衆受けしない、していない。彼が心血を注いで凄まじい絵コンテを描いていることは事実だが、わかりにくいので大衆受けしていない。だから、湖川を更迭した彼自身、後日、Vガンダム以後、バンダイによって一時的にしろ、更迭されたに等しくなる。
※4:実際、湖川の口から彼の名前が出るまでは、僕は須田が凄いと認識していない。僕が彼の業績で知っていると言えば、「SF西遊記スター・ジンガー」だが、地味だったという感想しかない。海外発注が多かったからか?
※5:うろ覚えなので、少し違っているかもしれない。ゆうきのOUT時代に発表した作品の単行本は、もう手元にない。
※6:古今東西の名画、彫刻は無数にあり、それら全てをコスモの涙が凌駕する、とは言わない。だが、いわゆる芸術作品は、残念ながら実物をみないとその本当の凄さは伝わってこないという限界がある。展覧会で傑作を観た後、自宅で目録を眺めても、実物から受けた感銘の千分の一も感じられない。他方、浮世絵やアニメは、大量生産された映像そのものが本物という利点がある。
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