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サングラスの向こう側 そして「創聖のアクエリオン」



少しだけ。
塩野七生著「ローマ人の物語」を読んでいると、ローマ帝国が栄えていた頃の皇帝の中には、常に国境警備のローマ軍を自ら視察、指揮をして、本国にほとんど戻らなかったような人物もいたことを教えられる。国境を越えて蛮族が侵入することを防ぐことが、ローマの安全保障の要であったからだ。
ローマ軍兵士は退役(40歳くらい)まで建前上は結婚を許されないし、戦闘も少なくないので心身ともに厳しい環境に置かれている。そうしたローマ軍を統括、指揮することはローマ皇帝の重大任務の一つであり、皇帝の中には本国の政治を共同統一者に任せて、ひたすらローマ軍に顔を見せ続ける者もいた。
指導者、統括者が現場に顔を見せる。見せ続ける。これは実はとても大事なことだ。
僕たち人間は機械ではない。理屈だけで動ける存在ではない。ややこしいことに喜怒哀楽があり、理屈よりも感情が先にたつことも多い。
つらい、きついと思っている仕事をしている時に、それを命じる者の顔が直接、見えるかどうか。自分たちの状況を直接、見てくれているか。自分たちの意見に少なくとも耳を傾けてくれているかどうか。
その気持ちが満たされない現場は、気力を失っていく。
僕自身も職場で、電話で済むことでも、時には直接、現場にいって顔を見せるようにしている。
顔が見えない者同士には信頼関係は生まれない。僕はそう断じる。
電話だけだと気色ばんでしまいそうなやり取りでも、直接、会って顔を見せることによってまとまる場合も少なくない。時には対立によって苦しい事もあるけれど、顔を会わさずに逃げ続けたら、物事は決してまとまらない。
掲示板で議論が成り立たないのは、顔の見えないどころか、声すらも聞こえない同士では、相手に歩み寄ろうという意識が決して生まれないからだと思う。たぶん、それが人間という動物の性(さが)なのだろう。

何を言いたいかというと、週刊文春の4月21日号で、福島第一原発で作業をしている現場が、TV会議であれこれ指示を出してくる政府と東電の幹部に「無茶をいうなら、我々はもう作業をしない!!」と不満を爆発させたということが伝えられていた。
なぜ、そんなことになるのか。現場が疲れて、精神的余裕をなくしたから? それも当然あるだろう。だが、たぶん、命令や指示を出す立場の者が、TV画面を通してしか現場と接していないからではないのか。直接、現場に顔を出して、現場の意見を持ちかえって、そしてまた対策を考えるという作業をぬかしているのではないのか。「TV会議で現場の報告を聞けば十分」と考えていたのではないだろうか。「中央の協議で忙しいんだから、それが効率的というものだろう」と考えたのではないだろうか。
エリートはだから、困る。命令する立場になれた者は、自分が動くということをしない。
忙しいといっても、被曝の危険もなく、家に帰って風呂にもはいれようかという立場の者から次々と危険な作業を命じられて、自分たちの命は削られていくばかりで先も見えないと思う人々が、いつまでも忠犬のように黙って指示に従うと思っていたら・・・・あまりに人間を知らなさすぎる。
「彼らが反旗を翻して、現場の作業を放棄したらこの国は終わる」・・・と思ったとしたら、それも馬鹿。恰好だけでも現場にいって、「代わりに俺がやる」くらいのことを、あるいは交代の人員をかき集めるだけのことをして、「俺がやる」というくらいの気持ちをみせないで、下の者が動くわけなかろうが。
現場の方々だって、日本が滅んでもよい、腹がたつから反抗する-そんな器量ではないと思う。現場から、指揮官に「しっかりせえ!!!!!」と喝をいれているのだ。いれて、現場の我々を正しく指揮してくれと願っているのだ。それを「ああ、叛乱が起こった・・・」などとおたおたしているような指揮官では、そりゃダメだろう。
僕には吉田昌郎福島第一原発所長のサングラスの奥には、現場の方々の流した涙がとめどもなく映し出されたことだろうと確信している。

もういい。
そろそろアニメ音楽の話を再開しよう。



僕と菅野よう子の音楽との出会いは、偶然がもたらしてくれた。
今から、もう10年以上前のこと。たまたま日曜の昼間に流れていたTVに、禿げ頭の中年男が主役のアニメが映されていた。当時はこれだけでも異色に感じたものだった。
男には別れた女房がいたが、彼女は今やつまらぬチンピラの情婦に身を落としていた。そして、男はそのチンピラを捕えにきた賞金稼ぎだった。
逃げるチンピラを、男は追い詰め、捕縛する。効果音を消した画面に、しびれるようなジャズの音が響いた。
「COWBOY BEBOP」Session#10 地上放送第6話“ガニメデ慕情”の最高潮の場面。
僕はこの時、「日本のアニメでもこんな普通のドラマのような作劇や演出ができるようになったんだ」と感心したものだった。そして、画面を彩った音楽を作曲したのは誰かとも興味を持った。
番組終了後に耳にした副主題歌の「REAL FORK BLUES」のむせぶような酔いどれぶり、そして翌週に初めて観た主題歌「TANK!」の1950年から60年代の米国ドラマを思わせるような一癖も二癖もありそうな気配。
僕は作曲の菅野よう子に、すぎやまこういち以後、ひさしく出会えなかった「お気に入り」の称号を与えた。

だが、仕事と生活が忙しくなりつつあった僕に、熱心に菅野の音楽を追いかけている暇はなかった。だから、次の出会いも偶然だった。
仕事で夜中に呼び出され、くたくたになって深夜に帰宅した僕は、何気にTVをかけていた。疲れて帰った時はすぐに眠れるものではなく、何となく呆けている時間が欲しいものだ。たまたまTVの画面では少女マンガのような端正な顔のお兄さんが、何やらつぶやいており、自己陶酔的な雰囲気を醸し出していた。
どちらかと言うと、苦手な趣向の絵だ。元気な時なら、たぶん、チャンネルを変えていたと思う。だが、どっぷりと疲れていた僕は漫然と、耽美的なお兄さんを眺めていた。何やら翼の生えた人も飛んでいる。
その時、歌が流れた。

世界の始まりの日 生命(いのち)の樹の下で
くじらたちの声の 遠い残響を二人で聞いた
失くしたものすべて 愛したものすべて
この手に抱きしめて 現在(いま)は何処を彷徨いいくの
答えの潜む 琥珀の太陽
出会わなければ 殺戮の天使でいられた
不死なる瞬き持つ魂
傷つかないで僕の羽根
この気持ち知るため 生まれてきた
一万年と二千年前から愛してる
八千年過ぎた頃からもっと恋しくなった
一億と二千年あとも愛してる
君を知ったその日から 僕の地獄に音楽は絶えない

作詞:岩里祐穂、作・編曲:菅野よう子と保刈久明、歌唱:AKINOの布陣、「創聖のアクエリオン~お兄さまと~」の調べに誘われて、僕はそのまま本編を最後まで観終えていた。
物語の内容は、主人公たちが合体ロボットの操縦席で、戦闘中だと言うのに思念だけの大喧嘩をする、バロム1の「目の中で喧嘩」も真っ青のいかれた内容だったが、そのいかれっぷりが気に入ってしまった。
だが。
もっと気にいったのが冒頭に流れたあの歌だった。

愛してる。
それも一万年と二千年前から。
そして、一億と二千年あとも愛している。

その言葉の力に魅せられた。そして、言霊が躍るような力に溢れた旋律に魅せられた。
ドドソソラ-ソファソ-ミ ドド(1音階かけあがる!)シ-ソラ-

愛してる。
なんと美しい言葉だろう。
歌謡曲でありふれたように聞かされているはずの言葉なのに、どうしてこんなに胸に響くのか。
一万年と二千年。
八千年。
一億と二千年。
ずっと、ずっと愛し続ける、愛さずにはいられない思い。それがはったりであったとしても、この気の遠くなるような時間をまたぐ愛という概念に、僕は引き寄せられたのだろう。

「COWBOY BEBOP」でずぶずぶに溺れていくような、ジャズの如き音楽を奏でた菅野は、この作品の劇判では宗教曲を戯画化したような響きを作っていた。中世の教会音楽を思わせるような響き、世俗曲のような響き、時にはコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の引用まで持ちだして、一種、異様なアクエリオンの世界構築に寄与していた。

「創聖のアクエリオン」は2005年にテレビ東京系列で放送された。河森正治が原作と監督を務めている。物語は堕天翅族と人類の攻防を描く・・・はずなのだが、河森独特の世界観が横溢していて、おもしろいと感じるか、馬鹿げていると感じるか、受け取る側の感性によって相当に振幅の揺れが大きい物語だっただろう。
河森独特の世界観とは、彼の「舞台設計は壮大に、物語は男女の小さな恋物語で突っ走る」というもの。少なくとも「超時空要塞マクロスTV版および劇場版(初代)」「創聖のアクエリオン」「マクロスF」を観た限りではそうだった。
堕天翅族は、人間の魂を食料としている。つまり、人類にとって捕食者となる。
侵略を主題とする物語において、最も深刻かつ悲惨な印象を与えるのが、我々人類を「食料」とみなす敵と戦う場合だろう。単に支配したい敵との場合は、生存することにおいて、まだ某かの交渉の余地があるが、食料とみなされての戦いは凄惨であり、救いがない。
その代表的な物語こそ。永井豪の「デビルマン」(※1である。ハリウッドの映画で言えば「エイリアン」であり、「プレデター」(※2や、一連のゾンビ物だろう。
人類にとって恐ろしいものの一つとして、食物連鎖の頂点から転げ落ちて、誰かにとって喰らわれるという展開があるのだが、堕天翅族の存在は、それに相当するはずだった。本来なら、「アクエリオン」の物語は、凄惨なものであるはずなのだ。
ところが、この物語に凄惨な匂いは一切ない。
まず、魂が食料であるため、肉体を噛み砕かれるような陰残な印象がない。
また、河森の作品の特徴だが、一般市民の恐怖心が描かれていない。監督に興味がないのか、計算なのか不明だが、「侵略されている」「食料として狙われている」という一般市民の感情が描かれていないし、そもそも主人公以外の存在が物語にほとんど関わってこない。少なくとも、描かれ方が最小限かつ淡白なのだ。そして、物語の中心にあるのは、結局は男女の恋愛なのだ。(※3
アポロ、シルビア、シリウス、トーマ・・・とどのつまりは彼らの恋愛感情の交錯を描いたのが「アクエリオン」なのだと思う。
そうした物語構造はマクロスも変わらない。マクロスでは広大な宇宙空間という空間的広がりを舞台にして、描いたものは男女の三角関係だった(マクロスプラスと7は未見なのでご容赦を)。

だが、そうした作品でありながら、河森の巧みな演出によって、僕は舞台の中に引き込まれてしまう。
河森はアニメ愛好者の嗜好の壺を押さえた物語展開を進めることに長けている。また、感情を左右するのに音楽、歌が有効であることもよく理解している。
初代マクロスに始まって、アクエリオンにしても、マクロスFにしても、物語の盛り上がりの場面で、河森はここぞとばかりに歌を多用する。たぶん、彼自身がそうした演出で快感を覚えていることだろう。その根底にあるのは、30年前の巨大ロボットアニメ最盛期の作品群によく見られた、戦闘場面が最高潮になった時に鳴り響く、ロボットアニメ主題の格好よさへの撞着の念だろう。
アクエリオンではさりげなく物語終盤に「量産型アクエリオン」などという、ガンダムに対するジムのごとき、ガンダム的味付けもなされていた。こういう展開には僕も弱かったりする。
あざといのだが無視できないのが河森作品なのだ。

さて、そうした河森作品になくてはならない魅力的な音楽について、菅野は見事な仕事をやってのけた。先にも述べたように中世教会音楽を彷彿とさせる音楽から、近代のハリウッド映画音楽に通ずる幅の広い音楽を展開し、あまつさえ複数の魅力的な歌を惜しげもなくこの作品に差し出している。
特に「創聖のアクエリオン~お兄さまと~」は、一聴、忘れられない歌詞と音楽で、物語の根幹を観る者に伝える強い力を持っている。この歌はSANKYOのパチンコのCMで大量に流されてしまったため、陳腐化しかねない危機にさらされたが、やはりその魅力は薄れていない。

ここで菅野の音楽だけを讃えるのは実は画龍点睛を欠くというもので、やはり岩里の歌詞も讃えずにはいられない。彼女の
一万年と二千年前から愛してる
八千年過ぎた頃からもっと恋しくなった
一億と二千年あとも愛してる
という歌詞がなければ、ここまでの吸引力は生まれなかったかもしれない。
二人は他にも「鳥になって」や「荒野のヒース」などの名曲も成しており、これらの歌が「知る人しか知らない」という状況は、実に残念である。
だが、二人の織りなした歌の力は、更に拡大し、僕に衝撃を与える作品を完成させた。そこでは言葉の力、世界を揺るがすのではないかと思われるほどの言霊の力が溢れていた。
その歌については次回で。

※1)この一大傑作は残念ながら次の世代には意外と受け継がれそうにないのだが、ここに描かれた恐怖は比類がない。

↑旧版はもう中古しか手に入らないようです。
↓文庫版をどうぞ。


※2)単体ではえげつないほどに怖かった両者だったが、彼らが戦う「エイリアンVSプレデター」が作成されてしまった。「恐ろしかった敵同士が戦って、自滅してくれる」安心さが出てきてしまい、恐怖の度合いが減少したりしている。
※3)今に到るも違和感を隠せないのは、「愛・おぼえていますか」の終盤、ミンメイの歌に乗って最終決戦が繰り広げられる中、唐突に一般市民が破壊に巻き込まれて首が千切れ飛ぶ描写があったことだ。今でも僕は「何、この無意味な残酷さ?」と感じている。土壇場までラブコメしておいて、戦争の悲惨さを紛れ込ませても、違和感しか覚えない。


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