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「あしたのジョー2」のこと その1


今回は音楽の話はなく、いきなり「あしたのジョー2」。
09年の秋から関西では「あしたのジョー2」が再放送されている。
劇画「あしたのジョー」は天涯孤独の青年、矢吹丈がボクシングと巡り合い、野良犬のような荒んだ生活から好敵手に巡り合い、命を燃やしつくすまでの物語である。梶原一騎(高森朝雄名義)とちばてつやが生み出した空前絶後の物語だ。
特に現在、40代~60代の男性にとっては必修科目と言っていい作品であり、かつて飛行機をハイジャックしたテロリストたちが「自分たちはあしたのジョーである」と自己表現するほどの影響力があった。
「あしたのジョー」は、2回TVアニメ化されている。1回目は虫プロの製作で、2回目が東京ムービー(現トムス・エンターテイメント)で。そして、各シリーズの総集編が1作ずつ劇場用として公開された。
僕は劇場用は2作ともみているが、TVシリーズは第1シリーズも「あしたのジョー2」も断続的にしか見ていない。「あしたのジョー2」を第1話から順番に観るのは放送開始より30年にして、今回が初めてだ。
で、改めて観て、これが驚いた。作画の質の高さにも驚いたし、原作にはない独自の展開も含めた物語の完成度の高さにも驚いた。加えて、歌の質の高さにも仰天した。
通常、「ジョー」のアニメとくれば、虫プロによる第1シリーズをさすと思う。白い背景の中からコーナーポストに陣取るジョーが浮かび上がり始まるオープニング映像の鮮烈さ、寺山修司の手になる歌詞があいまって、「ジョー」の印象を強烈に刻み込んでいる。エンディングの「立て、立つんだよ、ジョー!!」という段平の台詞も、一頃は定型句として使われたものだった。また、何といっても物語の要である力石戦を描いている。
社会的認知度からみれば、恐らく第1シリーズの方が格が上、という印象がある。
しかし、改めて「あしたのジョー2」を観て、これは第1シリーズに劣らぬ傑作だという感想を抱いた。
第1シリーズも断片的にしか観ていないのだが、這い上がろうとするジョーの執念が全編に満ちて、闘争心のあふれる内容だったと思う。好敵手力石徹に巡り合い、打倒力石を目標にのし上がっていくジョーを描くことが中心の作品だった。この第1シリーズは劇画連載と同時進行しており、当時は現代ほど調整が巧みでなかったので、力石との死闘が終わり、力石を失い、カーロス・リベラとの戦いでジョーが立ち直る時点で原作にTVが追いついてしまった。このため、苦肉の策としてジョーが再びドヤ街から旅立ってしまうという、原作にはない展開では強引に終了せざるをえなかった。
一方、「あしたのジョー2」は連載も終了してから既に7年が経過した時点でのアニメ化だった。「真っ白に燃え尽きる」ラストを目指して、力石戦後から始まる物語である。
力石徹というジョーの人生の要となる存在が既に失われてからの話になっているため、必然、第1シリーズとは質が異なってくる。第1シリーズが今流行りの「(力石という)坂の上を目指して」登っていく物語とするならば、「あしたのジョー2」は登りきった坂道の向こうに見える世界の物語なのだ。坂道を上った後、行く先を見失いかけたジョーが、カーロス・リベラと巡り合って指針を取り戻し、しかしそのカーロスを葬り去った世界チャンピオンであるホセ・メンドーサを追い詰める展開となっていく。だが、なぜ、戦うのか、何を目指すのか。ジョーにとってはメンドーサすら、自分の衝動をたきつける言い分でしかなかったかもしれない。「真っ白に燃え尽きるための」理屈でしかなかったのかもしれない。本当に心底から戦い、叩きつぶしたかったのは力石徹以外にはいないのだから。
そういうジョーの気持ちを丹念に追いかける物語が「あしたのジョー2」である。第1シリーズに比べれば、表情のあどけなさも薄まり、憂いを含んだ青年としての表情が多くなる。もちろん、演出も作画も十分に「力石後」のジョーを理解し、意識的にそうしているのだ。
それにしても、30年を経て、これほど次回が楽しみな番組も最近、巡り合っていなかった。郷愁だけではすまされない質の高さに注目せずにはいられない。
監督の出崎統は第1シリーズでも演出を担当しているが、「あしたのジョー2」では生涯の相棒である杉野昭夫との連携、画面の反復や止め絵による演出方法が円熟し、物語の展開が正に流れるように進んでいく。
そして、杉野指揮下の作画が凄い。表情や筋肉を強調するため、細かな描線が多数施されているにも関わらず、しかもTVシリーズでありながら、作画に乱れがわずかにしか感じられない。今更ながらに、当時の東京ムービー作画陣の実力を思い知らされた。
「あしたのジョー2」は1980年の放送である。当時の私の興味の対象は、富野監督による「ガンダム」や「イデオン」である。しかし、当時のサンライズのTV作品は、本当に作画のムラが激しかった。いい時は非常にいいのだが、悪い時は作画の質があまりに低くて、観ているのが苦痛になるような回もあった。「マクロス」の第1シリーズも相当にムラがあったし、80年代のTVアニメには作画の落差が激しいという印象を持っていた。
ところが、「あしたのジョー2」は、ムラがほとんどない。これだけでも驚きなのに、作画の質が、2010年現在の視点でみても優れているのだから恐れ入る。
もっとも、どこで目にしたかはもう覚えていないが、「杉野昭夫は止め絵はうまいが、アニメはうまくない」という評価を読んだ記憶がある。もちろん、「うまくない」といっても最高位のアニメーターの中では、という意味合いだろう。
たぶん、杉野キャラの硬質な描線と動きが、ぎりぎりまで緊張しきった筋肉の弾けるような印象を与え、もしかするとロボット的なぎくしゃくしたものに見えるからかもしれない。柔らかな動きの要素に欠ける点を評してのものかもしれない。
だが、僕は杉野による「あしたのジョー2」の作画に酔いしれている。ジョーの表情が実によい。ジョーという存在が際立つ場面に満ち溢れている。
それにしても、杉野という人はどれだけ早描きだったのだろう。出崎監督とのコンビで、それこそ当たり前のように毎回止め絵が出てくるのだが、その量は膨大だ。原画も描いて、作画監督としてチェックも行い、その上、止め絵を毎週、数枚は描かねばならない。止め絵といっても、1枚画として出しても十分に鑑賞に値する質を保っている。その作業量と質に驚くよりない。本当にあの止め絵、画集にして出版していただけないものだろうか。
あと出崎統が高く評価していた撮影監督:高橋宏固による多彩な撮影技術によって、ある意味、アナログ手法による究極のアニメ照明を観ることができる。
出崎監督の演出ではよく透過光が多用されるが、これを可能にしたのが高橋の技術であり、出崎が求める以上の技術の引き出しを準備するように努力していたいう発言を、確かご本人へのインタビューだったと思うが、目にしたことを記憶している。出崎・杉野がものにしたあの詩的な画面を完成させたのが、高橋の撮影だった。彼による照明の魔術が杉野の作画とともに出崎演出を支えていた。
23話「燃える野獣と…氷」で、試合に直前に対戦相手である金竜飛とジョーが喫茶店で会話をする場面がある。そこで金が過去に父親を戦争の最中に殺してしまったことを回想するのだが、この回想シーンから金が語り終えて喫茶店から出ていく間の照明には凄味があった。特に1人取り残されたジョーの周囲の寒々しい空気感は、並の実写照明を凌駕していた。
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