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[T2] さあ!サックスを吹いてみよう!!

どうすれば、いかに短期間で、壁になるべくぶち当たらず、 良い「自分の音」を作ることが出来るか?90日間の挑戦に賭けてみますか?それとも変わり映えのしない音のまま3ヶ月後を迎えますか?

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強かに、たくましく生きる父子 直居隆雄のギター

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今頃になって、炉心溶融を起こしていたと認めた政府と東電。
その東電の社長が交代するというが、社長を退けば責任から解放されると思ってもらっては困る、というかそれを国民が認めてはいけない。
海水注入の中断がどうしたこうしたなどという阿呆な議論に時間を費やした政治家たち。
がんばろうという希望を、政治が発信できなければ、国民は例え状況は厳しくともがんばろうという気持ちにはなれない。
つまり、上に立つ人間の覚悟の問題でもある。違うか?

僕たちが慣れ親しんだ多数の作品の美術監督をされた中村光毅さんがなくなられた。
この方も享年67歳。
僕は、とても寂しい・・・・。

1980年代はアニメ音楽産業も活気づいていて、意欲的なアルバムが続々と製作された。
アニメの劇判音楽を素材にして、ディスコ、ジャズ、交響組曲などへ編曲した企画アルバムが発売され、業界は元気一杯だった。
残念ながらその多くは廃盤のままだ(※1)。僕の手元には「ダンシング・ザブングル」や「イン・バイストンウェル」のような企画LPがあり、いつか紹介したいと思っている。
僕は持っていないが、最近、「ああ、そういえばそんなLPあった」という作品の中に、コロンビアが製作したJam Tripシリーズがあって、その目録の中に「LupinⅢ(ルパン3世)」と「Macross(超時空要塞マクロス)」があった。
ルパンはもともと大野雄二によるジャズそのものの音楽を更に自由に演奏したものだろうが、マクロスは羽田健太郎の「わたしの彼はパイロット」なんて曲をジャズに編曲・演奏したものだそうだ。僕は未聴だが、このアルバムを評価している人は多い。
このジャケットは店頭でみかけたことがある。今の僕なら喜んで手に取っただろうが、30年前の高校生の僕は、「どうしてアニメ本来の画を使わないんだろう、パチもん(偽物)臭いわ」と感じたものだった。
今となっては、いかにも80年代らしい、大らかな、楽天的なジャケット画だと思う。
まるで50年代の米国SF雑誌を飾ったかのような、宇宙空間に金属質の水着をまとった美女を配した画。
ある意味、重しであった70年代の空気が一掃された後の、馬鹿騒ぎの時代だった80年代の空気が溢れ出る画だと思う。
さて、前置きが長くなったが、このJam Tripシリーズの演奏を手掛けたのが石川昌とカウント・バファローズというバンド集団だった。彼らは石川晶という稀代のドラマーを中心に組まれたバンドで、企画物のスタジオ録音からオリジナル録音、ライブ録音と幅広い活動をしていたという。下記のHPに詳しいが、彼らはアニメ関連の仕事も多数手がけている。
僕の大好きな「海のトリトン」にも関わっていたというから、嬉しい限りだ。
Get Up紹介の頁

さて、このJam Tripで石川晶と組んで、ギターを演奏しているのだが誰あろう。「イデオンⅠ」でうねるようなギターの「轟き」を聴かせてくれた、直居隆雄その人である。
「イデオンⅠ」に関わった人々について追いかけていくと、次第に当時のアニメ音楽はおろか、時代々々の音楽の節目を築いた演奏者にたどりついていくようだ。

直居隆雄は自らHPを解説し、ツィッターもしている。略歴も過去の作品も、彼自身がHPに記録を残しているので、割と情報収集がしやすかった(※2)
彼のHP「ギタリスト直居隆雄のページhttp://area52.lalalu.com/tn/index.html」を参照すると、略歴は次のようになる。

1947年1月14日生まれ。父は映画脚本家の直居欽哉。
1968年青山学院大学理工学部中退し、プロミュージシャンとなった。初仕事は自由ヶ丘「ファイブ・スポット」。そして鈴木勲、大沢保郎、木村新也、原信夫(シャープアンドフラッツ)等のグループにて演奏。更に1970年ニューヨークへギタリスト増尾好秋とともに留学(JAPANESE-AMERICAN INSTITUTE)した。
1972年に帰国後、本格的にスタジオミュージシャンとしてジャズ、ポップス、ロック等、演歌以外のジャンルで活動を開始した。同時に「ピットイン」「タロー」でストレートなジャズの演奏活動も行った。自分自身のグループだけでなく、渡辺貞夫、日野皓正、大野雄二、向井滋春、土岐英史、益田幹夫、等のグループの演奏にも参加している。
1974年プロとしてアレンジを始め、大場久美子、相本久美子のアレンジで「ヒット賞・ゴールデンディスク賞」受賞。 また、「ベスト・スタジオミュージシャン賞」受賞した。
1978年「劇団四季」「東京ディズニーランド」(Show Stage)などのいわゆる劇伴音楽の作曲も始める。
1990年「志摩スペイン村」をはじめとする、全国のテーマパーク音楽のアレンジを始める。
1993年スタジオミュージシャンの仲間とリハーサルバンドを結成。(PIG NOSE)
1994年銀座ソニービル「ソミド」にて「西銀座ジャズ倶楽部」のタイトルで企画ものの定期コンサート(1997年までの約3年間)をスタート(出演及び音楽監督)。NHK BS-2「BSジャズ喫茶」準レギュラー出演を行っている。
1995年JCAA・日本作編曲家協会事務局長に就任。音楽家の権利擁護活動をスタート。
2000年頃よりジョン・ネプチューンとの活動を強めている。
2001年芸団協理事に就任。
2002年からはスイート・ベイジル(六本木のライブ・レストラン)でのプロデュース活動も開始している。
2006年FCA音楽作家団体協議会理事、MPN演奏家権利処理合同機構常任幹事に就任
参加したコンサートツアー・・・ 野口五郎、アリス、加山雄三、朱里エイコ、服部克久、マリーン、阿川泰子、ジョ ン・ネプチューン、ジャクソン・ファイブ、オズモンズ、ナンシー・ウィルソン、 アンディー・ウィリアムス、ディジー・ガレスピー、ペリー・コモ、etc.
参加したレコーディング・・・ 数千曲あります。(数万曲かも・・)ほとんどのアーティストとレコーディング経験あり。

・・・映画脚本家を父に持ち、大学を中退してギタリストとしてデビュー。米国に音楽留学を果たした後、本格的に演奏家として活動を開始した。スタジオ録音、自前のバンド活動、更にはジャズ界の大御所のバンドにも参加して実績を積んだ。
やがては編曲、作曲活動も開始して、劇団四季やテーマパークの音楽にも関わるようになり、次第に業界の中心人物と目されるようになった。音楽業界の団体の幹部を務めながら、その一方で国内のみならず海外にも人脈を築き、幅広い演奏・録音活動を続けながら現在に到る人生のようだ。
上に記載はないが、ギタリストの後進育成にも心をくだいているようだ。
この人生は、若輩が失礼を承知で語れば、見事、である。

幼少の頃の情報は、例によって、ない。
音楽家は意外と内気なのか、あまり子供の頃を語ってくれない。
だが、彼がさらりと書いた一言が気になった。
「父は映画脚本家の直居欽哉」
彼自身は音楽家。父とは畠が違う。これまた失礼を承知で言うが、この父君は決して高名ではない。
だが、それでも彼は父親の名前を出してきた。
彼の、父親に対する誇りを、僕は勝手ながら感じる次第だ。

直居欽哉は、グーグルで検索してもほとんど情報を得られない。恐らく熱心な映画評論家や研究家の間では知られており、そうした方々の著書を紐とけば見いだせる人物と思われるが、略歴すらわからない。
だが、彼が担当した作品は、以下のHPにまとめられている。
日本映画データベース
Goo映画
All cinema
特に日本映画データベースの記載をみると、彼が小規模製作会社の脚本でデビューし、以後は日活、東映各社の作品を手掛け、更には大映、松竹や東宝など、主だった映画製作会社の仕事に携わり、映画斜陽後もTV界に身を移して活動を継続した御仁であることがわかる。
受ける印象は、強かさ、たくましさだ。
映画の黄金時代(1950~60年代)は映画会社は5社協定を結んで、俳優を含む人材の引き抜き合戦にならないようにしていた。逆に言えば、現場の人間は一度、就職すればみだりに転職できない不自由さでもあった。
その時代の中を、直居欽哉は、もちろん自由に行き来するという超人的なことはできなかったのだが、その都度、己の生きる場所を見つけて脚本執筆に勤しんだ。
そして、彼が手がけた作品をみると、これがいわゆるB級作品だ。芸術祭に参加するような文芸大作には関わっていない。だが、彼は時代々々のスター俳優たちのためのプログラムピクチャー、今で言えば人気俳優を擁したゴールデンタイムのTVドラマに類する作品の脚本に関わっている。
彼が脚本を担当した映画の主演には、石原裕次郎、高倉健、若山富三郎、里見浩太郎、美空ひばり、松形弘樹、梅宮辰夫、宇津井健、勝新太郎等々、若い人から見たら「誰やねん」かもしれないが、一定の年齢以上の人間にとってはきら星のごときスターたちが居並んでいる。




そういうスターの人気を維持できる脚本を書ける人材として、直居欽哉は認められていたわけである。
正直、彼の略歴を知ることはできなかった。だが、「人間は何をしたかで値打ちが決まる(byブライト・ノア)」のごとく、彼が残した業績をみれば、それなりに推測することはできる。
複数の映画会社を渡り歩いて、TVドラマの製作責任者としても業績を残した人物である。やんちゃな人間が多かった東映や大映で、気難しいスター達に認められる脚本を書いた人物である。
恐らくはなかなかにしゃれのわかる、豪快な人物だったかもしれない。

僕は息子の直居隆雄の生きざまをみていると、父親の直居欽哉の姿がだぶって仕方がない。
直居欽哉の近影を探すことはできなかった。だが、恐らく容貌は直居隆雄のそれなのだろう。父と子は否も応もなく、似るものだ。
優しげだがひ弱でなく、飄々と人生を乗り切る味わいを感じる。
直居欽哉は、息子が大学を中退してギタリストで食っていくと宣言した時、何と感じたのだろう。息子に何と言ったのだろう。
僕はそれを知りたいと思う。
安保がどうした、学生運動がどうしたという時代に、せっかく入った大学を中退するという息子に怒ったのか、仕方がねーなーと笑って許したのか。妻は泣いたのか、泣いた妻をなだめ諭したのか。
中退どころか、次には米国に音楽留学にいくという。資金はどうしたのか。親父が「しゃあねーなー、この金食い虫が」と笑って出したのか、それとも「渡米するくらいの金は稼いでみせる!!」と、自分で稼いだ金で渡米したのか。
何か、この父子からは、互いを勇気づけ合いながら人生を乗り切っていく姿を妄想させてしまう力強さを感じてしまう。
たぶん、父親は、息子に「後悔のない人生を歩め」と言ったんじゃあないかなあ。もし、二人が大喧嘩していたら、たぶん、「俺の親父は映画脚本家だあ」なんてわざわざ略歴に書かないと思う。

大学を中退して直居は演奏家としての活動を開始した。彼がデビューしたファイブ・スポットとは、東京の自由が丘にあったという生演奏もみせるジャズ喫茶だったという。
正式には「5spot」と表したらしい。ジャズ喫茶マッチの部屋と言うHPがあるので、そこを参照してもらうと、楽しめると思う。
ジャズ喫茶マッチの部屋
その後、彼は、僕も名前くらいは聞いたことのあるシャープス・アンド・フラッツに在籍する。彼は自分が参加したLPアルバムのジャケットも並べた楽しい部屋をHP内に作っていて、当時のことを次のように回想している。
「ボクがシャープス・アンド・フラッツに入ったのは確か19才の時だと思います。今だにどうして原さんがボクのことを知って引っ張ってくれたのかよくわかりませんが、とにかく入っちゃったのです。」
相当な謙遜だろう。「若いけど、うまいギターがいるよ」と口コミで認められて引っ張られたのだと思う。
いったい、誰にギターを習ったのか? 独学だろうか? ギターは独学でのしあがれる楽器かもしれない。神様ジミ・ヘンドリックも独学だったと聞く。エリック・クラプトンもそうか?
いずれにせよ、まだ20才にもならない青年が、海幸山幸の演奏家たちの輪に飛び込んで行ったわけだ。渡米はその後だから、自分で稼いだ資金で渡米したのかもしれない。

シャープス・アンド・フラッツは「#&♭」であり、語源は音楽記号のことだ。1926年生まれのテナーサックス奏者、原信夫を中心にして結成されたバンドで、1960年代から1970年代にかけて、美空ひばりの専属バンド、NHK紅白歌合戦のレギュラーの座を獲得し、一時代を築いた。直居が抜擢された1960年代末は、恐らくはこの団体の最盛期であり、直居にとっては様々な意味で充実した修行時代であったことだろう。たぶん、直居に青春時代はと問いかければ、シャープス・アンド・フラッツの頃と答えるのではないか。
この後、彼は1970年から渡米する。記事によっては1971年というものもある。
彼とともに渡米した増尾好秋は、爾来ニューヨークに在住し、ソニー・ロリンズを始めとするジャズ界の大御所と仕事をともにする幸運を得ている。
増尾好秋、ロリンズを語るhttp://www.ymasuo.com/bio/1973sjtx.htm(直居に触れた発言もあり、興味深い)。
二人は老いてなお活動をともにしており、幸福な絆をみせてくれている。

1972年に帰国の直居は、国内のジャズの重鎮達と活動をともにし、スタジオ録音はもちろんのこと、生演奏(ジャズは無論のこと、当時全盛期の歌謡曲のバック演奏まで)、作編曲までこなし、その末が「参加したレコーディング・・・ 数千曲あります。(数万曲かも・・)ほとんどのアーティストとレコーディング経験あり」という自負に結びついている。
つまり、彼もまた1980年の「イデオンⅠ」に参加した時が、演奏者として上り調子で脂が乗った頃合いだったのだろう。




当時、直居が参加していた石川晶とカウント・バファローズだが、彼らの残したアルバムは先鋭的だ。1975年発表のGet Upは留まるところのない疾走する音の目まぐるしい音色の変化に連れ去られていく快感を覚える楽曲だ(※3)。
この音楽を聴いて、僕は考えた。「デス・ファイトはすぎやまこういちが目指した、彼独自の音楽世界の結晶」と讃えたものだが、この「イデオンⅠ」のめくるめく世界は、すぎやま個人の力では到底、実現しえなかった音で満たされているのかもしれない。
こうして直居の歩んだ道、彼が通ってきた音楽世界をみると、「イデオンⅠ」とは、すぎやまのみならず、彼が集めた猛者たちが持ちよった音楽世界の結晶なのではないだろうか。

直居のギターは「発動」と「デス・ファイト」で聴くことができる。そのいづれでも弾けた、命のほとばしりに溢れたギター、ずしりとした音の飛翔を聴くことができる。羽田健太郎のピアノとの絡み合いは、火花が飛び散るようだ。「デス・ファイト」の冒頭の直居のギターから噴き出る音は、命の塊が轟きをあげて駆け巡っているようだ。

レッド・ツェッペリンの曲を聴いて、エレキギターがまるで交響曲のような荘厳な響きを出すことができることを知った(※4)。僕は直居のギターで、エレキギターの響きの持つ快感を教えられた。
もっとも、直居自身はロック的な音楽よりも、ジャズ的な音楽に傾倒しているという。両者の違いを明確に表現することは僕にはできないが、強いて言えば、より自然体の、肩肘をはらない音楽世界を直居は求めたのかもしれない。

それにしても、直居が歩んだ道は、父親のそれに似ている。一つところに縛られず、それでいて有象無象に埋もれず、自分の存在を残していく。強かに、たくましく自分の選んだ世界で生き残っていく。
実に、うらやましい。見事な父子の人生である。




※1)これだけネット販売が発展してきているのだから、ネットで再発という事例がもっと増えないものだろうか? あるいはむしろ、注文販売でCD-R作製するという方法もある。採算の取りようはあると思うのだが、あとは会社の意欲次第だろう。
※2)だからといって、直居自身に取材が不要かと言えば、そんなことはありえないのである。ご本人にとってどうでもいいことが、実は我々にとっては是非知りたいことであったりする。第一、「イデオンⅠ」録音の経緯なんて、当然のごとく記載されていない。「いやあ、たくさんある仕事の一つだったから、忘れちゃったよ~」と言われそうなくらいだ。もし覚えておられるなら、お忘れになる前に誰か取材してください・・・。
※3)実は、You Tubeで公開されているものを聴いた感想。本来、これは著作権違反だ。この素晴らしい音楽が廃盤であることへの抗議の意思かもしれないが・・・。やはり、僕は著作義務というものも設置して、版権を持つものは定期的な公表を行うべきと考える。
※4)以前にも紹介した五味康祐とか、オペラ歌手の岡村喬生などはロックを敵視しているが、感受性の狭さを露呈しているように思えてならない。
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