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[C3] 私の解釈

こんにちは!突然すみません。
アリエッティを見て翔くんの家族構成を調べていた偶然見つけました。

私の解釈では、
翔くんの母方のお金持ちの実家=豊かな地球、母なる自然
病気の翔くんや破たんしつつある家族=病みつつある地球
アリエッティ家族=人類のメタファーかなと思っています。

借り暮らしといいつつ借りたものを返さない小人族の生活。
裕福な家だからこそ成り立っている関係ですが、
何かを借りたら返すか、代わりに何かを与えるような
give and takeじゃない関係は長続きしない。

豊かな自然をいつまでもなくならないものとして
一方的にもらい続けていると住んでいられなくなる
というジブリらしい発想が盛り込まれているように感じました。

[C4]

翔くんの
「君たちは滅びるんだよ」
「いや、いなくなるのは僕の方だ」のくだりも
地球と人間の関係と思うとスッと受けいられる気がします..

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アリエッティの音

今回はアニメ音楽からは遠い内容だが、ご容赦を。

oto.jpg

ポプラ社が「百年文庫」という新書判の短編小説選集を刊行中だ。僕はこの百年文庫が気に入っている。
この選集の編集理念に、「漢字一文字の趣に合わせて一冊に編むアンソロジーです」とある。例えば“音”という字に合わせて、音が印象に残る物語を3編、収録している。
1冊の頁数はわずか160頁程度。要するに短編小説集だ。価格は750円と割高である。
だが、短編なので気軽に読める上、それでいて凝縮された小説の面白さを改めて教えてくれるので、少しずつ購入している。何と言っても老眼が始まった身には大きな活字がありがたい。
その百年文庫の5巻目が「音」である。ここに幸田文(こうだ あや)の「台所のおと」という小編が収められている。この小説が至極、玉のような美しさを放っていて、久しぶりに小説を読んで心が洗われる気持ちになった。
戦後(※1)の混乱期を乗り越え、場末ながらも小料理屋を営む夫婦の物語だ。
二人は20歳くらい年齢が離れている。また、どちらも幾人かと結婚と離婚を繰り返した末の出会いだった。今の伴侶に巡り合うまでは、どこか信頼しきれない、曖昧な夫婦関係しか築けなかったのだが、今の二人は、互いの中に自分の落ち着きどころを見いだせたようで、夫婦として、家族として、「規律」を自然と守れるようになり、慎ましいながらもキチッとした店を持てるようになった。
だが、夫は病気、恐らく胃癌を患った。
時代が時代なので、今とは異なる対応を医師は妻に指導した。病名を告知せず、妻は夫の病気を悟られないように気遣いながら、調理場に立てなくなった夫の代わりに仕事をしていく。
その、妻の様子を、夫は病床から、彼女が立てる様々な物音だけで感じ取っていく。妻の放つ音だけで、彼女の日々の心の具合まで推しはかろうとする。
ここに描かれた夫婦の、互いを気遣う細やかさに、僕は人を労わる気持ちの原点を見る思いがした。幸田文の文章は、簡潔なのに表情豊かで、小説中の人々の心が直裁に僕の中に染み込んでくる。何かきらきらした言葉の塊が次々と僕の心を満たしてくる。

(帯の文章から)
ああ、いい雨だ、さわやかな音だね。
油もいい音させてた。あれは、あき、おまえの音だ。
女はそれぞれ音を持っているけど、いいか、角だつな。
さわやかでおとなしいのがおまえの音だ。

夫婦生活とは、自分とは異なる相手と生活をともにする自覚と覚悟を持つことから始まる。それでいて、相手を気遣うことによって、自らも癒されるものだと思う。それが端的に表された小説だった。
こうした夫婦の心情は、本当のことを言えば子供が理解するのは難しいと思う。若い人にも必ずしも勧められない。実感がわかないので、何となくの物語で流されてしまいそうだからだ。取り合えず購入して、僕くらいの年齢(40代)になった時に一読することをお勧めする。その時に、初めてこの小説の中の人々の心情が、染みいるように自分の感情として、感じられるようになるのではないかと思う。



さて。
「借りぐらしのアリエッティ」は2010年夏公開のスタジオジブリ作品だ。ウィキペディアによると92.5億円の興行収入を得ており、この年の邦画第一位だ。
この映画は、古い人家の床下に小人たちが人に悟られぬように住んでいるという設定で、彼ら小人族は、人間から生活必需品をこっそり盗んでくることを「借り(狩り)」と称している。
彼らには掟があり、「人間に姿を見られたら、直ちにその家から姿を消すこと」というものだ。至極、当然な掟だと思う。物語は、10代と思しき主人公、アリエッティが、人間の少年、翔に姿を見られてしまうという展開だった。

以下はもしもまだ映画をみていない方は、見てからお読みいただくことをお勧めする。見るつもりがない方はそのままどうぞ。

この映画で最も印象に残ったのが音響演出だ。
特に導入部の「借り」の場面の音響効果は見事であり、日常的な些細な家庭内の音が、小人であるアリエッティたちにとっては轟音であるという演出は、映画の中で異空間を感じることができて楽しかった。単にうるさいというものではなく、この音には空間としての広がりを感じさせ、アリエッティのいる部屋が、まるで大聖堂の広大な空間の中ではないかと感じられた。
前半の音響演出は絶品であり、雨の場面でも雨音が激しくなるにつれ、本当に雨飛沫が飛び散ってくるかのごとき涼しささえ錯覚するほどであった。物音そのものが物語を語ってくれるという素晴らしい演出を楽しめた(※2)。
音響担当は笠松広司。やはりウィキペディアによれば
「有限会社デジタルサーカス(英語表記:Digital Circus)はTV・映画・ラジオ・DVDなどの音響効果会社。代表の笠松広司は今やスタンダードとなったPC用音楽編集ソフトPro Toolsをかなり早い段階で導入。音効界に同ソフトを広めた一角。また90年代を代表するお笑い番組めちゃ²イケてるッ!を手がける一方で、アニメーション・映画の音響効果も担当するという他に例を見ない守備範囲を誇る。※笠松広司は、音響効果だけでなく音楽のプロデュースなども行っている。」
という。

この素晴らしい音響演出と、小人族アリエッティと人間族翔の心の交流とうまくかみ合えば、この映画は傑作になっていたかもしれない。
ところが。
この映画はとんでもない展開に陥ってしまい、僕としては非常に疑問の残る結果となってしまった。
最大の問題は、人間族、翔の性格設定だ。
この映画には小人族としてアリエッティとその両親、そしてスピラーが登場する。人間族として少年である翔、その伯母である貞子と家政婦のハルが登場する。
この翔だが、恐らくは先天性心疾患を患っていて、近日病院に入院して手術を行う予定のようだ。両親は離婚しているのだが、母親は息子が心臓手術をする直前だというのに海外に出張にいってしまって登場しない。翔の祖父母が住んでいた旧家屋で入院まで預かるため、貞子につれてこられたという設定だ。
アリエッティは、この翔にいきなり目撃されてしまっている。いや、それどころか実は彼ら小人族はこの家の住人に代々、既に目撃されてしまっていて、翔もその話を聞かされていたらしいのだ。知らぬは小人族ばかりなり。これだけで掟の重みもへったくれもなくなっている。
しかもその夜、アリエッティは父親に連れられて初めての「狩り」に出かける。アリエッティの父親は「人間の子供は早く眠る」という甘い見通しをたてていたのだが、翔はタヌキ寝入りをして彼らを油断させ、接近してきたアリエッティを凝視してびびらせるのであった。ちなみに彼は終始、無表情である。不気味だ。
この第一接触後、翔は求められてもいない贈り物を一方的にアリエッティ側に持ちこむ。アリエッティは今の生活を失いたくないので、姿を隠して翔に「私たちの存在は人間に知られるわけにはいかない、姿をみせるわけにはいかない。私たちをそっとしておいて」と懇願する。
ところがだ。翔はアリエッティの心情を完全に無視して、「君に会いたい、姿を見せてほしい」と執拗に繰り返す。その根底にはアリエッティは弱みを握られているのだから、自分の要求を断ることなどできないだろうという計算すら見える。
この時点で、僕は翔と言う人間に不信感を覚えた。
更に翔はアリエッティの都合も考えず、一方的に贈り物(精巧な台所の玩具)を持ってくる。この時の描写はどうみてもアリエッティの家族がこつこつと築いてきた家屋に対する破壊行為そのものであった。
その結果、家政婦にハルにアリエッティの存在を気付かせてしまうことになる。何と言うか、このハルも小人族がいるらしいと考えていたようだ。
繰り返すが、「人間にみつかってはいけない」という小人族の掟はなんなのか。
相手が望まないどころか迷惑と感じているのに、会うことを強要したり、一方的に贈り物をしたり・・・これはすなわち、つきまとい行為(いわゆるストーキング)でしかない。
どうしてこんな性格設定にしたのだろうか、理解に苦しむのだ。翔は自分の満足を充足させることに精いっぱいで、アリエッティの心中など全く省みない。
物語の中盤、幸せだった家を捨てて、逃げ出さなければならなくなった傷心のアリエッティに、その元凶である翔は、「君たちは滅びゆく存在なんだよ」と突き放す。
僕はこの台詞を聴いて、頭がくらくらした。
果たして、監督はいったい、何が言いたいのか?
物語最後の翔の台詞は、「アリエッティ、君は僕の心臓の一部だ」。
その場の思いつきだけで口にしてしまったような、勢いだけの台詞としか思えない。

僕がこの映画に批判的なのは、登場人物から他者と共存、生活をともにしていくための、人としての配慮が感じられないからだ。
翔はひたすら自分の一方的な気持ちをアリエッティに突き付けるだけ。男子たるもの、手前がどんな病気だからといって、傷ついた女子に「しっかりしろよ」「だいじょうぶだよ、俺がついてる」くらいの台詞がはけないような映画を作るなと言いたい。「ラピュタ」の主人公パズーと、翔との間には、少年の気概として一億光年くらいの差がある。
家政婦のハルなども人性の醜さが溢れているだけで何の愛嬌もない。雇い主の子供を閉じ込める家政婦って、何?
アリエッティの母親の造形も必要以上に老けており、また性格描写は善人だが思慮が浅いものとして描写されている。夫が「手を出すな」と諭したにも関わらず、翔が持ちこんだ食器に見惚れてしまって、その隙にハルに捕獲されるという失態を演じている。
だが、この場面でも、伏線をキチッと張ればもっとよい展開がありえたはずだ。母親はずっと、子供の頃からかわいい食器が欲しかったという設定を設けて、この点をもっと描きこんでいけば、やむにやまれぬ気持ちで手を出してしまったという行動の整合性が出てくる。
つまり、この映画は素人からみても、物語としてあまりに拙いのだ。
ここには一人々々の登場人物に、家族として、友人として、隣人として、互いを労わろうという気持ちが乏しく、個々の欲望だけで動いてしまっていて収拾がつかないという印象に堕してしまっている。
いったい、監督の米林宏昌は何を語りたかったのか? それが見えない映画だった。

僕はこの作品は、ジブリが宮崎駿の後の時代を見据えて製作したものと捉えている。宮崎駿抜きでもジブリが日本を代表する、映画商業で生き残っていけるかどうかの試金石と考えていたのではないかと思う。
僕はそういうことは抜きにして、素直に楽しみにして観に行った。週刊文春では例のごとくおすぎがこきおろしていたが、この人は癖のある映画しかほめないし、そもそも日本のアニメをはなから評価していないからなと無視していたが、映画を観てからの感想は、「おすぎの言うことは正しかった・・・・」という失望感であった。
この映画の一般的な感想は、概ね「画面もきれいだったし、けっこう楽しめた」というものと「物語の展開に起伏が乏しいし、登場人物の言動や行動が変」との賛否両論だった。
僕は、ジブリはやはり日本を代表するアニメ制作会社である以上、人を幸せな気持ちにする家族向け映画を作る義務があると思う。
正社員としての雇用を維持するために劇場用映画のみを製作し、毎回、興行的に成功する。そのこと自体は実に正しい。
だが、近藤喜文を失ってからのジブリの若手世代は、お手本を失ったかのごとく迷走してしまっている。「ゲド戦記」にしてもそうだが、物語として健康さを失っている。富野が「病気の映画を作ってはいけない」と語っているが、正に病気の映画を作ってしまったのが、宮崎吾朗と米林宏昌だ。
どうして、翔はいつも無表情なのか? そこにどんな意図を隠しているというのか? 泣きだしたくなっている女子に「お前、どうせ死んじゃうんだよな」と同義の言葉を男子に吐かせて、それで何を伝えたいのか?
ジブリたるもの、もっと人を元気づかせる映画を作らないとダメだろう。どうしてこんな結果になったのか。他の製作会社の若手たちは、きっと「俺-あたしたちなら、もっと面白くつくれた!!!!!」と叫びたかったのではないか?
東映アニメーションの若手などは、安定経営のためにプログラムピクチャーしか作れない現状にある。だが、そんな彼らは恐らく、制約の中でいかにして自分を表現するか、苦心惨澹し、切磋琢磨していることだろう。それが、最も条件に恵まれたジブリが、病気の映画を作っているようではダメではないか?
自由にしたくても、宮崎駿や鈴木敏夫に気兼ねしてしまって、中途半端にしか自己主張できなかったのか? 監督たるもの、その映画の中では絶対の存在だ。ジジイ二人を気にしているようでは、監督には絶対なれない。たぶん、故近藤喜文は、宮崎駿にだって「いやあ、僕はこうでないとあかんと思います」と意見する人間だったのではないだろうか・・・。

若手アニメーター育成プロジェクト作品として、4篇の作品が放送された。
「キズナ一撃」「おぢいさんのランプ」「万能野菜ニンニンマン」「たんすわらし」である。
応募作品から上記の4篇を選出されている。プロジェクト事務局の意図からか、あえてSF的、戦闘的作品は除外されているようで、ある意味、素朴な内容の作品が並んでいる。
もしかすると、かつてなら普通のテレビアニメの1話としてみることができたような内容だろう。
しかし、ここで描かれているのは、家族の絆であり、時代をどう生きたかの祖父の物語であり、友人を守るために自分の苦手なものを克服しようとする気持ちであり、そして、自立した大人になるための精神的通過儀式である。人として、気持ちよく行きたいという素直な物語が並んでいるのだ。「たんすわらし」では、いい年の親父が思わず涙ぐんでしまった。
若手といっても、僕から見れば(一押しのたんすわらしの黄瀬和哉などは、もうだいぶ前から知っている名前だ)十分な実績を持った方々ばかりだが、彼らが埋もれてしまっているのもアニメ界の現状だろう。だが、逆に言えば、実は宝のような人材がたくさんいるということを教えてくれてもいるのだ。
ジブリもどうせなら、外部の血を導入して、若手に競争心をもたらすくらいのことをすべきだろう。今のままでは「言われたことしかしてまへん」という会社になってしまうぞ(※3)。
若手アニメーター育成プロジェクトHP

※1)戦後、と言えば通常は太平洋戦争後の昭和20年代を指すのは、僕らくらいの世代には当然のことだった。だが、20代、30代の人は戦後と言われてピンとくるのだろうか?
※2)だが、この音響効果も劇場だから生きるのであって、家庭内の普及レベルのサラウンドシステムで再現できるのだろうか?
※3)細田守が「ハウルの動く城」を当初、監督する予定だったが更迭されたという話を聞いた。なぜなのか、詳細は封印されたかのごとくわからない。だが、ジブリの閉鎖性をみせられたような気持だ。


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