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奇跡のドラマ―田中清司の「発動」

遅まきながら、「甘すぎ」さんという方がコメントをくださった。ギタリストの直居隆雄がペドロ&カプリシャスに在籍していたことを伝えてくださっている。恥ずかしながらこのコメントに気付かないままに直居の項目を書いてしまった。
ペドロ&カプリシャスについてはウィキペディアに詳細な記事があるので、それに目を通していただくとよいだろう。
参考までにこのグループの初代歌唱担当の前野曜子は、あの出崎監督のさりげない名作TVシリーズ「スペースコブラ」の主題歌と副主題歌を担当している。作詞:冬杜花代子、作・編曲大野雄二の布陣による名曲だ。
因みにこの前野が突然、ペドロ&カプリシャスを脱退した後、二代目の歌唱を高橋まり子が引き継いでから、作詞:阿久悠、作曲:都倉俊一の布陣による。「ジョニィへの伝言」や「五番街のマリーへ」のヒット曲が出たという流れがある。

なお、直居のHPに興味深い、というか是非とも聴きたいと思わせるLPが紹介されている。石川晶とカウントバッファローズ時代、1976年発表の「Okinawa」というアルバムだ。作曲がすぎやまこういち。
イデオンのファンなら聴いてみたくなると思う。残念ながら、当然のごとく廃盤である。
直居隆雄のページから

太陽にほえろ


さて。「デス・ファイト」と並んで直居の最高のギター演奏が聴けるのが「イデオンⅠ」5曲目の「発動」だ。この曲はイデを象徴する「ラ・ソ・ド・ラ」という単純な音階を軸に、しかし軽やかに、しかし力強く、目まぐるしいばかりの音が迸る名曲だ。
ドラムとブラスが重々しく「ラ・ソ・ド・ラ」を繰り返し奏した後、羽田健太郎のピアノが静かに鳴り響き、もう一度、「ラ・ソ・ド・ラ」が強奏される。そして弾けんばかりのドラムの演奏とともに駆け巡るような直居のギターと羽田のピアノの競演が繰り広げられる。
これもまた、他では決して聴けなかった音の響きだ。
なぜか、ロックで聴けば、それは無論、素晴らしい音なのだがロックの匂いから逃げられない。ジャズもまた然り。ある種、ロック、ジャズの枠に収まって聴こえる。
もちろん、それを不満とか、批判するのではない。だが、繰り返すが「イデオンⅠ」に収められた音からは、枠を取り払われた自由を感じるのだ。

この「発動」で素敵なドラムをたたいてくれているのが、田中清司。彼のドラムは「イデオンⅠ」全編でさりげなく、音全体に生気を与えてくれている。第8曲「触れてごらん」では、「コスモスに君と」の旋律が流れる背景に、田中のドラムが聴こえてくる。「発動篇」の予告で用いられた曲だが、美しいのに儚さを覚えずにはいられない曲だ。明るいのに悲しくなるような主旋律を支え、田中のドラムは、音に芯の強さ、たくましさをもたらしているように感じられる。
今回はこの奇跡のドラマーについて触れてみたい。
とはいえ。
勝手にその場の勢いだけで「奇跡」と書いてしまった。だが、この御仁も只者ではなかった。なにしろ、ウィキペディアには「田中清司」の項目が作られているのだ。
なぜ?
田中清司の経歴はウィキペディアに詳細に記載されている。先ず、それをご覧いただきたい。
ウィキペディア:田中清司の項

やはりというか、デビュー以前の記載がない。1948年生まれなので、当年とって63歳。「イデオンⅠ」の時代は32歳頃。バリバリである。
彼のデビュー以後の経歴をウィキペディアの記載に従ってまとめてみよう。
1965年ジャニーズのバックバンド:嶺のぼるとジャニーズ・ジュニアでデビュー。
上記バンド解散後、ジャニーズ事務所から渡辺プロダクションに移籍。田中きよしに改名。1968年GSバンド:ジュニア・ボーイズ結成。しかし、このバンドのデビューは難航。録音された曲が結局、発売されないという事態に到った。
1969年バンドをジ・アルファ→更にグリーン・グラスに改名してようやくデビュー。
並行してNHK番組の専属バンドでも活動。
グリーン・グラス解散。1971年にピープルというバンドで再デビュー。
この後も稲垣次郎とソウル・メディア、サンズ・オブ・サンなどのバンドに参加し、その都度、レコード・デビューしている。
こうしたバンド活動の後にスタジオ演奏家に転向する。
1972年~1976年は筒美京平の仕事に関わった他、多数の音楽グループの録音に参加している。井上堯之バンドに参加(有名番組「太陽にほえろ!」の音楽を担当した)したり、Dig Itというバンドを結成したり、南こうせつのバンドに参加したり、活動は多方面にわたっている。
1980年に井上堯之バンド解散→大野克夫バンドに参加。更に萩原健一のツアーにも参加。また独自のアルバムも発表している。
この時期が最も濃密な活動時期のようで、80年代以後の記載が減少しているが、田中はその後も大野克夫バンドで「名探偵コナン」の一連の劇判録音に関わっている。

こうして田中清司の略歴を見ていると、目まぐるしい変遷に目が回りそうになる。というか、あまりに多彩だ。
その一方で目につくのが、経歴の第一歩がジャニーズ事務所だということだろう。
説明するまでもなく、芸能人、アイドルの興行で収益をあげる会社組織であり、今や日本で最も勢力のある興行会社と言って差し支えないだろう。1960年代とは言え、ジャニーズ事務所所属と言うのは、これまで足跡をたどってきた他の演奏者とは異質に思える。

僕も詳しくはないが、1960年代にはグループサウンズという枠組みが一世を風靡した。ウィキペディアの定義によれば「ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ」であり、最盛期は1967年から1969年であるという。1966年に、かのビートルズが来日したことが影響しているともいう。因みにすぎやまこういちが音楽界で台頭したのも、グループサウンズに楽曲を提供することによってであった。

このジャニーズ事務所から、その名の通り、ジャニーズと言うグループがデビューしたという歴史がある。事務所が創世期の頃の話だ。さてさて。このジャニーズの後ろでバンドとして働いていたのが嶺のぼるとジャニーズ・ジュニアなのだそうだ。後者の呼称は現在もジャニーズJrとして継承されていることは言うまでもないだろう。そこに田中もドラマーとして加わっている。
僕は、「嶺のぼるとジャニーズ・ジュニア」とは、現在のTOKIOのようなバンド形式のアイドルグループかとも思ったが、あくまでバックバンドだったようだ。
ここでしばらく在籍した後、田中は渡辺事務所に移籍し、改名までしている。新たなバンドグループ「ジュニア・ボーイズ」を結成してレコードデビューを予定されるも、お流れになった・・・。何やら事情が複雑そうである。
これまた、管理統制の厳しいジャニーズ事務所が、移籍したタレントに制裁でも加えてレコードデビューの邪魔でもしたのかと邪推しかけたが、これも違うようだ。
と、いうのも1970年頃までの渡辺事務所とは、当時の日本最大の芸能事務所であり、まだ創世期のジャニーズ事務所とは歴然たる力の差があったようだ。たぶん、いかなジャニーズでも当時では対抗できる存在ではなかっただろう。
再々、バンド名(人員も含めて?)などの変更が行われて、ようやくデビューしている。安定とはほど遠い音楽人生だったようだ。いくら人の人生に変化が必要とはいえ、短期間での落ち着きのない変化はむしろ逆境だろう。信頼できる人間関係を得られなかったのか、彼自身が落ち着かなかったのか、流れ流れていくように思われる経歴だ。ジ・アルファやグリーン・グラスというバンド名で検索をかけても、ほとんど何もわからない。言わば、無名の時代である。

70年代にはいり、グループサウンズの全盛期は終わりを告げた。それが影響もしたのだろうか? 田中は1970年代になってスタジオ演奏家の道を歩み始めている。ところがだ。彼の人生はここからがむしろ、華やかとなる。
歌謡界の俊英たる筒美京平の仕事に携わりながら、井上堯之バンドで、一世を風靡したTVドラマシリーズ「太陽にほえろ!」の音楽を担当したりする。40~50歳代の人間にはこの番組の認知度は非常に高い。その主題曲は最近でも「デカワンコ」で引用されるなど、我々の世代ならほぼ誰でも知っているほど有名だ。その演奏に田中も参加しているのだが、このバンド、扱いが違う。「太陽にほえろ!」のレコードのジャケットに、井上堯之バンドの面々の写真が掲載されているのだ。歌こそないが、演奏だけでスターとして遇されたのだ。
井上堯之バンドを紹介したHP

井上堯之バンドはGSの「ザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・テンプターズの元メンバーで結成されたロックバンド、「PYG」から発展した(ウィキペディア)」バンドであり、70年代に高い人気を誇った萩原健一、沢田研二のバックバンドを担っている。『太陽にほえろ!』、『傷だらけの天使』、『悪魔のようなあいつ』、『寺内貫太郎一家』、『前略おふくろ様』、『太陽を盗んだ男』といった、当時を代表するTVドラマや映画の音楽を担当している。田中はその二代目のドラマーである。

田中が凄いのは、その活躍が井上堯之バンドに限らず、非常に多くの歌手やバンドの演奏に参加したことである。詳しくは前述のウィキペディアに記事をみていただくとよい。

ある意味、泣かず飛ばずのグループサウンズ時代から、一気にこのかけあがり様は何なのか? 録音演奏家で生きることを決めたものの凄味か。そう決めた時に彼の才能が正当に評価され、音楽界で引く手あまたとなり、改めてその存在が認めなおされたのだろうか。
田中が「イデオンⅠ」に参加したのは、井上堯之バンド時代の末期だ。たぶん、自分の仕事に自信と誇りが満ち溢れていた頃の仕事だろうし、周囲の評価も絶大だったはずだ。
よくもすぎやまはこれほどの成功を収めたドラマーを、「アニメ音楽」の現場に引きずり込んだものだ。冷静に考えてみれば、ちょっとありえない人材登用だっただろう。
芸能界における実績をみれば、当時の田中の地位の高さがわかる。彼自身、デビューすらままならなかった下積み時代を経験しているのだから、自分の業績と評価に誇りを持っていたはずだ。彼の仕事は芸能界との関連が非常に強く、そこで彼自身も準主役級の待遇を得ていたからだ。
たぶん、すぎやまこういちという存在がなければ、「アニメ音楽」の現場には引っ張ってこれなかった人材だろう。ザ・タイガース(歌唱は沢田研二)の作曲を手掛け、数々のヒット曲をものにした実績のあるすぎやまからの依頼であったからこそ、彼は「イデオンⅠ」に参加したのだと思う。
僕は改めて、すぎやまの眼力、そして製作者としての実力を思い知らされた。
これから名を成すであろう若手も、既に名を成した実力者も、すぎやまの名のもとに集結している。わくわくするではないか。まさに伝説の一枚だ。

井上堯之バンド解散後、一部メンバーが引き継いで結成されたのが大野克夫バンドだ。時代は移り変わり、アニメ音楽が、アニメ主題歌が次第にレコード会社の業績の中で比重を高めていった。「名探偵コナン」の有名な主題曲を担当したのが大沢克夫バンドであり、そこに田中も名を連ねている。
今に到るも、彼のドラムは一味違うという(たかのやすたっふのぶろぐ)。
「イデオンⅠ」に刻まれた田中のドラムは、まさに奇跡のドラムである。
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