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ダメおやじとフルトヴェングラー(3)

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↑昭和59年発行のムック本。彼の演奏が初めてCDとして発売された頃である。

フルトヴェングラーと付き合っていると、どうしても避けて通れないことがある。
復刻盤のことだ。
彼は1954年に亡くなっている。ところが、彼のレコード、CDは、没後も途切れることなく、60年近くの間に繰り返し繰り返し、再発売されている。ほぼ数年に1回は某かの形で発売されているのだ。
冷静に考えれば、ちょっと異常である。そんな扱いを受けている音楽家が他にいるだろうか?

彼の演奏が録音されるようになったのはもはや80年くらい前のことになる。録音が残されたのは、SPレコードからLPモノラル録音の時代まで。残念ながら、ステレオ録音は残されていないらしい。
彼の正規録音は英国EMIと独グラモフォン、あるいは戦前のドイツ国営テレフンケンのスタジオ録音ということになるのだろう。こうした録音が何度も再発売されている。
だが、それだけでは済まない。ラジオ放送全盛の時代でもあり、放送用録音も多数残された。こうしたたくさんの戦時中の放送用の録音は、ベルリンがソ連に占領されたものだから、彼らに押収されてしまった。ソ連はちゃっかり、この録音をレコードにして発売している。まあ、ソ連の人間でさえ、「フルトヴェングラーのレコードは金になる!!」と認めていたということだろう。
その他、戦後の放送用録音もあり、様々な経路、中には身元もよくわからないような経路で彼の録音が商品化されて発売されているのだ。
面白いのは、クラシックの世界ではよくあるのだが、保存状態のよいレコードやオープンリールテープから復刻する、いわゆる「板起こし」による復刻が数えきれないくらい存在することだ。
「板起こし」は元々、SPレコードという旧式のレコード録音の復刻から始まった。1980年代くらいまではくぐもった貧弱な音での復刻が限界だったが、今では相当に技術が進んでいて、「SPレコードって、こんなに明瞭な音が再生されていたんだ」と驚くことが増えている。
本来、レコード会社や放送局に保管されているマスターテープ、オリジナルテープが最も音質がよいはずなのだが、保管状態などによって、劣化の程度が変わってくる。場合によっては、保存状態のよいSPやLPレコードの方が下手な音源よりもよい音を鳴らしてくれることがある・・・らしい。
そこで、様々な人が登場して、保存のよいレコードから「板起こし」をして、CD発売するということがクラシックではよく行われている。特にフルトヴェングラーを巡るCDでは顕著だ。
「板起こし」によるCD(CD-R)発売は、この10年ほどで非常に活発になった。CDやCD-R発売が個人でもできるようになってきたので、個人による復刻がこの流れを加速している。
それはもう、びっくりするほどだ。レコード会社による音質を再整備したCDの発売はもちろん、放送用テープからの復刻でもTHARAやらMEMORIESやらそれはもう多数の復刻が行われている。「板起こし」の復刻CD(CD-R)となるとMYTHOSやらSERENADEやらOTAKENやらDELTAやらがある。1種類の演奏につき、幾つもの復刻が行われていたりもする。百花繚乱か魑魅魍魎か。
そいでもって、中には「俺の復刻の方が凄い」「あいつの復刻元の音源は怪しい」などの熾烈な争いまで起こっている。別にどれでもいいじゃん、という理屈は通用しない。
しかも、それだけで驚いていてはいけない。そんな有象無象のCDの全てを購入して、聴き比べをしている愛好家までいるのだ。たぶん、それも大勢。
堅気の人間からみれば、正に狂気の沙汰。阿呆か、おのれらと叫んでも、むしろ褒め言葉にしかならなかったりする。

こうした事象を見て思い浮かべるのは、「アニメおたくと一緒だ・・・」という感想だ。細部にこだわり、いかに自分の情報が、作品が、より原典(宇宙歴であったり、オリジナルテープであったり)に即しているかを競う。
そして、少しでも良い音質(画質)の商品を求めて、同じ作品を何度も買い直す。
SP→LP→CD→SACD→高音質ダウンロード
VHS<β→VHD<LD→DVD→BD・・・・
お~んなじ作品を、何度も何度も買い直していく・・・。
クラシック愛好家は、アニメ愛好家と同じくらい、業が深い。フルトヴェングラーの復刻CDを巡る状況を眺めていると、そう思わずにはいられない。
つまり、この大指揮者にはおたくを産みだすという属性があり、アニメと同質の世界を構築してしまっているのだ!!  どーすんだよ、おっさん・・・と言われても、当然のごとく彼には責任はないのだが、つい呟きたくなる。

さて、肝心のフルトヴェングラーの演奏についてだが、それほどそんなに凄いのか?
既に大勢の人が褒め称えており、「フルトヴェングラー命」の猛者がそれこそ気合の入ったホームページやらブログやらを開いているので、そうした記事を読んだ方がいいと思う。率直に言って、僕が多少の話をしてたちうちできるものではない。

フルトヴェングラー鑑賞記  数多ある彼のCDを片っ端から聴き比べている。


Classical CD Information & Reviews フルトヴェングラー専門と言うわけではないのだが、CDの購入数が半端ではない・・・。いったい、どーゆー生活をされているのか、他人事ながら心配になるほど。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/index.htm

僕自身はフルトヴェングラー最高、というわけではない。そもそも演奏の違いを云々するほど聴きこんでもいないし、他の演奏と比較して何かを語るほどの知識もない。単に「この演奏、好き」か、面白くないか程度の基準しかない。解釈がどうのこうのもない。
だが、彼が1950年代にウィーン・フィルと吹き込んだEMI発売のベートーベンの英雄交響曲を聴いて、僕が一聴惚れしたのは確かだ。
30年以上前の高校生の頃、僕が初めて聴いた彼のレコードが、この英雄交響曲だった。この有名な交響曲は、最初に「ドン! ドン!」と和音の強奏があるのだが、この音がとても艶っぽいのに芯があって、美しかったのだ。
はったりかますのが大好きだったベートーベン。冒頭の和音の強奏は、運命交響曲の冒頭と並び、彼のはったり精神の象徴とも言える。それをフルトヴェングラーは実に鮮やかに、艶やかに、きらきら輝くような魅力的な音にして、東洋のクソガキに届けてくれた。一聴して、「この曲、かっけえ!!」と感じさせてくれた。
感謝だ。
他の指揮者ではこの音がそっけなかったり、うるさすぎたりすることがある。今に到るも僕が英雄交響曲を聴く時のお手本の演奏が、フルトヴェングラーの演奏なのだ。確かに1950年代だし、モノラル録音なのだが、古さはいっかな感じない(※1。

さて。
かつては「高い理想と理念をもって、戦時中のドイツの良心を守るために演奏を続けた」という聖人君子的な捉え方をされていたフルトヴェングラーの人間像だが、西暦2000年代にはいって、あたかも「ダメおやじ」の性格設定変更のごとく、変化が起こってきている。
かつては、彼がぎりぎりまでドイツ国内に残って指揮活動を続けていたのは、彼が強い信念を持っていたからだという論調が多かった。眼光鋭い彼の写真をみても、それでいいよね、という説得力があった。
だが、クラシック愛好家や評論家の世代がうつろうにつれて、そうした評価が変わってきている。
鍵となるのは、「優柔不断」という彼の性格だ。
つまりは、フルトヴェングラーという人間は、決して決断力に優れた強い意志の人ではなかったらしいという解釈が受け入れられるようになってきたのだ。けっこう、女にもだらしなく、あちこちに愛人もいたようだし、もしかすっと隠し子もけっこういたんじゃねーかという側面もあった。

img085.jpg
↑少年期のフルトヴェングラー。ご覧の通り、相当な美少年。ただし、髪の毛も相当に早く退化したが、それでももてまくったらしい。もてるかどうかに別に髪の毛なんて関係ないんだ。

そんな彼は、「めんどうな連中だけど、僕がお願いしたらそれなりにいうことをきいてくれるんじゃないかな」とナチスを甘くみていて、ずるずると亡命せずに演奏活動をしていたらしい。亡命の直前、その日になるまでまだナチスを甘くみて迷っていたらしいのだ。うじうじ迷っているうちに、一日遅ければ暗殺されていた可能性も高い。
亡命しなかった理由も、半分はドイツから他所の国、特に米国に住むのが実は嫌だったからじゃないだろうか。家庭教師に教育を受けたような、ドイツ-ヨーロッパの上流階級育ちの彼のことだ。あまりに環境が違う米国に住むことに不安が大きかったかもしれない。むしろ、「あんながさつそうな国に住みたくない」と潜在的に思っていたかもしれない。
日本国内でさえ、地域の文化・風土の違いは今でも大きい。育った土地を離れたくないという人も多いだろう。特に上流階級で居心地良く育った人間にはそうだ。
イタリアの仕立て屋の息子、労働者階級に生まれたトスカニーニとなると話は違う。トスカニーニはムッソリーニがイタリアでファシズム政権をつくるや、さっさとアメリカに移住してしまっている。どこでだって生きていける、どこでだって、音楽はできる。そこがトスカニーニの凄味だった。対照的に優柔不断の金持ち育ちのボンボンなのがフルトヴェングラー・・・そんな風にすら見えてくる。
だが、それでも彼がドイツに踏みとどまった理由の半分は、やはり彼の周囲の音楽家たちが心配だった、彼らを守りたかったという、敬意を払うべき心理もあったと思う。彼がさっさと亡命していたら、もっと多くの音楽家がナチスによって粛清されていた可能性もある。そうでなくとも、兵隊として召集されたり、あるいはオーケストラの人気が低迷して経営が成り立たなくなって、大勢の楽団員が職を失っていたかもしれない。それを防ぎたくて、彼は残っていた気持ちもあると、僕には思える。
ボンボンが権力争いの達人、ヒトラー&ナチスの皆様と駆け引きするのは、相当に疲れることだったに違いない。しかも、はっきり言って、負けることの方がずっと多かった。優柔不断というか、多少、精神的に鈍なところもあったのかもしれないが、そうでなければ恐怖で精神的にまいってしまってもおかしくない状況なのだ。しかもだ。確か、ベルリンで彼も空襲を経験していたと思う。要するに戦場の空気を吸っているのだ。
それでも彼はドイツに留まった。
トスカニーニはフルトヴェングラーを非難した。彼が徹底的にナチスやファシズムを非難したのは正しい。だが、彼は安全な場所から、危険にさらされない場所からそうした。虎の檻の外から虎に石を投げたようなものだ。だが、フルトヴェングラーは虎の檻の中で、虎に食われそうになる小動物と一緒に逃げ回った。虎のことを多少気の荒い猫と勘違いしていたかもしれないが。
だが、人によっては、フルトヴェングラーがいてくれて心強かったということも多かっただろうと思う。だからこそ、戦後、彼は多くの弁護者に恵まれたのだ。
僕にはフルトヴェングラーを優柔不断の一言で片づけることはできない。

ところで、かつてはクラシックの作曲家や演奏家、特に歴史的に評価の高い演奏家については、敬意をもって評し、褒め称えるのがクラシック評論の一般的な対応であった。ところが、僕と同じ昭和40年前後の「新人類」世代が台頭してくると、「相対的な見方」とでも言おうか、「大作曲家だ、大演奏家だって言っても、俺らが気にいらないんだったら価値ねーじゃん」という不遜とも言える考え方が幅を利かすようになった。有名曲を掴まえて、「この曲は実はダサい。駄作でもある」などと平気で言ってしまう時代になった。
ここら辺も、クラシック愛好家とアニメ愛好家が同根と感じる側面だ。

最後に、フルトヴェングラーは、実は指揮者なんかしていたくなかったということを記しておく。これも有名な話だが、彼は作曲家として認められたかったのであり、指揮者は仕方なしにしていたのだ。
もちろん、指揮活動は嫌いではなかっただろうが、もう十分、指揮者として名声を得た頃には、作曲がしたくて指揮の仕事を休んだりしている。
まるで、漫画家が「アニメ映画作るから、連載、休みます」のノリではないか。
古くは手塚治虫、松本零士、少し前で大友克洋、最近では永野護。
大友克洋なんかは漫画家をやめてしまったに等しい。
手塚治虫のアニメ映画は、宮崎駿らかつて長編映画製作の伝統があった頃の東映アニメーションの社員からは、「長屋の大家が下手の横好きの浪花節を歌っているようなもの」と嘲笑された。熱意はあっても、専門でアニメを作っている彼らから見れば未熟、映画としての基本がなってないと思えたらしい。
フルトヴェングラーの作曲も、この10年ほどで再評価を得つつあるようだが、当時の評価は高くなかった。というか、やはり素人の作品扱いされて、演奏される機会もほとんどなかったようだ。フルトヴェングラーは自分でベルリンフィルを振って交響曲第2番を録音しているが、たぶん、売れなかったことだろう。レコードを作製したグラモフォン社も「どうせならうちにもベートーベン録音してよ、先生・・・」と思ったのではないか(※2。
たぶん、彼の曲は渋すぎるのだ。広く受け入れられるには、もっと華がなければいけないのだが、華に乏しかった。「脳みそスカスカ」なと馬鹿にされやすい同時代のリヒャルト・シュトラウスの交響詩だが、どんなに玄人から批判されようが、その巧みな華やかさはやはり一般大衆に受け入れられやすい。
作曲家としてのフルトヴェングラーについて考えていると、僕は思わず、手塚治虫の「火の鳥 愛のコスモゾーン2772」のあの実に渋い映像をつい連想してしまうのだ。細部ではなかなかいい線いっているのだが、全体としては地味で渋すぎ・・・。
と、言いつつも、フルトヴェングラーの曲は、前述の通り、演奏される機会が増えているようだ。時代が変われば、人の受け止め方も変わり、前の時代までは気がつかれなかった価値に気付くようになるのかもしれない。
フルトヴェングラーは、人としての在り方、歴史との関わり合い、演奏、作曲についてなど、多くの主題を僕たちに提供しながら、宇宙歴年代記のように豊富な登場人物、設定で僕たちを楽しませてくれる。
フルトヴェングラーとは、それ自体が物語なのだ。

※1)とはいえ、クラシックオタクといえるくらいの聴きこみをしている人が聴くと、彼の演奏様式はどうやら古びて聴こえるらしい。たぶん、アニメ愛好家が今の価値観から「白蛇伝」をみているような感覚を、彼らは感じているのだろう。
※2)フルトヴェングラーのベートーベン交響曲の正式なスタジオ録音はEMIが担当している。グラモフォンの録音は放送用だったり、音質的に一歩劣る。ただし、前者はウィーン・フィル、後者はベルリン・フィルとオーケストラが異なり、んでもって音色も相当違う。


↑今、最も手頃で読みやすいフルトヴェングラーに関する評伝。お勧め。

↑この本は買ったが、まだ読んでない。

↑昔、文庫本で買ったがよくわからんかった。訳が悪かったらしい。フルトヴェングラーの自身の著書だが、新しい訳。いつか読んでみたい。

↑フルトヴェングラー、日本上陸!? まあ、実現しなかったらしい。未読だがいつか読みたい。


↑もしも興味があったら彼のCDをどうぞ。
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