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MIO ファーストアルバム「スターライト・シャワー」B面

MIOスターライトシャワー裏
出典:MIO STARLIGHT SHOWER 1984 KING RECORD K28G 7197 ジャケット裏
「スターライトシャワー」のB面は1曲目と最終曲が1984年放送の「重戦機エルガイム」の主題曲「エルガイム- Time for L-GAIM –」と副主題歌「スターライトシャワー」だ。
アルバムの発売はエルガイム放送開始より半年以上後のこと。この2曲が録音された時期に既にアルバムの計画があったのかどうかは、僕には知る術もない。
アルバムの解説書には参加した録音演奏家の名前が記載されている。エルガイムの2曲はいずれも下記の人員で録音されたとのことだ。
Pf.富樫春夫
E.B.渡辺直樹
E.G.松下誠
Dr.鳴島栄治
Syn. 難波弘之
F.Cho.MIO

昔なつかしい難波弘之のアルバムは、現在もCDが現役として目録に名を連ねている。


さて。
B面の2曲目は「阿母麗」
あもれい、と読む。
作詞は井荻麟。4分6秒の歌である。

Pf.松浦義和
E.B.杉本和弘
E.G.鳥山雄司
Dr.宮崎全弘
Syn. 馬飼野康二
F.Cho. MIO

題名を見て、作詞が井荻とわかると、僕は即座にこう思った。
「阿母麗って・・・アムロ・レイのもじりやんか」
そうでもなければ、こんな造語が出てくるのはあまりにも唐突に思われた。
「相変わらずとやってくれる!!」
阿母麗などという言葉を主題に、歌詞を書いてしまう井荻(富野)の暴走ぶりに、シャアのごとく僕は苦笑いしてしまったものだ。
だが、そんな暴走の末の歌詞が、実は一番このアルバムの中で、僕の印象に残り続けたのだから、侮れない。

冒頭は静かな情景描写が続く。
「海の陽 恋しいからでなく 雪溶けの日溜りに 足をとられてもいい
陽ざしに 晒す心もなく 乾いた私だけが今」
歌はやはり完成形を耳にしてもらってこそなのだが、この歌詞に、馬飼野の、やはり静かな‐静謐といっていい音楽が加わる。これにMIOの呟くような囁くような(※1声で歌わ
れると、人気のない夏の終わりか秋の海辺の情景が浮かび上がるように思われてくる。
どこかしら傷心の心持が漂い、それは当時、大学浪人だった僕の心情に染み込んでくるものがあった。
傷ついた心を海が癒してくれる、波の肌触り、風の肌触り。
静かに進んでいた歌は、先ず「風に吹かれ 海にうたれ」で自然な様子で力強さを増して、母の海‐阿母麗への「私」の想いの吐露へとつながっていく。

-出会いたくて今日ふところに 戻ってきたのです
‐忘れてはいないでしょうね
‐冷たいそぶりしてみせては 行けと言うのですか
‐間違うのです 私は

ですます調の古風な言い回しをあえて使って、井荻は言葉を際立たせている。
背景の事情は省略されている。そうすることによって、傷心を負って、海に甘えに、癒されにきた「私」の独白が、聴く者の心情に重なりやすくなる。
「振り向きませんよ 今日からはもう来ませんよ 今日からは ア、ア・・・・けして(筆者補足:=けっして)」
「振り向きませんよ」の言葉のところから、また少し明るい様子の音階に転じ、「私」が傷心を乗り越えていける予感を見せている。
「ふところの中 今日懐かれて もう済みました」と吹っ切れた様子さえ見せる。
ところが、最後になってまだ、「だから今日だけ だから今日だけです」とまだ強く甘えてみせる。
地味といえば、凄く地味。
売れねーだろ、と言われれば、まあそうだろうなあと思う。
でも、ちょっと孤独を感じている人が聴くと、一緒に阿母麗の海でぽつねんと時を過ごしたくなるような、独特の世界に引き込まれる歌だと思う。
それにしても、だ。
とっつきにくい、なかなかに歌いにくそうな言葉を並べられたというのに、井荻(富野)という男の詞の世界を見通した馬飼野は、見事に阿母麗の歌詞を一つの音世界に昇華させている。
馬飼野は、少しずつ、いたわるように音色が変わっていき、海に佇む「私」の迷いも描いてくれているように思える。井荻の言葉が放つ体臭を、やんわりと柔らかい音で包み込んでいる。馬飼野の絶妙な処理が、本来、聴きにくい言葉を受け入れやすくしている。
もしかすると、井荻と最も相性のいい作曲家かもしれないと、僕には思える。
そして、そんなふわふわした、行き場を探して迷っているような心根を、MIOが巧みに表現している。
MIOの声質でこの歌を聴くと、弱すぎもせず、さりとて強すぎもしない、ほどよい「私」の弱さ、強さが感じられる。
単に弱くて、か細く歌われると、「いや、あんたが単にへたれなだけだから下手こいたんだろ」と突っ込みたくなるような世界になるかもしれない。なぜなら、井荻の歌詞は相当に自己陶酔しているからだ。
でも、MIOの芯のある声で、しかし時に甘えるように歌われると、共感してしまうのだ。
確かに、地味だ。
だが、復活の機会を与えてほしい歌である。

幸せ一杯、という雰囲気の歌が4曲目まで連なっていたA面とは異なり、B面の描き下ろしは、全て失恋の歌である。
MINT BAR
作詞:売野雅勇 作曲:筒美京平 編曲:戸塚修の布陣による3分51秒の曲である。

Pf.永田一郎
E.B.長岡道夫
E.G.芳野藤丸
Dr.菊地丈夫
L.P.橋田政人
Syn. 戸塚修
M.Cho.比山清 木戸泰弘
Vl.友田啓明Strings

この歌は最初にMIOが朗々と、しかし切なげに「淋しい退屈はサヨナラが怖いから
サヨナラの淋しさは退屈より怖いから」といきなりサビを歌って始まる。歌謡曲で無数の活躍をした、売野雅勇と筒美京平の歌謡曲仕込みの手練手管を感じさせる。
この歌はMINT BARという舞台で繰り広げられる女の葛藤を巡る、売野の言葉による演出を味わう1曲だろう。
「淋しい人はどこから来るの 淋しい人はどこにも行けない」
「何もせずにいられないのは 何していいか解らないからね」
問答のように言葉が続き、それが歌に韻(リズム)をもたらす。
「たわいないconversation あてのないcommunication」
「退屈」のtwo letters 「淋しさ」のthree letters 「サヨナラ」はfour letter word
誰も口にしない できない
‐単調に堕しないように、慎重に言葉を選びながら、場面を繰り返すことによって、ついつい歌の世界に聴きこまされてしまう。
どちらかと言えば、通好みの部類にはいる歌ではないだろうか。映画好きが喜びそうな、昔、単色時代の外国映画の一場面のようである。
全篇で聴かれるMIOの声は、切なさと寂しさを切々と、崩れ落ちる寸前で表現している。売野が重ねた言葉をMIOが口にすると、次第に次第にやるせなさがこみあげてくる。
冒頭の「淋しい退屈はサヨナラが怖いから サヨナラの淋しさは退屈より怖いから」の部位のMIOの語り口は絶妙である。そして、結びの「サヨナラの空しさは人生より怖いから」を彼女が歌い終えた時、行き場のない孤独がひしひしと伝わってくるのだ。

書き下ろしの最後の1曲もまた、失恋の歌だ。
マジィック・シティ
作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎、編曲:大谷和夫の布陣だが、アルバム第1曲目の幸せ一色の「モーニング・ベル」とはガラリと変わって、喧騒に満ちた荒っぽい雰囲気の3分46秒の曲に仕上げている。

Pf.大谷和夫
E.B.岡沢茂
E.G.鳥山雄司
Dr.滝本季延
L.P.斉藤ノブ
Syn.大谷和夫
F.Cho.イブ

いつも深夜の酒場で待ち合わせているような生活の二人のようだ。しかも男は行きずりの女を口説いてどこかへ行ってしまうし、それをまたおせっかいにも、誰か知り合いが見ていて、女に告げ口したりする。
なんて殺伐とした人間関係。ギラツク照明の下、もうもうと立ち込める煙草の臭いと、けたたましい音楽まで聞こえてきそうな想像力をかきたてられる。
「もっと強いお酒をちょうだいと」と酔いを重ねていきそうな描写を重ねておいて、一瞬、「酔ってはいないわキラリ」と言葉を挿し込む技が冴え、ライトが一瞬、激しく瞬くような錯覚まで起こさせる。歌が音だけの世界でありながら、歌詞が視覚まで刺激する効果を生み出している。
この歌では「チラリ」「キラリ」「グラリ」と、拍子をとるように擬音を使っている。
そう、この歌はテンポの良さが魅力だ。
立ち止まるところがない。一気呵成に歌が進む。
「Ah Ah Ah Ah・・・・逢いたいのに Ah Ah Ah Ah・・・・逢えない夜はつらいね」
も実際はリズミカルに「アッ・アッ・アッ・アッ」掛け声のように歌われる。
ミュージカルのダンスを見ているようと言えばいいだろうか。
この激しくも動きの早い歌だが、さりげない女の酔いどれぶりを、MIOがさらりと歌い上げている。

この歌の終わりとともに、このまま夜のしじまにMIOが消えていくようだが、アルバムの構成上は「スターライトシャワー」-アルバムの題名曲で終焉を迎える。

さて。
もう30年近く前のことなのでさすがに細かな記憶はなくしている。しかし、MIOのLPが発売されると知ってから、僕が発売日を待ち遠しく思っていたことはまちがいない。
彼女のLP第一作が発売されるという紹介記事がアニメ雑誌に掲載された記憶はない。キングレコードの広告頁で発売を知ったのだと思う。
果たして予約して買ったのかどうかも覚えていないが、確か、京都は河原町の十字屋で購入したはずだった。
このレコードを買ったばかりの頃は、それこそ何度も繰り返し聴いていた。今もこのLPのジャケットや歌を聴いていると、細かなことはさておき、浪人生だった18歳当時の感覚が蘇ってくる。
球形のライトボールを手にするMIOのジャケット写真は、今からみれば、ずいぶんと素朴な印象を与えるが、あのぼんやりとした照明感覚が、当時の僕の心情には染みるものだった。
LPを聴くことがほとんどなくなり、このアルバムも残念ながらCDにはならなかったので、10年以上、封印状態になってしまった。
だが、このブログを書くために、改めて僕は何度もこのアルバムに耳を傾けている。
発売後、やがて埋もれた存在となり、早や28年を経過した今の時代に、このアルバムをどう伝えるのかを考えながら。

ところで、2012年現在、どれくらいの人々の記憶にこのアルバムは刻まれているのだろうか。
因みに2012年2月現在、ネットで「MIO ファーストアルバム」で検索してみると、別のMIOという歌手のそれ(NANOSECOND)が上位にあがってくる。
それだけではない。他にも色々なMIOが登場してくる。単に「MIO」で検索をかけると、大阪市天王寺駅に隣接する商業ビルのMIO(※2が上がってきたりして、苦笑してしまう。
いやいや、それどころか、2000年くらいの頃に「MIO」で検索したら、あるまいことかMIOというAVアイドルばかりが検索され、僕たちの歌姫は全然検出されなかったので、相当にがっかり&憤慨したこともあった。
つまり、MIOという名前はけっこう広い分野で使用されているのだ。ネット上での上位争いも相当熾烈な様相を呈している。芸名をMIQに変えた理由は意外とそんなところにあるのだろうか? 例によって憶測だが。
と、いう具合に、このアルバムについて検索しても、真正面から取り扱っている記事はほとんどなかった。歌詞の紹介や、曲名の紹介、あるいはジャケットの公開記事が散見されるにとどまっている。

不完全版MIOソングリスト
自称米子のプロモデラー

検索語句を「MIO ファーストアルバム スターライトシャワー」に増やしても大同小異だ。何しろ、アルバムのジャケット写真もほとんど検索にあがってこない。LPの中古市場にもなかか出回らないようだ。
率直に言えば、歴史に埋もれつつある、いや‐既に埋もれた作品なのだ。
80年代に発売された、無数のアルバムの中には、時代とともに記憶された、太い主脈になりえるようなアルバムもあれば、小さな葉脈のように片隅に埋もれていくアルバムもある。
MIOのこのアルバムも小さな葉脈として埋もれた存在だろう。だが、僕はそんな小さな葉脈からでも、水分と栄養をもらった一人なのだ。
僕がこのブログを立ち上げた理由の一つが、このアルバムのことを書き残しておきたいからだった。「イデオンⅠ」と同じく、このまま忘れられる前に、誰かが書き残さなければいけないという気持ちがあった。
あえて傑作とは言わない。歴史に残すべく、再評価すべき作品とも言わない。
その点は「イデオンⅠ」とは違う。「イデオンⅠ」は歴史に残すべき作品だ。
だが、MIOのこのアルバムは、恐らくそうではない。
残るべき作品は、それなりの生命力があるから残っていく。
埋もれていく作品は、それなりの生命力しかないから埋もれるのだと思う。
このアルバムには、歴史に残れるような力はない。
でも。
今もこの文章を書いている横ではA面最後の曲「さよならはTenderly」をMIOが歌っている。MIOの声、竜真知子の歌詞、鈴木サブローの奏でる旋律、それらが耳に染み込むと、初めてこの曲を聴いた頃の気分が蘇ってくる。一つ一つの歌が、某か、忘れ去れない存在感、輝きを放っている。
実はこのアルバムは僕が思っていたよりも、僕の記憶の襞に染み込んじまっていて、「昔はよく聴いたけど、今じゃもうお呼びじゃないね」などと言って打ち捨てることなぞ、到底、できない存在なのだということに気付かされる。
ロックやポップスを敬愛する者は、アニメやアニメソングに関わった歌手を蔑視する。彼らからすれば、「世の中にゃあ、こんなに凄い歌が溢れているのに、何を好きこのんでアニメ上がりの歌手なんぞ聴いてんの?」ということになるのだろう。

じゃかましい。余計なお世話だ。

俺はこの歌が好きなんだ。俺が聴きたいのは、この歌なんだ。
手前らはビートルズでもストーンズでも好きなだけ聴いてやがれ。

私情に走りすぎたが、改めてこのアルバムとは何だったのか、触れておきたい。
結論を先に言えば、このアルバムにはMIOを巡る存在理由、葛藤と矛盾が凝縮されているのだ。
MIOが本当に目指したかった方向性、されど厳しい現実、そして定められた妥協点、そうした諸々の事象が、このアルバムをみると伝わってくるのだ。
そうした葛藤と矛盾は、このアルバムを最初に買った時点で、既に僕は感じ取っていた。
全10曲、うち「エルガイム- Time for L-GAIM –」「スターライト・シャワー」はTVアニメの主題歌であり、このアルバム録音の恐らく半年以上前に収録されたものだ。
このアルバムの中でこの2曲は徹底して「浮いている」。
当然だった。TVアニメ「重戦機エルガイム」のために産まれた2曲と、都会に住む女性の姿を綴った他の8曲とでは、歌の目指すべき方向が全く異なるからだ。
正に水と油。サザエさんの平和な世界にキリコ・キュービーがスコープ・ドックとともに登場したかのような不協和な世界なのだ。
その後のアルバムを見ても、MIOは「大人の女の世界」を歌いたかったに違いない。たぶん、彼女自身だって、「いつまでもアニメの、子供向けの世界にいるわけにはいかない」という意識があったと思う。
スターチャイルドとしても、その方向性で行かせてあげたかったのかもしれない。
改めて布陣を見ていると、また丁寧な音作りを聴いていると、スターチャイルド(藤田純二)は許される範囲で十分な予算をこのアルバムに投入したと思える。
それだけ、MIOを評価し、期待していたのだと思う。
描き下ろしの8曲は、井荻の歌詞を除けば、素直に彼女の意向に添うものだっただろう。
たぶん、4組の布陣に、各々「恋愛の曲と失恋の曲を1曲ずつ作ってください」と依頼したのではないだろうか。井荻‐馬飼野の布陣だけは井荻が暴走して、恋愛とは異次元の世界に突入したが、それでも全体に深みを与える役割を果たしていた。
本来なら、エルガイムを除いて描き下ろし8曲だけで発売した方が、アルバムとしてはより純度が高くなったかもしれない。
もしそうしていれば、あるいは‐アニメ歌手としての色眼鏡から外れた評価をどこかでもらえたかもしれない。少なくとも、当時のアニメ関係の声優や歌手が歌った中では、彼女の技量は飛びぬけていたから、可能性は低くても実現したかもしれない。
だが、それはできなかった。スターチャイルドとしても、普通の歌だけでアルバム第一作を発売することは、「かなえてあげたいけど、そうはいかない希望」だったのではないだろうか。
一定の売り上げを確保するためには、アニメ愛好家を無視できなかったに違いない。アニメ界以外では、あまりにMIOは無名だった。当時の一般社会へのアニメの評価、仕打ちはあんまりだった(※3。アニメ愛好家に先ず売れなければ、MIOのアルバムはこの第一作目で頓挫してしまうだろう。
しかし、藤田は考えたに違いない。
‐アニメの歌が入っていないアルバムを、アニメ愛好家が買うとは思えない。
だから、エルガイムの主題歌をくっつけて、客寄せにして、このアルバムを構成した。
素直に考えれば、上記のとおりだと思う。
個人的には、「アニメ愛好家もみくびられたものだ」と呟きたくなる。MIOの実力はアニメ雑誌でも高く評価されていた。アニメの歌に頼らなくても、彼女の実力があれば、アニメ愛好家はLPを買うだろう‐と、当時の僕は思った。
だが、残念ながらスターチャイルドの、藤田純二の判断は正しかったのだろうと、今の僕は思う。
もしかすると、発売後、当時のアニメ愛好家からは「MIOの普通の恋歌なんてつまんねー、こんな歌いらねー」という感想がけっこう多かったのではないだろうか。
‐「Hey You!」や「ダンバイン翔ぶ」みたいな歌だけでアルバム作ってよ!!
そんな声が溢れたかもしれない。僕のいつもの憶測だが。
そうなのだ、アニメ愛好家は、わがままで冷酷だ。
自分の期待から、理解の範囲からはみ出たものを叩いて吐き捨てる。
ある種、イデオンだってそうだ。ガンダムが好きな多数派からは、同じ富野作品でも異端視された。つまらないと言われた。
Zガンダムだってそうだ。今でこそ見直されて評価が改まったが、当時は「わけわからん」と酷評された。アニメで政治劇を描くという富野の意図を、ものの見事に無視して、「かっこよくない」「心地よくない」と、アニメ雑誌までが批判した。
それが大衆心理と言われれば、もうどうしようもない。
だが、MIOのこのアルバムの評価は実際、どうだったのだろうか?
LP第二作までが発売されたが、そこまでだった。彼女はスターチャイルドを、キングレコードを、そしてアニメ界を離れることになった。

このアルバムは、MIOとアニメ界、アニメ愛好家との蜜月の時代に楔をいれるものだった。相思相愛と思っていた男女の間に、実は埋めがたい溝があることを晒したに等しい存在だった。
それまでの甘くも楽しい思い出と、それから後にくる心の擦れ違いの痛ましさ、対立するものが同居する、懐かしくも切ないアルバムなのだ。

※1)最近は囁き系という歌手の分類もあって、やくしまるえつこなどがその一人にあげられるようだ。ただし、僕がここで言う「囁き」「呟き」は声を潜めるようなやくしまるとの歌唱法とはだいぶ異なり、若い世代には誤解を与えるかもしれないと思ったものだが、語彙の乏しい僕は仕方なくこの言葉で表現した。
※2)僕の生活圏内にあるのだが、この施設が落成した時は、正直、僕たちの歌姫が無視されたようで・・・・・めっさ、くやしかったじょ~っ!!!!!
いや、実際、無視したから、そんな歌手がいるなんて関係者の意識にも上らなかったから、MIOなんて名前にしやがったのだろうが。
※3)本当に、当時のTV業界のアニメへの対応はひどかった。まあ、今も本質は変わらないだろうが。そこらへんの、関西人の恨みつらみはいづれまた。

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[C13] アモレイに関して

復刻版のcdのブックレットにはMIO氏の曲ごとの短いコメントが収録されましたが、本人によりますと、MIOという芸名はそもそも「アモーレミオ」から取ったもので、富野監督もそのつながりで「アーモレ」という言葉から「アモレイ」という造語を作ったそうです。

では、なぜ漢字は阿母麗というと、今私個人もいろいろ調べていて、近いうちに感想を書く予定です。そのときはまたご教示を乞いたいです。

一応、富野監督もある小説ではアイリンツーというキャラになぜか「靄齡子」という漢字をつけたことがあります。あくまで個人の感触ですが、おそらくいろんな中国語からその語感をとったものだと思います。

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