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日米安保とマジンガー2 桜多吾作と冒険王と秋田書店と

応田吾作マジンガーZ中巻



(承前)
別冊(月刊)少年ジャンプで始まった桜多吾作版「マジンガーZ」の連載が、諸々の事情で月刊冒険王に移籍した。
ここから、桜多吾作の快進撃が始まったのである。
手元にある、マンガショップ社から復刊された、桜多吾作版「マジンガーZ」の目次をみてみる。ジャンプでの連載開始は昭和47年(1972年)12月号からで、昭和48年(1973年)9月号で終了している。それまでは1回につき38頁程度の原稿量となっていた。
その後、昭和48年10月分から冒険王での連載が始まるが、当初は40頁強の原稿量であり、特にジャンプ時代と変化はない。
ところがだ。昭和48年12月号の「特別ふろく」でいきなり134頁の原稿量が桜多に課せられたのだ。
1ヶ月で134頁とは、下手な週刊連載2本分に相当する。いきなり3倍増の頁担当ではないか。
「テレビのストーリーだけでは、とてもそんなページ数は描けません」(第一巻の談話記事より)
ここで、桜多は物語の舞台を拡大する策に出た。
それまではTVの内容に沿うように、ドクターヘルの繰り出す機械獣とマジンガーZの攻防戦を描いていた。基本的な物語の骨子は、原則、光子力研究所に保管された超合金Zを奪いにくるドクターヘルの軍団と、それを迎え撃つマジンガーZの戦いということになる。
だが、桜多は舞台を海外に広げた。東南アジアかアフリカの軍事政権国家を思わせる仮想の国を舞台に、国を乗っ取ったブロッケン伯爵と兜甲児の戦いを描いた。
この挿話では、Drヘルには小国なら支配可能なだけの軍事力と経済力があることを印象付けているし、既にここには、軍事政権国家という、きれいごとでは済まされない現実世界の投影が始まっている。
ついで、昭和49年1月号のふろくでは、60頁を費やして異世界を舞台にしたチップカモイ篇が製作されている。これは魚類が進化した世界からの人間界の侵略を骨子とした物語である。どことなく「ウルトラセブン」を思わせるような幻想的な物語になっている(※1)。アイヌ語を用いていたのも、桜多のこだわりを感じさせる(※2)。
そうした桜多の「暴走」が加速したのが、復刻版「マジンガーZ」の最終巻に収められた各作品なのだが、ほぼ全編が「暴走」していたとみていい。

「暴走」とは桜多自身が使った言葉(復刻版最終巻の談話記事より)である。TV版の物語の流れを考慮せず、独自の物語の展開を行ったことを指す。
彼は割り当てられた頁数、映画で言えば時間の尺が大幅に増えたので、TV通りの展開では間がもたないとして、「暴走=独自の展開」を始めたのだそうだ。
嘘である。
大嘘だ。
なぜなら、TV版だとて、それなりに大掛かりな物語展開を行っていたことは、荒筋を確認すればわかる。TV版の重要な挿話を核にして、話を膨らませても、冒険王の頁は埋まったのではないだろうか。例えば「マジンガーZ対暗黒代将軍」はほぼ忠実に映画の内容を漫画化しているが、56頁を費やしている。やってやれないことはない。
僕が思うに、桜多の本音は「自分の描きたいものを描いた」だけなのではないか。マジンガー作品の舞台設定はぎりぎり崩さないようにして、その舞台で自分が描きたい物語を刻み込んでいったのだ。

確かに1970年代のTV番組の漫画化作品は、「暴走」することが多かった。今の時代では愛好家の思い入れと発言権が強いから、下手な暴走をしようものならボロクソに叩かれそうだが、当時はむしろ「暴走して当たり前」のような風潮があった。
そもそも、TVとの連携で最も成功した漫画家である石森章太郎こそが、「暴走」を繰り返していた。
「人造人間キカイダー」は01登場後も題名が変わらず、最後までキカイダー=ジローが主人公を務め、猛烈に孤独な最終場面を演じきった。
「秘密戦隊ゴレンジャー」は、渋いヒーロー作品だったはずなのに、突如として「秘密戦隊ゴレンジャーごっこ」というギャグ漫画に変貌してしまった。
「変身忍者嵐」となると、主人公は冷徹非情、やっぱ最後はどんでん返しで悲惨な結末になった。



その弟子筋にあたる永井豪の「デビルマン」はいうに及ばず、石川賢が描いた「ウルトラマンタロウ」ときた日にはもう、完全にウルトラ世界とは隔絶した内容だった。
他にも「TVは普通の子供番組なのに、漫画版はえらく陰惨なんですけど」という事例は、枚挙にいとまがなかったものだ。
さて、そうした漫画家の暴走を、編集者がこれまた許容していた時代でもあった。特に雑誌「冒険王」の編集者たちは、そうした気性だったのだろうか(※3)。
―実際、編集長からも「暴走するのが遅かったんじゃない?」って言われたくらいなんです(復刻版最終巻の談話記事より)。

ここで、桜多版マジンガーの発表媒体となった雑誌「冒険王」と、出版元である秋田書店について触れておこう。やはりこの作品の成立は、この2者の存在なくしてはありえなかったと思えるからだ。
「冒険王」は戦後ほどない昭和24年(1949年)に創刊された少年向け月刊誌(※4)である。
発行元は秋田書店。秋田書店そのものも、設立が昭和23年(1948年)とあるから、ほぼ秋田書店と誕生をともにした雑誌であった。
沙漠の魔王:完全復刻版


創刊当初は絵物語である福島鉄次作画「沙漠の魔王」(※5)や、かの手塚治虫をして心胆寒からしめるほどの人気を得た福井英一作画「イガグリくん」などで知名度をあげ、雑誌「少年(※6)」などとともに、昭和30年代の月刊漫画誌黄金時代を築いた存在だった。多数の古典的マンガ作品の発表に舞台となり、手塚治虫「どろろ」「魔神ガロン」、石森章太郎「サイボーグ009」も、この雑誌に掲載されている。
さて、時代が移り、昭和40年代になると週刊誌が興隆を迎えた。時代に置き去りにされるようにして、月刊誌は次々と廃刊となっていった。そんな中で「冒険王」は、TV番組の漫画化作品を売りにすることによって、月刊誌栄光の時代の残滓を僕たちに伝える形となった。
昭和40年代後半(1970年代)は子供人口も多く、子供を巡る市場が活性化した時代だった。TVの子供番組(アニメ・特撮)が最盛期を迎え、いわゆる「ゴールデンタイム」に子供番組が大量に放送された時代でもあった。冒険王は漫画家独自の作品を最小限に減らし、子供番組(アニメ・特撮)の漫画化作品を主流にすることによって、月刊漫画誌の最後の奮闘を見せたのだった。
その努力は見事な成果をもたらした。
当時を知る元クソガキどもの語り草となったのだ。
この文章もその一つというわけだ。
TV時代の最盛期には、マジンガー作品、仮面ライダー作品の他、東映、ビープロ、その他、諸々の系列の作品が並び、壮観であった。
ウルトラ作品や、キカイダー作品は、版権が得られなかったのであろう、不掲載であった。
そうした中でも内山まもるの「ひょうたん(※7)」、板井れんたろうの「ドタマジン太(※8)」など、冒険王独自の漫画作品も連載を継続し、気概を保っていたものだった。
こうした充実した連載の中で、時にマジンガー作品を、時には仮面ライダー作品を取り上げて、別冊ふろくとして大量の頁を担当させたのだった。

月刊誌は昭和30年代の黄金期の頃から、競合誌がまさしく競って、ふろく合戦を繰り広げたのだそうだ。僕は当時を知らないが、ふろくが10個くらいつくことはザラだったらしい。もちろん、今の時代からみれば素朴なふろくだったろうが、僕より10歳くらい上の世代のクソガキどもは、毎月楽しみにしていたことだろう。
僕が知る頃の冒険王も多数の付録をつけたものだった。その中で、わざわざ漫画を別の冊子にして、ふろく扱いにしたのだ。本誌と同じA4版だったと思う。同時期のテレビマガジンなども漫画を別冊ふろくにしていたが、あちらはA5版だったと思う。
この別冊ふろくが「一挙100頁掲載!!」という代物だったわけであり、この枚数こそが、マジンガー作品を充実させた原動力となり、「暴走」の原動力となった。また、そんな「暴走」を前述の通り、編集者自身が奨励していた節もある。
と言っても、実際のところ、連載陣の大半はTV版の脚本を忠実に漫画化することに注力していたと記憶している。決して独自の展開をみせる作品ばかりがずらりと並んでいたわけではない。
昭和30年代の巨匠である一峰大二の他、古城武司、すがやみつるといった面々は、TV版の世界観から逸脱せずに、それでいて己の画風、己の世界に読者を引きずり込んでいたと思う。
また岩田廉太郎などは、手塚治虫を彷彿とさせる画風をひっさげつつ、時にはTV版よりも「それらしい」世界を提示していた。TV版がほとんど冗談で固めたような展開だった「超人戦隊バラタック」を、むしろ手堅いSF漫画に仕上げたのは岩田の手腕であった。
しかし、その一方で、松本零士などは相当、好き勝手をしていたものだった(※9)。
だが、独自路線を突き進むことに命をかけているような漫画家たち、例えば石川賢の「バトルホーク」、例えば松本めぐむの「鋼鉄ジーグ」のような作品は、いわゆるネームチェックしたのか!?と思わせるくらい、自由に漫画家に描かせていた。
ぶっちゃけ、漫画家によっては放し飼い状態で、好きに「暴走」させていたのだ。
「こいつは好き勝手に描きよるな」と見込んだら、漫画家の裁量に任せきるだけの肝を据えて対処していたのだと思う。
それが冒険王編集部だった。
たぶん、週刊誌時代を生き残るために、独自路線からTV作品の漫画化路線へ舵を切ったものの、それでも独創性のある作品を掲載していく誇りと気概を、編集部は守りたかったのではないだろうか。だから、人は「暴走」と呼ぼうとも、見どころがあると思った漫画家・作品には自由に描かせのではないだろうか。また、そういう漫画家の気骨を歓迎したのではないだろうか。
だから、桜多のマジンガー作品が自由な展開を許され、今も記憶に残る傑作として残りえたのではないだろうか。

しかし、昭和50年代にはいると、次第にTVの漫画化作品が減り、再び独自作品が増えてきた。すると、逆に雑誌の勢いが落ちるという皮肉な展開が待っていた。
冒険王独自の漫画を増やす―それ自体は漫画雑誌として、当然の成り行きだったろう。TV作品の漫画化は、あくまで時代の変貌についていくだけの体力を養うための苦肉の策だったのだろうから。かなうならば、独自の凄い漫画を載せている!!という評価が欲しかったはずだ。
だが、月刊誌が独自の人気作を生み出すには、時代背景が明らかに不利だった。月刊誌形式では当時の週刊誌の勢いに到底、太刀打ちできなかった。
月刊誌はあくまでも週刊誌の補助的な立場に過ぎなかった。ジャンプ、マガジン、サンデー、キング、ひいては身内のチャンピオンにいたるまで、少年週刊誌がこぞって新たな作品を「毎週々々」売り出すのである。月刊誌の独自作品に目を向けてくれる読者は限られていた。
1970年代、TV作品という広告があってこその冒険王の繁栄だったのだと言える。

それだけではない。
TV版そのものが冒険王を上回る「暴走」を始めたのだ。TVが独創性を強く発揮し始めると、とても太刀打ちできる相手ではなくなってしまった。
例をあげよう。
冒険王は岩田廉太郎が漫画化した「ザンボット3」を掲載した。
岩田は前述のように手堅い作風であり、彼なりにこの物語を消化し、彼の手による「ザンボット3」も決して悪い出来ではなかった。
しかし、だ。
富野が演出し、富澤和夫や金田伊功が画面に刻み込んだ、戦いの激しさ、鬼気迫る描写は、岩田の描線の勢いを遥かに凌駕し、遥か時代の先にいってしまったのだ。戦いについての訴求力が、TV版と岩田版では、あまりに違いすぎたのだ。TVアニメが、漫画の表現力を凌駕したのである。
「機動戦士ガンダム」の頃となれば、従来のロボット作品としてしかガンダムを消化できなかった岡崎優版では、TV版の視聴者を納得させることはもはや困難にすらなっていたのだ。
1980年代、TVアニメが新たな時代を迎えた時代、冒険王は独自作品への原点回帰もままならず、さりとてTV作品の漫画化においても、独自性でTVそのものに太刀打ちできなくなっていたのだった。
そして、雑誌冒険王は、僕の知らぬ間に昭和58年(1983年)休刊を迎えたのだという。
だが、冒険王が育んだ「暴走」という名の実験精神は、僕たちクソガキに作品(物事)を別の視点から捉えなおすという姿勢を与えてくれたと思う。作品(物事)を比較する、区別するということを教えてくれた。そうした姿勢が、後の一連の富野作品を中心とする新たなアニメの局面を受け入れる下地になったと思えるのだ。

さて、話をもう一区切りつける前に、秋田書店についても触れておこう。雑誌の性格は、出版社の気風に影響されるのだから。
前述の通り昭和23年(1948年)に岡山県出身の秋田貞夫(※10)により設立された。株式は非上場(非公開)で、社長も秋田貞夫の子供である貞美女史が継承しており、同族会社である(※11)。
秋田書店は現在、漫画出版に専念している。雑誌としては「週刊少年チャンピオン(昭和44年:1969年創刊)」を中心とするチャンピオン系の漫画雑誌、青年向けの老舗「プレイコミック(昭和43年:1968年創刊)」、少女漫画雑誌として「月刊プリンセス(昭和49年:1974年創刊)」を中心としたプリンセス系や「ミステリーボニータ」などがある。おじさん向けの「GOLFコミック」も店頭で見かける。
秋田書店の雑誌に最も勢いがあったのは、1970年代後半だと感じている。当時の週刊少年チャンピオンには「ドカベン」「こまわりくん」「ブラック・ジャック」「マカロニほうれん荘」など、連載陣に傑作・快作が居並ぶ奇跡的な充実ぶりを得て、この当時が黄金時代といっても差し支えはないだろう。
青年漫画雑誌の「プレイコミック」では松本零士がしばしば表紙も担当し、「ガンフロンティア」「キャプテンハーロック」を掲載した他、吾妻ひでおには「やけくそ天使」のような怪作を仕上げさせている。
1970年代の勢いにのって創刊された月刊プリンセスにおいても、未だに連載継続中の「王家の紋章」、古典的名作となった「悪魔の花嫁」の他、青池保子、山田ミネ子、夭逝が惜しまれる花郁悠紀子(※12)など、個性的な作家を育てている。
現在の秋田書店の立場を少年誌の序列で言えば、ジャンプ・マガジン・サンデーの後塵を拝している。1970年代の黄金期以降は、継続してこの立場にいるとみてよい。
恐らくは何度も休刊・廃刊の危機を乗り越えながら、チャンピオンは今日に至っていると僕には感じられる。話題の中心になるような、大衆的な人気を博する作品が出ていないからだ。未だに「ドカベン」の連載が続いているのは、この作品の存在感を凌駕する新作が乏しいからだろう。
正直、漫画専門でありながら、漫画業界における秋田書店の現在の存在感は今一つと言わざるをえないだろう。
しかしながらだ。
この出版社は打たれ強いのか、負けん気が強いのか、低迷しながらも少年チャンピオンの発刊を継続し続けている。
また、生き残るために他社から流れてきた作品を取り込んでいく強かさも持っている。
新世代の手によるマジンガー作品や、最近では車田正美の「聖闘士星矢」の新作の版権も引き取っている。
また、突然変異のような才能を見出すこともある。山口貴由「覚悟のススメ(※13)」や「悟空道」のような作品は、ジャンプ系列からは恐らく世に出なかっただろう。
それだけではない。他の出版社では到底、ありえない事業の継続を続けているのだ。
サンデーコミックスという漫画叢書(そうしょ)をご存知だろうか。小学館の少年サンデーとは無関係である。僕たち(昭和40年生まれ)くらいの世代には、昭和30~40年代当時の名作を多数含む一大叢書だった。
ウィキペディアによると、日本で最初に設立された漫画叢書とのことだ。サンデーコミックス設立までは、雑誌に連載した漫画を単行本に編集して、個人に販売するという形式がなかったとのことだ。
かつての漫画市場は、貸本販売が主体だったそうで、販路を貸本業者から個人の読者へと転換した、ある意味、革新的な叢書だったわけである。
大きく幅の広い黒または青で縁取られた表紙、火の鳥を模したと思われる徴(しるし)を中心に配した裏表紙で意匠が統一されており、独特の趣がある。
幻魔大戦
amazonの販売頁
サンデーコミックス裏表紙

これがまた興味深いのは、個人向け漫画単行本の黎明期であったためか、他社で出版された作品が、多数、この叢書に含まれていた。
例えば平井和正原作、石森章太郎画「幻魔大戦」は少年マガジンに連載されたにも関わらず、単行本はサンデーコミックスから発売されている。同じく、今年CGアニメ映画が公開され、完結編が発表されている「サイボーグ009」は、少年キング⇒少年マガジン⇒冒険王と掲載誌を変えながら、単行本はサンデーコミックスなのである。あまつさえ、「天使編」以後、少女コミックなどに掲載された作品まで取り込まれていたのだから、ある意味、作家と出版社の結びつき(信頼関係)が強かった証と僕は考えている(※14)。
そして、驚くべきことに、このサンデーコミックスは流通量は大幅に減っているとはいえ、一部、厳選された作品がまだ目録上は販売が続いているのだ。
40年以上前の単行本が、である。ブックオフも真っ青である。他の出版社の漫画叢書ではまずありえない。
絵本などでは毎年の発行部数がある程度限られていても、一定した需要があれば、どうにか長年の販売継続が行えているようだが、漫画では他にこのような叢書は知らない。
株式非上場の同族会社だからできる営業判断だろうが、小学館はこのような継続は行っていない。創業者である秋田家の強いこだわりがなければ、またそれを可能とする経営体力がなければ続けられない業績である。
もちろん、そうした栄誉に浴する作品、作家は限られているし、ホームページでもサンデーコミックスの項目は設定されていない(少なくとも、僕は発見できなかった)。石森章太郎や手塚治虫、横山光輝、松本零士などの古典的作家たちの名前で検索をかける必要がある。
そこには、残念ながら、桜多吾作の名前もマジンガー作品も残されてはいない。
やはり、歴史に残る扱いを受ける作品もあれば、近年では単行本になる機会すら与えられない作品もあると聞く。それくらい厳しい取捨選択がなければ、この出版業界の氷河期を秋田書店は生き残れないのだろう。
だが、あえてここで語りたい。
桜多吾作のマジンガー作品は、人間を描いた傑作であることを。

次回、ようやく本編に言及する。
総選挙まであと少し!! 続く!!

サンデーコミックス石ノ森章太郎
サンデーコミックス手塚治虫
サンデーコミックス横山光輝
サンデーコミックス松本零士

※1)沖縄出身の金城哲夫が「ノンマルトの使者」に籠めた気持ちを、このブログに訪れる方々なら、受け入れていただけるだろうか。
※2)当時も今もそうだが、アイヌ語について触れることは、日本社会において、少数派に共感を示すという立場の表明に他ならない。少数民族の言語を取り上げるということは、その言葉が、民族が、今、ここにいることを受け入れる、認知するという意思の顕れだからだ。僕とあなたは別の民族かもしれない、でも僕はあなたの存在を認めるし、無視しないという気持ちの顕れが、「チップカモイ」というたった一つの単語に籠められていると僕は受け止めている。
単一民族国家に関するウィキペディアの記載
※3)冒険王ではないが、少年チャンピオンの手塚治虫担当の編集者が、締切りを無視して仕事場を抜け出そうとした手塚治虫を張り倒すという有名な逸話がある。昭和の時代だから、「昔はこんなこともあったよね、それでも人間関係が壊れない大らかさ、豪快さがあったよね」と懐古されるのが普通だ。だが、今の世なら紛れもなく、許されぬ暴力行為だ。もちろん、締切りをほぼ「常に守らなかった」手塚治虫も、契約を守らない非常識な人間ということになる。暴力も契約不履行も、それが美化される時、その迷惑や被害を受けた人がいたかもしれないことに目をつむっているわけである。僕たちの社会は一見、窮屈に見えるかもしれないが、少しずつ「他者に迷惑をかけない関係」を確立しようとしているのだ。
※4)ウィキペディアの「秋田書店」の項目では昭和27年(1952年)創刊となっている。同じく「冒険王」の項目では、昭和24年当時は「少年少女冒険王」という雑誌名であったと記載されている。「冒険王」という雑誌名になったのが昭和27年だったのだろうと思われる。
※5)昔、冒険王の特集で「創刊○○周年」と銘打った特集で、この作品の存在を知ったのだった。2012年夏に限定復刻されたらしい。
※6)「鉄腕アトム」を掲載。
※7)「リトル巨人くん」「ザ・ウルトラマン」「こんな女と暮らしてみたい」など、幅広い分野を描いた内山まもるだが、彼の手による中学生が主役の少年野球を題材にした「ひょうたん」も、地味なようでいて巧みな語り口にひきつけられる作品だった。ウィキペディア「冒険王」の項目の漫画作品一覧に「ひょうたん」も記載されているが、連動しているのは植物科のひょうたんの項目であった。
※8)ギャグ漫画。どーでもよい薀蓄だが、井上陽水のパロディで防火用水という人物が登場する・・・。
※9)「宇宙戦艦ヤマト」第一作の漫画化も冒険王に連載されたが、遅筆で有名な松本は「期待に違わず」筆が進まず、TVの展開を追うどころか、周回遅れにすら至らず、途中の物語をすっ飛ばして無理やり最終回を迎えていた。ところが、彼の悪癖はとどまらない。その数年後に連載された「惑星ロボ・ダンガードA」では伝説を築いてしまう。1年間は連載期間があったはずなのに、単行本はわずか2冊。それだけ話が進まなかったのだ。しかもだ。我々の昭和40年代生まれの世代ではあまりに有名な逸話なのだが、主役ロボであるダンガードAが、この松本版で一体いつ登場したと思われるか? ダンガードAの登場は、TV版も相当遅かった。1クールが終了するくらいになってようやく搭乗したものだ。主役ロボがなかなか登場しないといえば、ダンクーガとZガンダムが有名だが、ダンガードAはその先駆けなのである。TV版のダンガードAでは、少なくとも登場してからは主役ロボらしく大活躍した。ところが、松本版に到っては、物語の途中にはダンガードAは気配すらみせない。ちんたら話が進んでいくうち、とうとう物語も終焉を迎える場面、ラスボスのドップラーも死んだ、主人公の父親も命を落とした、さあ、この見開き頁が最終場面ですぅ・・・・というその頁に、たった1回だけ、登場しただけなのだ。「惑星プロメテの住民に、平和と友好の象徴としてダンガードAを残していこう」とか何とか言って。武装満載の全高100mを超すっつう戦闘用巨大ロボットである。このロボット作るのにいくらかかったと思ってやがる。それがドップラー軍団と一度も戦火を交えることなく、ただの記念品として、プロメテに置き去り扱い。惑星プロメテも有難迷惑であろう。無意味極まりない。そんな前科があるというのに、性懲りもなく松本に「宇宙戦艦ヤマト2」の連載を依頼するのだから、冒険王編集長も相当なタマであるといわざるを得ない。まあ、ブーム絶頂の頃は松本零士の名前があるだけでもありがてえという状況だったということもあるが。当然のごとく、あたかも神が定めた自然の摂理であるかのように、「ヤマト2」は未完で終わった。プレイコミックの「キャプテンハーロック」も然り。学習能力ねえのか?
※10)ウィキペディアでも一項目が設けられている。
秋田貞夫
興味深いのは、彼が秋田書店創業前に、小学館⇒朝日新聞社と既存の出版社に勤務中、先の「沙漠の魔王」の作家である福島鉄次と知己を得たことである。彼との出会いがなければ、恐らく秋田書店を設立することもなかったのではないか? 仮に設立したとしても、成功しえたかどうか。それくらい、創業当時の秋田書店にとって、福島鉄次の存在は大きかったようだ。何が言いたいかというと、人の出逢いはとっても大切という、当たり前のお話。
※11)けっこう意外だったのは、秋田書店だけでなく、小学館、講談社、新潮社も同族会社の範疇に入り、株式も非上場(非公開)だったことだ。
※12)子供の頃に読んだきりだが、独特に味わい深い作風が心に残っている。
※13)「シグルイ」を境に画風が写実的に変わってしまった。新装された単行本の画風も、現在の山口の画風で統一されている。だが、この物語は愛らしさも秘めた、「少年漫画時代」の画風で描くべきだと僕は思っている。少年漫画らしい清々しさがあるからこそ、この物語は傑作たりえていると僕は確信するからだ。
※14)傑作の名高い「人造人間キカイダー」も少年サンデーに連載されながら、単行本はサンデーコミックスであった。しかし、さすがに小学館も黙ってはおらず、続く連載の「イナズマン」は少年サンデーコミックスに収録したし、1970年代後半に連載された少年サンデー版「サイボーグ009」も秋田書店には渡さなかった。
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