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日米安保とマジンガー3 桜多吾作の黙示録

双葉社グレートマジンガー版最終巻予告

(承前)
さて。
いよいよ、桜多吾作によるマジンガー作品そのものに触れよう。
この作品に直に接した者の多くは、たぶん、「今も心のどこかに残っている」と答えるのではないだろうか。
桜多吾作版「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「グレンダイザー」の3部作は、それぞれが個性的な内容に仕上がっている。もう40年前の作品でありながら、その魅力は未だに色褪せない。
その魅力について紹介したい。

冒険王に連載されたので、当然のことながら、最初の単行本は秋田書店のサンデーコミックスから発売された。この単行本はTV版グレンダイザーの放送終了後、恐らく数年程度で絶版になったものと思われる。手塚治虫や石森章太郎作品のような、長期販売に値する作品とは判断されなかったのだろう。
一時期、いくら人気があったとしても、しょせんはTV番組の漫画化作品である。TV放送が終われば忘れ去られると、秋田書店の営業部は考えたことだろう。当然の判断だと思う。
しかしだ。
この作品を支持する声、愛する声は少なくなかったようで、サンデーコミックス絶版後も、出版社を変えながら、幾たびか再販されている。
マジンガーZ各種単行本を紹介したHP(グレート、グレンダイザー篇もあり)
同じ冒険王に連載されたTV番組の漫画化作品の中で、これほど繰り返し再販が行われた事例は、他にはないだろう(※1)。
マジンガー作品と並んで一時代を築いた番組に、仮面ライダー作品群がある。この漫画版には真打の石森章太郎版の他、すがやみつる、成井紀郎、土山よしき、山田ゴロ版などがある。だが、別格扱いの石森章太郎版以外は、つい最近までほとんど復刊されることはなかった。それなりに独創性も発揮していた成井版ですら、ほぼ40年間、埋もれさせられていた状態だった(※2)。当時のTV番組の漫画化作品の扱いはそうしたものだった。
そんな風雪にも桜多吾作版マジンガーは耐えた。
断続的にでも生き残り続けてきた。
なぜだ?
それは、桜多が刻み込んだ人間劇が、生々しくも美しく、愛しいからこそだと思う。
1997年の双葉社版の発行以来、15年間、桜多吾作版マジンガー作品は絶版状態が続いていたが、今年になって「マジンガーZ」が復刊された。この復刊の営業成績がよければ、「グレートマジンガー」「グレンダイザー」も復刊されるだろう。是非、そうなってほしい。
双葉社版1、2巻(絶版)
双葉社版1、2巻(絶版)

桜多版3部作は、それぞれが個性的でありながら、有機的に絡み合い、通して読むと、全体で大きな物語(歴史)の流れを生み出している。TV版ではグレートマジンガーとグレンダイザーの間には、別世界といってよいほどの隔たりがあるが、桜多版では人も記憶も地続きでつながっている。
そんな桜多版について評した文章がいくつかある。
絶版になっているが、安積邦(※3)著「ロボットヒーロー鋼鉄列伝」というTV番組回顧本があった(1994年刊 全182頁)。その中で著者は、桜多版マジンガーに多くの頁を割き、解説してくれていた。
この著作は僕の手元にはもうないのだが、安積がそれぞれの作品に対し、「マジンガーZ」は「青春」を、「グレートマジンガー」は「戦士」を、「グレンダイザー」は「SF」を主題にしていると位置づけていたと記憶している。
マジンガーZは兜甲児の青春物語としても読めるという意味で、安積は「青春」という言葉を選んだのだろう。
佳境となったグレートマジンガーでは、主人公・剣鉄也は、己が戦士であることにこだわり、その人生もひたすらに戦いに費やされた。戦士として生き、戦士として死んだ彼への惜別の想いを刻んで、安積は「戦士」と言葉を選んだと思われる。
最終作のグレンダイザーでは最終的に人類を滅ぼしてしまう壮大な叙事詩を捉えて、「SF」としたのだろう(としても、この言葉の選択は大雑把にすぎると僕は感じてしまうが)。
ロボットヒーロー鋼鉄列伝


一方、アニメ作品の紹介で1990年代に精力的に執筆活動を行っていた赤星政尚は、洋泉社MOOKまんが秘宝「ぶっちぎりヒーロー道」(1997年刊)で「『マジンガーZ』『グレートマジンガー』闘え!ドクターヘル!! トラウマヒーローの存在意義」という、題名と内容がやや一致しないが、語る内容はツボを押さえまくりという文章を著わしている。
ここで赤星は「グレート」の主人公である剣鉄也に焦点を当てて、この物語が剣の孤独をひたすら追いかけたものとしている。グレートは剣の戦士として生きる心象の底にあるトラウマ(精神的外傷)こそが、この物語の要であるとした。
ぶっちぎりヒーロー道


さて。
僕の視点から桜多版マジンガーを紹介しよう。
先ず、クソガキの頃の僕が感じた桜多の理念は、こういうものだった。

命をかけて戦う人々に普段は関心を払わず、時にこれを非難し、しまいには見捨てるのが一般大衆である、と。
己の愚かさに気づかぬ大衆の末路は、滅びである、と。

どこかで聴いたような言葉ではないか。
マジンガー作品は当時、最も子供たちの話題の中心にいたTV番組である。
その漫画化作品であるということは、つまりは花形作品なのだ。
当然ながら、冒険王という雑誌の看板連載でもある。
平たく言えば、現在のジャンプにおける「ONE PIECE」に相当する立場といってもよい。
そんな檜舞台に立って、桜多が語ったのが、「人間の性、悪なり!!」という梶原一騎ばりの思想だったのだ。

例えばこんな挿話がある。
兜甲児が高校を留年したというのである。出席日数が足りなかったのであろう。
基本、戦時下である。しかも、彼は敵に拮抗しうる唯一の戦力(マジンガーZ)の操縦者である。敵がこちらの事情を考慮してくれるはずもなく、必然的に彼が通常の状況で学校に出席できるはずはないのである。アホでもわかる理屈だ。
しかし、学校は「留年しろ」と命じてきた。
なぜ、補習をしない。なぜ、甲児を特別扱いしない。
兜甲児は特別の配慮を受けてしかるべき働きをしているのだ。
劇中、慰めの宴が開かれる。
しかし、周囲の人間たちはというと、慰めはするけど「兜甲児が闘うのは当然」とい発想だ。それをおかしいとすら思わない。
学校側が兜甲児の立場(日本の平和を守るために過酷な戦いを続けている)を理解していれば、留年などという判断が下されるはずがないのだ。彼の労苦をおもんばかり、某かの配慮があってしかるべきである。
僕には、この「兜甲児留年事件」の根底には、甲児が属する社会が、甲児の苦労も何も理解していないし、それどころか、甲児を軽んじているのだと、桜多が糾弾しているように思われるのだ。

これが剣鉄也たちともなると、完全に戦士・兵士であり、学校の存在すら描かれない。それどころか、自衛隊で戦闘訓練を行うという挿話まである。
はたして、この物語は、次から次へと試練の連続であった。
科学要塞研究所(※4)でミケーネ軍団と白兵戦が行われている様子がTV中継されたり
グレートの設計図を非合法に入手した大企業が、量産したグレートを、敵であるはずのミケーネ帝国に売却したり
地獄大元帥の作戦に動揺した国民たちから、「お前たちがいるからミケーネが襲ってくる」のだと敵意の標的にされ、あまつさえミケーネの要求に屈服した総理大事の命令によって、自衛隊の排除攻撃に晒されたり

サイド6の攻防戦のTV中継を思い出さないか?
ザンボット3の哀しみに溢れた主題歌が聞こえてこないか?

ここにあるのは、全て、戦いを他人事とする、一般大衆の卑劣さである。
会社でもあるだろう、大変な事例を抱えている立場の者に、「大変ですね」と声はかけるだけ。それ以上は何もせず、他人事として済ませている。
本当は自分自身の問題でもあるのに、自分は傍観者であると逃げている。

大衆というものは、自分たちの安全を、命をかけて守ってくれている剣鉄也たちを、浅はかな考えで非難し、排斥した。当然ながら、劇中で彼らは悲惨な運命を辿るのだが、桜多の大衆に対する視線は冷たい。
そんな卑怯な大衆たちを、それでも守るべく、剣たちは戦い続けた。しかし、闘う気持ちをつなぎとめるために必要だった人を、情を、次々と剣鉄也は失ってしまう。
戦い続けるために、自分が戦士として生きるために、最低限必要だった人との絆、その命、それら全てを失った時、剣鉄也は自爆して果てる。
その直前、剣は大衆どもに吐き捨てる。
「俺たちは負けた」
この哀しみに溢れた結末は、小学校低学年だったクソガキの僕にとって、異常でもなければ、唐突でもなく、ましてや理解不能な結末でもなかった。「ああ、人間って馬鹿なんだ。馬鹿な人間を守ろうとして、力つきて、剣鉄也は死を選んだんだ」という、恐らく桜多吾作が伝えたかった意図を、素直に感じ取ったものだった。
双葉社版3,4巻(絶版)
双葉社版3,4巻(絶版)

この戦いを巡る無力感、絶望感は、グレートマジンガー篇で極致に達した。
しかし、桜多の人間に対する「糾弾」は、まだ、終わらなかった。
グレンダイザーの主人公である宇門大介(デューク・フリード)は、フリード星から亡命してきた異星人であり、地球では宇門源蔵博士の養子となり、地球人を装って生活していた。デューク・フリードは宇門源蔵を実の親のように思おうとしていた。
だが、宇門博士はデューク・フリードを非情の戦士に仕立てようと、洗脳工作を仕掛ける(※5)。
「本当の親だと思っていたのに!!」
まさしく慟哭し、デューク・フリードは、一度は地球を見捨てようとする、そんな挿話がある。
また、科学長官ズリルの策略により、デューク・フリードは実はベガ星人のスパイだという偽りの喧伝を真に受けた一般大衆が、宇宙科学研究所を攻撃する挿話もあった。
彼ら大衆は、デューク・フリードの命がけの戦いが偽物であった、自分たちをだますための嘘だったのだと思いこむ。
そこには命をかけて自分たちを守ってきた人に対する感謝も信頼も何もない。
戦いとは命をかける決意、命をかけてでも守るのだという意思がなければできないものだということを、大衆たちは知らないし、理解すらできない。
それほど、人間とはバカなのか?
情報操作を情報操作と疑いもせず、いとも簡単に人を憎しみ、疑えるのか?
そんなことを子供心に感じさせる挿話が続いた。
‐そこまで人間はアホですか?
‐そうだよ、そこまで人間はアホなんだよ。
それが、桜多の主張なのかもしれない。
実際、日常茶飯事で僕たちは情報操作に晒されているではないか。操られているではないか。

物語の後半、ラーガという漫画版独自の古代ロボットが登場する。ラーガは地球の文明とベガ星、フリード星の文明をつなぐ存在であり、戦いは一気に宇宙規模に拡大していく。ベガ星本星は放射能汚染で自滅した。大半の国民を見捨てて、ベガ大王は軍とともに地球圏に逃げてくる。地球を第二のベガ星にしようともくろむのだが、愚かなベガ大王は地球を手にいれるために、核戦争を起こして、人類を絶滅させようとする。放射能で故郷を失ったというのに、それに懲りもせず、愚行を繰り返す。人類もまたその愚行に気づきもせず、戦争も回避されることなく、人は「滅びの道を歩み始める」。
双葉社版グレンダイザー最終巻予告


桜多はグレンダイザー篇の前半で、人類の愚かさを繰り返しダメ押しのように語り、これ、悪なりと断罪した。そして、後半では様々な舞台装置を発動させて、「命をかけて戦ってくれる人々を見捨てる」愚かな人類を滅ぼし、この一大叙事詩を終えている(※)。
この終局に向けての件は、桜多の画に乱れがある難点はあるものの、畳みかけてくる物語の熱気が凄まじく、敵味方の感情、策略の入り乱れる様は、改めてよくぞ子供向け雑誌で、こんな物語を詠じたものだと思うばかりである。
・・・こうした壮大な物語展開を、桜多は鮮やかな手腕でまとめあげている。復刻版「マジンガーZ」の巻末談話記事によると、連載当時はSFに凝っていて、また面識のあったSF作家・平井和正とも意見交換をしていたのだそうだ。
桜多はダイナミックプロ入社の前に、石森プロで石森章太郎の作画補助をしていた。当時の石森章太郎は少年マガジンで平井和正原作による「幻魔大戦」を連載しており、この時に知己を得たのだろう(※6)。
あるいは、桜多は、平井和正の人類を突き放した主義に影響を受けたのかもしれない。うろ覚えで申し訳ないが、平井和正が富野由悠季と対談した折、「僕はもう、人類に希望は持っていないんだけど、富野監督はまだどこか人間に期待している気持ちがありますよね」云々の言葉を刻んでいたなと、今、思い出した。
たぶん、SFアドベンチャー増刊『平井和正の幻魔宇宙』に収録された対談だったと思う。
『平井和正の幻魔宇宙』の紹介記事
もしかすると、間接的に、あるいは遠まわしに平井和正は原作的な助言を与えていたのだろうか。そうであるとするならが、非常にしっくりくる壮大な展開だった。

グレンダイザー終了後、桜多は自身で原作も行った「マッハSOS」を冒険王に連載する。特殊任務を扱う架空の戦闘機部隊を題材にした物語だった。僕が覚えているのは途中の1挿話だけだが、桜多吾作の主義が濃厚な作品だった。だが、今ならともなく、小学校時代の僕はやはりTV作品の漫画化した桜多作品を読みたいと思ったものだった。
「マッハSOS」も当然ながら、絶版である。
「マッハSOS」紹介記事

1976年には「グロイザーX」という巨大ロボット番組の原作・設定を行っている。当時、ダイナミックプロが東映と喧嘩別れをしたのでアニメ製作はナックが担当したという。桜多吾作が好きだった僕は期待してこれを観たが、凄まじく作画の程度が低かったことと、茜島から飛び立つ場面ばかりが強く記憶に残っている。
しかし、物語をよく覚えている愛好者からは、桜多主義に溢れた隠れた名作とする意見が多く提示されている。
記憶のかさぶた グロイザーX
アマゾンの「グロイザーX」DVDに寄せられたコメント集

この作品以後となると、桜多の作品は小学生以下を対象としたものがほとんどになる。「釣りバカ大将」など、桜多の趣味である釣りを題材にした作品が多い。意外にも「009超銀伝説」の漫画化にも携わっていたようだが、自発的な意欲を見せて仕上げた仕事ではないだろう。2012年現在はほぼ引退に等しい状態のようだ。

マジンガー以後、桜多はこれを超える「大きな」物語は描いていない。
この3部作に己の語りたいこと全てを注ぎ込んだかのごとく。
マジンガー3部作は、桜多吾作の黙示録なのだ。

実は、まだまだこの項、続く。

※1)松本零士は扱いが手塚、石森級であるので、「宇宙戦艦ヤマト」「ダンガードA」は未だに目録に残されているが、作品の質から言えば桜多の作品をこそ残してほしいと僕は思っている。
※2)石森章太郎と永井豪の師弟は、同じような道を歩んだ。漫画家として大成するにとどまらず、ともに東映と組んで子供番組の市場を活性化させた。だが、その後の東映との関係は対照的である。石森は東映との関係を終生、良好に保った。その関係は彼の死後も継続し、石森プロと東映は営々と仮面ライダー作品を生み出し、商業的にも安定かつ大きく成功している。他方、永井はというと、裏付けはとれなかったが、ウィキペディアによれば東映と裁判沙汰まで起こす険悪な関係となり、1970年代のロボットアニメ人気の極期を過ぎて以後、連携することはなくなった。現在は恐らく版権管理程度の付き合いしかないことであろう。僕は両者の人となりについて詳しく資料をあたったわけではない。しかし、二人が立ち上げた会社組織の経過をみていくと、あるいは二人の個性を反映した存在なのかもしれないと思えてくる。石森プロは優等生的だ。冷静な取引を行い、妥協するところは妥協するが、自社の意見も通す交渉上手な組織と言えるだろう。他方、ダイナミックプロの面々は前回でも同じことを書いたが、どうにも喧嘩っ早いというか、妥協できない集団だったのではないだろうか。東映と喧嘩別れした後、「グロイザーX」製作のためにせっかく組んでくれたナックと、桜多吾作は喧嘩をしたらしい。確かに作画の質が残念すぎたのは事実だし、体制も不備な会社だったと想像されるが、それにしても東映と悶着起こした後で、また悶着を起こすというのは、会社組織としてはダメダメである。しかし、だ。優等生の石森プロからは、石森章太郎を追走する人材は生まれなかった。やんちゃ坊主が大人になって連れ合ったようなダイナミックプロからは、永井に匹敵するとまではいかなかったが、石川賢や桜多吾作という個性を生んだ。組織を維持すること、人を育てることは、本当に計算ができるものではないなと感じる次第だ。
※3)廃刊となったアニメ雑誌「アニメック」編集者らしい。
※4)冷静に考えれば凄い名称である。「要塞」で「研究所」なのだ。ダイナミックプロのロボット作品では、研究所の所員たちが白衣を翻して戦闘に従事する場面がふんだんに描かれている。つまりは研究者=科学者たちが戦闘を行っているわけだ。迷彩服を着た軍人たちの姿はそこにはない。子供ながらに感じていた違和感を思い出す。颯爽と戦う軍人を描くことが、暗黙の裡に禁忌となっていたのかもしれない当時の子供番組事情に想いを馳せ、軍を冷静に見つめられなくなった(見つめられなくさせられた)我々日本人の深層心理を思わずにはいられない。
※5)睡眠学習という素朴な手段だが・・・。
※6)平井和正と石森章太郎はともに1938年生まれ、全くの同世代だ。「幻魔大戦」についてはまた触れる機会もあるかもしれない。ここにも「才能の衝突」があり、残念ながら「幻魔大戦」は未完である。と、いうか、未完に終わらざるをえない物語なのかもしれない。ところで、TVアニメの黎明期、昭和40年代には、作品構成にSF作家が加わっている事例がいくつかある。平井和正は「8マン」に関わり、豊田有恒は「宇宙戦艦ヤマト」に関わっている。山野浩一という昔々、SFニューウェーブの騎手なんて騒がれた作家が関わった「闘え! オスパー」なんてアニメもあったという。観たことないけど。

ぶっちぎりヒーロー道収載
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