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日米安保とマジンガー5 グレンダイザーと発動篇

双葉社版グレンダイザー1,2巻(絶版)

(承前)
かくも人の業を突き詰めた桜多吾作版マジンガー作品をして、後の富野アニメが登場する基盤になったとする考えは、恐らく多くの人が思うものではないだろうか。
大惨事! スーパーロボット大戦(後年の富野作品との関連について考察している)

実際、巨大ロボットアニメ(漫画)という分野が市場として確立された、その開始の時点で、既に桜多吾作は「ロボット兵器の戦いを、紛争ないしは戦争として捉えた場合、どのような展開になるのか」を表現してみせたのだった。
そもそも、巨大ロボット同士の格闘などという、しょせん絵空事をネタに何を物語るか。
TV版マジンガーZは、ひたすらに素直に、子供たちを興奮させ、喜ばせることだけに集中した物語を展開した。
次々と、様々な作戦で攻めてくる敵、迎え撃つマジンガーZ。
破壊されていく街を舞台に繰り広げられる鋼と鋼のぶつかり合い。
次第に敵は手強くなる。新手も押し寄せてくる。
負けじと自らを強化していく。
ただ、戦いに勝つためだけの物語だ。
巨大ロボット作品の人気絶頂の頃(市場が最も活発であった頃))の物語の骨格は、基本、上述のような構造だったと思う。当時から、こうした巨大ロボット同士の格闘に主眼を置いた内容を指して、「ロボットプロレス」と軽蔑する流れがあった(※1)。
つまり、ロボット同士の戦い以外は何もない、空疎な代物にすぎないという嘲笑でもある。
そこでは戦いを引き立てるために、幾つかの「暗黙の了解」が存在した。
‐ロボットが破壊しつくした都市は、次の逸話では何事もなかったかのように復興されている(あるいは復興の経過を描写しない)。
‐原則、1対1の戦いであり、主人公ロボットは1体しかないにも関わらず、敵は多発同時攻撃をしかけてこない。
‐わざわざ武器の名前を叫びながら攻撃する。
と、いったところだろう。
ガンダムが認知され、いわゆる実在系ロボット作品が話題の中心になった1980年代には、上記の要素はお笑いの対象とされた。
なんでそんな「暗黙の了解」なんかを守るの? 何の意味があるの?
第一話と最終回だけみれば十分な程度の番組ばかりで、どれも大同小異じゃないか。
実在系ロボット作品の愛好家は、そうした優越感に当時、浸っていた(※2)。
だが、TVで放送されるアニメ番組には、大勢の人間が携わっていたのだ。大勢の人間の関わった作品の内容が、なぜそうなったのか、あるいは「ならざるをえなかった」のかを考えてみるべきだと、今にして僕は思う。
人が作る物に某かの形式があるのならば、そこには作った人間の意図があるはずだ。

巨大ロボットアニメの製作に当時、携わっていた制作現場の人々とて、作品に内包された大いなる矛盾や問題点は気づいていたはずだと僕は思う。
なめてはいけない、1970年代とは、学生紛争にとどまらず、労働争議も経験した人々が多数、ロボットアニメに関係していたのだ。そもそも「マジンガーZ」を製作した東映動画こそ、もろに労働争議を経験している。
当時20代(1950年代生)の若者は学生紛争や日米安保を
30~40(1930~1940年代生)代の中年は敗戦時の急激な価値観の転換と戦後の焼け跡を
50代以上(1930年代以前)の初老の人間はそれこそもろに戦争・戦場を
皆、経験していたのだ。
経験は百万言の理屈よりも、激しく強く、人を動かすものだ。
そんな彼らが「戦い」を、「破壊」をどう描く時、何の疑問も持たずにいられるものではなかったろうと思う。
更にだ。
当時はまだ現場制作者同士の結びつきも強かった。彼らの間では作劇についても、きっと多くの意見や議論が交わされたであろう。
そこでは、「こんなんでいいのかな?」「矛盾してない?」といった、たとえロボットアニメだったとしても、作劇についての疑問が議論されたことだと思う。
もっと気楽に酒の席で、いろんな意見が交わされたかもしれない。

結局、「暗黙の了解」は必要だから生み出されたのだと思う。なぜなら、ロボットアニメは「子供たちのための番組」だったからだ。子供たちが楽しめる内容でなければならない。
昭和40年代‐TVという放送媒体の影響力が、まさに絶頂に達しようとしていた時代だ。
悲惨な戦争を、TV番組として子供を対象に放送することなど考えられないではないか(※3)。
「暗黙の了解」とは、戦いの性質を制限するためのものだ。これは空想の世界の、いわばおとぎ話と同じものなのだ。そこで起こる出来事は、教訓を含んでいるだろうけど、実際の出来事ではない。安心して楽しんでほしい。
おとぎの国のお話だから、街は壊れても再生する。
巨大ロボットの戦いは、一種の神話の世界の戦いなのだから、1対1の真向勝負でよいのだ。
必殺技の掛け声は、もちろん商品の宣伝でもあるが、歌舞伎の見栄を切るのと一緒で、戦いの生々しさを減じて様式化するための行為だ。

もし、こうした「暗黙の了解」を踏み外そうと考えた者がいたならば、彼の目指す先は当然のごとく「現実の世界」「現実の戦い」「現実の戦争」ということになる。
現実の世界の戦い、戦争は、無数の人々の生死が絡み合う。
また戦争とは極限の政治活動であり、政治とは人間の業の集合体である。
そんなものを描こうとすれば、巨大ロボットの戦いを楽しむどころではなくなるだろう。
実際の戦争ともなれば、その戦いは主人公たちだけで解決(終結)できるものではなくなっていく。一個人、一組織の思惑だけで制御できることではない。
個人、少数の人間に制御できる事象ではないが故に、戯作者が「戦争」題材にするには覚悟がいる。
例え巨大ロボットという、際立って強力な武器を得たとしても、「これは戦争なのだ」と言ってしまったが最後、巨大ロボットは巨大な奔流の中の飛沫にすぎなくなる。戦争という巨大な政治空間の中では、巨大ロボットいえども無力なのだ。
飛沫になりたくないのならば、言葉通りの「神」になるしかない。

だから。
「ロボットプロレス」と揶揄されたとしても、ロボットアニメの製作者たちは、「子供たちのため」番組なのだから、「暗黙の了解」を受け入れ、その制約の中で物語を紡いだのだ。

しかしだ。
往年の巨大ロボットアニメは、決してただの「ロボットプロレス」ではなかった。
子供の頃、一度しか観たことがないのに、今も忘れられない逸話に「ゲッターロボG」の一編がある。早乙女ミチルの視点・視野で描かれた作品で、彼女自身は画面に登場しないという実験的な演出を施している。公害に汚染された地域の少年(ミチルの幼馴染)が百鬼帝国に投降して、戦闘員となったという物語だ(※4)。当然、ゲッターロボと戦うことになる。
ロボットプロレスでは終わらない。この世の不条理を、少しでもわかりやすく子供たちに伝えようという意思の産物だ。
子供番組であるという制約を踏まえた上で、語るべきことを語ろうとした作品が、ロボットアニメにおいても幾つもあったのだ。
むしろ、制約の中に「踏みとどまる」ことによって、逆に「物語の自由」を得ることもできる。
戦争を意識しすぎれば、その整合性や全体像、戦争=悪ということを意識しすぎるあまり、語られる内容も画一的になりかねない(※5)。

また、戦争を俯瞰するとなれば、物語は必然的に連続物になり、一話完結にはならなくなる。
日本のTVアニメは、「鉄腕アトム」の創世記時代から、海外への販売も視野にいれられていた。その主な取引先は「当然のごとく」米国であり、かの国は子供番組であるアニメに連続物など、露ほども期待していない。
海外への販売を考えた場合、形式的にもそれこそ内容的にも、アニメで戦争を描くことはご法度だっただろう。
様々な事情を踏まえて、戦争という構図を脇におき、むしろ「これは絵空事なんだけれども」と前口上を述べた上で、ロボット活劇をしながら、様々な訴えたいことを盛り込んでいく道を、当時の製作者たちは選んだのだと思う。
中には流れ作業的に、広告主の言うなりに作られた作品もあっただろう。
だが、「ロボットプロレス」という不名誉な称号を押し付けられた作品の実態とは、「子供たちのための番組」という前提を守ろうとした人々の意思が生み出した「子供たちのための寓話」なのである。
双葉社版グレンダイザー1,2巻裏表紙(絶版)


桜多吾作はそうしたTVアニメの制約をどこまで意識していたかはご本人に伺わないとわからない。
TVはTV、漫画は漫画と割り切って、漫画版は自由に描いただけかもしれない。
だが、彼のマジンガー作品は、見事なまでにTV版で描けない「その先」、戦争、政治までも描き切ったのだ。それはTV版のおとぎ話の世界の鏡像となって、巨大ロボット物という分野の魅力を相互に補いあう形となった。
単純な活劇としての面白さ(TV版)。
人間の業の世界に巨大ロボットを置けばどうなるか(桜多吾作版)。
両者を同時に描くことはなかなかに困難だ(※6)。
TVで描けないことを、漫画でやり切ったことでも、桜多吾作版の価値は大きい。

そんな桜多吾作版を、当時のロボットアニメ作品の関係者たちはどのように意識したことだろうか。
全く意識しなかった、存在も知らなかった、という人の割合はどれくらいだったのだろうか。
少なくとも製作の現場にいた人々は、ある程度は桜多吾作版の存在を意識したのではないかと思う。
と言いながらも、「桜多版を意識した」「石川賢のゲッターは凄かった」というような談話を当時の製作者が語ったという話も聞いたこともない。
でも、それでも、「暗黙の了解」の制約の中で製作に関わった人々が、その制約を外したらどんな作品になるかを考えないでいられたとも思えないのだ。
考えるだけなら自由だ。仲間と語り合うだけならいいじゃないか。
そんな時、桜多版が話のタネにならなかったとは、僕としてはそっちの方があり得難いと思える。

「マジンガーZ」放送から5年。
今から思えば、わずか5年後のことだ。小学生時代の僕からすれば、小学校1年から6年への変化なので、とても長い期間のように実感していたものだが、本当、短期間だったのだ。
昭和52年(1977年)「ザンボッと3」が放送された。
「メカンダーロボ」で戦線や補給という概念を提示した富野喜幸という演出家が、この「巨大ロボットアニメ」の舞台で、難民という現実、大衆による戦争の原因のすり替え作業、主人公たちへの非難を描写したのだった。
当時の平均的なアニメ製作者からみれば、これらは恐らく「禁じ手」であり、「狂気の沙汰」とさえ感じられたことだろう。
例えば、いくらやんちゃな社風であっても、TVアニメを作るための組織・製作体制が整った東映動画では、このような舞台・物語設定は決して許されなかっただろう。彼らはある意味、頑なまでにスーパーロボット路線実際を堅持した。
実際、ガンダムが社会現象になるほど認知されてからも、同好の作品は東映動画からは生まれていない。強いて言えば「ダイラガ-ⅩⅤ」くらいだろうか。
やはり富野が頑固で、変人で、そして、真面目すぎるが故に、「禁じ手」の道を歩んだと思える(※7)。
そして、当時の富野にとっては幸だったのか、不幸だったのか(※8)‐「ザンボット3」は名古屋テレビという「地方」局が、東洋エージェンシー(現:創通)という当時はまだ「小規模」の広告代理店と組んで、クローバーというこれまた今は既になくなってしまった「小規模」の玩具会社を広告主にして製作された作品だったということだ。
つまりだ。
資本を出す側に、アニメ製作の現場を知る人がほとんどいなかったと推測されるのだ。
どうすれば安定した人気が出るか、どうすれば話題になるか、様々な情報や経験を持たない人々だったのではないか。
ましてや海外への販売など、考えてもいなかったかもしれない。とにかく、国内で玩具が売れればそれでいい、と。
だから、彼らは「ロボットさえ出してくれたら、後は自由にしていい」と任せたのだ。
すなわち、番組の内容に注文をつけようにも、つけ方を知らなかったのだと思う。
これが中央のテレビ局だったら、電通のような大きな広告代理店だったら、広告主がバンダイだったら-。
ほぼ確実に、「ザンボット3」は全く別物になっていたことだろう。

改めて言うが、富野の作風は当時の「禁じ手」であり、「ご法度破り」だった。
それがやってしまったのは、富野がアニメ業界のある意味、裏街道を歩んできたからだ。

前述の通り、「ロボットアニメで戦争を描いたらどうなるか」という内容は、決して全てが富野から始まったものではない。「マジンガーZ」の時点で、既に桜多が描いている。
たぶん、ロボットアニメの製作に携わった多くの人々も、「もしも戦記物のようにロボット物を作ったら、どんな内容になるか」という命題について、想像をはせることはあっただろ。
だが!
99.9%の人々は、それを実際に表現しようとはしなかった。
するべきではないと考えていたかもしれない。
それは、「子供のための」TVアニメにはそぐわない。
需要もない。
商品価値がない。
だが、裏街道を歩いたが故に、富野は前述のような製作環境にたまたま辿り着くことができた、できてしまったのだ。
彼の自伝である「だから僕は・・・」に目を通されるとよいが、彼は虫プロを退社してからは、自由契約者となり、それこそ生活のために種々雑多な仕事を請け負うことになる。一時はアニメ業界を離れ、広告業界に身をおいたことすらある。
「海のトリトン」や「勇者ライディーン」という監督作はあるものの、業界からの評価は高くなかったのだろう。監督としての仕事が続かなかった事実からそう思える。
まして、後者などは上層部の圧力で無理矢理に左遷させられている(※9)。
当時の仕事ぶりについて「コンテ千本切の富野」と呼ばれたという逸話があるが、聞こえはいいが、要するに安定した仕事がないから片っ端から来る仕事を引き受けた結果だろう。
所謂「王道」「表参道」を歩んでいれば、「ザンボット3」のような作品にはしなかったのだと思う。
「裏街道」を歩いてきたが故に、「好きにしていいなら、表参道を歩く者には語れねえ物語を語ってやらあ!!」と意気込んだのが「ザンボット3」だったのだと思う。
こうして考えてみると、破れかぶれとさえ思える。
もしもこれがこけていたら、二度と富野に監督の仕事は回ってこなかっただろう。無難な内容にすればいいものを、あえて「ザンボット3」を描いてしまったのだから、もう凄いと言えば、とんでもなく凄い。とてつもなく凄い。開き直りも甚だしい。
だが、変人と言えば、もう、変人としか言えない。
幸いだったのが、「宇宙戦艦ヤマト」の人気のおかげで、戦記物風、戦争物語風の題材が社会的に受け入れやすくなっていたことだ。

話がそれた。相当、それた。
さて。桜多しかり、富野しかり、巨大ロボットを扱いながら、両者は「現実を踏まえれば、こんな悲惨な物語になるんだぜ」と言わんばかりの物語を展開した。逆説的に言えば、「現実の悲惨さに比べれば、ロボットプロレスの方が楽しめるかもしれないんだぜ」ということにもなるだろう。
まあ、桜多であるから、富野であるから、人の心に残る物語に仕上げることができたのだと思う。なまじの作劇では、悲惨さだけばかりが前に出て、読者・視聴者側の意欲を殺ぐだけになりかねない。
悲惨だ。
でも、見続けずにはいられない。
読者・視聴者を引き込むには、それなりの覚悟と技術がいる。

今回、桜多版マジンガー作品の項を書くにあたって、富野アニメとの間に多くの共通点があることに気付いた。それについて触れていこうと思う。
これまでは全く意識していなかったのだが、今回、桜多版を一気に読み返したところ、「あれもこれも、“富野アニメ”で見た風景じゃないか!!」と感じたのだ。
先んじてお断りしておくが、ここで僕は、富野が桜多の作劇を流用したとか、それこそ盗作したとかいうことを主張したいのではない。なぜなら、物語を真剣に考えれば、ある程度の相同性が生じるのは当然なのである。
僕が言いたいのは、先人としての桜多吾作の重要性であり、また、改めて、封印されていた様々な要素の映像化に踏み切った富野の革新性なのだ。

なお、以下の文章は僕としては桜多版「グレートマジンガー」「グレンダイザ―」を読破してから読んでほしいところなのだが、いづれも平成25年1月の時点では未復刻だ。

羅列形式なるがご容赦を。
先ず、桜多版「グレートマジンガー」第3話で、科学要塞研究所がミケーネ軍団に白兵戦を仕掛けられている状況を、TVが中継している場面がある。
戦場をTV中継する場面はロボット物でもけっこうあるのかもしれない。ただ僕が感じたのは、TVを見ている側が、主人公(当事者)を除いて、「傍観者」でしかない、というか、無意識の内に安全な傍観者でいようとしていることなのだ。
桜多版では、戦線から逃避した炎ジュンが、昔の不良仲間と時間を潰している時、TVで科学要塞研究所が攻撃されていると中継するのである。
そこでは白兵戦が繰り広げられている。それを見て、ジュンの悪友たちは、「これってお前の・・・」と、ジュンに問うのだ。
非常にさりげない場面だ。本来、桜多もあまり深い意味をこめてなかったかもしれない。
だが、僕にはジュンの悪友たちが、科学要塞研究所の戦いはあくまで炎ジュンの問題であり、自分たちには直接の関わりがないと言っているように感じられたのだ。
すなわち、TVが当事者と、本来、当事者でありながら傍観者の立場に偽装している大衆とを分別する装置として機能している場面と感じられた。それはガンダム第1作で、中立コロニーサイド6の住民が、ホワイトベースとコンスコンの戦闘のTV中継を、他人事として、見世物としてみている姿にだぶるのだ。

また、白兵戦という生々しい人の殺し合い、ある種、近代の戦争においては最も凄惨な戦闘を、富野もまたガンダムやイデオンであえて描写していたことを思い出させた。

量産型の概念も、桜多は早々に導入している。「ブラックグレート篇」では大企業がグレートを量産する。この量産型グレート軍団とミケーネ戦闘獣軍団の集団戦が、終盤で繰り広げられる。
ここではもはや主役ロボであるグレートは唯一絶対の存在ではなくなっている。「マジンガーZ対暗黒大将軍」で、神のごとき絶対の力をもって降臨したグレートマジンガーであるが、次第に「あくまでも高性能な兵器の一つ」という立場に変容していくのだ。
また、この集団戦では量産型グレートを自爆させて、一種のミサイルとして使用する描写もある。量産型とはいえ、主役ロボすらも徹底して兵器として使用する様は、後年のVガンダムやボトムズを想起させる。更には、この自爆装置は物語の終局での伏線にもなっている。

「グレートマジンガー」の物語の後半では、地獄大元帥が宇宙空間に巨大なレンズを作り、太陽光をエネルギー源とした超巨大なレーザー兵器として地上を攻撃する作戦を展開する。
これなぞはまさしくソーラ・レイやガンド・ロワの魁だろう。
その巨大レンズを破壊するために、グレートとビューナスAが、なんと米国の弾道ミサイルを利用して大気圏外まで移動し、レンズを守る戦闘獣部隊と交戦する場面がある。
ここでなんと、グレートたちは多数のダミー(偽装)人形を展開するのだ。特殊なゴム製で、中には核爆弾も仕掛けられているという代物である。
「Zガンダム」以後、ダミーによる攪乱攻撃を富野はしばしば描写している。
久しぶりにこの場面を読んだ時、僕はちょっとだけだが頭がくらくらした。
桜多吾作、先見の明ありすぎ!!

更にだ。
戦術としての核兵器の使用をためらわずに選択する点も、桜多と富野は共通している。
広島・長崎・ひいては第五福竜丸(※10)の被爆体験から、核兵器を「一般兵器」として描写することを「拒絶」してきた。
それは「悪魔の力」であり、「最終兵器」であり、安易に使用されるべき武器ではないこと、それが使用されることは、この世の終末をもたらすことになる。だから、日本人が描く物語では、核兵器は人類滅亡と同時に描かれる、描かれなければならない存在となっている。
今も、原則、それは変わらないかもしれない(※11)。
だが、桜多はこの巨大レンズ破壊作戦において、多数の戦闘獣を一気に排除するために有効な手段として核爆弾を採用している。ここでもグレートマジンガーが、その神通力を捨てている。グレート1体では多数の戦闘獣には到底かなわないが故に、核兵器を使用したのだ。つまり、もはやグレートは「スーパー」ロボットではなく、限りなく通常兵器なのである。
富野もまた、「逆襲のシャア」で何のためらいもみせずに核ミサイルを描写している。それどころか「Vガンダム」ではモビルスールそのものが、場合によっては1種の核兵器扱いになっている。
桜多と富野の両者から受ける印象は、もちろん、核兵器礼賛ではない。
存在する武器は、条件が整えば使用される。我々日本人の願いなど関わりなく、条件さえ整えば核保有国は「一般兵器」として使用することだろう。
我々日本人の祈願は、現実の社会では受け入れてもらえないのだと語っているように感じるのだ。

強いて言えば、主人公を含め、次々と主要な登場人物が命を落とすのも、両者に共通する傾向だ。グレートでもみさとが、鉄也が壮絶な死にざまをみせ、更にはグレンダイザ―では子供も容赦なく人類滅亡の贄としてしまっている。
今でこそ変わったとはいえ、「皆殺しの富野」の異名は有名だろう。しかし、「皆殺しの桜多」もまた、引けを取らない。
双葉社版グレンダイザー3巻(絶版)


さて、いよいよ「グレンダイザー」についてだ。
物語の後半で、桜多版独自のラーガという巨大ロボットが登場する。かつて、存在した超古代のシグマ文明が残したロボットである。弓さやか(※12)の存在に呼応して覚醒するのだが、覚醒した時の人類の文明の在り方が誤っていると判断したら、その文明を滅ぼしてまた眠りにつく、という指令が組み込まれている。
地球文明も、ベガ星文明も、このシグマ文明によって生み出されたものだった。
そしてベガ星文明は自滅するのだが、物語の終盤では地球人類とベガ星人類双方が、最終戦争に飲み込まれて滅びていく。

・・・なぜ、今まで気づかなかったのだろうか。
これは「イデオン」の原型そのものではないか。
一人の女性によって目覚める古代文明の遺産ロボット。
絶対的な力を持ち、二つの人類、文明について問い正し、悪しきものと判断すれば、これを滅ぼす。
そこに、慈悲はない。老いも若きも幼き者も、全てラーガは滅ぼした(唯一、兜甲児やマリアなど、極少数の人々は生き延びたが)。

そう、「グレンダイザー」は「イデオン」より遡ること8年、桜多が産み出したもう一つの発動篇なのだ(実際、惑星直列の画面もあり、これは発動篇でも類似の画像がみられる)。
繰り返し言うが、これをもって、僕の富野に対する敬意はいっかなも揺るがない。こうした類似性をみてもなお、「イデオン」で示した富野の創作力、作劇力は凄まじいと僕は思わずにはいられないからだ。
重ねて言う。その富野の先駆者としての桜多吾作の再評価を、改めて考えて欲しいと。

次回はようやくこの項の終わり。日米安保とマジンガー。

※1)プロレス愛好家でもある作家・高千穂遥は、そうした呼称に対して、「プロレスに対する冒涜だ」と不満を表したことがある。アニメックだったか、OUTだったか、それともSFマガジンだったか忘れたが、例によってガンダム関連の談話だった。ロボットアニメで見せられるような格闘は、実際のプロレスに比べれば著しく程度が低いのだから、一緒にするなという意味である。当時の彼も若かったから仕方がないかもしれないが、大人げない。世間=一般大衆に対して、自分が支持する存在を認知させたいからと言って、他の存在を一段低く語ることはしてはいけないということだ。「戦いを引き立てるためだけに特殊な場を作り、雰囲気を演出し、観客は絶対的に安全な存在として戦いを楽しむ」という構造は、高千穂が何と言おうが、プロレスとロボットアニメに共通した要素なのである。
※2)かくいう僕自身もそうだった。皆、自分の支持する作品は「特別な」存在と思いたいものだ。
※3)そんな中で、ウルトラ作品に関わった人々が、いかに戦争を子供番組で表現するかにどんなに腐心したことだろう。沖縄戦を身をもって体験した金城哲夫など、どのような思いで「ウルトラマン」の1種、理想の世界を描いたのだろう。それが「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」とより生々しい戦い、怨念を描かされる立場に追いやられた時、彼の心中をはかれるのは同郷の上原正三くらいだったのだろうか。
※4)「ゲッターロボG」第28話 「緑の地球が死ぬ!」
※5)一つの逃げ道として、局地戦ないしは小隊規模の戦闘に舞台を制限する方法がある。戦闘の舞台範囲と規模を縮小することによって、当事者だけの判断で物事を解決したり、あるいは個々人の人間物語を語ることができる。そうした構造を持つのが米国TGV
劇「コンバット」であったり、ガンダム第8話「戦場は荒野」であったり、あるいは「MS08小隊」だったりする。
※6)実際、手練れの永野護でさえ両立には難渋していると僕は感じる。「ファイブスターストーリーズ」の中でモーターヘッド戦の描写の割合は意外と少ない。
※7)そうでなければ、彼はもっと「妥協」した作品づくりをして、世間の認知度を上げて、もっと高い評価を得られたはずだ。それだけの能力がある。だのに、彼は、作品を支持する僕から見ても、「あいも変わらず、一般人にはさっぱり舞台背景がわからない物語の始め方をしやがる」道を選び続けている。「∀ガンダム」しかり、「キングゲイナー」しかり、僕ならついていける。だが、一般人はついてきてくれない物語の導入なのだ。福井晴敏のいう「入口は広くなければいけない」という理念を、富野はわかっているくせに踏み外す。余程の偏屈と言わせてもらう。支持者に甘えているとも言いたいが、己を曲げない、曲げれば嘘になるという信念とも取れる。融通はききそうにない。
※8)後年の僕たちの視点からみれば、言うまでもなく幸でよいのだが、当時の富野にとっては到底、檜舞台とは感じられなかったことだろう。場末と感じていたかもしれない。だが、そこでの開き直りが花を開くこととなった。
※9)番組製作の上層にいた朝日新聞社が、富野が担当した内容を認めなかったことも一因とされる。詳しくは下記ウィキペディアを参照されたい。
勇者ライディーン:ストーリーの伝奇性と総監督交代劇
※10)若い方々に念のため。遠洋で漁業に従事していた第五福竜丸は、その近海で行われた核実験により飛散した放射性物質を大量に浴びることとなった。いわゆる死の灰による被爆である。それは第五福竜丸の船員の方々の生命に多大な悪影響を与えた。知っておいてほしい。
ウィキペディア:第五福竜丸
※11)ネビル・シュート「渚にて」、東宝映画「世界大戦争」、角川映画「復活の日」、東映動画「198X年」、キューブリック監督「博士の異常な愛情」、絵本「風が吹く時」・・・。
※12)「マジンガーZ」で兜甲児の彼女役であった。TV版「グレンダイザー」には登場しない。前回でも触れたが、こうしたTV版では無視された登場人物を、忘れずに活躍させる桜多の方針が僕は好きだ。
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