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[C28]

月岡貞夫は最初手塚治虫の弟子になりたくて
アシスタントをしばらくやっていたが、手塚が東映で
アニメーションの仕事をするのに彼と石森を代理として
送ってコンテを描かせたりした、もともと家が映画館
で子供の頃からディズニーの映画のフィルムを夜中に
コマを一つずつ見てアニメーションの動かしかたを
学んだりしていたほどであった(手塚は彼を
アニメーションの天才と褒めている)。東映が人を
集めているときに手塚の推薦で東映動画に入った。
しかし彼は他のアニメーターに比べて仕事が非常に
早くできた。

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虫プロと東映動画とりんたろう

この2か月ほどは様々なことがあった。
少し疲れたというのが正直なところで、文章の追加もできずにいた。
意見をくださった方々にも不義理をしており、申し訳なく思う。

お詫び申し上げます。

それでも日々、私の文章に目を通してくださっている人々に感謝し、これも励ましと思って、文章を追加していきたい。
りんたろうの総て



映画「銀河鉄道999」は昭和54年(1979年)の夏休みに全国公開された。
この映画の製作はTVアニメの企画と同時に決定されたという。つまりTVアニメの人気具合を確かめることもせず、映画化を決定したということだ。
完全な見切り発車だが、松本零士の人気の勢いが当時はそれだけ強かったということだ。
さて。
東映動画にとって、この映画は特別な存在だったことだろう。劇場用の長編アニメ映画を作るために設立された会社でありながら、1時間を超える作品はと言えば、昭和43年(1968年)「太陽の王子ホルスの大冒険」以後、10年以上も作られていなかった。
「ホルス」以後は映画といっても、長くてせいぜい60分までの中編にとどまっていた。この尺の作品はB作と呼ばれ、東映の中では正式の長編映画とはみなされなかった。
昭和53年にはいきなり2時間を超える大作「さらば宇宙戦艦ヤマト・愛の戦士たち」の製作に関わったが、あくまでも西崎義展の作品だった。
だから、「銀河鉄道999」こそ、東映動画にとって11年ぶりの長編アニメ映画(※1)であり、記念碑的な立場に掲げられた存在だったと思われる。
しかしだ。
そんな特別な、社運を賭けたと言っていい映画でありながら、監督に起用されたのは社外の人材だった。

社長直々に指名した人材とは、りんたろう。所属は株式会社マッドハウス。東映動画と共同でTVアニメの製作に関わっていたが、言わば下請けのような存在だった。
りんたろうは本名、林重行。昭和16年(1941年)生まれで、「999」映画製作当時36~37歳くらい、映画監督として新進気鋭といっていい年代だった。
彼は「白蛇伝」製作当時の東映動画に在籍した経歴はあるものの、「鉄腕アトム」放送開始時期には虫プロに移籍し、そこで実質的な業績を積み重ねた。虫プロ倒産前に同僚たちとマッドハウスを立ち上げ、社外の演出家として再び東映動画の作品に関わっていた。才能と強かさを兼ね備えたからこその経歴とも言える。

それにしても、元は東映動画に在籍していたとはいえ、今は他社の所属であり、しかも虫プロの「残党」である。東映動画正社員の反発はなかったのだろうか?
一般の会社で言えば、それなりの企業が社運を賭けた事業の責任者に、有能とはいえ、外部下請け会社の社員を抜擢したような人事だった。
承服できない気持ちになった社員もいたことだろう。
「俺こそは」と思っていた人材もいたかもしれないのに。

繰り返しになるが、東映動画には「白蛇伝」に始まり、営々と日本独自の長編アニメ映画を製作してきた伝統と自負があった。
しかし、手塚治虫が、虫プロが登場して、アニメ業界の環境を根底から変えてしまった。宮崎駿のごとく、「破壊した」と考える人もいただろう。TPP日本上陸並の破壊力をもって。

最近の産経新聞の記事の一部を引用してみよう。
産経新聞
(前略)東映動画(現・東映アニメーション)を経て虫プロ設立に参加した杉井(ギサブロー:筆者注)さんは、幼少期にディズニーの「バンビ」を見てアニメ制作を志した。手塚は大のディズニーファン。「すごい作品を作るはず」という期待とは裏腹に、手塚は常識破りの手法を次々と採用した。セル画の枚数を減らすため、背景や動画を使い回したり、口や足といった体の一部だけを動かしたり…。手塚が「アトム」で目指したのは、米国でも試行されていた「リミテッド・アニメーション」の省略と合理化だった。
 ◆新旧交差の現場
「一番はじめのころは、(虫プロでは:筆者注)30分を7人くらいで作っていた。東映動画では200人ほどで描いていた時代。驚異的なシステムだった」
セル画の多い「フルアニメーション」を経験してきた杉井さんは「紙芝居じゃないか」と困惑した。しかし、完成した1話を見て感想は一変する。「物語性を前面に出せば、動かなくても面白い。ショックだった」
(後略)

東映動画とは全く異なる製作方式、「早かろう、安かろう、画面の完成度もそれなりであろう」でありながら、虫プロ製のTVアニメはマンガ的手法を用い、従来のフルアニメーションとは異なる語法で質を担保し、大量生産を行い、それが消費に結びつく結果となった。
それはアニメにまつわる市場の構造そのものを劇的に変化させ、「時間をかけて良質なフルアニメーションに近い長編アニメ映画を作る」時代を変えてしまった。
劇場用の長編映画の製作を第一としていた東映動画の現場からすれば、それまで培ってきた製作土壌を、手塚治虫と虫プロが破壊した-ともみなせるだろう。
お蔭様で東映動画もTVアニメに参入せざるをえなくなった。その第1作目「狼少年ケン」の映像を見たことがあるが、TVアニメとしては非常に滑らかな動きであり、「かなり枚数を使っているな」と思わせたものだった。
「紙芝居のような」アトムに負けたくないという東映動画の意地が籠っていたように感じる。だが、現場を仕切った月岡貞夫は、TVアニメ製作の慌ただしさ、質よりも量を優先せざるを得ない状況を疎い、東映動画を去ることになったという。
ウィキペディア:狼少年ケン



と、こうして書いていると、「東映動画vs虫プロ」という対立構造を想定して、話を膨らませていきたくなる。虫プロを敵役にして、古き良き伝統を破壊される東映動画の郷愁の物語-とでも言おうか、そんな筋を描いてみたくなる。
だが、現実の物事とは、そんな単純なものではない。
東映動画を退社した月岡はどこへ行ったのか。なんとTVアニメの巣窟、虫プロにいって仕事をしているのである。
慌ただしい製作現場に耐え切れず、東映動画をやめたのなら虫プロへいっても同じ環境なのではないか・・・・と考えてしまうのだが、月岡は東映動画よりも虫プロを選んだ。
つまり、月岡にとって、東映動画よりも虫プロの方が仕事をしやすかったということになる。
その背景には、当時の東映動画の「身分制度」ともいうべき体制が関わっていたのかもしれない。
平成21年に刊行された「PLUS MADHOUSE04 りんたろう」キネマ旬報社から29頁から抜粋する。

りん-監督をやりたいと言ったら、けんもほろろに「それは無理だ」と言われたのね。要するに、当時の東映動画では、大学を卒業して、東映本社に正社員として入らないと演出部に入れなかった。僕や杉井ギサブローは東映動画が雇った臨時採用だった。そう言われて、諦めたよ。


つまり、昭和30~40年代前半の東映動画内では社員の扱いに格差が設定されており、過去の身分制度のように、学歴と採用のされ方によって、つまり「生まれ」によって、将来の地位も携われる職種も決定されてしまっていたということだ。
別に東映動画だけではない。当時の映画会社全体がそうだった。監督になれるのは、大学卒の学歴を持つ一握りの人間だけ、つまり「選民」にしか映画監督への道は開かれていなかったのだ。
どんなに才能があったとしても、東映動画にいては才能があるかどうかの試験さえ受けられない。門前払いなのだ。
果たして月岡の「身分」がどうだったのかは調べきれなかった。だが、東映動画が用意したTVアニメの製作体制と、自身への扱いの悪さに辟易して、月岡が虫プロに移籍したのだろうと考えるのが普通だ。
ただし、月岡も虫プロでTVアニメを作りたかったわけではないらしい。彼は「劇場用の映画を作ることこそ、作画者の本分」と考えていたらしい。
手塚治虫にしても、別にTVアニメを作って、お金儲けをしたくて虫プロを立ち上げたのではない。彼が本当に作りたかったのは、ディズニーを超える劇場用長編映画だった。TVアニメはそれを実現するための手段にすぎなかった。TVアニメを作ることによって基礎的な技術を蓄積し、その上で資金も溜めて劇場用長編アニメを作りたかったのだ。
まさかアトムが国民的人気を得るほど、商売として成功するとは、思っていなかったようだが。
「劇場用長編アニメ映画を作りたい」
その気持ちは手塚治虫も一緒だったのである。
だから、虫プロは全盛期にはいくつかの長編映画を製作、公開している。
昭和44年(1969年)「千夜一夜物語」
昭和45年(1970年)「クレオパトラ」
昭和48年(1973年)「哀しみのべラドンナ」(※2)





りんたろうもまた、東映動画に居続けることに限界を感じて、虫プロへ移籍した。
先の記事にも登場していた杉井ギサブローにしても、結局、虫プロへ移籍している。
こうした人の動きをみていると、虫プロは、手塚治虫は、東映動画の方針とは真逆に、人材の肩書にこだわることなく、「才能がある人が作品を仕切る」という実力主義を通したと考えられる。
そもそも手塚がアニメを始める際は、全てゼロからだった。だから経験者を集めなければならない。才能があって、そして地位が既に約束された人材がわざわざくるはずもない。ならば、才能があるのに陽の目を見られそうにない人材を集める、才能があれば、「生まれなどどうでもいい」、その方針で人を集めた-そう考えることができる。

東映動画の「正社員」から見れば、手塚治虫と虫プロは破壊者だった。宮崎駿の辛辣な言葉が蘇る。
ど素人が・・・!!
とまでは言わないが、宮崎は映像表現者としての手塚を全く評価していなかった。
宮崎にとって、手塚と虫プロは敵なのだ。

だが、宮崎とは異なる立場の者、そうでない「臨時雇い」の立場の者からすれば、「表現したいのに、その地位を東映動画は与えてはくれぬ」と思う者からすれば、虫プロは埋もれた才能に光を当ててくれる新天地だった、と考えることができる。

物事とは、正も邪も、表裏一体なのであろう。ある者にとっては悪に見えても、ある者には正義に見える。

一方、会社としての東映動画と虫プロが敵対していたかというと、そのような記録、記事はみつけられなかった。むしろ、共同製作もあったりする。好敵手とみるどころか、東映動画が虫プロを下請けとして強かに利用したとみることすらもできる。
りんたろうの出世作とも言える、石ノ森章太郎原作劇画をアニメ化した「佐武と市捕物控(さぶといちとりものひかえ)」は虫プロ、東映動画、更には石ノ森自身が参加していたスタジオ・ゼロの共同製作であった。




さて。
昭和46~48年(1971~73年)は東映動画の労働争議が頂点に達した後、収束を迎えていた。
他方、昭和48年に虫プロは倒産の憂き目をみた。
以後の人の流れは複雑に入り組み、一言で表せるものではないだろうが、一部について触れておこう。
昭和47年(1972年)、元虫プロ社員のりんたろう、出崎統、川尻善昭、丸山正雄らがマッドハウスを設立した。作画家杉野昭夫も一員であった。
昭和51年(1976年)彼らは「ゲッターロボ」の後番組である「大空魔竜ガイキング」の製作を東映より依頼された。副主題歌「星空のガイキング」は、その宇宙に染み渡るような歌と杉野昭夫の画が、素晴らしく調和した傑作であった。
更に昭和52年(1977年)、その後番組として「ジェッタ―マルス」が引き続き、東映動画より製作が依頼され、マッドハウスの面々が中心となって製作が行われた。

「ジェッタ―マルス」とは、「鉄腕アトム」の内容を大幅に刷新したものであり、「新たなるアトム」という意気込みで作られたものだった。そもそものアトム誕生が昭和26年である。昭和52年当時からみても20年以上前に産まれた作品だ。
これをより装飾的に、より華やかな造形にして、名前も軍神マルスより戴いた主人公がジェッタ―マルスだった。
「鉄腕アトムの現代版だから、虫プロの流れを組むマッドハウスに任せよう」ということだったらしい。詳しい経緯など知る由もないが、そこには「虫プロは仇敵」だとかいう発想は微塵も感じられない。むしろ、あわよくば「アトム人気を復活させて儲けよう」という貪欲ささえ感じられる。
もっとも、ジェッタ―マルスはアトムのような国民的、大衆的人気を得ることはなく、普通のアニメ作品の一つとして放送を終了した。
木曜午後7時からの放送時間枠であったが、この時間帯は東映動画の平日の看板枠とも言えただろう。マルスの後には「アローエンブレム・グランプリの鷹」「銀河鉄道999」「新竹取物語1000年女王」と系譜が連なっている。

さて、いよいよりんたろうの登場となる。
「アローエンブレム・グランプリの鷹」は4輪車競技を題材とした全44話の作品だった。「グランプリの鷹」は、宮川泰の音楽が心に残る佳作だが、りんたろうは前半1~26話までを演出している。マッドハウスを出て、東映動画の現場で作業を行うことになった。出戻りということである。
当時の状況を前掲書58頁からから抜粋しよう。

小黒-古巣の東映に戻った事は、ご自身にとっていかがだったんですか?
りん-やっぱり、知ってる顔がたくさんいるわけだよ。みんな、偉くなったりしていてさ。僕の東映動画での勤務態度の悪さも知ってるわけだよね。あまり仕事をしないで女の子のお尻ばっかり追いかけていたとか(笑)。それは仕方のない事で、だからって東映にいくのが嫌だったわけではない。昔からの知り合いに会うのも楽しみだったしね。
小黒-東映でのお仕事は10年ぶりくらいですね。
りん-だろうと思うんだけどね。全然変わってなかったよ。スタジオに入った途端に、でかい顔して歩いてたけど(笑)。

どこまで正直な感想なのかは知るよしもないが、あっけらかんとした雰囲気だけが伝わってくる。冒頭に記したような、この現場からは、手塚の死に際して宮崎が迸らせたような、手塚-虫プロに対する敵愾心のかけらも感じられない。
りんが戻る頃の東映は、労働争議が終結してから5年ほどが経過していた。高畑勲や宮崎駿など、「ホルスの大冒険」の中心となった人材の多くは、とうの昔に東映動画を去っていたという。

東映に戻ったりんは、「グランプリの鷹」で上原正三という情念のこもった物語を描ける脚本家と巡り逢い、音楽でも宮川泰という魔法のように旋律が湧き出る作曲家とも出会った。子供向けのはずでありながら、大人の鑑賞にも、否、実を言えば大人の方が楽しめる世界を構築した。撮影技術、構図、作画の演技、音声に到るまで彼はこだわることができた作品だったという(前掲書)。
当時は少年ジャンプに連載された池沢さとし著「サーキットの狼」によって盛り上がった、高性能4輪車の人気が高騰していた。「スーパーカーブーム」と称され、これを題材にしたTVアニメも何本か製作された。
しかし、半年以上の放送を市場から許可された、人気を博したのは「グランプリの鷹」だけであった。世間がりんの作品を認めたのだ。



しかし、何とも皮肉なことに、りん自身は「26話で終わるつもりだった」らしい。この後には「宇宙海賊キャプテンハーロック」の演出を行うことが既に決まっていた。ところが人気が出た「グランプリの鷹」の放送が延長になってしまった。りんは「グランプリの鷹」を他人に譲ったのだった。

たぶん、「グランプリの鷹」が爆発的ではないにしろ、放送延長になるほどの評価を得たこと、そして映像の完成度の高さは、りんの評価を確実に押し上げたことだろう。
いよいよの時がきていた。
かつての東映動画の臨時雇い社員で、「(臨時雇いごときが)監督になるなんて無理」と一蹴された男の反撃が始まった。
りんが情念のたけをぶつけて演出した「ハーロック」の第1話が完成した。この社内試写をみた東映動画社長である今田智憲は、涙を流すほど感動したという。この第1話をもって、今田社長が映画「999」の監督をりんたろうと定めた。
これは有名な逸話である。

今田は当時、TVで放映される作品の第1話の試写を必ず観ていたという。
「ハーロック」の前に放送された東映動画作品の第1話の演出者を並べてみよう。
意外と少ない。
昭和52年2月「ジェッタ―マルス」演出:千葉すみ子
昭和52年3月「惑星ロボ ダンガードA」演出:勝間田具治
昭和52年7月「超人戦隊バラタック」演出:西沢信孝
昭和52年9月「アローエンブレム グランプリの鷹」演出:りんたろう
・・・そしてハーロックが昭和53年4月に始まる。
新番組が意外と少ないな、という感想を抱く。もちろん、「東映まんが祭」用のB作中編映画がいくつかあるのだが、勝間田以外、第1話の演出を担当した千葉すみ子も西沢信孝も、際立った評価を残してはいない。もちろん、「手堅さ」はあったろうが、今田の目をひく者ではなかったのだろう。
ただ、りんたろうの情念の迸る「ハーロック」第1話は、恐らく今田の心をぐらぐらと揺さぶる熱気に溢れていたことは間違いない。

友人が一人地球に残した遺児、少女まゆの誕生日に、地球政府から指名手配されているハーロックが単身、贈り物を渡すためにやってくるのである。まゆはただ、ハーロックの安全を祈り、「来ないで!」と祈り続ける。
少女の健気さと、それでも「約束を守るために」「危険とわかっていても」「捕まれば死刑になるとわかっていても」一人、地球に降り立つハーロック。
日本人の好む、情と外連味が横溢した物語である。
理屈ではない、信念を貫き通す者の姿の美しさを描くのだ。
その一念、岩をも通す勢いのりんの映像に、今田が他の「手堅い」演出にはみられない、突き抜けた力を感じ取った、もっと言えば、「大衆に広く受け入れられる、売れる演出」を見出したということだったのだろう。
「銀河鉄道999」監督への抜擢-それは「お前は監督になれる立場ではない」とかつて宣言されたりんたろうにとっては、何物にも変えがたい勝利の知らせでもあっただろう。
ある意味、学歴(身分制度)の時代を終焉させ、実力主義の時代の幕を開けたと言ってもいい。
社運を賭けることになるだろう映画の監督に、経営者は無難ではない、「何をしでかすかわからない」可能性を秘めた人材を登用した。
それは山師的、博打打的な選択だっただろう。
だが、結果として映画は興行的に大成功に終わり、今田は見事に勝負に勝った。

美しいとも言える話だ。
身分制度に一度は挫折したりんたろうの逆襲、博打にかった今田の決断。
美談とも言える。
しかし、物事は正も邪も表裏一体であるならば、そんなきれいごとだけではなかったかもしれない。
労働争議の時代に、東映動画の経営陣は、「正社員とは、労働組合とは、本当に厄介な連中だ」と思ったことだろう。利益を生み出せるなら、その人材は正社員だろうが、外部の委託社員(派遣社員)だろうが構わないわけで、むしろ後者の方が年金だの保険だの、会社が負担しなくてすむだけ利益率が高い。
首も簡単に切れる。
りんたろうの抜擢は、経営陣からすれば正社員に対する一種の脅し、駆け引きの材料だったかもしれないと、50歳前の世代になった僕はいやらしくも考えてしまうのだった。

さて。
監督に「成り上がれた」りんたろうだが、それでめでたしめでたしになるほど、世の中は容易ではものでない。
才能があるから、すぐに大衆が受け入れてくれるわけではないのだ。
否、大衆にそもそも届かなければ、才能は存在しないのと同じだ。
どんなに今田がりんの才能を認めたとしても、それだけでは回らないのが世の算術だ。
りんたろうが「銀河鉄道999」の監督に抜擢された。
それはいいだろう。
しかし、映画を作るためには、先ず金がいる。
かけてくれる映画館がいる。
それらがなければ、映画はできないし、上映できない。
確かにアニメやマンガ、松本零士の愛好家は、監督が誰であろうと「銀河鉄道999」が映画になるというだけで無条件で映画館に足を運ぶだろう。だが、映画に金を出す側、映画を上演する側となると、そうはいかない。彼らは頭の硬い親父どもなのだ。
しかも昭和の時代だ。忌々しいほど、連中の頭は硬い。
大作映画を製作するための資金を銀行から引き出すために-
個人営業も少なくなかった、今のシネコンとは全く形態の異なる全国の映画館の経営者に、この映画を上演させるために-
今田は、東映は、策を弄した。
既に名声を確立していた映画監督の市川崑を「監修」として擁立したのだ。権威優先の悪しき昭和の価値観が鼻につく人事のようにも見受けられるが、こうでもしなければ、上にあげたような世界のオヤジどもを納得させられなかったのかもしれない。

「あの宇宙戦艦ヤマトで大人気の松本零士の新作映画です」
というだけでは、銀行も金を出さず、映画館の経営者も上映するとは言わなかったのかもしれない。
「わかった。じゃあ、また新しいヤマトを持ってこい。それ以外はいらねえよ」
ということもありえたのだ。
それを
「あの宇宙戦艦ヤマトで大人気の松本零士の新作映画を、あの市川崑が監○するんです!!」
となるとどうか、多分、オヤジたちの中での敷居は一気に下がったかもしれない。
「え・・・市川崑が監督するのかよ!?」
と勘違いするオヤジもいただろう。それどころか、わざと「監修」と「監督」を言い間違えた営業もいたかもしれない(これは全くの僕の憶測だが)。
昭和の時代の商売とはそういうもの、だったかもしれない。
売れた者が強いのだ。そう割り切っての名前借りだった。

それだけには恐らくとどまらない。
久しぶりの劇場用大作映画の監督が東映動画生え抜きでないという人事に対する反発を、抑え込むための処置であったのかもしれないとも感じている。
嫉妬、という感情は、至極単純で、理知とは程遠いものでありながら、対処を誤ると組織が分解するほどの破壊力を発揮することさえある。
僕は長らく、市川を監修にしたことについて、この文章を書くこの瞬間まで、「りんたろうをないがしろにするようなことをしやがって」という感情を持っていた。
だが、考えてみれば、社長の今田が惚れ込んで選んだ監督である。むしろ自分の決断が現場の不和を招かないようにと気遣ったとみるべきなのかもしれない。
「市川監督、私が惚れ込んだ若い奴がおるんですが、生え抜きではないんですわ。現場がすねるかもしれませんので、まとめ役として、お手数をかけますが、ちょっと名前を貸してください」
そうした今田の率直な気持ちもあったのかもしれない。

この稿、続く。

※1)ただし、かつての長編映画のような1秒間に12~24枚の作画を行う「フルアニメーション」寄りではなく、TV作品より枚数を多く使った「リミテッドアニメーション」よりであったが。
※2)虫プロの劇場用映画3作は、全て性描写も含んだ成人向けの内容となっていた。果たして、これが手塚が本当に作りたかったものかというと疑問はある。「性描写があった方が興行成績は上がる」と考えていたのだろう。彼にしてみれば、まだ「本当に作りたい映画を作る」時期ではなかったということか。彼が「本当に作りたかった」のだと思える「火の鳥2772」が公開されたのは昭和55年(1980年)である。
なお、僕が「哀しみのべラドンナ」の存在を知ったのは創刊間もない頃の「アニメージュ」の特集でであった。僕は当時、中学生だったはずだが、よくもまあそんな世代が読む雑誌で「べラドンナ」を紹介したものだと思う。もちろん、性描写もありますよと紹介されていた。と言っても、抽象化されたおしゃれな性描写だったが。後年、レーザーディスクで発売されたのを購入したものだった。

1970~1980年代における虫プロ出身者の存在意義について触れた記事がある。一読をお勧めする。
第67回 虫プロブームとマイナーだった宮崎アニメ

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