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寄り道 「美しさ」に魅せられて「風立ちぬ」

寄り道をします。ごめんなさい。
映画をまだ観ておられない方は、できれば映画を観てから読んでください。
僕としては是非、大勢の方に観ていただきたい映画ですが、評価は真っ二つに分かれています。
「つまらない」「主役の声が最低」という意見も多くみられます。
それでも、この映画を観る価値は、私はあると思います。


宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観た。
ただ一言、「美しい」と呟きたくなる映画だった。
歴史認識のことだとか、戦場が描かれていないだとかいった観点から、この映画を云々することはここではしない。
ただ純粋に、画面の美しさに心がふるえ、主人公夫妻の愛情について、その切なさに涙が流れた。
映画は淡々と物語られる。最高潮に達するでもなく、いや、最高潮をあえて築かず、それは観る者の想像力に全て委ねている。
宮崎が見せたかったのは、ただ、人の夢であり、人の人を想う心と、それを表す所作だ。
夢を追うことの美しさ
人として凛々しく振る舞うことの美しさ
人を愛することの美しさ
そして、美しさを際立たせることを一心に目指し、語り表そうとした映像の美しさ
それら全ての美しさに、僕は心打たれた。

昭和の前半を生きた、軍用機の設計士夫妻の物語である。
戦争という時代背景は最小限の描写にとどめられている。
物語は主人公の少年時代から語り起こされる。
主人公の「美しい飛行機を設計したい」という願いが語られる。
ここで宮崎は夢という「舞台装置」を挿入しながら、日常と非日常を描き分けていく手法を選んだ。
その手際は端的だ。非日常の場面をさっと日常へとつなげていく。夢想の場面がそのまま現実の場面に吸い込まれていく。その切り替わりの印象が鮮烈だ。
夢想を描写する場面は長くない。切り詰められた時間の中で、夢想が奔流となってあふれさせている。だからこそ、鮮やかに脳裏に刻まれる。
この日常と非日常の切り替わりは、まさしく映画ならではであり、まさしくアニメならではだ。
時には日常と非日常が同時に現れもする。
まさにアニメで、映画なのだ。
映画は、その意思があれば、どこにもない時間と世界を銀幕に映し出せる。それを示してくれた。

映画は出会いの美しさを描き、別れの哀しさは癒そうとした。
先ず、主人公は夢の中で、異国の飛行機設計士と空間を越えて出会い、目標を追うことの楽しさを、年の差を越えて分かち合う。この出会いが一つ。
そして車上に風が吹いた時、妻となる人と出会う。この出会いで二つ。
二つの出会いが彼の人生に寄り添っていく。
夢の中でしか会えないが、憧れの、いや同じ志を持つ人
妻となる、なった女性
彼らとの結びつきとともに、主人公は軍用機の設計の仕事を続ける。

妻は、戦前の日本では不治の病であり、現在の進行癌に等しい、命を削る病気であった肺結核を患っている。
また、主人公が設計するのは軍用機であり、戦闘機である。
そこにはいずれも死が影を落としている。
主人公は、死と寄り添う存在とともに、生きねばならない人生を歩んだ。
最後の夢の中で彼は、同志と、彼が設計した戦闘機と、そして、彼の妻(であった)と再会し、でも、別れを告げられる。
最後の夢の中で出会ったすべての存在は、もうこの世にはいない。
現実の世界では主人公は一人、残されていたのだ。
そして、それでも、「生きるのだ」と最後に締めくくられる。

-これだけのものを失って、それでも生きていけるものだろうか。
そう、最後の場面を見ながら僕は感じていた。
死は、永遠の別れである。
誰も死者と自由に会うことはできない。
会えた、と思ってもそれは幻と区別のつけようもない、曖昧な記憶でしかあるまい。
主人公夫妻の情愛の深さを思えば、一人「生き残ってしまった」主人公はあまりに辛い。
しかし。
今、改めてこの文章を書きながら、「それでも生きていきませんか」いう宮崎の気持ちが感じられる。
「生き残ってしまった」、取り残された者の辛さ。
この辛さを癒すための映画であったようにも思う。

宮崎は、主人公を端整な心持の日本人として描いた。登場する他の人物も、基本的に端整であった。
主人公は礼儀も正義もさりげなく示し、臆することなく言うべきことを言い、そして、穏やかなまなざしを絶やさない。
するべきことは、どんな辛い時でもこれを休まない。
病身の恋人が喀血した時も、汽車で駆けつける間も、こぼれる涙をぬぐうこともなく、設計を続ける。
床上の妻の手を握りながら、片手で計算尺を操作し、片手だけで設計図を引く。
どんなに辛くても、するべきことをする。
それが日本人の強さであり、美しさであると伝えたかったのであろうか。

余命幾ばくもない妻のために、仕事をやめてずっと傍らにいる。
それも愛であり、現代はそのような愛こそ、正しいとみなされるだろう。
だが、宮崎は、ゼロに近い時間を絞り出してでも、妻との時間を作る男の愛情の在り方を描いた。
この上なく辛くても、それに耐える日本人の心性の強さ、耐えている日本人の美しさを描きたかったのだと思う。

主人公と妻を引き合わせたのは風であった。一陣の突風が、二人の出会いを演出した。
宮崎は、繰り返し、風が二人を仲立ちする場面を描いた。それはあたかも映画のお手本をみるようであった。繰り返しは過去の風景を思い出させ、過去と今が重なり合うことによって、二人の気持ちの輪郭が更にはっきりと浮かび上がる。短い時間に感じた恋心は、錯覚ではなかったことを教えてくれる。
しかし、その女性は結核を発症していた。結核は戦前の死因第一位の疾患である。老若男女の隔てなく感染し、慢性の経過で病状が進行する。
まさに現代の癌疾患と同じ存在であった。結核に対する抗生物質のなかった戦前のこととて、結核を発症しているということは、余命が限られていることを意味した。
当時のことなれば、結核はやがて肺の機能を破壊し、栄養障害をもたらし、衰弱して死を迎えたことだろう。
だから。
だから、主人公は療養所から恋人を呼び寄せ、結婚し、極わずかの時間を捻出して妻の傍にいた。
主人公の妹は、「兄様は勝手だ。療養所にいた方がいいのに、自分の傍に呼び寄せておきながら、ほったらかしにしている。あの人の病状はすごく悪い」。
同じように主人公を非難する感想は、映画を観た人からも寄せられている。
正しいだろう。主人公の妹は医師であり、普通の医者であれば、患者の健康が一番よく保たれる選択をするべきである。
だが、寿命を数か月伸ばすことが、患者の幸せに結びつくとは限らない。
なぜ、恋人は療養所を飛び出して、より空気の悪い街へやってきたのか。
なぜ、主人公の妻となり、初夜も迎えたのか。
そして、主人公が設計の仕事をやり終えるのを見届けると、書置きを残して、自分の意志で、療養所に戻っていった。
「自分の一番きれいな姿をみてもらいたかったのね」
劇中の人物の一言が、全てを言い表している。
まだ、自分が、自分でも「美しい」と思える時間のうちに、病で身体が衰弱してしまう前に、主人公の妻となり、ほとんど会えないとしても、彼の妻として振る舞いたい。
それが彼女の一番の望みであったのだ。
彼女は、「自分が生きている間に一番したいことをした」のだ。
「きれいな自分だけをみてほしい」
女性の、妻の愛らしくも切なく、そして他のなにものにも変えがたい、最高のわがままなのである。
主人公は、その妻の願いをかなえるために、彼女のわがままのために、彼女に協力したのだ。
こんな夫婦なんていない。
そう言い捨てることはたやすい。
だが、いたのではないかと思わせるのが映画であり、ないものをあると言えるのも映画の特権だ。それこそが映画だ。
僕は二人が父親に結婚の気持ちを伝える場面からは、泣きっぱなしだった。

主人公を含め、この映画では日本人の所作がこの上なく美しく描かれていた。
宮崎の渾身の演技である。アニメ映画史上、最高の演技だと思う。
凛として、たおやかなのである。宮崎が人の所作の演技に厳しいことは以前からであったが、この映画では演技がまた一段と高みにあがったと思われた。
宮崎は今年で72歳になるが、とても老いたとは思えない映像を仕上げている。
二人の婚姻の場面。花一輪で飾った妻の美しさ。
仕事から帰った主人公の着替えを妻が手伝うさりげない動き。
その美しさに目を離すことはできなかった。
こうした演技は、コンピューター製アニメではできないだろう。
将来は可能になるかもしれない。しかし、これは日本人の所作だ。万国向けの映画を作るハリウッドでもピクサー社でも、今後も成しえない、再現されることのない演技だろう。
人の手が描き出す演技の素晴らしさを、改めて認識させられた。
人の所作のみならず、エンジンがはきだす煙にさえ、「アニメとはこれだけのこだわりを出せるのだ」という意思が乗り移り、まるで生き物のように、動きに色気が感じられたものだ。

この映画は、誰かを裁くための物語ではない。
辛いことがあっても、取り乱さず、静かに、淡々と愛情を紡ぐ人の美しさを描くための映画だと思う。
だから、時代背景は最小限に抑えられている。
それをもって、この映画を批判するむきもあるかもしれない。
だが、僕は言い訳のように「戦争を反省します」と、むごたらしい場面を挿入しても、結局は何も伝わらないし、映画の価値を落とすだけになっただろうと思う。

なぜ、主人公を飛行機(軍用機)の設計士にしたのか。
それは宮崎が最も生き生きと描ける職業だったからだと思う。
この映画の主人公は、「余命の限られた妻との時間を犠牲にしてでもしなければならない仕事」をする人間であり、妻もまた「仕事に没頭する夫の姿が最高に素敵」と考える人間なのだ。そこにある「仕事」の存在感に力がなければ、二人の物語は喜劇に堕しかねない。
単に義務だけでは終わらない「仕事」。それは宮崎にとっては飛行機の設計なのだ。
劇中で何度も飛行機は試験飛行に失敗して墜落する。
墜落の場面も気合が入りまくっている。墜落が幻想的に描かれて、夢の場面につながるなど、宮崎は手練手管を駆使している。
飛行機の構造について語る場面も、まるで宮崎自身が得意げになって語っているかのようである。
舞台を昭和の前半に設定し、飛行機設計士となると軍用機に関わらざるをえなかったのだろう。

主人公に全く演技の素人である映画監督を配しているが、この点については僕も含めて、前評判は一様によくなかった。映画の公開後も拒絶反応は強いようだ。
最初の一声は僕も違和感を感じた。
「老け過ぎている」
だが、映画を見すすめていく間に気にならなくなった。むしろ、この声でよかったとすら思えた。
声については素朴であってほしかったのだと思う。
この映画に関して言えば、この主人公に限って言えば、「棒読みでよかった」と思える。

「貧乏な国が」「欧米より20年遅れている」
劇中ではそうした言葉がよく並んでいた。
ジブリは国内では最も環境の恵まれたアニメ製作会社であると思うが、恐らくピクサー・アニメーション・スタジオと比べれば、会社の規模も社員の福利厚生なども雲泥の差があるのだと思う。
完全な分業体制で高度のコンピューター技術を駆使して、世界的に受け入れられるアニメ映画を製作するピクサーと、やはり未だに宮崎の個人商店といってもいいジブリとでは、業界的にみれば大きな差があることだろう。
もはや手描きアニメは時代遅れと米国は考えているかもしれない。そこに、宮崎はコンピューター処理を自然の風景のごとく取り込みながら、人が描いたアニメの凄みを改めて示してみせた。逆にピクサーにはこんな映像は作れないだろうという意気込みすら感じた。

意気込みと言えば、劇場では「かぐや姫の物語」の予告編も映じられた。この秋に公開と聞いているが、ただ、かぐや姫が走っている、言葉で表せばそれだけの映像が、鬼気迫る感情を溢れさせていた。
監督の高畑勲も77歳だが、この映像には引き込まされた。
問題は、「アリエッティ」の項でも触れたが、この二人の古希を越えた世代の監督を超える人材が、ジブリから未だに出ないことだろう。
明らかに絵コンテの段階から、古希越えの二人と他の監督とでは差が歴然なのだ。
このままではジブリは二人がいなくなれば、ディズニーの下請けのような存在になっていくことだろう。人材を育てられるかどうかは、やはり宮崎の度量次第だと思うが、この点については今に到るも心許なく思う。

最後に、宮崎は誰に向けてこの映画を作ったのだろう。
宮崎は明らかに、観客がジブリに、宮崎に期待する要素を無視していた。
彼がこだわった描写、演出。人の在り方。これらを受け入れた観客は深く感動し、その興奮は映画を観た翌日になっても消えないほどである。
婚姻の場面を思い出すと、まだ涙が滲んできそうになる。
だが、「ラピュタ」や「千と千尋」のような活劇やお伽話を期待していただろう観客からは「駄作」「退屈」「老害/オワコン」「アニメ声優を無視して棒読み素人を配役かよ」という辛辣な批判が続出している。
煙のたなびきや光の奔流、人の立ち居振る舞いに魅力を見出せなければ、この映画からは何も感じられなくなるだろう。
この映画はそもそもある程度の年数を生きた者でなければ、共感も得られないと思う。人生で遭遇した経験にも左右されるかもしれない。「子供向け」を期待して劇場を訪れた親子連れには、親はともかく幼い子供にはさっぱりであろう。
宮崎は己の立場(国民的アニメ映画監督)を一切、無視して、自分が描きたいものを描いたのだろう。
これはジブリが宮崎の「個人商店」だからこそできることであり、ピクサーからは天地がひっくり返ってもこの映画と同じ空気感を持つ映画は出てこないだろう。
国民的アニメ映画監督などという、世間一般の期待なんぞ知ったことじゃねえ。
どんなに辛くても働くのが日本人だ。
どんなに仕事が忙しくても、どんなに身体が病気で辛くても、一番大事なところで心がつながっている夫婦はとても美しいんだ。
そして
大切なものを全て失っても、どんなに寂しくても、人は生き続けないといけないんだ。生きることこそが一番美しいんだ。
生きてほしい。
劇中、関東大震災の場面が描かれた。地震そのものが巨大な生き物であるかのように描写された。
震災を描いたことと、「生きねば」という言葉は、きっとつながっているのだと僕は思う。
現実の世界で病が主人公夫妻を永遠に分かつ場面は描かれていない。
「きれいな私だけをみてほしい」
宮崎もまた、主人公の妻の「わがまま」を大切にしたのだ。
妻は主人公の夢の中で、観客たちに、まだ美しさを保った姿で、別れを告げる。
彼女が差し出した「生きてください」という願いは、主人公とともに、観客にも与えられたものなのだ。

僕は、この映画が大好きだ。

寄り道しましたが、次回は「交響詩銀河鉄道999」です。


久石譲の劇判は、マンドリンやギター、アコーディオンを用いて、「紅の豚」にも通じる郷愁の念を誘うものだった。
久石もまた新たな音の色合いを見せており、音楽でも僕を虜にした。
映画館の帰途、さっそくCDを購入した。愛聴している。
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