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管理人からの報告 JASRACからの著作権違反の連絡について

平成28年8月1日FC2事務局から連絡が届いた。
当ブログの過去の記事4件について、JASRACから著作権違反の連絡が届いたため、凍結処置を行ったとのことであった。
加えて、異議申し立てを希望する場合の手続きや、その場合に想定される事態について記載があった。

なぜ、これらの記事「だけ」を違反としたのかに関する判断基準は示されていなかった。また、凍結された4件以外の記事についての判断も記されていない。
つまり、「この4件以外の記事は問題ないですよ」と明言しているわけではないので、事の成り行き次第では更に凍結処置が増える可能性があると判断した。

凍結された記事は以下の通り。
① 2010年10月15日 響け哀感の歌 宇宙の星よ永遠に・・・
② 2011年5月1日 愛してる‐そのひとことのために Genesis of Aquarion
③ 2013年4月5日 泣くな、はらちゃん 泣くな、メーテル
④ 2013年7月21日 二つの言の葉はゴダイゴの調べに乗って 「銀河鉄道999」
これらの記事については、既に歌詞の引用について訂正を行った上で、別の記事として登録しなおした。
併せてまだ違反を指摘されていない記事についても、再度、手直しし、登録しなおした。

このことについて、僕から異義は唱えない。ただし、記事が凍結されると、お寄せいただいたコメントまで閲覧できなくなるので、その点が申し訳なく思われた。ブログ内の文章中に再録させていただいた。

改めて確認すると、ブログで歌詞を引用したければ、「JASRACと利用許諾契約を締結しているUGCサービス」を利用した方がよいということを知った。
FC2ブログが契約してくれればよいのだが、現実的ではないだろう。
ブログを立ち上げた時点でヤフーブログやライブドアブログを選択していればよかったのだろうが、今さら嘆くつもりはない。
CHOU-FLEUR-DESIGNさんデザインのテンプレートに愛着もあるし、アニメ以外を題材にした記事は、その時々の僕の想いを伝えるものだ。このブログとともに過ごした年月は、僕の人生の中でもよいことも悲しいことも辛いこともあった。「ほなさいなら」と言って、たやすく引っ越したくもない。

とは言いながら、「アニメ音楽を紹介する」「アニメ音楽の記録を残す」という僕の第一の目的を達成するためには、FC2ブログで活動を続けるのは、歌詞の引用に関して、他の運営会社のブログよりも大幅に不利だと知ってしまった。
あと、2回ほど「海のトリトン」を取り上げる予定だが、その後は新たな場所で再出発するかどうか、しばらく思案することにしたい。仮にそうしたとしても、このブログとのつながりを残すようにしようと思う。

いつもコメントをくださるJoJoさん、温かい言葉、貴重なご意見をくださった方々、遅々として記事の更新が進みませんが、これからもがんばってまいります。よろしければ、気長にお楽しみください。

水平線の向こうには 「GO! GO! トリトン」の物語



歌詞タイム 「GO! GO! トリトン」
 (←まず歌詞を味わってください)

主題歌「GO! GO! トリトン」 作詞:林春生、作曲:鈴木宏昌、歌唱:ヒデ夕樹、杉並児童合唱団の布陣。
老いの入り口に立った今でも、古今東西、僕が一番大好きなアニメ主題歌だ。
作詞、作曲、歌唱の全てが、僕に「誰も見ない 未来の国を」垣間見せてくれる。
冒険の旅へと誘ってくれる。
「一人ぼっちでも」旅立てと檄を飛ばしてくれる。
だから、今も胸に染みる。

作詞の林春生は、昭和12年(1937年)島根県大田市。生家のある五十猛(いそたけ)は、少し足を伸ばせば日本海にたどり着く山間の町だ。グーグル地図を見れば、国道9号線を挟んで、海と山がすぐ近くに隣り合う環境とわかる。
五十猛
出典:グーグル地図より五十猛周辺
そんな五十猛に生まれた林は、物心つく前から日本海を見て育ったことだろう。
彼の原風景にはきっと、日本海の水平線が広がっていただろうと僕は勝手に思っている。
その水平線の向こうに、林は何を見て、何を思い、どのような感情を言葉にこめて、この輝かしい世界を構築したのだろう。
それは最早、誰にも知りえない。彼は57歳という若さで鬼籍に入った。もう、真意を聞くことはできない。

林春生はフジテレビの番組制作の統括者と、作詞家の二足のわらじをはく生活を続け、還暦を迎える前にこの世を去った。
夫の没後、奥様はマレーシアに移住し、海外生活者の支援活動などをしながら、ブログをしたためておられる。
そのブログによると、五十猛の彼の生家跡に、彼の業績を偲ぶ看板が立てられているという。
立てたのは林より9歳年長の兄上であった。自分よりもずっと若いのに、あまりに早くこの世を去った弟を偲んで立てたのだそうだ。
その兄上も、もうこの世にはいない。
国道9号線の「五十猛」から15分くらい奥に入ったところ。

にその看板はあるという。僕はグーグル地図の街路写真でそれらしい界隈を捜してみたが、みつけることができなかった。
もし、近くを訪れる機会があれば、ぜひ、探してみたい。
主人「林 春生(本名 林 良三)」の生家へ
私の主人は島根県大田市の静かな田園地帯で生まれています。
その後、家族は松江市へ出て行きます。
しかし、美しいけれど静か過ぎる古都「松江」では飽き足らず、都会に憧れていた主人は大学卒業後、フジテレビに入社。
とても堅くて厳しかった家からは「テレビ局なんてトンデモナイ!」と・・・数年間、勘当されてしまったそうです!
上記ブログより抜粋

『ザ・ヒットパレード』『新春かくし芸大会』『ミュージックフェア』
フジテレビ人気番組を統括するだけでも、林は相当に多忙だったはずだ。しかし、彼はそれにすら飽き足らなかったのか、作詞家としても活動した。
林は歌謡曲を多数、作詞したが、アニメにも詞を寄せている。
やたら勇ましい上に、「ハニワ幻人 全滅だ‼」とずいぶんと血の気の多い「鋼鉄ジーグ」
宇宙版「トリトン」を目指したようにも思われる「スターウルフ」
そして、「トリトン」と比べると、その世界観の落差の激しさと芸風の広さに脱帽させられる「サザエさん」
忘れえぬ歌を残して、林はこの世を去っていった。



彼の経歴を知った上で「トリトン」の歌詞を見つめると、そこに林の原風景が美しくも鮮やかに投影されているように思えてならない。
故郷の五十猛は、田園都市と言えば聞こえは良いが、片田舎だ(※1)。
平成の今ですら、うっそうと山が広がる土地である。同じ日本でありながら、大都市と比べると、耳に目にはいる情報も、激しい落差があると思う。
そう、今でもそうだと思う。
子供の頃から大都会で生活している人には、たぶん理解してもらえないもどかしさ、不自由さを、今でも地方の人は感じているだろう。
それが昭和の時代ともなれば、田舎と都会の落差は僕にすら想像を絶するものがあると、推し量らずにはいられないのだ。
もちろん、閉ざされた、昔ながらの世界で安らぎを覚える者もいる。
だがその一方で、遠い広い世界への飢えに苦しむ者もいる。
むしろ後者の方が多い。
彼らは外界から伝わってくる情報に激しく反応してしまう。
わずかな情報に過剰な想像を上乗せし、都会を遠く離れた己の境遇に怒りや屈辱、あるいはどうにもならない飢えを感じてしまう。
そして、林は飢えていたのだと思う。
血気盛んな頃の林は、もっと広い世界へ、華やかな世界へ、輝かしい世界へ行きたいと渇望したのではないか。旅=冒険に強い憧れを抱いたのではないか。
少年時代の林の瞳には、日本海の「水平線の向こう」に、自分だけの「夢の世界」が見えていたのではないか。

「GO! GO! トリトン」の詞は、一度、聞いただけで人の冒険心を激しく揺さぶる力が満ち満ちている。
林の秘められた思いが詞(ことば)にほとばしり、あふれ出している。
だからか。
この歌を聴くと、僕の魂がざわつく。
強い強い「憧憬」と「渇望」の想いが詞から溢れて、僕を揺さぶる。
「虹の橋」も「誰もみない未来の国」も、林自身が心の中で追い求めていたものだ。
それは東京を目指した彼の本音そのものだったかもしれない。
林自身の最も強い想いが歌詞に刻まれ、永遠の言霊を得た歌と思えてくる。

のどがひりつくような、憧れの世界への渇き。それは以下の言葉遣いに現わされている。
虹の橋が あるのだろう
何が呼ぶと いうのだろう
夢の世界が あるのだろう

のだ・ろう、という表現。
文法的には「のだ」は理由や状況を説明する表現だという。確定的な表現だ。
虹の橋があるのだ
夢の世界があるのだ
そう書けば、それはもう確信的な気持ちを伝えるものとなる。
だが、そこに「ろう」という未然形に変化するとどうなるか。
虹の橋は、夢の世界は、きっとあるはずなんだ。あるはずなんだけど、でも、僕は見たことがない、確かめたことがない。
「憧れの世界」への強い気持ちは決定的なのに、それは自分の手に届かないもどかしさ、渇きが、この「のだろう」という言葉に凝縮されている。
それは林が詞(ことば)に仕掛けた「憧れへの渇望」という爆弾なのだ。歌を聴いた時、耳にした時、その爆弾は人の魂の中で地雷のごとく炸裂し、その人の「憧れ」と「渇き」をガラガラと揺さぶるのだ。
いや、そんな読み解きだけでは、僕はまだ飽き足らない。
何が呼ぶというのだろう

この表現、この言霊。
これをどう国文法で説明したらいいのか、文法の素養のない僕にはわからない。
でも、やはり強烈に放たれているのは、「憧れ」への「渇望」なのだ。
はるかな波の向こうには
夢の世界があるのだろう
誰もみない 未来の国を
少年は 探し求める

広がる海の彼方から
不思議なうたが 聞こえるだろう
あしたの星 胸にしるして
遠く 旅立つ 一人

誰もみない未来の国とは何なのか
不思議なうたとはどんな歌なのか
あしたの星とは何を意味するのか

全てが僕の想像力と内に蠢く情動の核を激しく叩き起こそうとするのだ。

水平線の彼方にあるかもしれない理想郷。
沖縄のニライカナイ
那智勝浦の補陀落渡海
あるいは浦島伝説の竜宮城
林は自身の中に神話を築いていたのだろうか。
そして、彼の内なる神話への想いが、僕たちも染み渡るが故に、この歌詞に魂を揺さぶられるのかもしれない。
アニメ関連では佳作だった林だが、様々な縁(えにし)が絡み合った末、林春生は「トリトン」の歌詞を担当することになった。それは大袈裟ではなく、奇跡だったのかもしれない(※2)。

林が詞(ことば)に託した神話を、誰にでも覚えやすく、誰にでも伝わりやすくしたのが、鈴木宏昌の音楽だ。
やはり、鈴木も縁の力によって、この歌の作曲へと誘われた。
鈴木は昭和15年(1940年)東京都に生まれた。昭和一桁の青木望より一回り下の世代だ。
歯科医の家庭に生を受け、大野雄二や佐藤允彦らと同時期に慶応義塾大学に進学したという。
つまり、林とは対照的に都会っ子だったわけだ。それに加えて、裕福な恵まれた生活環境で過ごしたのだとわかる経歴だ。
そんな鈴木はどのような音楽環境で育ったのか。
親はどんな音楽を好んだか。影響はあったのか。
わからない。
この世代が思春期であった昭和30年代、若者に影響を受けた音楽と言えば、例えばエルヴィス・プレスリーだろう。米国の1950年代黄金期を代表するロック歌手だ。時代を変えたとも言える。
あるいはブルーノートを代表とするジャズ。1950年代はやはりブルーノートが歴史に残る名盤を多数、録音し、綺羅星のごとき名演奏家が活躍したジャズ黄金時代でもあった。僕の好きなビル・エヴァンスマイルス・デイビスの「カインド・オブ・ブルー」に参加した後、歴史に名高いエヴァンス・トリオの活動を開始したのも1959年である。
更に言えば、かのビートルズは昭和37年(1962年)の初お目見えなので、20代前半の鈴木も少なからずその音楽を耳にしたはずだ。
様々な音楽の流れが渦巻く中、鈴木は大学在籍中に頭角を現し、音楽家としての道を歩み始める。
彼が選んだのはジャズだった。




本来の鈴木の音楽は、全身全霊で駆け抜けていくような、エネルギーの塊のような音の奔流だった。
ジャズの手法を用いながら、ロックに勝るとも劣らぬ強烈な音の威力に圧倒される。しかし、ロックと根本的に異なっているのは、どんなに強い音圧の曲でも、そこからは荒々しさよりも洗練された感触が伝わってくる。
鈴木の音楽には豪快というより爽快という言葉がふさわしい。
コルゲン・バンドに続いて鈴木が立ち上げたThe Playersバンドの楽曲が、今年になってCDとなって再発売された。その中の「ワンダフル・ガイ」はThe Playersの面々が並んだ写真がジャケットに使われている。
彼らの服装が普通のお兄さん風なので、一見すると、かつてのフォークソングのようなのどやかな音楽を想像してしまうのだが、中に収められた音楽はキレッキレである。オープンカーで高速道路を突っ走るような感覚にとらわれる。
タワーレコード限定発売:The Players Blu-spec CD(※3)
林と鈴木とでは生まれ育った環境が180度、異なっている。
原風景に広がる「理想郷」もまた、恐らく全く違ったものだっただろう。
鈴木の心底に広がる「憧れの景色」がどんなだか、知る由もない。でも、それはきらびやかな照明が星々のごとく輝く、夜の摩天楼であったり、無数の人々が行き交う大都会の喧騒であるようにも感じられる。
本来、鈴木が表現したかった世界とは、都市生活を謳歌する人々が発する生命力や、都市そのものの魅力だったのかもしれない。また違う解釈があれば、是非ご教示願いたい。
だが、鈴木は「地方出身者」林の歌詞に対して真正面から取り組み、彼の憧れの感情を見事に支えて、冒険を主題とした最高の音楽を残した。

冒険の歌は、ホルンの力強い前奏で始まる。
レ レファラソー ソファミファミレー  ミミ ドミレー
海底火山の噴火とともに文字が吹き上げられる。それが整列して「海のトリトン」の題名となる。この冒頭だけでも未だに斬新だと思う。

第1節
レーレドレーレドレーレド レミファソ ミーミレド
水平線の     終わりには(アーアアー)
レーレドレーレドレーレド レミファソラ
虹の橋が         あるのだろう
第2節
ラーラーラードードドー ドーラソファ レーレレー
誰も見ない       未来の国   を
ラ#-ラ#ラ#-ソーソラ#レド#ララー
少年は       さがしもとめる
第3節
レーレドレーレドレーレド レミファソ ミーミレド
広がる海の        彼方から(アーアアー)
レーレドレーレドレーレド レミファソラ
何が呼ぶと        いうのだろう
第4節
ラーラーラードードドー ドーラソファ レーレレー
希望の星        胸にのこして
ラファソソラ#レド#ドレー
遠く  旅だつ   ひとり
第5節
レーレードラードー レーレード ラードー
ゴーゴートリトン  ゴーゴートリトン
レーレーレーレード  ラミレー
ゴーゴーゴーゴーゴー トリトン

採譜の拙さはご容赦を。赤文字は1音階上であることを示した。
歌いやすいのに力強い旋律だ。
第1、3節は低音界中心で中くらいの速さで音楽が進む。
林の描くトリトンの目の前に広がる世界の状況、「あるはずだが確証のない夢の世界」への思いが歌われる。それは決して約束された世界ではないから、低めの音階で歌われ、さりげない不安が刻まれている。
他方、第2、4節は高音階中心でゆっくりと歌われる。
ダーレーモ ミーナイー
キボーオーノ ホシー
と、語尾を伸ばし、聴く者の心を立ち止まらせて、トリトンを見つめさせる。
冒険に旅立つトリトンの勇姿を、その胸に刻み込む。
この静と動の音楽が交互に繰り返されることによって、溜めが生まれる。そして、第5節で一気に高らかに「ゴーゴートリトン」と歌い上げ、讃歌となる。
その勢いにのったトリトンが、「水平線の向こう」に突進していく躍動感とともに、歌もまた水平線の向こうへと消えていくのだ。

ここには冒険と試練に真っ向から立ち向かう、トリトンの英雄性が強く表現されている。
林が詞にこめた「憧憬」と「渇望」の情念を全て汲み上げている。
この鈴木の音楽だからこそ、林の情念が人々の心に広く届けられる力を獲得したと言ってもいい。
林の詞には、「憧れ」を強く歌いながら、その裏に「しかし、それは本当にあるのだろうか」という不安が隠されている。
そもそも人が何かに「憧れる」のは、それがまだ手に入っていないからだ。それは、「どうせ手に入らない」という弱気な感情と紙一重でもあるから、音に突進力がなければ気持ちは萎えてしまう。
「憧れたものは何としても手に入れる」と言いながら、(でも手に入れられるだろうか)という迷いも含んだ歌詞に、鈴木の音楽は「手に入れたいなら、前へ進め!」と檄を飛ばしたのだと、僕は感じる。

この歌の作曲にあたって、椙山由美は「マカロニウェスタン調」の音楽を鈴木に依頼したという。
マカロニ・ウェスタンは、1960年代から1970年代前半に作られたイタリア製西部劇を表す和製英語。大半のものはユーゴスラビア(当時)やスペインで撮影された。(ウィキペディアより)




マカロニ・ウェスタンの音楽と言えばエンニオ・モリコーネということになるのだろうが、僕はそうと指摘されるまでは、気がつかなかった。
と、いうか、「本当にそうなの?」と思うくらいだ。
やはりマカロニ・ウェスタンの影響を受けたという「必殺仕事人」の楽曲の場合なら、納得できる(※4)。
マカロニ・ウェスタンを同時代で楽しんでいなかったせいかもしれないが、「ゴーゴートリトン」を聴いて、マカロニ・ウェスタンを想像するということはなかった。
「これは鈴木宏昌の世界だ」としか感じられなかった。
確かにトランペットやホルン、ギターと、それらしい楽器が参加はしている。でも、だからマカロニ・ウェスタンとも言えまい。
たぶん、鈴木は某かの技法は引用したのだと思う。だが、それは普通に聴いただけではわからない使い方だったのだと思う。
例えば「印象派風の絵を描いてよ」と誰かが頼んだとして、画家が持ってきた絵はどうも違う。尋ねてみれば、「使ってますよ、印象派の画法をけっこうね」と答える。
鈴木は作曲も編曲も自在にこなした人物だった。彼の手にかかれば、クラシック界の革命児ドビュッシーの音楽でさえ、装いが変わる。
鈴木には自分の音楽という骨格が既にできていて、そこに色づけとしてマカロニ・ウェスタン音楽の技巧を取り入れたのだと思う。一番、わかりやすいのはギターの振る舞いだろう。その音色は流浪を強く連想させ、主人公が放浪者であることが多かったマカロニ・ウェスタンを連想させると言えば、そうだろう。

編曲者としても広く活躍した、鈴木の音の色付けは颯爽としている。
ホルン、トランペット、ギター、バイオリン、ドラムがそれぞれの役割をピシッと務めていて、音楽が引き締まっている。詞と音が連動し、相乗作用で魅力が倍増している。
前奏のホルンとトランペットが奏でるワクワク感は半端ない。
通奏低音のように流れるギターの音(ね)は、トリトンのさすらいの情念を表しているかのようだ。
要所々々でバイオリンが奏でる早い動きの旋律は、音階を駆け上がり、冒険への期待感を強めていく。その効果は抜群だ。
ドラムがまた素晴らしい。今まであまり意識していなかったが、先にも触れた
ダーレーモ ミーナイー
キボーオーノ ホシー
の節のところで、ヒデ夕樹の歌声の背景で、ドラムが「ダ・レ・モ」「キ・ボ・オ」の一語ずつに併せて叩かれ、その音がヒデ夕樹の声をより印象づけている。
ドラムは「ゴーゴートリトン!」が連呼される第5節では全開の活躍をみせて、歌の情景を鮮やかに活性化させる。
歌の最後、トリトンが水平線の向こうへ消えていく場面、ギター、トランペット、ドラムが混然一体となる。流浪も希望もないまぜとなった音は、一気にエネルギーを開放させて、パシッと鮮やかに締めくくられる。
何度聴いても、飽きることのない音だ。

この歌詞、音楽を聴いて、富野も張り切った。
鈴木芳男と黒川慶二郎、それにトリトンの実質的オーナーとなった西崎氏の基本方針にのっとって、羽根キャラクターが認められ、その基本方針はトリトンの音楽にも現れて、ハッタリズムに徹したオープニング・ソングとジャズっぽいBGMになった。(中略)オープニング曲を聞かされたときには、あきれながらも面白いと思った。こちらもどうせハッタリなら、とえらくのってオープニングの画面を創った記憶がある。

出典:富野由悠季「だから僕は・・・」 267頁より抜粋 角川スニーカー文庫 平成14年刊
この映像はYou Tubeでも視聴可能だ。
とにかく素晴らしい。
林の描いた「水平線の向こう」を、富野もまた自分の解釈で映像化した。
先にも述べたが、火山の噴火から噴き上げられた文字が「海のトリトン」の題字になる発想はいまだに斬新だ。
それからの富野の演出は冴えわたる。
いきなりトリトンをアップで登場させるのではなく、広角で広々とした海を映し出し、ぽつんと小さく、ルカーに乗って波間を飛び越えていくトリトンの姿を遠景で映し出す。
転びそうになりながら体勢を整えようとするトリトン。
物語の舞台が広い広い海であること、主人公はイルカ以外に味方のいない一人ぼっちの少年、しかもまだ戦士として成熟していないあどけなさが残る存在であることを、たったの数秒で描いて見せた。
場面はすぐに海中に移る。トリトンの体が浮力でふわりと舞い上がる。
その絶妙さ。作画は恐らく羽根章悦だろうが、その海中での浮遊感の描写が素晴らしい。
そして、光に向かって進むトリトン!
大きく映し出される、光を見つめる颯爽としたトリトン!
ここに描き出される光の描写から受けるわくわく感は今もって最高だ。
場面は一気に空を飛ぶかもめたちの視点に移り、そして崖の上にたたずむトリトンへと移動する。
崖から海へと舞い降りるトリトン。
ここの動きも素晴らしい。
海中でポセイドンの怪獣に襲われる場面が続いた後、残像を残しながらオリハルコンの短剣を抜く場面のかっこよさ。
そして、最後の場面。
月下の海原をルカーの背中に乗って、水平線の向こうを目指すトリトンの後姿。
その背中は既に遠い。
波をけって舞い上がるルカー。ギターがかき鳴らされ、いざ、という時に再度、舞い上がるルカーとトリトン
その瞬間、音楽も時もとまり、見栄を切った様で映像は終わる。
最高だ。

林の歌詞、鈴木の音楽、そして富野と羽根による素晴らしい映像(※5)、それら全てを糧にして輝くのがヒデ夕樹の歌声だ。
ヒデ夕樹は70年代、佐々木功や水木一郎と並び称された人だった。ここに子門真人も加わると、当時の男性歌手によるアニメソングのほとんどが網羅される。
ただし、ヒデ夕樹が残した歌は少ない。
ベスト盤が1枚あるが、この1枚で彼の歌のほとんどが収録できるほどだ。

ところが、残した歌があまりに素晴らしく、強く記憶に残るものばかりだった。僕たちの世代にとって、その歌声は忘れえぬものなのだ。
夢の舟乗り (『キャプテンフューチャー』 (1978))
風よ光よ (『怪傑ライオン丸』 (1972))
ゴーゴー・キカイダー (『人造人間キカイダー』 (1972))
フラッシュ!イナズマン (『イナズマンF』 (1974))
鉄人タイガーセブン (『鉄人タイガーセブン』 (1974))
青春の旅立ち (『スターウルフ』 (1978))
この木なんの木 (日立グループCMソング 「日立の樹」)
敢えて僕個人の好みで選んだ。
それぞれ個性的な歌が並んでいるが、何と言っても、特撮史上に名高い「ライオン丸」と「キカイダー」の主題歌を歌ったことが大きかった。いずれも主人公が好敵手(ライバル)との激闘の末、彼らを乗り越えて、より強い敵を打ち倒すという物語であり、昭和40年代の日本特撮番組の金字塔として、双璧を成していた。

いずれ、改めて彼の業績を振り返りたいのだが、今、ここで一つ訴えておきたいことがある。

「夢の船乗り」はヒデ夕樹の「持ち歌」だ。

この歌は「GO! GO! トリトン」と並んで、僕の大好きな歌だ。
NHKが「未来少年コナン」に続いて製作したTVアニメ番組「キャプテン・フューチャー」の主題歌だ。作詞:山川啓介、作曲・編曲:大野雄二、歌唱:ヒデ夕樹という、これ以上はないという最強の布陣だ。
最高だ。
永遠の名曲だ。
ところが、だ。
作曲の大野雄二は、本当はゴダイゴのタケカワユキヒデに歌わせたかったという。
後日、ヒデ夕樹は大麻所持により逮捕され、これを機にタケカワの歌唱に差し替えられるという事態となってしまった。今でも、もしかするとタケカワ版が正規であるかのように扱われているかもしれない。
だが、僕にすれば、そんなこたあ、知ったこっちゃない。
作曲者が何と言っても、これはヒデ夕樹の「持ち歌」だ。
彼の歌声は素晴らしかった。タケカワに変えられた時は、心底、がっかりした。
それだけは言っておく。

ヒデ夕樹の歌声は、透明感があるのに芯が通っていて、声の輪郭がしっかりしている。
でも、柔らかくもある。
それが彼自身が望んだ歌唱法かどうかはわからない。アニメソング用の発声法、歌唱法だったかもしれないし、もっと渋い歌い方をしたかったのかもしれない。
いやいや、ヒデ夕樹は僕が思うような、「歌を選ぶ」ような人ではなく、「どんな歌でも、それに合わせて歌いこなせる」高い技術の歌い手だったかもしれない。
とにかく、彼の澄んだ、どこか優しい歌声で、憧れへの果てしない想いを謳われたからこそ、僕は今もトリトンを聴く。トリトンを歌う。
少し気障だけど、きれいな発声で詞の持つ言霊を僕の心に注いでくれたからこそ、僕は今も「夢の船乗り」を口ずさむんだ。
大麻に手を染めたが故に、彼は表舞台から姿を消し、その後は浮上することなく、ひっそりと世を旅立っていった。

アニメージュの創刊号に、様々な関係者が小ポスターに寄せ書きをしていたのを覚えている。実物は遥か昔に処分してしまった。
ポスターの中には堀江美都子もいたし、作画家も、演出家も、声優も寄せていたと思う。
その中でヒデ夕樹がマイクを持った姿の写真が掲げられていたことを鮮明に覚えている。

佐々木や水木に比べれば地味だったかもしれない。
持ち歌も少なかったのも確かだ。
でも、僕にとって最高のアニメ歌手をあげろと言われたら、ヒデ夕樹なのだ。
もう一度、歌おう。「GO! GO! トリトン」を。

歌詞タイム 「GO! GO! トリトン」
 (←今度は歌ってみませんか)

颯爽と「水平線の 終わりには虹の橋が あるのだろう」と歌った後、
朗々と「誰も見ない 未来の国を 少年は さがしもとめる」と歌い上げるヒデ夕樹の声に、僕は子供の頃から、今に到るまで、そう、もう40年以上、魅了されている。
僕はいずれ、「イデオンⅠ」「発動篇」「交響詩銀河鉄道999」「交響詩宇宙海賊キャプテンハーロック」とともに、ヒデ夕樹の歌声も、彼岸の彼方へ連れて行くことだろう。

もし、あなたがまだ「GO! GO! トリトン」を聴いたことがないのなら、一度は聴いてみるとよい。どのような感想を持つかはあなた次第だが、もしかすると、あなたの中の「憧れ」が強く強く刺激されるかもしれない。

この歌は朽ちることはない。永遠に。

※1)現在、彼の地にお住いの方々への非礼を承知で書いている。地方と都市部の格差へのもどかしさを表現したいがためである。そして、格差を不自由とも思わず、この地を愛している方々もおられることも理解しながら。
五十猛を含む大田市と、大阪都心部のグーグル地図を同じ縮尺で対比させてみた。
大田市と大阪都心部
※2)再録音盤「トリトン」CDの解説書によれば、関西での仕事が肌に合わなかった鈴木が蛙プロダクションを設立し、そこに椙山由美(すぎやまこういちの妹君)が契約製作者として関わるようになった。CMの音楽制作を主にこなしていたが、「海のトリトン」の制作会社「スタッフ・ルーム」ともCMの仕事でつながりがあった。その社長である鈴木芳男からの依頼で、トリトンの楽曲を担当することになったという。
解説書によると
「結果的にこの作品には、椙山さんゆかりの方が複数関わられた形ですね。すぎやまこういちさんは椙山さんのお兄さんですし、林春夫さんは妹さんのご主人ですから。」

→と、いうことは林の奥様(林日南子さん)は椙山家の末娘になるのだろうか。林さんの略歴にはそれらしい記載はないが。
でも、余分な詮索はこれくらいにしておこう。
因みに椙山由美さんは今は東京品川で「ダ・カーポ」というたい焼き販売兼中古CD/LP/輸入雑貨のお店を開いているとか。品川なら今度、行ってみよう。
中古CD/LP/輸入雑貨/たい焼きのダ・カーポ(ダカーポ)
※3)タワーレコード限定なので、アマゾンでも売っていない。興味があるなら、早く購入されること。こういうCDは短期間で入手困難にrなる。恐らく2017年にもなれば入手は危うい。
※4)しかし、「必殺」にしても、一連のかつての巨大ロボット物にしても、その演出、音楽の使い方も含めて、歌舞伎の「見栄を切る」という発想が刷り込まれているように僕に感じられるのだ。
※5)多分、作画家は羽田と思うのだが、それを確認できる資料がない。

かわいいトリトン 孤独なトリトン

「ヨシユキは、難しいことをいうけれど、そうじゃないのよ。トリトンの人気はね、トリトンが可愛いからよ。それだけ・・・」

富野善幸(当時)の妻、亜阿子さんの言葉である。彼の自伝「だから僕は・・・」より引用した。

「海のトリトン」本編は昭和47年、朝日放送系列で放送された。
当初は主題歌映像が間に合わず、海中を遊泳する魚群の映像が流されていた。
主題歌も、当初は別の歌が使用されていた。僕も観た記憶がある。
世間的な人気は出なかったという。だからか、半年(全27話)で放送を終了している。
「打ち切りの富野」の伝説は既にここから始まったというわけだ。

もっとも、実際に打ち切りにあったり、監督(演出)を降板させられたのは、
「勇者ライディーン」(昭和50年 長浜忠夫に交代)
「機動戦士ガンダム」(昭和54年 打ち切り)
「伝説巨神イデオン」(昭和55年 打ち切り)
の3作品である。「トリトン」を打ち切りといっていいのかはわからない。
しかし、広い意味での「打ち切り」なると、
劇場版(F91)だけが公開され、TV版が没になった「クロスボーン・ガンダム」(平成3年)
あとはこれを最後に更迭された「Vガンダム」(平成5年)
がある。けっこう多いな。

しかし、「トリトン」はいわゆるマニア層(熱狂的な愛好家)を産み出した。
実際を詳しく語れる、具体的な資料はないが、僕の記憶を紐解いてみる。
「宇宙戦艦ヤマト」による第一次アニメ人気の時(昭和53年頃)、「トリトン」の放送から6年程度が経過していた。当時はアニメ雑誌にも同人誌(ファンジン)を紹介する頁があって、「トリトン」関連の同人誌もよく見かけたように思う。
以前の記事でも紹介したように、「過去の名作」として、ロマンアルバムなどでも取り上げられていた。
主な支持層は女性陣だったという。実際のところはわからないが、そう伝え聞いている。
そして、改めてこの作品を観ると、実際そうであったのだろうと納得できるのだ。

第一話「海が呼ぶ少年」で登場したトリトンは、孤独そのものだった。
トリトンは海辺の洞穴に置き去りにされた赤ん坊だった。それを漁師の一平がみつけ、育てる決意をする。
しかし、「海人が捨てた忌まわしい子供」「緑の髪の悪魔の子供」と、邪悪な存在と見なされた。
成長し、13歳になったトリトンだが、一平以外の村人からは忌まわしがられ、虐げられ、孤独であった。
その孤独な少年のもとに白いイルカ(ルカー)が現れ、「あなたはトリトン族の生き残りなのです」と語りかけてくる。
異質な存在による、異世界への、旅立ちへの誘い。
英雄譚の基本構造である。
一平が隠していたトリトン族の衣装と、そしてオリハルコンの剣。
鞘から抜かれたオリハルコンは、神秘的な輝きを放ち、トリトンに、もはや普通の生活を送ること叶わぬと、言外に伝えるのだった。
トリトンの存在を察知したポセイドン族は怪獣を刺客として放ち、トリトンが住む村に災厄をもたらした。
もう、ここには住めない。トリトンはルカーと協力して、怪獣を倒す。崩れ落ちる岬の巨大な岩に、怪獣は押しつぶされて死ぬ。
白いイルカにまたがり、水平線へと去りゆくトリトンを、一平が呼び戻そうとする。何度もトリトンの名前を叫ぶ。
ただ一人、愛情を尽くしてくれた人の涙ながらの声を振り切って、トリトンは旅立つことを決意する。
しかし、涙があふれてくるのをこらえきれない。
「ごめんよ、じっちゃん。ごめんよ」
ルカーの背びれにしがみつき、滔々と涙を流す、13歳の緑色の髪の少年。

今、こうしてみてみると、当時、トリトンに心を鷲づかみにされた女子たちがいたのも肯ける。
かわいそうだよね。
健気だよね。
かわいいよね。
僕でもそう思う。
富野はトリトン族とポセイドン族の抗争劇を、メルヘンタッチに描くことを目指しつつ、両者の対立そのものについて、「いずれが善であり、いずれが悪である」と単純に断定できるのか、という問いかけを仕掛けていった。
でも、妻の言うがごとく、「トリトンの人気は、トリトンが可愛かったから」という指摘もまた、図星なのである。

「海のトリトン」以前に、女子たちの寵愛の対象となりうる作品として、「レインボー戦隊ロビン」があった。
「海のトリトン」よりも6年前、昭和41年に放送された単色作品だ。極初期の作品だから、僕ですら、「懐かしアニメ」を取り上げる番組で紹介された映像しか知らない。


原作と製作には「サイボーグ009」を既に発表し、東映動画とも提携を成功させていた石ノ森章太郎も関わっていた。彼を含むトキワ荘の漫画家たちが、アニメを作るために立ち上げたスタジオ・ゼロの作品である。
この作品もそれなりに人気があって、第一次アニメ人気の時にもよく回顧されていた。
同人誌の紹介も時々見かけたし、ロマンアルバも発売された。

トリトンと同様に女性人気が高かった。
そして、「ロビン」もまた、意図的かどうかわからないが、女性人気が高まりそうな仕掛けが多数、施されていた。
ロビンの両親は、彼が幼い頃に、敵陣の捕虜となっていた。
だから、ロビンは子供の頃から母親似のアンドロイドに育てられていた。アンドロイドはリリと言う名前で、看護師の役目も果たしていた。
リリのような存在を必要とする少年主人公。
その設定自体が、女性心をくすぐったのではないか?
リリには母親—看護師に加えて、あるいは伴侶の役割すらあったかもしれない。
女性が好きな男子を完全に独占できる属性を、リリは全て兼ね備えていたのだ。
自分をリリに見立てれば、ロビンを独占できる。
「一人ぼっちのロビン」を、自分だけが慈しむことができる。

ロビンにはレインボー戦隊と言うアンドロイドの仲間がつき従っていた。物語上、人間以上に人間らしい人工知能を持っている。
レインボー戦隊はロビンにとって、擬似家族である。
だが、人間が彼一人と言うのは、やはりどこかしら孤独を感じさせるのだ。

そして、ロビンには、必殺技であるミラクルノヴァと言う武器を使うと、寿命が3年縮まると言う設定もなされていた。
自分の命を削ってまで地球を守る少年
両親を敵陣に囚われた孤独な少年
この人物設定は、昭和40年代前半の女子たちの、心の琴線に触れたようだった。
ロビンの人物造形も、なんとなく少年と言うよりは少女に近い印象であり、宝塚歌劇を思わせる。

僕は本編は見たことがないが、主題歌は何度も耳にした。
「レインボー戦隊ロビン」作詞:飯島敬、作曲:服部公一、歌:レインボーハーモニーの布陣である。
ネットで検索できる歌詞と、実際の歌詞が異なるようなので、TV放送版を引用する。

第1節
エネルギー噴射 スピードを上げろ
大空に虹をかけ 行くぞわれらの レインボー戦隊
地球を守る

第2節
正義の瞳 ロビン たくましい心 ロビン
地球を愛するロビン レインボー戦隊ロビン

第3節
エネルギー噴射 レイガン用意
押し寄せる敵の軍 やるぞ我らのレインボー戦隊
平和を守る
ロビン


僕はこの主題歌からも、飯島と服部の巧妙な仕掛けを感じる。
第1節と第3節は合唱曲になっている。男性合唱で力強い。
しかし、第2節は女性の独唱になっている。
歌唱はレインボーハーモニーとしか記録されていないが、おそらく主人公のロビンを演じた里見京子が歌っているのではないか。
男性合唱の後に里美の女性の独唱が続くと、どことなくロビンの儚げで健気な様が強調されるような気持ちになる。
それだけではない。第1節と第3節の男性合唱では、音階が上がっていく、開放的な旋律だ。他方、第2節は音階が下がっていく、内省的な旋律であり、それ故にロビンの本当の気持ち(寂しさ)を表しているようにも思われる。

当時、「異能なる超常者」が地球の平和を守るという設定が乱立し、大同小異の物語が列をなした当時のアニメ作品の中で、「レインボー戦隊ロビン」は、比較的息の長い支持を得たと言えよう。
それは一重に、女子の慈愛を惹きつける仕掛けがかくの如く、散りばめられていたからだと、僕は思う。(※1)

さて、「海のトリトン」にいたっては、「ロビン」を上回る仕掛けが、盛り込まれていった。
最も際立つのは、その緑の髪の色だ。
色彩によって主人公を引き立たせることができる時代になっていた。
今時は、緑どころか、髪の色くらいで他作品と差別化できるような時代ではなくなったかもしれない。
だが、「トリトン」は、劇中でも髪の色の異常性を強調して、主人公と「普通の人」との「断絶」を観る者に突きつけていた。

人物造形は羽根章悦。「トリトン」とちょうど同時期に、大人気となった「マジンガーZ」の人物造形も担当している。
トリトンの造形は、羽根としても異例だったのではないだろうか。
というのも、彼の人物造形は、荒々しさを抑えた、洗練された描線によって生みだされているが、本来的に写実性を重んじたものなのである。それがどこに現れているかというと、目の大きさである。
「マジンガーZ」にしても「宇宙空母ブルーノア」にしても、目の大きさは写実性優先だ。
だが、トリトンはというと、少女漫画のような大きな目と瞳を与えられている。劇中で同じ目の大きさをしているのは、ピピだけなのだ。他の登場人物は、子供いえど、トリトンほど目立った目の大きさではない。
トリトンには「少女のような大きな目」が与えられた。
羽根造形三態
出典
講談社「鉄(くろがね)の城 マジンガーZ解体新書 赤星政尚著 1998年
コロンビア ドラマ編LPレコード「海のトリトン」(CS-7044)解説書より 1978年
コロンビア オリジナル・サウンドトラックLP盤「TVサウンドトラック 宇宙空母・ブルーノア」(CBS 25AH 918)解説書より 1979年


後日、「トリトン」が小説化され時、羽根は普通の大きさの目を、改めてトリトンに与えている。ピピも含めて大人びた様子をしていた。13歳というより、10代後半から20歳前後の印象だ。
なぜ、造形を変えたのか? コバルトシリーズの読者の年齢層を意識したのだろうか。
集英社文庫「海のトリトン」
出典:集英社文庫 コバルトシリーズ「海のトリトン」 若桜木 虔著(原作 手塚治虫) 画 羽根章悦

そして、今もって奇跡的と言えるのが、声優との巡り合わせである。
少年役を女性が演じることがほとんどだった時代に、役柄そのままに14歳の少年である塩屋翼がトリトンを演じたのだ。
演技力が問われるからだろうが、子役は女性が演じることが多い。
それだけではない。
現実の少年たちは「声変わり」をする。そうなると、役の印象が全く変わってしまう。
だから、少年を少年が演じることは、一種の禁忌なのかもしれない。
今でも状況は変わらないのではないか?
ところが、昭和47年の時代、塩屋がそれを破った。
塩屋の声による、少年の生々しい怒り、嘆き、喜びの感情が、観る者の耳をくすぐったのだ。
その生々しさもまた、女子たちの慈愛の対象となっただろう。
現実のがさつで、粗暴で、威張り散らす男子と異なり、永遠に声変わりをしない、永遠に繊細な少年としてのトリトンを、女子たちはジャニーズのアイドルたちを見るように、見つめていたのかもしれない。

少年役を女性が演じるという不文律を破って、塩屋が配役された事情は、以下のブログで推測されている。音響監督による抜擢だったのかもしれないと。
西崎義展が直接、関わったわけではないようだ。
『スキップ気分』 塩屋 翼さん

塩屋は更に同時期、「科学忍者隊ガッチャマン」のつばくろの甚平役もこなすことになる。この役を「ガッチャマン3部作」を通じて演じたのち、彼は「イデオン」でユウキ・コスモを演じ、可愛いのでもない、勇ましいのでもない、決して格好いいのでもない、独特の生々しい存在感を持つ少年像を演じきった。その演技の素晴らしさを言葉で語るのは難しい。
そのような役者との巡り合わせも、トリトンの魅力の一つなのだ。(※2)

やがて、遅れていた主題歌映像が完成する。
ハッタリ十分の曲を聴いて、富野は奮起してコンテを切ったという。
そこに描かれたトリトンは、「元気で可愛くて、そして儚げな」少年そのものだった。
ルカーの上で危なっかしく姿勢を崩すトリトン。
まるで幼な子が歩き出すのを見守るような気分にさせられる。
海の中を駆け巡り、燦然と輝く光を目指すトリトン。
颯爽と崖から舞い降りるトリトン。
愛しい我が子が、冒険へと旅立つのを見送る気分にさせられる。

ルカーの存在は、さりげなくトリトンの幼さを際立たせていた。
ルカーは事あるごとに、トリトンに民族再建を謳いながらも、口やかましく、あれをしてはいけない、これをしてはいけないとお説教をする。
そして、トリトンの危機にはオロオロしながら、何とかトリトンを守ろうとする。
トリトンにはオリハルコンの剣があり、これが「父親」の隠喩であるなら、ルカーは母親そのものだった。
ただし、盲目的であるだけでなく、必ずしも賢明ではなかったが。
そんなルカーに乗ったトリトンは、実は彼女にしがみつくようにしている構図も多かった。特に第1話ではそうだった。
その様は、母親にしがみつく乳幼児そのままなのだ。
口では生意気を言うくせに、困った時には「お母さ~ん」と泣きついてくる、男の子の隠喩にも思われ、そうしたトリトンの「ツンデレ」ぶりも、女子人気を高めたと思う。

だが、やはりトリトンもまた、ロビンと同様に孤独で、重過ぎる運命を背負わされていたことが、女子の母性を刺激したのだろう。

一平を除く人間に疎まれ、声だけの両親には愛情よりも先に民族再建を命ぜられ、周りは姦しいイルカだらけ。化物どもに「マジ、殺す‼」と狙われ、挙句の果てにはクソ生意気でワガママな人魚がたった一人の身内かつ、女性かつ、未来の嫁さん・・・かもしれないというのだ。
ドラエモン出現前の、ジャイ子と結婚する未来が待っていたのび太を遥かに上回る不幸ぶりである。

大海原を舞台に、たった一人、少年が、さすらい彷徨い、人らしいと見えても姿は人魚で、しかもかんしゃく持ちの娘を連れて、生きるか死ぬかの戦いの海路を進む物語である。
五十路を迎えた僕でも、「うん、お前、辛いな」と感じさせられる。

確かにトリトンは可愛かった。亜阿子さんの言う通りだ。
だが、いっときの人気で終わらず、今もこの少年の人生が
忘れられないのは、富野が課した、悲痛な彼の運命があるからだ。
可愛いだけでは、永遠の思い出にはなりえない。

水平線の向こうには 夢の世界があるのだろう

僕たちは、トリトンが「夢の世界」にたどり着くことを願った。
だが、実際はどうだったか。
物語が語った以上に、残酷な結末を彼が迎えたのかもしれないという認識を、僕は伝える覚悟である。
その前に、次回は永遠の冒険歌「GO!GO! トリトン」に刻まれた物語を伝えたい。

※1)BS夜話で「ロビン」との対比も語られたとか
アクエリアス BSアニメ夜話 海のトリトン/BLEACH208話
BS夜話の紹介記事
TOMINOSUKI / 富野愛好病  アニメ夜話『海のトリトン』の紹
「ロビン」関連のお話↓
WEBアニメスタイル 「編集長のコラム」 小黒祐一郎 第22回「芹川脚本の『レインボー戦隊 ロビン』」
猿を呼べ レインボー戦隊ロビンの想い出
※2)塩谷翼関連の記事をいくつか紹介しておく
超×2伝説のプログ アべまTVの塩谷翼
TONOSANの日常 海のトリトン 塩屋翼君その2 アイアンキング24話

寄り道 いちばん小さな声、そして子宮頸癌ワクチン

今回はアニメのお話はありません。



かつて、足利事件の犯人として告訴され、死刑判決を突き付けられた方が、冤罪として釈放されたことが報道されていた。
その報道を見て聞いて、当時の僕が真っ先に思ったことは、「では真犯人はどこにいるんだ?」というものだった。
冤罪は無実の人の人生を破壊するだけではない、処刑されるべき真犯人を放免するという愚劣な結果をもたらす。
そう思いながらTVを見ていた。

ぶらりと本屋をうろついていると、「殺人犯はそこにいる」という単行本が目についた。「北関東連続幼女殺害事件」という記載がある。買うか買うまいか、気にはなっていたが、読んでいない本がたまっているので、いつも後回しにしてしまった。
その本が文庫本になって平積みにされていたので、とうとう買うことにした。
そして、先の報道で僕が感じた、正にそのことを伝える本だったのだと知った。
真犯人を追い詰め、あぶりだしたいという著者の執念がみのって、足利事件の冤罪を明らかにする経緯が語られている。
公権力がよってたかって、無実の人間を強引に犯人にしたてあげていく。
著者である清水潔は、20年も経った時点ですら検証すべき矛盾点をつきつけていく。
だが、権力(警察)の側は頑なに矛盾を認めようとしない。
だが、最終的には再診が始まり、冤罪であるとの判決が下される。
しかし、当時、冤罪に追いやった側は一切、反省の弁を述べない。

だが、これで終わりではない。清水が冤罪を勝ち取ろうとした動機は、「真犯人」をあげるためなのだ。無残に殺され、あるいは今も行方の知れない少女たちの人生を奪った輩をのうのうと生きさせている、この状況を覆そうというのが真の目的なのだ。
ところが、恐ろしいことに、この期に及んでも、著者から真犯人の情報を突き付けられても、公権力はこれを無視する。
事情がある。当時、足利事件でもDNA鑑定が有罪の決め手になった。しかし、著書内で検証されているように、実は非常に拙劣な程度でしかなかったという。
それを認めたら、別の事件の判決にも影響が生じる。
九州で発生したその事件では、犯人と確定された人物が既に死刑に処せられてしまっている。
その人も冤罪を訴えていたのだ。
だから、これだけの本が出ても、公権力は無視を続ける。
人の人生より、組織の面子の方が大切なのだ。
公権力、大組織の前では個人の人生など糞や滓も同然という現状認識が、生々しいほど伝わってくる。
僕は死刑制度には賛成である。だが、それは真犯人に対してのみ執行されるべきものだ。

最近でもまだ行方不明の女児(誘拐当時)のご両親が群馬県警と会見するニュースが流れていたが、「幼児をパチンコに連れて行った親が悪い」という発言が非常に多かったので悲しくなった。
一番、非難されるべきは犯人なのに、犯人に対する怒りの声がネットでは少ないのはどういうことなのだろう。


毎年、この時期には子宮頸癌ワクチンの副作用問題について触れることにしている。
この1年間はというと、いよいよワクチン推進派が反対派を異常者扱いしようとする動きが活発化している。
ワクチンを巡って、「副作用として認めるのかどうか」という問題と、「ワクチンそのものに反対するかどうか」という問題が混然一体となってしまったため、より対立が深刻化してしまっている。
これらは本来、別個に扱うべき課題だったのに。
だが、そもそもは医師、行政、製薬会社が、「副作用など認めない」と頑なな態度を取った結果がこれだ。まともにこの問題を扱おうとしなかったその態度が、ワクチンそのものを否定する動きにつながった。
しかし、推進派はそんなことは認めない。彼らは被害者を嘘つきよばわりするか、ワクチンと関係のない病気であることを認めない偏執的な人間と決めつけようとしている。
娘を救いたい一心の親心を、踏みにじり続けている。
「このワクチンはおかしい、副作用を認めて欲しい」と真っ当な意見を出せば、「欧米では問題になっていない」「統計学的にワクチンが原因とは考えられない」と切り返す。
いずれも間接的な検証に過ぎない。
患者をみていない。
数字だけで切り捨てようとしている。
それが「医学」というものらしい。
都合のいい時は「日本の医療の方が優れている」と言いながら、こういう時は欧米だのWHOだのを錦の御旗に利用する。

わけがわからないから精神科へ行けといって、邪険に扱われる。
そんな態度を取られたら、普通の生活を送ってきた普通の人々であっても、戦わざるをえないではないか。
その人々をつかまえて、最近は村中璃子と名乗る、医師免許を持っているという文筆家が、WEDGE infinityというWeb雑誌を舞台に、被害者側を非難する記事を次々と発表している。副作用を解明しようとしている医師についても、批判的な内容になっている。
あまつさえ、副作用に苦しむ少女に強引に取材をしようとして怯えさせる始末だ。
もはや「あんた、医師免もってるんでしょ? 医者としてどうなの?」と言わざるをえない。
以前にも、僕は「本来なら、副作用が出やすい体質を検証して、危険のある人をワクチンの対象から外せばよい」と記した。だが、その検証すら行おうとしない。
果たして医師たちは、副作用の症状や議論を真剣に議論したのだろうか?
患者一人一人の状況を、学会などの場で公平な議論や検証をしたことがあるのだろうか?
していないと思う。反対派の医師を袋叩きにすることだけはしているようだが。

ヤフーの知恵袋でワクチンに反対する人物と、ワクチンを推進する医師が対立する場面があった。
反対する側も、僕でもどうかと思う発言を繰り返していたが、対する医師も延々と噛み合わない議論を続けようとしていた。
普通の判断力があれば、「これは議論にもならないし、喧嘩しても意味がない」と引き下がるところだ。だが、その医師は決して「議論」をやめようとしなかった。
医師国家試験を合格して、その後もたゆまず勉強しているだろうことは、その発言内容からもわかる。
だが、その医師は噛み合わない議論を決してやめようとしない。
相手がまいったをするまでは、絶対に自分からは退きたくない、「負けたくない」という性格が無意識に滲み出ていた。
こういう人物は面子を潰されることを決して認めないだろう。
僕はそう思った。
決して議論をやめようとしないその医師に、僕は怖いものを感じた。
他の医師の発言の中にも、その乱暴な物言いはどうなの?という発言がいくつもみられた。

この問題は裁判に発展した。
ただし、薬害エイズ裁判などの事例とは異なり、海外からの援護射撃はない。むしろ、世界が敵に回る戦いである。勝機は非常に乏しいと言わざるをえない。
それでも裁判に訴えざるをえない事情がある。
かつての少女たちも、時の流れとともに成人を次々と迎えていく。やがて彼女たちの存在は社会に埋没しかねない。
親の庇護の下にいる間はまだしも、自立して生活ができなくなる恐ろしさを常に抱えている。
就職はできるのか。
伴侶と巡り合えるのか。
少女の頃は同情されても、大人になって年を重ねていけば、やがて「体力のない厄介者」と世間にみなされかねない。いや、される。
基本的に、親は子供より先に死ぬ。
己の死後、娘がどのように生きていけるのか。
親の心中はいかばかりか。
世間に認知してもらうためには、裁判をするしかないではないか。
だが、そんな親の心、被害者の苦しみなど意に介せず、推進派の医師たちはゆすりたかりと同列に彼らを扱おうとする。
彼らにとって、被害者は患者ではなく、テロリストなのだ。
僕はもう、この件については、医者だの、行政だのにすっかり絶望している。
人の人生よりも面子が大事。面子を汚す連中は犯罪者も同じ。追い詰めて世間から排除してしまえ。
どの面をさげて、正義を騙るのだろうか。
僕は物の怪を見る目で彼らをみつめることにする。

このワクチンをうってはいけない。なぜなら、もしも体調を崩しても、誰も助けてくれない上に、異常者扱いされるからだ。
ふざけるな。

著作権はいつになったら新天地を目指すのか 「海のトリトン」の教訓

(承前)

「芸能界のしきたりとして、前金をもらって初めて幕を開ける。例外はない。前金をもらわなければ幕は絶対に開けない。これは『幕を切る』という言い方をする(後略)」

講談社「「宇宙戦艦ヤマト」を作った男」~84頁より引用。

上記の表現に倣えば、西崎義展は、「自分が納得しなければ(前金をもらわなければ)、絶対に商品は発売させない(絶対に幕を開けない)」と、いう考えを人並み外れて徹底していたのだと思う。

JoJoさんという方が意見をくださった。
昭和30年代に放送された「忍者部隊月光」の劇判集が近年、初めて発売された。これまではCDはおろか、恐らくLPですら発売されたことがない(※1)。正に50年以上を経ての「新発売」である。埋もれた作品はたくさんあるのだから、「海のトリトン」が36年も埋もれることだってあるだろう、と。

僕の説明を補足しておこうと思う。
昭和40年代のアニメ作品の中で、「海のトリトン」の価値は音楽も含めて非常に高い。それは僕くらいの年齢のアニメ愛好家ならうなずいてもらえると思う。わざわざ鈴木昌宏が自分で再録音したくらい、人気もあった音楽なのだ。その音楽集が36年間も再発売されなかったというのは、僕は絶対に異常事態だと思う。
そして、なぜそうなったのかと考えても、原因は知名度でも商品価値でもない、著作権者(西崎義展)の拒否権以外に考えられないのだ。
更に、西崎が拒否権を発動したのは商業上の理由ではなく、彼が何らかの、至極個人的なこだわりを押し通したからではないのか。
多くの愛好家が待ち望んでいた音楽を、著作権者のこだわりだけで埋もれさせていたのではないか。
アニメ史で西崎が果たした役割、業績の大きさは僕も十分以上に認める。認めざるをえない。
だが、「公の財産」としての「海のトリトン」を、個人の好みで埋もれさせないでくれ。
36年も埋もれさせるべき作品ではない。
・・・そういうことだ。

「忍者部隊月光」が大好きな方には失礼な書きようだと思う。
しかし、この作品が埋もれていたのは、ある意味、自然の流れだったと思う。製作・放送されたのが昭和30年代である。映像技術、画質などを考えると、昭和40年代の作品に比べると再発売して採算が取れるかというと、不利だ(※2)。
昭和30年代の映像は、やはりまだまだ映画だったのだ。
当時のテレビ作品の多くが時の流れに沈んでいった。よほど強い意志が働かないと浮かび上がることはなく、歴史の倉庫に収められていく。
今回、「忍者部隊月光」は有志によって「人為的に歴史の水底から引き上げられた」といえる。3枚ものCDを発売するというのは採算を度外視したとしか思えないものであるが、これを成し遂げた関係者の熱意に拍手を贈りたい(※3)。





だが、「海のトリトン」は本来、歴史の表面に浮き沈みを繰り返す、息の長い魅力を持った作品だった。「トリトン」は「月光」とは逆に、「人為的に」水底へ沈まされかけた作品であると言いたい。
著作権を盾に発動された力が、この作品を抹殺しかねないほどであったが、数多くの愛好家の陰陽の働きによって食い止められていたと言える。
著作権の成すがままにされていたら、この作品は今頃どうなってただろうか。

知名度も人気もある。需要と供給の視点からなら、再発売に大きな障壁はない。しかし、埋もれたままの作品が幾つもある。
以前にも触れた「キャンディ・キャンディ」だが、原作者と漫画家との著作権争いのために、映像関連は封印状態にある。ようやく音楽集が再発売されたくらいだ。


「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」のBDは、一度は発売が予定されながら中止になった経緯がある。
原作者の高橋留美子が同意しなかったからだとか、作品の一部に登場する東宝や円谷プロ作品の怪獣などが著作権で問題になったからではないかなどの憶測がささやかれた。

最近でも驚いたことがある。
安彦良和監督「ヴィナス戦記」という映画がある。このDVDやBDは現在に到るも国内盤は発売されていない。
ウィキペディアの記事を読んで初めて知ったのだが、原作および監督(著作権者)である安彦が発売を認めないからなのだという。興行的に失敗し、安彦がアニメ制作者として一時、引退した契機となった作品なので、再発売したくないのだという。
これまでの僕はてっきり、主役を演じた俳優がかのジャニーズ事務所所属だったので、そちらからの不同意だったのかと思っていた。

「ヴィナス戦記」は傑作ではないかもしれない。
だが、僕から見れば十分以上に名作だ。
戦争(紛争)という異常事態に投げ込まれる市民のとまどい、日常生活に侵食する理不尽な暴力と、それに抗えない一般人の苦しみと若者の行き場のない怒り。
安彦の卓越した才能による画面構成と、独自の天才的なアニメーション。
昔、劇場で観た時、僕は唸ってしまった。個人的には「アリオン」や「クラッシャージョー」よりも完成度も高いと思っているし、傑作と呼びたい。
「ヴィナス戦記」は決して埋もれてよい作品ではない。
音楽も気に入った。主題歌も挿入歌もよかった。だから、CDをすぐに買った。今も手元にある。いつか紹介する。
しかし、この作品のDVDやBDが安彦(著作権者)の不同意で発売できないという。
理不尽だ。
更に理不尽なのは、これが海外では正規発売されているという現実だ(※4)。





ちょっと変わったところでは、「ファイブスター・ストーリーズ」に登場するロボット(モーターヘッド)を、作者の永野護が一方的に、突如として造形や設定を変更した件がある。モーターヘッドにまつわる著作権に対し、永野が主導権を持てない状況らしい。だから、自分が自由にできる設定に変更したのではないかと推測されている。
阿呆をみたのは、「モーターヘッドって、かっこいいよね」とこの作品を支持してきた読者たちである。これに対し、永野は「読者の半分を失うけど、かまわない」と開き直ったそうだ(※5)。

世界的に有名な話題では、「スターウォーズ 第6話ジェダイの帰還」で、オビ・ワンを含む過去のジェダイたちの魂が揃って登場する場面がある。新作が公開された事情に併せて、この場面に変更が加えられている。しかし、物語の余韻を大幅に変えてしまったと、昔からの愛好家たちが不満を述べている。1980年初回公開版は基本的にBDで発売されておらず、視聴の機会が大幅に制限されていることも不満の対象となっている(※6)。

こうした事例を眺めていくと、著作者たちは「権力者」として、愛好家の希望を無視して、作品の公開を制限したり、改変したりしている。
「著作権」は、作品の誕生に関わった人々の利益を、その立場の高低に関わらず、守るためのものであり、ひいては公正な競争が営まれ、社会が活力を維持できるようにするためのものと僕は解釈しているし、大きくは外していないと思う。
だが、その一方で「著作権」は、時に横暴な「権力」を発動することが可能であり、愛好家、観客、消費者を置き去りにする凶暴な装置でもあるのだ。
事実、これまで述べてきたように、著作権者は一方的な理由で、受け手側が作品に接する機会を制限したり、禁止したりすることができる。それを受け手側は法的にはどうすることもできない。

著作権法は明治32年(1899年)に制定され、社会事情に併せて適宜、改正されている。直近では平成26年に改正されたそうだ。Kindleでは平成22年改正版が無料で入手できる。紙の本にすると数百頁くらいの分量になるが、一度、項目名だけでもさらっと目を通されてはどうか。


また、幸いなことにこの法律の概要について、様々な法律事務所がHPで解説してくれている。例を一つくらい掲げておく。
著作権法の基礎知識

さて、この法律の大雑把な概要をみていくと、ここで語られているのは
① 著作権とは何か
② 著作権は誰に与えられるか
③ 著作権はどのように利用できるか
④ 著作権の適用範囲、保護年数はどれくらいか
⑤ 著作権の侵害とは何か、侵害するとどのような罰則があるか
などがあり、その他にも「著作権者の行方がわからない場合はどうしたらいいか」なんて項目もある。
この法律を眺めてすぐに気づくのは、ここに定められているのはあくまで、「著作権」が誰に帰属するかであり、「著作権者」の保護であり、「著作物」をどのように利用していいかである。

まず、「著作権」はどのような作品にも発生しうる。内容の程度や良し悪しは関係ない。
僕のこのブログでもそうだし、ツィッターやSNSなどで公開された些細な画像にも発生する。報道に用いられる道行く人の画像にすら、本来、肖像権が発生するという。
誰かが何かを創作すれば、それがブログの文章であれ、プリクラ写真であれ、著作権が認められる。
特許とは異なり、何の手続きもいらない。自然に発生すると法律が定義づけている。
だから、著作権は日々、無限に発生する。

そんな無数の「権利の帰属」を整理し、争いごとをいかに円滑に解決する役目を、著作権法が担っている。
「著作権の権利の帰属」とは、とどのつまりは誰が「その著作からお金を得ることができるか」という議論であり、そういう目でみると、著作権法の本質は「経済=お金のための法律」だと僕には思われる。
知的財産から発生する「利益」の、当事者間の「奪い合い」をいかに収めるか。
それが著作権の重要な役割なのだと思う。

それだけではない。著作権者「以外の存在」から著作という知的財産を保護し、そこから派生する利益も保護されるようにすることも重要な役割だ。
言うまでもなく、インターネットを介した音楽、映画、文章の違法登録、中国などにおける違法な摸倣をいかに規制するかということだ。
著作から生まれてくるお金の行き着く先の一つに、税収=国庫も含まれるだろう。
国家にお金の入らない作品の利用のされ方を防ごうということだ。
ここでも最も重視されているのは、「お金」の行き先なのだと思う。

ところで、著作権法は「排他的独占権」を著作権者に与えている。(※7)
言いかえれば、「著作権法は、著作物という情報の複製物の市場を、著作権者に独占させるために考案された法的ツール」なのだそうだ。
本間忠良 著作権と競争政策――インセンティブ仮説の検証(試論)
繰り返しになるが、この法律は「著作を通じて、お金を受け取るのは誰か?」を最も重視している。
恐らく、国や法曹界としても、そうした方が管理しやすいからなのではないかと思う。
だから、この法律には「お金を払う側を保護する視点(ユーザー)」がない。

念のために触れておこう。
著作権の世界で「利用者」と表した場合、「ある著作物を使って、新たに某かの存在を作り出す」行為者とみなされる。
これと区別するために、僕はあえて「ユーザー」という片仮名言葉をこの文章で選ぶことにする。著作権法の世界では異邦な存在になるから、片仮名でちょうどよいのかもしれない。
ユーザーとは、最終的に「作品を鑑賞する人」ひいては「作品を愛する人」と受け止めてもらえればいい。だから、「消費者」よりも、もっと能動的に作品に関わる存在だ。
そう、僕やこのブログを読んでいる貴方たちのことだ。

さて、法律の世界では「著作権者」は絶対的な存在だ。裁判で争われるのも「誰に著作権(あるいはそれに付随する権利)が帰属するのか」「ある行為が著作権を侵害しているか」どうかだ。
つまり、「誰が絶対権力を持つか」が基本的に争われている。それ以外の争いはないようだ。
ないというか、これ以外の事は「争おうとしても認知されない」;法的な問題とはなりえないといった方が正しい。
著作者および著作権者には、「ユーザーを保護する義務」などないから、そうした類の係争は生じえないということだ。

法律が著作権者に課した「義務」は非常に限られているようだ。
あえて著作権の制限はと言えば、甲という作品があって、これから更に着想を得た乙という作品が生まれたとした場合、単なる摸倣でなければ甲が乙に文句を言うことはできない、それくらいではないか。
要するに甲の著作権者は、自分を足掛かりにした新たな作品の発生を阻害してはならない。
これがある意味、「公表された」甲に課せられた「社会的義務」といえるだろう。

他方、大した「義務」がない割に、著作に対する「権利」は絶対であり、権利さえ持っていれば、法の範囲(公序良俗を犯さなければ)では何をしてもいいということになる。
だから、映画でも小説でも音楽でも、「この作品は気に入らないから、もう公表しない」という行為も許されている。
いつ売って、いつ売らないかも自由だ。
永野護などは「FSS}の多くの読者を何年も待たせて完成させた映画(『花の詩女 ゴティックメード』)を、劇場での視聴しか認めていない。地方在住者や劇場に足を運べない状況にあるユーザーの事情は全くの無視だ。
「ユーザー」の側には全く何の権利もない。
「ヴィーナス戦記」巡る商品展開が安彦によって制限されたとしても、法的な異義申し立てはできない。
法的には全く問題がないからだ。
「著作権者が『どんなに金を払ってもトリトンは使わせない』っていうんです。どうにかなりませんか?」
「著作権者がトリトンのCDの発売を認めてくれないんです。どうにかなりませんか?」
→どうにもなりません。著作権法で認められた権利ですから、裁判になりえません。
で、終わりなのだ。

ところで、一時期、違法アップロードに関する広告放送が流されていた。
とあるアニメ愛好家が、名作でありながら再放送されない作品をネットで公開して、逮捕されたようだ。
取り調べをしている遠藤憲一扮する刑事は、「名作なのに再放送されない状況である」ことを認めながらも、アップロードが違法であることを指摘する。
そして、アニメ愛好家の言い分を聞いた上で、「でも、君が作ったものじゃないよね」と著作権の原則を厳しい口調で宣告して、放送は終わる。
ここでは「再放送」としか表現されておらず、DVDやBDが発売されているのか、ネット配信はどうか、つまり、「合法的にそのアニメを視聴する手段がTV以外にあるのかどうか」については(時間の都合もあるだろうが)あいまいにされている。
この広告放送が示しているのは、
「どんなに優れた作品、『ユーザー』から支持を集めている作品であったとしても、たとえそれを視聴する合法的な手段が存在しないとしても、著作権者の許可なくこれを公表してはならない。」
という主張だ。
その通り。法律がそう定めているのだから、異義を唱えても無駄だ。
違法アップロードを肯定するつもりはない。だが、だったら、なにがしかの形で、対価を払えば「合法的に視聴できる環境を整えてくれ」よ、とも思う。

また、「そこんところは違うでしょ」と突っ込みたくなる部分がある。
「君が作ったものじゃないよね」という表現だ。
制作者であっても、著作権を行使できない場合もある。
映画の監督はたいがい著作権者になるはずなのだが、例えば「アルプスの少女ハイジ」の演出は高畑勲だが、この作品については著作権を持っていないそうだ。制作元のズイヨーが全ての権利を持っていったという。
その結果、高畑であれば容認しないような使用のされ方をしている(家庭教師のトライ)。
つまり、著作権があれば、逆に「作品の製作に関わっていない人間であっても」何をしてもよいということだ。
そして、「アルプスの少女ハイジ」の世界観を蹂躙するような内容であっても、「著作権」の錦の御旗があれば、何のお咎めもない。
作品に対する敬意という概念は、法律の世界では一切、問題にされない。(※8)
かつて興隆を誇ったアニメパロディは、著作権のもとにコミケ会場という限定空間に封印されたが、「著作権」があれば同じことをしても許されるのだ。
ハイジとトライのライセンス、背後に控える電通

著作権および著作権法において、決定的に無視されているものは何か。
それは作品そのものに対する敬意であり、愛情だと思う。これが感情的というならば、世に出た諸々の作品を「そのままに」保存しようという意志だろう。
著作権者だから、作品に敬意や愛情があるとは限らない。
むしろ、消費者・観客・「ユーザー」の方がより強く持っているかもしれない。
だが、畢竟、法律が保護するのは作品を巡る「経済」であり、「お金」である。
「経済」が円滑に回るように、「お金」がたくさん稼げて、国家にその一部が還元できるように、「著作を管理する」ことが第一であって、作品の価値や意義は二の次なのだ。
それを根底から否定するほど、僕は幼くはない。
でも、それでもあえて言うなら、「一度、この世に生を受けた作品は、人と同じように尊重されるべきであり、『生みの親』の都合だけで生殺与奪を言いようにされるのは理不尽である。人の世は、理不尽なるものをより良きものへと改善していく努力を行うべきである。それを放棄することは、弱肉強食の未開の時代へ戻ることと変わらない」と、僕は思う。
後半の言説は決して理想主義から述べたものではない。利潤は大切だが、利潤のみを追求すると、社会が荒廃する。例えば大企業による地域経済の蹂躙は、社会から多様性を奪い、格差を広げる結果となり、それが人心の荒廃をもたらし、社会の活性化を奪うからだ。
お金を儲ければいいというだけでは、ダメなのだ。

繰り返す。
この世に一度、公表された作品は、それ自体が一個の独立した存在として尊重されるべきであり、「著作権者」の都合だけで葬られるべきものではない。

一度、世間に公表した作品は、差別であるとか、誰かの名誉を著しく毀損したなどの正当な理由なくして再公表を拒絶することは、著作者や著作権者であってもできない。
そうした概念を著作権法に導入するべきだと、僕は思う。
要するに、ある作品を誰かが正式な手続きを経て発売しようという時、著作者や著作権者はそれを一方的に拒否することができないようにすることだ。
一度、公表された作品は、もはや著作者および著作権者だけのものではない。社会全体の共有財産だと僕は思う。社会が求め続ける限り、その作品は提供され続けるべきだろう。
もちろん、そこから発生する利益はこれまで通り著作者および著作権者のものだ。
別に著作者および著作権者が直接、作品を提供しなくてもいい、原本を利用する許可さえ与えて、後は第三者が実行してもいい。
やりようはいくらでもある。
でも、悪用の抜け穴もいくらでもある、と言われるかもしれないが、それはどの法律でもあることだ。

あと、更に付け加えるならば、「作品の保存行為」を認知することも、僕は望んでいる。
原稿の著作権法では、個人・非営利であっても、ブログにおける歌詞の引用や画像の紹介は大きく制限されている。それについて異を唱えるつもりはない。
僕のブログで使用している画像にしても、アマゾンのアフィリエイトを除けば、単に著作者および著作権者から看過されているだけだ(※9)。
しかし、愛好家は、作品を網羅的に保存したいと願っている。些細な物であっても、その作品の理解に結びつく、魅力を伝える資料や素材を、某かの形で保存し、公開したいと思っている。
過去のアニメレコードのジャケットや解説書、特典の原画集、アニメ雑誌の記事・・・。愛好家たちが動かなければ、誰が保存してくれるだろうか。
20年前、30年前の資料がいつでも閲覧できるような状態にしておくことが、果たして著作者および著作権者に可能だろうか。採算の面からすれば、考えられないことだろう。
例えば「白獅子仮面」などという、特撮番組の教科書でもなければ知り得ないような作品の資料集を、どこの誰が営利目的で作ろうとするだろうか。そんなことをしようというのは、愛好家だけである。
個人的に死蔵するよりも、ネットで公開したい。
そうした行為ならば、認知されてもいいと思う。
個人の収集品を公開する方式が、最も安価に作品の情報を保存できる方法だと思う。
1970~80年代のアニメに親しんだ僕も、もう50歳になった。僕が親しんだアニメ作品の魅力を後世に伝えていくための、「奉仕活動」としての資料の使用は認知されてほしいと思う。
せめて、「慣例」として「黙認」するくらいの状況になってほしいと思う。

ついでに触れておくが、僕は常々、「どうしてアニメ音楽の研究が活発でないのだろう」と疑問に思っていた。
他の分野に比べて、評論家なり、紹介者が育たない構造があるのかもしれないが、理由の一つとして、「画像を使用しづらい」という状況も関わっているのだろうと考えるようになった。
アニメ主題歌を特集した書籍でも、画像がほとんど掲載されていない。使用料が負担になるからだろう。そうなると、アニメ全体を俯瞰するような魅力的な書籍は容易に作れないということになる(※10)。
この点については、アニメの紹介や研究に使えるように、一部の画像や資料の著作権を開放してはどうかと思う。

いずれにせよ、「ユーザー(作品の受けて側)」を尊重する著作権の在り方になってほしいと思う次第だ。
ここまで記して、同じような意見がないか探してみたら、さっそく見つかった。
公表されたのは2001年とある。既に15年も前のことだ。
ハンドルネームで火塚たつやという方が、「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点~利用権中心主義の提言~」という正にドンピシャの主題で意見を公表されていた。
修士論文として作成されたそうだから、法学部の大学院課程の然るべき段階で正式に提出されたものだろう。
火塚は
「このコンテンツは、私「火塚たつや」が修士論文として大学院に“正真正銘”提出したものです 冗談でもパーティージョークでもありません。本当です」
と冒頭で謳っている。つまり、それはどういうことかというと、法曹界ではこのような考え方が全くの「異端」であるということなのだろう。
僕のような駄文ではなく、自身の「研究成果」として大学院に提出したものであるから、当然、長文であり、専門的用語も多い。読むのは骨が折れるだろうが、斜め読みでも目を通されることをお勧めする。
火塚は「エンドユーザー」という表現を用いて、僕たち愛好家の存在を法律の世界に届けようとしている。
また、火塚は「第二節 エンドユーザーによる著作物使用の実態」で愛好家の現状を記述し、そうした事態を前にとまどっている著作権者の状況を「第三節 「著作物の消費者」の不認識」で報告している。
最終的に彼は「利用権中心主義の提言」を掲げて論考を終えている。
平成28年(2016年)の現在においても、火塚の論考はまだ日陰の存在であり、状況は一切、動いていない。火塚のHPも2007年頃から更新されていない。実質、活動を停止している状態だ。残念ながら、彼自身を含めて、この考えに賛同し、追随しようという動きはなかったのだろう。
なぜなら「利用権中心主義」は利益を生み出すものではないからだ。
だが、現状の著作権を強力にしていくことは、文化の多様性の喪失につながると僕は考える。

著作権はいつになったら、新時代を目指すのだろうか。
僕らはあてがわれた情報のみを黙々と食べることだけを強制される家畜扱いから、いつになったら解放されるのだろうか。
しかし、やがては火塚が「利用権中心主義」の提唱者として広く知られる時代がくることを願っている。
著者の要望に従い、以下に記しておく。
ハンドル「火塚たつや」
アドレス「tatuya215@hotmail.com」
URL「http://tatuya.niu.ne.jp/」

次回は「海のトリトン」本編の魅力について、ささやかに触れてみたい。
その前に1回、寄り道させていただく。

※1)過去にビデオやDVDは発売歴があるが、音楽単独の発売はなかったようだ。
※2)社会現象にすらなった「月光仮面」でも、主題歌は別として音楽集となると発売されていないようだ。
※3)独立レーベルとして立ち上がったSoundtrack Pubは、精力的に過去の音源を再発売している。
※4)同様に「キャンディ・キャンディ」も韓国でDVDが発売されている。画質は悪いそうだが、正規版らしい。恐らく、海外での販売権は認めているのだろう。全くもって、日本の愛好家を蚊帳の外において、どういうつもりかと思う。
なぜかアマゾンでの販売は終わっているが、一部のサイトでは販売されている(2016.6.12)
※5)だから、僕もこの作品の読者をやめた。
※6)どういうわけか、欧州では初回公開時版が販売されているらしい。

※7)法律用語における独占性と排他性の解説
独占性=自分が実施する権利かつ他人の実施を排除する権利を持つ性質(実施権の専有)
排他性=重複する権利を成立させないという性質

IPF biz 独占性と排他性:独占排他権の誤解より

※8)ただし、著作物を著作権者に断りなく、勝手に改変すると罰される。「著作ではなく」、「著作権者に対する敬意」は尊重されている。
※9)「黙認」ですらない。「看過」だと受け止めている。愛好家のこうした活動について、「認めたくない」と考えているだろうからだ。
※10)この観点から見れば、大著となった「日本TVアニメーション大全 テレビアニメ50年記念」がカラー頁が多いとはいえ、かくも高額になった理由が察せられようというものだ。

※)まさか「白獅子仮面」のDVDが発売されていようとは・・・・


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